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2018年1月8日(月)

一昨日に引き続き、昨年7月の第28回多民族研究学会で全国大会のシンポジウム「ローカル・トゥ・ローカル:ワールド・ミュージックの新たな展開」の報告論文に取り組む。今日は、個人的なジンバブエ/ムビラ体験について語る第2節。

トーマス・マプーモとムビラ体験

作者がムビラという楽器に出会ったのは、やはり、ワールド・ミュージック・ブームのさなか、ジンバブエを代表するミュージシャンであるトーマス・マプーモの音楽を通じてのことであった。エルヴィス・プレスリーオーティス・レディングといった欧米音楽のコピーから音楽活動を始めたマプーモは、1970年代後半、北部の鉱山労働者のために演奏をするうち、彼らの多くが欧米の音楽には興味がなく、伝統音楽を聴きたがっていることに気づく。首都ソールズベリー(現・ハラレ)などの都市部では、ジャズやロックなどの欧米音楽や隣国・南アフリカのムバカンガなどがもてはやされていた時代である。マプーモはチキン・ラン・バンドと共に、ムビラの音をミュートしたギター、バオバブの実から作ったマラカスのような打楽器「ホショ」の音をドラムのハイハットに置き換えて、伝統音楽をバンド化する。独立戦争が激しさを増すなか、ゲリラの戦いや農村の苦しい暮らしのことを歌い、白人至上主義の政府のもと、投獄されたマプーモは、アフリカ人の間で英雄的な存在となった。こうした経緯から、彼の音楽はショナ語で「闘争」を示す言葉を冠して、「チムレンガ・ミュージック」と呼ばれている。

 ほどなく、マプーモは自らのバンド「ブラックス・アンリミテッド」を引き連れて来日し、1991年、渋谷で二回の来日公演を行った。当時のマプーモは、『チャムノルワ』などのアルバムで、それまでのギターに代わってムビラやホショなどの伝統楽器を大胆に取り込み、より伝統色を強めたスタイルを模索していた時期である。来日メンバーにも、二人のムビラ奏者がいた。作者がムビラ(あるいは親指ピアノ)の生演奏を聞いたのは、おそらくその時が初めてであった。もっとも、肝心のムビラ本体は、大きな共鳴体「デゼ」(後述)に隠れて見えなかったのだが、ぽろぽろと零れ落ちてくるその音色が、びーんと響く倍音で空気を満たしながら、複雑なポリリズムの力で、聞くものに踊るよう促すのだった。すっかりマプーモとムビラのとりこになった作者は、公演後、福島富士男先生のご紹介で、マプーモ本人と面会し、いっしょに写真まで撮らせてもらった。

 ここで、改めてムビラという楽器を紹介しておきたい。ムビラは、「親指ピアノ」と呼ばれる楽器の一種である。板や箱の上に並んだ金属製や竹製の棒をはじいて音を出すこの種の楽器は、東アフリカから南部アフリカを中心にアフリカ各地に存在しているが、地域によって形や演奏法が少しずつ違い、名前もリンバ、サンザなど様々である。「ムビラ」は、ジンバブエの人口の約70パーセントを占めるショナ人がこの楽器を呼ぶときの名称である。ジンバブエで最も一般的なムビラは、ムビラ・ザ・バジムと言われる24鍵のものである。単独で演奏することもできるが、複数のムビラやマラカスのような打楽器「ホショ」などとともに演奏すると、よりポリリズミックな効果を出すことができる。また、ムビラ本体だけでも音は聞こえるが、「デゼ」と言われる元々は瓢箪でつくられた大きな共鳴体(最近はグラスファイバー製が多い)のなかに入れて演奏すると、ムビラの特徴である倍音の響きが増幅される。さらに、三味線でいうところの「さわり」のような、びーんびーんといった音を生み出すために、デゼにはジュースの瓶の蓋(王冠)などが取り付けられている。そして、最も大事なことは、この楽器がホショと共に先祖の霊を呼び出す儀式で使われる神聖な楽器であるということだ。

 作者はこの不思議な楽器と、その後も伝統色を強めていくトーマス・マプーモの音楽に魅せられ、1999年には、自らヴォーカルとギターを演奏するバンド「チキリカ」のメンバーと共に、ジンバブエを訪問した。そして、その3年後の2002年、今度は一人で訪れたジンバブエで運命的な出会いが待っていた。

レジナルド・チウンディザとの出会い

 2002年のジンバブエ訪問は、首都ハラレにある公園ハラレ・ガーデンで行われる出版社の見本市「ジンバブエ・ブックフェア」に参加することが、第一の目的だった。ブックフェアにはジンバブエ内外の出版社がブースを出しており、日本では入手が困難なアフリカ文学関係の資料が手に入れることができた。同時に会場の複数個所に設けられたステージでは、音楽、ダンス、演劇といったパフォーマンがくり広げられており、もちろん、ムビラの演奏もあった。作者は同時期にジンバブエに来ていた旧知の女性研究者Mさんと行動をともにしながら、そうしたパフォーマンスを楽しんだ。ハラレ・ガーデンは、作者のようなパフォーマンスを求める外国人観光客と、そうした観光客を目当てに何とか小銭を稼ごうとする現地の男女であふれかえっていた。とりわけ、「ムビラの弾き方を教える」といって近づいてくるものは多い。そのなかの一人が、のちに深いかかわりを持つことになる「レジ」こと、レジナルド・チウンディザ(以下、レジ)であった。

 観光客に群がる自称ムビラ指南者の多くが、演奏もろくにできないニセモノだったのに対し、レジは本当にムビラが弾けた。ところが、彼がムビラの弾き方を教えると言って近づいてきたとき、作者もMさんもたまたま手持ちの金がなかった。その旨を伝えると、無料でもいいから教えさせろという。何と気前のいいこと、と思いつつ、ハラレ・ガーデンの片隅で、しばらく無料のレッスンを受けた。きちんとムビラが弾けるうえに、教え方も丁寧でわかりやすい。これなら、間違いないと、夕方にホテルで本格的なレッスンを受けることになった。ところが、このレッスンは実現しなかった。Mさんが通りで強盗に遭い、バッグを奪われまいとして、手首に怪我を負ったのだ。事情を知ったレジは出会ったばかりの日本人観光客の話を親身になって聞き、何かと力になってくれた。そして、Mさんの帰国後も、作者と行動を共にし、タウンシップのビアガーデンでのライブ演奏や、夜のハラレのライブハウスなど、観光客が一人ではいけないような場所に案内してくれた。

 ローカルなコンテキストの重要性について、レジから教えられたのは、行きたかった場所に一通り案内してもらった後のことだった。「他に何が見てみたい」と訊くレジに、作者は「お前が見せたいところを見たい」と答えた。謎かけのような回答に対して、レジの反応は早かった。「よし、ついてこい」。埃まみれの乗り合いタクシーに押し込まれ、埃だらけの道行くうちに、数日前に知り合ったばかりの男の言われるままになっている自分の危うさに気づいたが、今さら遅い。車は都心を離れ、住む人もまばらなサバンナを抜け、郊外へ。赤茶けた土に、バランシング・ロックといわれる微妙な均衡を保って積み重なった岩や、わずかな灌木が点在する乾いた光景が続いた後、車は2世帯が一組になった平屋の長屋が立ち並ぶ一角に滑り込んでいった。タウンシップ ― かつてのアフリカ人居住区である。ローデシア時代、隣国・南アフリカのアパルトヘイトに比すべき隔離政策によって、都心に住むことを許されなかったアフリカ労働者は、都心から離れた郊外の地域に住むことを余儀なくされた。アフリカ人を大統領とするジンバブエとして再スタートを切ってからも、貧しいアフリカ人労働者は、この地域に住み続け、都心までバスや乗り合いタクシーで都心へ通勤している。連れていかれたのは、タファラというレジの住むタウンシップであり、彼が見せたかったのは、そこでの暮らしだった。

 一角に肉屋のある小さなバス・ターミナルを抜けると、正面にビア・ホールがあり、男たちが昼間からビールを飲んでいる。酔って声を荒らげたりするものはなく、近づいてきた黄色い男に、親しげに笑いかける。缶ビールを片手に町なかを歩いていくと、住民たちがレジに話しかける。「そのチャイナはだれだい?」作者が中国人だと思った子供たちが、ジャッキー、ジャッキーと声をかけてくる。ジャッキー・・チェンはジンバブエでも人気なのだ。甲高い声をあげて空手の真似ごとをして見せると、喚声をあげて喜ぶ。すらりとした体躯で正面から近づいてきたダンサーの女の子は、「ハーイ」とレジに声をかけて、キラキラとした笑顔を残して去っていった。最後に行きついたのが、レジの親友で彼のバンド「シュンバ・ザ・パシ」のベーシストだったジュリアスの家の中庭だった。そこでは、弦が4本しかないガット・ギターをベースに見立てたジュリアスと、数人のムビラ奏者が演奏を始めていた。そこにレジも加わり、ムビラを弾きながら、歌い始める。小さな子供が、演奏に合わせてリズミカルの体を揺する。それは平和で、心穏やかな、美しい光景だった。

 そのあと、コミュニティ・センターなどを案内したあと、レジはこう言った。「タウンシップはスラムで、犯罪の巣窟だと思っていただろう。でも、どうだい。みんな平和に暮らしている。これをお前に見せたかったんだ」作者は、乗り合いタクシーに乗るとき、身の危険を感じた自分を恥じた。そして、ローカルなコミュニティが提供するコンテキストの重要性に目を開かれることになった。

レジの糖尿病発病と来日

日本に帰ってくると、旅行中に撮影した写真を同封して、感謝の手紙を送った。ところが、いつまで待っても返事は来ない。旅先での出会というのはこんなものだろうか、と思っていると、数か月経ったころ、突然、レジから手紙が届いた。そこには意外なことが書かれていた。「重い病気にかかり、入院している。助けて欲しい」正直に言うと、この手紙を読んで、作者は迷った。いくら親切にしてくれたとはいえ、旅先で出会っただけにすぎない男の話が、嘘ではないという保証はどこにもない。だが、病気の話が本当であれば、国民皆保険制度などないジンバブエで、レジが生き延びるチャンスは、内容に思われた。援助を断って、彼が死んだら、一生後悔するだろう。タファラに向かう乗り合いタクシーのなかで、レジの素性を疑ったことへの負い目が頭をもたげた。結局、診断書を送ってもらい(どこまで証明できるものかわからないが)援助金を送ることにした。やがて、危険な状態を脱したとの旨を伝える礼状が届き、作者は胸をなでおろした。

 このとき、レジが罹った病名を聞いて、作者は驚いた。「 I型糖尿病」 ― 医者である作者の父が、長年、専門としてきた病気である。糖尿病というと、食事や運動不足などに由来する生活習慣病というイメージを持つ方が多いかもしれない。そうした生活習慣に由来する糖尿病は、Ⅱ型と呼ばれる。対して、Ⅰ型は何らかの原因(ウィルス、ストレスなど)で膵臓のランゲルハンス島から出るはずのインスリンという酵素が出なくなり、糖をエネルギーに変えることができなくなる病気である。摂取した糖は使われることなく排出され、何も処置が講じられなければ、患者は短期間にやせ衰えて死んでいく。しかし、インスリンを注射すれば、症状は劇的に改善し、健康な人と同じように生活することができる。Ⅰ型糖尿病は生活習慣とは関係がないので、ジンバブエのような貧しい国でも必ず罹る人が出てくる。そして、そうした貧しく、国民皆保険制度もない国では、インスリンを買う余裕がないために、多くの人々が命を落としている。

 翌2003年7月、日本からの援助 ― 財政的援助に加えて、父の病院から期限切れのインスリンが送られた ― によって、命を取り留めたレジとハラレで再会した。そして、ジンバブエの糖尿病患者が置かれた状況について話し合った。彼はハラレを中心に全国の糖尿病患者をまとめる組織を作ることを望んでいた。そのために、日本に行って、自分の体験を話し、寄付金を募りたいと考えていた。また、日本の側でも、いわいる「発展途上国」に期限切れのインスリンを送る運動を軌道にのせたいという思惑があった。そして、もちろんミュージシャンでもある彼の特性も生かして、2004年3月、日本各地で講演とムビラの演奏を企画し、東京、横浜、大阪、京都で、講演と演奏会を開いた。自分たちと同じ体験を共有しているアフリカの青年は、若いⅠ型糖尿病患者さんに熱狂的に迎えられた。また、レジが演奏を披露する際にとった手法は、作者がローカル・トゥ・ローカルな音楽の出会いを考えるうえで、たいへん示唆的だった。彼は日本のⅠ型糖尿病患者の女性2名をコーラスに、ジェンベ奏者である作者の弟にパーカッションを任せ、彼らにオリジナル曲を教えることで、即席のバンドを作り上げたのである。

 このように、レジとの出会いは、作者に二つの点で、ワールド・ミュージックの未来を再検討する機会を提供してくれた。ひとつは、ローカルなコミュニティというコンテキストの重要性。加えて、そうしたコンテキストをバックボーンとしながらも、演奏の場を共有することによって、ローカルが他のローカルと直接出会う、「ローカル・トゥ・ローカル」の可能性。バックボーンとしてのローカル・コミュニティにしても、演奏の場を共有にしても、ワールド・ミュージック・ブームのころからあった。しかし、レジが見せたやり方はより小回りの利くゲリラ的なもので、グローバルな市場における中心と周縁のヒエラルキーに絡めとられることを避ける巧妙さを持っているように思われた。そして、レジの日本における活動をバックアップするうちに、日本のなかにも、同じようなゲリラ的な手法で、ムビラというローカルを、日本のローカルに接続しようとしている人たちがいることに気づいた。 
 
 次節では、「ムビラ・ジャカナカ」として、長年、ムビラのワークショップや演奏活動を行ってこられた櫻井雅之さんとハヤシエリカさんにメールで伺ったお話を中心に、日本にムビラ普及に尽力された方々の活動を振り返る。加えて、そこにもまた、現地ローカルの原点を大切にしながら、実勢の演奏を通じて日本のローカルに接続する「ローカル・トゥ・ローカル」な方向性が見られることを示したい。

論文というよりも、エッセイ的な内容になってしまったが、シンポジウムでの報告もこんな内容だったので、しかたあるまい。さて、ここからが本題。マサさんとエリカさんへのインタビューをもとに、日本でのムビラ普及に努めてきた人たちの、初期の活動をまとめる。

2017年1月6日(土)

ふと思いついてつくったインスト。「断片#2」

細かい仕事が大方片付いたので、昨年7月の第28回多民族研究学会で全国大会のシンポジウム「ローカル・トゥ・ローカル:ワールド・ミュージックの新たな展開」の報告論文に取り組む。しめ切りは15日。しめ切りが差し迫っているときによくやるのは、論文を連載形式にして、ブログに掲載してしまうこと。自意識過剰な性格なので、誰かに見られていると思うと、タイプが進むのだ。今回もその手を使おう。まずは、イントロダクション。

1980年代中盤から1990年代前半にかけての、ワールド・ミュージック・ブームは、画期的な出来事だった。パリやロンドン、東京といった巨大都市に、さまざまな文化的背景を持ったミュージシャンが集い、伝統的な文脈を離れた混淆の実験が繰り返された。いわいる先進国の人々が、アジアやアフリカの音楽を西洋のポピュラー音楽と分け隔てなく聞くことが、日常的に行われるようになった。日本でも、東京などの大都市周辺であれば、多くの来日・在日ミュージシャンによる生演奏を体験することも、それほど難しいことではなかった。常時、アフリカ人のミュージシャンによる演奏で踊ることのできる店すらあった。この時代が、多くの人たちにとって、閉ざされていた音楽体験への扉を開くものであったことは、間違いない。

一方で、「ワールド・ミュージック」そのものが、日本を含む「先進国」を中心に置き、それ以外の地域を周縁に置く発想と無縁ではないことを、忘れてはならない。それは、すべての音楽を包括するはずの「ワールド・ミュージック」から、欧米先進国や日本のポピュラー音楽が抜け落ちていたことを考えれば、明らかだ。その言葉が意味するのは、「世界の音楽」ではなく、「あちら側の音楽」だった。「ワールド・ミュージック」というラベルを貼られてパッケージ化され、コンテキストから引き離された「あちら側」の音楽は、グローバルな市場という文脈において、エキゾチックな臭いを残した「商品」として新たなアイデンティティを与えられる。ローカル・コミュニティの音楽が、「地球上に広く普及するためには、多国籍企業であるレコード会社の作者意味を委ねなけれらな」らなかったのである(フリップ・V・ボールマン『世界音楽入門』 14)。ワールド・ミュージックは、結局、かつて植民地だった地域の音楽の、元宗主国によるパッケージ化と大量消費であったと結論づけることも可能だ。

中心と周縁の格差とコンテキストの問題に、当初から自覚的だった人たちも少なくない。音楽評論家の松村洋は、『ワールド・ミュージック宣言』(1990年)のなかで、アフリカの伝統的な社会の多くには、「音楽」というカテゴリーがないという西江雅之の卓見(「"さあ、一緒に踊ろう"」、『ユリイカ』、Vol.22-5、1990年)を受けて、さまざまなコンテキストのなかで他の要素と結びつき、個別に認識されていた「音」を取り出して、「音楽」という一つのカテゴリーのなかにくくること自体が、近代西洋的な発想であることを示し、こうした、いわば、カテゴリーの捏造によって、それぞれの「音」が本来持っていたコンテキストが見失われることの危うさを指摘している。もっとも、松村はコンテキストを離れることそれ自体が絶対に許しがたい過誤であると言っているわけではない。コンテキスト(あるいは、昼間賢のいう「ローカル・ミュージック」の「場」)が失われる危険性を感じながらも、コンテキストを超えた出会いのなかに新たな可能性を見出しているのである。

この論文もまた、『ワールド・ミュージック宣言』と問題意識と希望を共有するものである。しかし、1990年代後半、バブル経済の破綻と共にワールド・ミュージックのブームは終わった。それ以後、来日するミュージシャンの数や、CDなどの販売数も目に見えて減っている。ワールド・ミュージックが始めた危うい実験は、手つかずのまま残されているように見える。しかし、そうではなかった。ブームとは関わりのないところで、あるいは、ブームの熱さが熾火のように残っていたここかしこで、出会いの実験は形を変えて続けられていたのだ。それは、巨大都市を仲介しない、ローカルとローカルが直接出会うことによって、グローバルな市場で中心と周縁の力関係にからめとられることを極力避けようとする。今回のシンポジウムにお招きしたニコラ・リバレ氏がプロデューサーを務める富山県南砺市のイベント「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド」は、そうした試みのひとつである。もう一人の登壇者、昼間賢氏は著書『ローカル・ミュージック』を通じて、ローカル・トゥ・ローカルな音楽の出会いに明確なイメージを与えている。この論文では、ムビラ(親指ピアノ)という小さな楽器を通じて、音楽との出会いを深めてきた方々を紹介するとともに、ムビラ音楽の日本における新たな可能性についても言及する。しかし、その前に、作者自身の個人的体験を話すことから物語を始めなければならない。仮にもアカデミックな論文を自任するのであれば、個人的な視点は極力排除するのがルールであることはわかっている。しかし、ローカル・トゥ・ローカルな出会いをテーマとするシンポジウムにおいて、個人という最小単位のローカルを抜きに話を進めることはできないと考え、あえてその禁を破りたいと思う。

まだ体裁は整っていないのだけれど、こんな感じで次に、ぼくのジンバブエ//ムビラ体験、さらにマサさんとハヤシエリカさんの証言をもとに、お二人のムビラジャカナカとしての活動を中心に、日本におけるムビラ普及の動きを跡付けていく予定。

2013年12月12日(木)

ジンバブエの友人レジナルドくんが、糖尿病の患者教育のため南アフリカ滞在中に強盗に遭い、身ぐるみ剝がされたらしい。レジに怪我はないものの、レジの同僚は賊に刺されて入院した。お金はもちろん、パスポートや書類なども全部奪われてしまった。自身もⅠ型糖尿病患者であるレジにとって深刻なのは、インシュリンがないこと。うーん、南アフリカは犯罪率が高く、ジンバブエから出稼ぎに来る人たちへの反感も強いとは聞いていたが・・・マンデラの追悼期間中にこんなことが起るとは・・・

1984

ジョージ・オーウェル1984年』(Nineteen Eighty-four、1949、新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫、1972)を読みおわった。特定秘密保護法案が審議されている折も折、近未来の管理社会をテーマにしたディストピア小説の名作が、本棚からぼくを呼んだ。<偉大な兄弟>が支配する全体主義国家オセアニアの役人ウィンストン・スミスは、「真理省」で歴史の改竄に従事している。真実が闇から闇へと葬られることに疑問を感じたウィンストンは思想警察の監視をくぐり、禁止されている日記をつけはじめる。同じころ、抑圧的な社会に感情的な反発を感じている若い女性ジューリアと知り合い、関係を重ねていく。やがて、体制を転覆する地下組織と接触、組織の指導者ゴールドスタインの本を渡される。そこには権力と支配に関する鋭い分析が記されている。

勿論、私有財産や贅沢の意味における富が平等に分配され乍ら、その一方で権力が少数の特権階級の手中に残されるという社会を想定するのは可能である。が、現実問題としてかかる社会は長期間に亘って安定を保つことは出来ぬ。何故ならばもし誰も彼も余暇と安定を享受できるとすれば、通常は貧困のために愚鈍化している大多数の人間が読み書きも出来るようになり、自分で考える事も覚えるようになるであろう。しかし、一旦そうなれば、彼らは遅かれ早かれ少数の特権階級が何らの職能も持たず、彼らは一掃できると悟るに相違いないからだ。結局のところ、階級社会というのは貧困と無知に基づいた場合にのみ成立し得るものである(248)。

戦争は、大多数の人間を貧困のなかにとどめおき、権力を維持するために引き起こされ、「文明」の中枢部には大きな傷跡を残さないようにしながら、維持される。物語のなかでは、三大国の微妙な力関係によって、どちらが勝利を収めることもなく戦いは続けられている・・・現実の対テロ戦争と同じように。

後半は、ついに思想警察に逮捕されたウィンストンの内面が描かれる。徹底した管理社会で、「心のなかだけは自由」などという常套句は通用しない。権力はウィンストンの意識のなかにまでズカズカと踏み込んで、変質を迫る。<偉大な兄弟>が求めているのは、自白でもなければ死でもない。死んだとしても、殉教者がいたという事実は残る。反逆者は心の底から<偉大な兄弟>を愛するように洗脳されてから、抹殺されるのだ。

全てが裏切られ、自己が崩壊していく過程を、読者も追体験する。おそろしくリアル。

2013年10月6日(日)

お笑いタレントの桜塚やっくんが亡くなった。乗っていた車が高速道路の中央分離帯に乗り上げ、外に出たところを後続の車に撥ねられたという。本人もまわりの人もやりきれないことだろう。

それを聞いて思い出したのだが、レジの運転する車でジンバブウェの幹線道路を走っていたとき、対向車線の車が分離帯に乗り上げたことがあった。轟音とともに白煙があがる。驚いたのは事故そのものよりも、あたりを走っていた車から即座に20人あまりの男たちが飛び出してきたことだ。レジも路肩に車を止め、「行くぞ」といって事故車に駆け寄っていた。

「行くぞ」ということは、お前も来いということだ。ついていくと男たちが事故車を囲んで、運転手を助け出したり、力を合わせて車を押し動かしたり、運転手に事故の原因を問いただしたりしていた。ぼくも言われるがままに、車を押す手助けをした。結局、車軸が折れているとかで手に負えないとわかったのでぼくらは車に戻ったが、男たちの多くはああでもないこうでもないと言いながら、その場にとどまっていた。

動き出した車のなかで、「日本だったらこういうときは警察に任せるかなぁ」というと、レジは「ジンバブウェの警察は一日待っても来やしない」と苦々しげに言った。ジンバブウェは交通事故が多くて、レジも2回ほど死にそうな目に遭っている。警察も遅いだけじゃなくて、金を巻き上げることばかり考えている。そういう厳しい状況にあると、自分たちでなんとか助け合うものなのかと思った。

いや、やっくんのことは関係なかったな。ご冥福をお祈りします。

2013年9月17日(火)

ドバイに到着した。今、ジンバブウェが何時で、日本が何時なのか、どちらの時間に身体を合わせたらいいのか、まったくわからない。

ドバイの空港で乗り継ぎの飛行機を待っている間に、桐野夏生OUT』(講談社文庫、2002、1997)を読み終わった。弁当工場で働く主婦たちが、仲間が殺した夫の死体をバラバラにする話。肉屋だけはどこにでもある国で、よりによって何でこの小説を読み始めてしまったかな・・・と思いつつも、ずるずると深みにはまっていく展開にやめられなくなってしまった。作品の背景には貧困があるのだが、貧困ゆえの犯罪を狂気と切り離していないところもよかった。貧困者の犯罪には理由があり、愉快犯や猟奇犯のような「狂気」とは無縁であるというのでは、「狂気」は有閑階級のための贅沢であると言っているようなものだ。この作品にはそういう偽善がない。

ドバイから日本へ向かう機内、行きの便で途中まで見たジャッキー・ロビンソンの伝記映画『42 ~世界を変えた男』と、堀北真希ちゃん(と錦戸亮)主演の観光PR映画『県庁おもてなし課』を見た。『42』はちょっと演技過多な気がしたが、初の黒人大リーガーの苦悩と成功が一通り描かれていて、アフリカ系アメリカ人の歴史や文化に興味のある学生にもお薦めできる内容。『おもてなし課』は・・・まあ、真希ちゃんがでているだけで良しとしましょう(ぼくも真希ちゃんに、「ばか・・・」って言われてみたい)。これを見て、高知に行きたいと思う人もいるだろうし、映画の目的としてはそれで成功でしょう。

夜中の12時すぎに羽田着。ただでさえ時差で混乱しているのに、日付を跨いでしまって、時間の感覚が狂いっぱなしです。

2013年9月16日(月)

レジが「ジンバブウェ最後の食事は何がいい?」と聞く。「マゾンドか?」 答えていないのに、マゾンドだと決めてしまったらしい。マゾンドは牛のかかとを煮込んだ料理。なかなか野生的な味がする。肉屋には未調理のマゾンドが並んでいたが、軟骨とゼラチン質を食べられるまで煮込むには時間がかかる。それならばと、地元の人が行く路地裏の食事処をめぐる。「ハラレならあちこちにあるんだがなぁ」 結局、マゾンドは食べられなかったが、チトゥンギザの路地裏探訪はそれなりに楽しかった。

空港に向かう車中、レジが「そうだ、チブク欲しいんだったよな。忘れてた」と言う。「空港前のボトルショップで売っているはずだ」 チブクは南部アフリカで一般的な、トウモロコシでつくった濁り酒。どろっとしていて、独特の臭いがする。プラスチックの容器に入ったものをみんなで回し飲みしたりする。最近ではペットボトルに入ったものも出ているようだ。青森出身の父がドブロク好きなので、持って帰って飲ませてやりたいと思っていたのだ。ボトルショップに寄ったが、売り切れていた。まあ、いい。また来年買いに来よう。

現地時間18時40分のエミレーツEK714便でハラレを発つ。レジ、いろいろとありがとう。

2013年9月15日(日)

ジンバブウェ滞在、最後の晩。明日の夕方には機上の人なので、夜、パフォーマンスを楽しめるのは今日が最後になる。レジの家族(レジ、アンジー、娘のジュディ、家事を手伝っているニャライとロレイン、アンジーの甥っ子アネス)を連れて、メガ1にジャー・プレイザーとプログレス・チプーモ二本立てのファミリー・コンサートへ。会場に入ってしばらくするとプログレス・チプーモが演奏を始める。プログレスはホホザ・バンドで活躍したベテラン・ギターリストで、ぼくのアイドルの一人。さすがの大御所も当代きっての人気者プレイザーの前では前座扱いか?それにしても、地味なステージだな・・・と思ったら、どうもこれはリハーサルだったようだ。リハだから当然、力半分なのだが、それでもカッコイイ。しかし、近くで音痴のおっさんが大声でいっしょに歌い始めたのには閉口した。ジュディは露骨にいやな顔をしてしまいには耳を塞いでいるのだが、こういう人はだいたい気づかないものだ。ぼくはアネスを連れてステージ前に行き、踊ったり、写真を撮ったりした。

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プログレスが姿を消して、しばらくするとジャー・プレイザーが自身のバンドとともに登場。赤い衣装が見た目にも鮮やか。先日、ムシャンデラ・パムワ・ホテルで見たときには、一本調子な感じがしてどうも乗り切れなかったのだが、この日はそんなに悪い印象は受けなかった。子供に受けそうなわかりやすいパフォーマンスも、それなりに楽しめた。もちろん、若いニャライ、ロレイン、ジュディとアネスは大はしゃぎ。踊りまくっている。黄色いおっさんは写真係。プログレスとの共演、トンガイ・モヨの息子ピーターの飛び入りもあり、見ごたえは十分だった。

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とはいえ、ぼくのお目当てはもちろん、プログレス。10年前、そして去年もその雄姿を見て、びりびり電気が走るような衝撃を受けた。のびのあるフレーズをゆったり弾いていたかと思うと、ミュートした細かいフレーズでリズムを刻む、変化に富んだ独自のギター・スタイル。どこか抜けたようなヴォーカルも魅力的だ。この日は女性コーラスを従えた華やかなステージ。ホホザ・バンドのパフォーマンスもこんな感じだったのだろうか。ジャー・プレイザーのステージに満足したワカモノたちを尻目に踊りまくったことは言うまでもない。

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最後にいいもん見たな・・・

2013年9月14日(土)

チウォニソ墓参に際して、仲介の労をとっていただいたサブネティ・チャレカ翁に墓参の報告とお礼をしにいった。本当はもっと早く行くつもりだったのだが、レジも忙しいので時間を取れないでいるうちに、待ちきれなくなった翁が町に出てきたとの連絡が。町で暮らす息子さんの家を訪ねると、翁は先日の気取らない姿とはまったく違うダンディなスーツに身を包み、颯爽と登場した。それほど町に出ることが特別なことなのだろう。ビールを買って献上し、友だちの家を訪ねるという翁に同行する。友人宅の裏庭ですごすゆったりとした時間。ショナ語がわからずぼっーとするばかりのぼくに気を使ってか、翁がぼくに話をふる。ショナ語なのでやっぱり何を言っているのかわからない。あとでわずかな知識を頼りに考えたら、「もう日本へ帰るのか」と言っていたような気がする。結局、「クルクピサ(暑いですね)」「クルクピサ(暑いな)」という常套句に行きつく。2本目のビールを手にした翁を乗せ、車は農村へ。奥さんと先日来たときにいたのとは違うお孫さんが迎えてくれた。母屋の屋根が焼けている。あとでレジに聞いたら、昨夜、火事があったのだという。ええっ、何で早く言ってくれないの!? 「言ってなかったっけ?それでサブネティたちは朝から何も食べてないんだ。かわいそうに」 精一杯のお礼をして、お宅をあとにする。

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夜はブディリロのナイト・クラブ「ニュー・ライフ」に、エクストラ・クワジョーセを見に行った。ここは去年も来たが、ちょっと荒っぽい雰囲気のクラブ。汗とビールの臭いをふりまく黒い男たちの熱気で、文字通りムンムンしている。そして、この場所でまたやってしまった。オープニング・アクトのテディアス・マツィート&ンゴウェニャ・ブラザーズ。バンドが観客をステージにあげ、素人ダンス大会のようになった。地元のダンス自慢がひと通り出揃ったところでバンドは演奏を終えた。ところが、ステージ脇にいた常連と思しき男が割って入った。ちょっと待った待った、演奏再開!チャイナに踊らせろ!再び演奏が始まり、件の男がぼくを手招きする。こうなったらぼくも嫌いじゃない。ドタバタと踊りまくり、喝采をあびた。どもども。メイン・アクトのエクストラ・クワジョーセはアリック・マチェーソのバンドから独立した腕利きミュージシャンと超絶ダンサーによって結成されたグループ。これだけのメンバーが抜けてしまって、マチェーソは大丈夫なのか?完璧なパフォーマンス。最高のエンターテイメント。

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2013年9月13日(金)

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素晴らしいステージだった。ヴィクター・クノンガブック・カフェ。もはや身内のような愛着を感じているデンボ・ブラザーズを別にすると、今回、ジンバブウェ滞在中に見たパフォーマンスのなかでも最高といっていい。ムビラの演奏をバンド化したトーマス・マプーモチムレンガ・ミュージックに、独特のクールなメロウネスを加えたような・・・と説明するのが不遜に思えるほど、研ぎ澄まされた個性が光る。CDだとメロウに流れすぎる部分がなくもないのだが、ステージではダンスも加わり、音楽全体が躍動する。冷たく眼前を見据え、言葉少なに話すところがまたかっこいい。しびれた。

終演後、ジャズ105に移動して、故サイモン・チンベツの息子スルマニ・チンベツを見ようというレジとアンジーに、「クノンガが素晴らしすぎたから、今日は帰ろう」と言うほど、クノンガにやられてしまった。結局、「スルマニが見たくないのか、見たいだろう!?」という2人に押し切られてしまったのだが。スルマニも悪くはなかったが、正直言うと、ぼくはデンボのほうが好きだな。そして、客席にはデンボのメンバーがいて、またビールをせびられた。まったく。

2013年9月12日(木)

村上春樹国境の南 太陽の西』(講談社、1992)を読み終わった。

今夜はブックカフェでジャズの演奏がある。その前にベイスメントをのぞいていこうということになった。ベイスメントに行ってみると、案の定、デンボ・ブラザーズが演奏していた。とうとう、4回目のデンボ兄弟。むこうも気がついて、ステージの上から、「ジャパニ、ジャパニ」とか言っている。たぶん、「ジャパニも来てるぜ、俺たち、世界的にユーメイなんだぜ、エブリボデー」とか何とか言っているに違いない。でも、さすがに4回目だからなー。今日は別のアーティストを見よう。2曲ほど聞いて出口に向かうと、デンボ兄のベンジャミンが近づいてきて、「なんだ、帰っちゃうのかよ」とか何とか言ってる。今日はブックカフェでジャズだ。なんだ、ブックカフェかよ、ちぇっ。「そうだ、俺たちと踊りたくないか?」 何で帰っちゃうんだ、踊りたくないのかよ、というような意味で言っているんだと思って、「もちろん、踊りたいさ」と答えた。「ちょっと待ってろ。もう少し、客席にいてくれ」 レジと2人で客席に戻る。しばらくして、レジが「ステージにあがるときには、ビールはそこに置いてけ。カメラは俺があずかるから」と言う。へ?ステージ?ぼくが?「さっき、踊るって言ってたじゃないか」 ええっ、それってステージの上っていう意味だったの?ベンジャミンがぼくの名を呼ぶ。ワーッと歓声が声があがる。もう、こうなったらやけくそだ。同じような展開で、トンガイ・モヨアリック・マチェーソのステージでも踊ったことがあるんだ。ええい、ままよ・・・ヘタクソなダンスを披露すると、観客は沸きに沸いた。ステージから降りると、握手ぜめにあう。どもども。ダンシング・チャイナマンです。

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興奮をあとに、ブックカフェへ。この日はドゥドゥ・マネンガ、クレア・ニャクジャラ、UZAという3人の女性歌手が、ムバレ・トリオという男性3人組コーラスのレパートリーを、引退したメンバーのプロデュースで再現しようという企画だったようだ。タウンシップ・ジャズの全盛期を再現した粋なステージ。楽しい。見た目はちょっとジンバブウェの森三中みたいだけど。ちょっとしたシモネタも含む大人の笑いを散りばめながら、夜はふけていく。

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