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2017年11月23日(木)

アナグラム。「八王子(はちおうじ)」と「叔父は家(おじはうち)」

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今日のお絵描き。サニー・ボーイ・ウィリアムソンⅠ

日本版ウィキペディアには、サニー・ボーイ・ウィリアムソンIIの記事はあるのに、サニー・ボーイ・ウィリアムソンIの記事がない。そりゃあ、今となってみれば、IIの方が有名かもしれないけどさ。もともとIの名前を、IIがちゃっかりいただいたってだけの話で、IあってのIIでしょ?日暮里あっての、西日暮里でょ?(←これが言いたかっただけ)。

首都大非常勤、後期第七回目。『ジャズの誕生』をテキストとするリーディング3コマ。テキストのなかに軍楽隊の流行という話が出てきたので、第一次世界大戦で戦い、「「黒いガラガラヘビ」と恐れられた黒人部隊第369連隊(通称ハーレム・ヘルファイターズ)の軍楽隊を指揮し、戦勝パレードにも参加して人気者になったジム・ユールップの楽団による演奏を聞きながら、授業開始。ちなみに、ユールップは、帰国後1年たたないうちに、バンドのメンバーと喧嘩して殺されてしまった。テキストの内容は、1限が「一方、ニューオリンズ周辺の大農場の奴隷たちは、ヨーロッパ音楽をほとんど、あるいはまったく聞いたことがなかった。ほとんど彼らだけで取り残されて、これらの農夫たちは彼らの音楽的遺産を保持することができ、大農場はアフリカ音楽の宝庫となった]。2限がその先で、「これら両極端の間で、多くの奴隷や自由黒人が、町のいたるところに暮らしていた。それは反乱を避けるための法的措置であったが、結果として、人種隔離を軽減することになった、人種よりもむしろ経済的なラインで社会的区分を定めようとするこの傾向もまた、のちにその力を失うことになるとはいえ、音楽の混交を促進する手助けになった」。3限はさらに先で、「楽団はほとんどあらゆる機会に雇われ ― パレード、ピクニック、コンサート、川舟の周遊、ダンス、葬式 ― 間違いのない出し物(テッパンネタ)だった。1871年、13もの黒人組織がガーフィールド大統領の葬儀で、それぞれの楽団に代表された(それぞれ、楽団を代表として送りこんだ」(ちなみに、ガーフィールド大統領が亡くなったのは、1881年で、これは原文の誤り)「ニューオリンズの黒人楽団の卓越と頻出の説明は何だろう(ニューオリンズで優れた黒人の楽団が次々と登場したことはどう説明できるだろう)?フランスとの密接な結びつきと、ブラスバンドの一般的な人気に加えて、ニューオリンズには楽団に雇用を与える特殊な組織と、広い範囲の機会に楽団の存在を受け入れる他にはない伝統があった」

2017年11月22日(水)

ブラックパンサー党創始者の一人であるボビー・シールが書いた料理本Barbeque'n with Bobbyが届いた。どういうわけか、シールは料理に強い関心があるらしい。

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今日のお絵描き。ブルース・ブラザーズ

横浜国大非常勤「英米文学」、第七回目。南部と北部の対立を軸に、南北戦争前後のアメリカ史を見た。プランテーションを拠点に、農本主義的な国家を目指す南部と、商工業を中心に資本主義経済への参入を志向する北部は、あらゆる点で対立した。例えば、農産物をヨーロッパに輸出したい南部は自由貿易、成長し始めた自国の経済を守りたい北部は保護貿易を提唱した。南部はプランテーションの経営に必要不可欠であるとして、奴隷を手放さなかったが、北部はそれを必要のない労働力を抱え込む前時代的で、非効率的な制度と考えた。国の運営方針をめぐる南部と北部の対立は、やがて、連邦議会、とりわけ上院における勢力争いへとつながっていく。アメリカでは、下院が人口比に応じて、各州に議席が振り分けられるのに対し、上院は人口の増減に関わらず、各州に二つの議席が振り分けられる。そのため、新しい州を奴隷州として南部陣営に入るのか、自由州として北部陣営になるのかが、大きな問題となった。ルイジアナ買収以降、アメリカは拡張主義の時代であり、新しい領土が州に昇格するたびに、微妙な均衡を崩すことを恐れた南部と北部は、妥協をくり返した。ミズーリ州を奴隷州にする代わりに、コネチカット州からメーン州を独立させた「ミズーリの妥協」(1820)にはじまり、メキシコから割譲されたカリフォルニアを自由州にする代わりに、より厳格な逃亡奴隷法を定めた「1850年の妥協」を経て、1954年、カンザス・ネブラスカでは自由州か奴隷州かの決定が住民に委ねられ(カンザス・ネブラスカ法)、同地域には奴隷制賛成派・反対派が全国から集まり、内戦状態となった。カンザス・ネブラスカの戦いのなかから頭角を現したラディカルな奴隷制反対主義者ジョン・ブラウンが反乱を起こし(1859)、奴隷制拡大反対派によって結成された共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領に当選するに至って、南部諸州は反発を強め、アメリカ連合国として独立を宣言。これを認めない連邦政府との間で、南北戦争の火ぶたが切って落とされた(1861)。

4年以上に渡って続いた内戦は、北軍の勝利に終わり、奴隷解放宣言が出されて、奴隷が解放されたのは、歴史が語る通りである。しかし、リンカーンをはじめ、連邦政府の中枢にある人々の関心は、奴隷解放よりもむしろ、連邦の維持にこそあった。奴隷解放宣言も、実施の1年前に出された予備宣言によって、南部に揺さぶりをかけるためのものだったとも言える。ともあれ、奴隷制は廃止されたが、解放された奴隷たちの多くは、財産も、仕事も、教育もなく、結局はシェアクロッパーとして今までと同じように土地に縛られるしか生きる道がなかった。奴隷制の下では、奴隷主は奴隷の衣食住を世話しなければならなかったが、小作人はそうではなかった。解放奴隷には、いわば、「飢える自由」もあったのである。そのうえ、クー・クラックス・クランのような白人至上主義団体が次々と結成されたのも、この時代である。ともあれ、南北戦争後の「南部再建期」には、憲法の修正、相次ぐ公民権法の制定などによって、黒人の権利が認められるようになったことも確かである。その結果、黒人の上院議員(ハイラム・R・レベルズ)や、黒人の州知事(ピンクニー・ピンチバック)も生まれた。しかし、共和党のラザフォード・ヘイズを大統領とする代わりに、連邦軍が南部から引き上げる「1877年の妥協」により、南部再建期は終わりを告げる。1883年、最高裁が1875年の公民権法を違憲とみなし、ジム・クロウ法と呼ばれる人種差別法が南部各地で制定され、南部は完全に逆コースを歩みはじめる。そうした時代を象徴するように、プレッシー対ファーガソン裁判では、「隔離すれども平等」であれば構わないという人種隔離を正当化する判決が下りてしまう。そして、19世紀末には、リンチで殺される黒人の数がピークに達する。黒人に対するリンチは、この後も長く続き、1930年に、吊るされた黒人の死体の写真に衝撃を受けたユダヤ人教師エイベル・ミーアポルによって書かれた「奇妙な果実」は、ビリー・ホリデイによって歌われ、ジャズ史に残る名曲として歌い継がれている。

後半、この時代の芸能のなかから、フィスク・ジュビリー・シンガーズの「黒人霊歌」(「霊歌ではない」というハーストンの意見も)と、ブラックフェイスミンストレルについて概説した。次回は、黒人をバカにする芸能であるミンストレルに黒人の芸人が参入していったのはなぜなのかについて考え、ブルースとジャズの誕生を語るなかで、いくつかブルースの歌詞などを読みたいと思う。

2017年11月19日(日)

どっちでもいいことは、どっちでもいいといいたい。

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今日のお絵描き。フレデリック・ダグラス。何度見てもすごい顔だ。

南部民主党政治家の代表格、ゴリゴリの人種隔離主義者で、極右政党・州権民主党(ディクシークラット)の大統領候補にもなり、サウス・カロライナ州知事、連邦上院議員を歴任したストロム・サーモンドには、黒人の女性との間に生まれた娘(作家のエッシー・メイ・ワシントン・ウィリアムズ)がいた。しかも、サーモンドは密かに混血の娘を支援していた。奴隷制下で奴隷の女性との間に生まれた子供を奴隷として財産にする(場合によっては売り払う)奴隷主たちについて、「仮にも自分の子供なのに」という学生のために、このエピソードを紹介することにしよう。人間はその時代の制度に縛られていると同時に、子供がかわいいといった時代を超えた感情にも左右される。サーモンドは、葛藤の末、「密かに」支援するというところで、手を打ったのだろう。美談にする気にはなれないが、理解できる話ではある。そして、制度からはみ出さずに生きる人もたくさんいる。

2017年11月16日(木)

逆さ語部屋では、回文で四股名をつける伝統があるという・・・

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今日のお絵描き。ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲ。最初に写真を見たときには、こんなスパイらしいスパイの顔って他にないな、と思った。視聴者はみんな犯人が誰だかわかってるのに、主人公の刑事だけが頭をひねっているサスペンスドラマ、みたいな。志村、うしろうしろ、みたいな。

首都大非常勤、後期第六回目。『ジャズの誕生』をテキストとするリーディング3コマ。今日はカウント・ベイシー楽団のサヴォイ・ボールルームでのライブをかけながら、授業開始。1限は、「さて、さまざまな程度にアフリカ人の血を受け継いだ人々がよく知るようになった音楽の範囲は、独特であった。一方には、スペイン人、フランス人、アフリカ人の先祖を併せ持つ黒人クレオールが、しばらくの間、かなりの社会的地位を獲得し、最高のヨーロッパ音楽を多く吸収した。彼らは子供たちを教育を受けさせるためにパリへ送り、ヨーロッパで評判の指揮者を招いて、ニューオリンズで自分たちのオペラを開いた。南北戦争の後、北部の偏見の到来とともに、彼らの没落はゆっくりだが完璧なものだった。彼らはより(肌の色の)黒い兄弟たちに加わることを強いられ ― のちに(この本のなかで)見るように ― もっとも明らかなのは技術の点で、ジャズの誕生に貢献した」。2限目は、その先で「一方、ニューオリンズ周辺の大農場の奴隷たちは、ヨーロッパ音楽をほとんど、あるいはまったく聞いたことがなかった。ほとんど彼らだけで取り残されて、これらの農夫たちは彼らの音楽的遺産を保持することができ、大農場はアフリカ音楽の宝庫となった」まで。

3限では、次にやるプリントを忘れてくるという大失態。しかも、講師自ら教科書を忘れ、学生に借りるという体たらく。しっかりせねば。とにかく、教科書を忘れた人にはコピーを配って、次の部分まで。「オルムステッドの優秀さの基準は、ヨーロッパのものであり、彼はここで、自由黒人や家内奴隷によって演奏されたヨーロッパのマーチ音楽について話している。大農場で働く農園奴隷たちは、南北戦争の後になるまで、そのような機会はなかった。しかし、その機会が訪れると、あまり薄められていない西アフリカ音楽の影響を持ち込み、それが決定的な違いを生んだ」「以前の植民地として、ニューオリンズは軍楽隊におけるフランスの流行をぴたりと追っていたので、当然のことながら、それで有名になった。(ずっとあと、1891年に、父親がメンバーだったクラリネット奏者エド・ホールによれば、ニューオリンズ出身の黒人で編成されたオンワード・ブラス・バンドが、ニューヨークのコンテストで優勝した」

2017年11月15日(水)

ジンバブエでクーデター?

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今日のお絵描き。ライトニン・ホプキンス

薬(レポドバ)の飲み方が、ちょっとわかってきた。たいせつなのは、早めに飲んで、薬が切れる状態を作らないこと。一日の量が決まっているので、いざというときに飲む薬がないことへの恐怖から、つい、タイミングが遅れて、薬が切れた「オフ」の状態になることが多かったのだが、一度「オフ」になってしまうと、薬を飲んでも「オン」の状態に戻すのに時間がかかる。「オン」の状態をキープすれば、「オフ」から「オン」に戻すのに力を使わない分、薬も長持ちするような気がする。それにしても、「脳内麻薬」を経口で摂取しているということは、それはすでに「脳内」ではなく・・・

横浜国大非常勤「英米文学」、第六回目。今回は、ハリエット・アン・ジェイコブスの奴隷体験記(1861)と、サリー・ヘミングストーマス・ジェファソンの関係を中心に、奴隷制のもとでの、人種を越えた男女関係にスポットを当てた。1863年、奴隷制サンエイ派の民主党系新聞が、奴隷制反対派共和党を装い、白人の人種間結婚に対するアレルギーを煽ろうと企んだパンフレット『人種混交― 諸人種の融合に関する理論とそのアメリカ白人・黒人への適用』を入り口に、植民地時代からアメリカでは、人種間の性的関係が、法的にも、道義的にも犯罪と考えられてきたことを示した。にもかかわらず、プランテーションのような閉鎖された環境では、奴隷主が奴隷の女性に性的関係を強要し、生まれた子供を奴隷として財産にすることが行われていた。「生まれた子供の地位は、その母親に準ずるものとする」という法律のもと、奴隷主は性欲を満足させた上に、財産を増やすこともできたのである。

ハリエット・ジェイコブズの奴隷体験記『奴隷の少女の生涯に起こった出来事』には、奴隷の女性たちが奴隷主から受けた性的虐待や裏切りがいくつも描かれている。リンダという仮名で登場するジェイコブズ自身も例外ではない。家内奴隷として農園の重労働とは無縁だったものの、奴隷主ドクター・フリントからの執拗なセクハラと夫人の嫉妬に悩まされ、自由黒人の恋人とは別れることを余儀なくされる。彼女に同情的な態度を見せた独身の白人男性サンズ氏と関係を持ち、二人の子供を授かる。リンダは、婚外交渉を持った自分を責める一方で、フリントが受ける衝撃を思い、勝ち誇った気持ちになる。案の定、フリントは激怒するが、それでもなお、彼のセクハラは続く。愛人にならないのなら、子供たちとともに農場で重労働させると言われ、リンダは逃亡を決意する。しかし、まだ小さい子供たちを連れて行くわけにもいかず、一件を案じたリンダは、フリントの近所に身を隠し、北部に逃げたフリをする。リンダが目的で子供たちを手放さないフリントは、彼女が北部に逃げたと思えば、代金目当てに子供たちを売りに出すだろう(そこを、すかさずサンズ氏が買う)。紆余曲折あって、最終的には祖母の家の屋根裏に身を隠したリンダは、そこで7年間過ごしたあと、北部へ逃亡し、サンズ氏が買い取った子供たちと再会する。サンズ氏は結局、白人女性と結婚し、彼女のもとを去っていく。ジェイコブズは次のような言葉で体験記を締めくくる。「私の話は結婚という通常の形で終わるのではなしに、自由とともに終わります。私と子供たちはいま自由です!」

この本の素晴らしいところは、リンダがやられっぱなしでないところだ。セクハラ親父フリントを、あるときはあしざまに罵り、あるときは「圧制者に対する抑圧された弱い者たちの唯一の武器」である狡さで駆使し、勝利感を得る。そこには子供たちを守るという目的があった。プロットを大筋で紹介しただけなのだが、学生、とりわけ女子の反応はすごいものがあった。リンダの苦悩と強さが、他人ごとではないからだろう。

後半は、バーバラ・チェイス=リボウの小説『サリー・ヘミングス』(1979)と、ジェファソンの白人黒人双方の子孫と行ったインタビューをもとに書かれた『大統領ジェファソンの子供たち』を中心に、生前から噂が囁かれ、1998年にDNA検査によってその可能性が高まった、第三代アメリカ大統領トーマス・ジェファソンと奴隷の女性サリー・ヘミングスの関係を扱った。サリー・ヘミングスは、早逝したジェファソンの妻(むろん白人)マーサの父ジョン・ウェルズと奴隷の女性エリザベス・ヘミングスとの間に生まれ、マーサとは異母姉妹にあたる。マーサがジェファソン家に嫁ぐときに、召使いとしてついてきたかっこうだ。ヘミングスにとって、ジェファソンは義理の兄であり、召使いとして仕えてきた主人マーサの夫であり、愛人でもある。もしろん、ジェファソンはサリーを含む一家を支配する主人でもある。

こうした南部「特有の家族制度」のもと、ジェファソンとヘミングスの関係を、単に奴隷主に強いられた関係ではなく、相手を理解する「愛」に近い関係も視野に入れながら描いたのが、チェイス=リボウの小説である。どうしても奥歯にモノが挟まったような言い方になってしまうのは、すべての権力を握った奴隷主と、すべてを奪われた奴隷の間に「愛」が成立するのかという問題が立ちはだかるからである。例えば、愛しているなら解放してというヘミングスに対し、ジェファソンは愛しているから解放できないという。すべてを意のままにできる人間が愛を盾に相手の自由を制限するとき、それはもはや愛ではなく、単なるエゴではないか。それでも尚且つ、ヘミングスが誰よりもジェファソン理解していたと描いているのが、この作品のリアリズムだ。それは、『大統領ジェファソンの子供たち』に見られる「家族とは何か」という疑問にも通じる。

リアクション・ペーパーには、フリントにしても、ジェファソンにしても、人種差別的な意識を持った白人男性が(ジェファソンについては、『ヴァージニア覚書』から露骨な偏見に満ちた黒人観を引用してあった)、黒人女性と関係を持つのはなぜか、といった疑問が多く見られた。単に、性欲を発散させたいだけという見方もできるが、もうひとつ、征服欲というか、権力が自分にあることを示すために、黒人女性を組み敷くのではないかと思う。フリントがリンダにこだわったのは、リンダという女性に惹かれたというより、奴隷主としての権威が揺るがされるのを恐れたからではないか。奴隷女ひとりも思い通りにできない男になにができる、というような。その意味で、人種差別と性差別は連動しているし、奴隷と主人という身分を越えた「愛」が成立しにくい理由もそこにある。次回は最初にその話をしようと思う。

2017年11月13日(月)

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今日のお絵描き。ウォーキング・ダウン・ザ・ストリート。左から、エルモア・ジェイムズサニー・ボーイ・ウィリアムソンI トミー・マクレナンリトル・ウォルター

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明治学院非常勤「アメリカ研究」、後期第八回目。マルコムXについて、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアと比較しながら、その思想的、伝記的な背景を概説した。南部出身のエリートであったキングと、中西部ネブラスカの貧困層に生まれ、北部の都市を活動拠点としたマルコムは、さまざまな点で対照的だった。キリスト教の牧師であったキングに対し、マルコムは黒人イスラム教の団体「イスラムの国」のミニスターとして活動した。キングの「非暴力」の思想は「不服従」とセットで考えなければならないことは、すでに前回指摘したが、「暴力」と結び付けられがちなマルコムが主張したのは、むしろ「自己防衛」であった。南部の制度的な人種隔離の撤廃からスタートし、人種統合を目指したたキングが、自分の運動を民主主義とキリスト教に基づいた「アメリカの夢」に位置付けていたのに対し、マルコムは黒人にとって「アメリカの夢」は「アメリカの悪夢」だったと主張する分離主義者だった。キングの運動が国内のマイノリティの現実から出発しているのに対し、マルコムは「世界的に見れば、黒人は少数派ではない」として、新興アフリカ諸国や非同盟諸国の動きに希望を託した。マルコムの思想は、死の直前、イスラムの国との決別、メッサ巡礼を経て、大きく変わり、ある意味ではキング師に接近したと言えるが、キングもまた、死の直前、貧困との闘い、ベトナム戦争反対表明を通じて、北部の都市コミュニティの問題に取り組み、国際的な視点を持っていたマルコムに接近していたとも言える。

こうしたことを踏まえ、マルコムの簡単なバイオグラフィ、Xの由来(奴隷主の名前は捨てろという「イスラムの国」の教え)、代表的なスピーチの内容を紹介。とりわけ、マルコムが一貫して、自分たちが奴隷の子孫であることを直視し、そこから出発するしかないことを訴えていた点を強調した。現状を踏まえ、そこから出発するしかない・・・マルコムに心酔していた大学生のころ、彼から学んだもっとも大事なことのひとつである。後半、スパイク・リー監督の映画『マルコムX』(992)を見始めた。今回は、レッドことマルコム・リトル(のちのマルコムX)が、白人女性ソフィアと関係を持ち、緊張感に満ちた会話を交わしながら、ベッドで朝食をとるシーンまで。

國學院非常勤、後期第七回目。「1st Yera English」は、関係代名詞。主格と目的格の関係代名詞についてまとめたあと、先行詞が主語だった場合、関係代名詞節がどこまでなのか判断する方法(動詞を数える。関係代名詞から二つ目の動詞は、節の外)、省略された関係代名詞の見つけ方(「名詞・(代)名詞・動詞」という並びがあったら、名詞と名詞の間に関係代名詞が省略されている可能性が高い)、関係代名詞の文の訳し方(先行詞のところまで来たら、先行詞はちょっと置いておいて、関係代名詞節を訳す)などを教えた。「英語(L&W)」は、バラク・オバマの大統領就任演説を読む。「今日、わたしは、私たちが直面している難問は現実のものであると皆さんに言います。それらは深刻だし、数多くあります。簡単に、あるいは短期間で解決されるようなものではありません。しかし、アメリカの皆さん、このことをわかっておいてください-それらは、解決されます。今日、わたしたちは、恐れよりも希望を、軋轢や不和よりも、目的の共有を選んだから、ここに集まっているのです」

2017年11月9日(木)

朝のアナグラム。
「こちら葛飾区亀有公園前派出所(こちらかつしかくかめありこうえんまえはしゅつじょ)」
「前はここ、隠しカメラ使うち演出ありじょ(まえはここかくしかめらつかうちえんしゅつありじょ)」もはや、どこの言葉かも分からないが・・・

首都大非常勤、後期第五回目。『ジャズの誕生』をテキストとしたリーディング3コマ。テキストの内容とは関係ないが、クリフォード・ブラウンの『ウィズ・ストリングス』を聞きながら授業開始。授業で流すには、ちょっとムーディすぎたか。1限は「アフリカ人がニューオリンズで聞いた音楽は、合衆国の他の地域にいたら聞いていたであろう音楽よりも馴染みのあるものだった。加えて、フランス領西インド諸島から来たアフリカ人(すでにヨーロッパ音楽をいくらか吸収していた)が続々と到着し、さらなる混淆が進行していた」まで。「他の地域にいたら」のところに、仮定法が使われているところがポイント。2限は、先に進んで、「さて、さまざまな程度にアフリカ人の血を受け継いだ人々がよく知るようになった音楽の範囲は、独特であった。一方には、スペイン人、フランス人、アフリカ人の先祖を併せ持つ黒人クレオールが、しばらくの間、かなりの社会的地位を獲得し、最高のヨーロッパ音楽を多く吸収した。彼らは子供たちを教育を受けさせるためにパリへ送り、ヨーロッパで評判の指揮者を招いて、ニューオリンズで自分たちのオペラを開いた」まで。

3限は、さらに進んで、第4章「ジャズが始まる」に入った。「もし、西アフリカの音楽的影響の何かが、ブードゥ教のなかに密かに生き残り、コンゴ広場で表面化したのだとしたら、それはジャズの誕生にどのように寄与したのだろうか。二つの要因がこの進化を助けた。軍楽隊の凄まじい人気と、西洋の楽器の緩やかな導入である。それらすべての背景には、もちろん、支配的な白人文化に爪痕を残したい、所属したい、ちゃんと参加したいというアメリカ黒人の強く、変わらない願望があった。そして、音楽は名声と富を得る数少ない手段のひとつだった」「軍楽隊の任期はナポレオンのフランスで、ピークに達した。パレードやコンサートはすぐに、アメリカで人気の野外の娯楽のひとつとなった。黒人も自分たちのバンドを持っていた。1955年の南部への旅について書いて、F・L・オルムステッドはこう言っている。「南部の都市に、黒人で構成された、しばしば非常に優秀な楽団がある。軍事パレードはふつう、黒人のブラスバンドが伴奏する」

2017年11月6日(月)

「何て言ったかなあ、タイムマシンで現在と年末を行ったり来たりする映画」「なんだその映画は」「ああ!思い出した。暮れ→今→暮れ→今(クレーマー・クレーマー)」「・・・」

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今日のお絵描き。ヤケにならずに描きおえたカワイコちゃん。


新曲「小銭」、とりあえず、弾き語りスタイルで録音してみました。

落とした小銭をかき集めて
ようやく酒にありついた
口から迎えに行っていると
「必死だな、おっさん」と声がする
それが最後の小銭かい?

ああ、そうだよ、これが最後の小銭
そして最後のお酒だよ
若いの、必死で何が悪い
俺はいつも最後の小銭と思って生きてるよ

若いころの苦労は買ってでもしろという
だけど買うまでもないことさ
苦労はいつでもついて回る
これが最後と思っても

最後の小銭をかき集めて
ようやく酒にありついた
口から迎えに行っていると
「必死だな、おっさん」と声がする
それがあんたの精一杯かい?

明治学院非常勤「アメリカ研究」、後期第七回目。今回は、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアを中心に、50年代後半以降の公民権運動。キング師と言えば非暴力を連想する人がほとんどだろう。もちろん、宗教家としてのキング師にとって、「非暴力」は絶対的な意味を持っていた。しかし、公民権運動家としてのキングを考えた場合、「非暴力」だけを強調すると、キングの運動から牙を抜くことになりかねない。キングの「非暴力」は「不服従」とセットで考えられるべきものである。暴力は使わない。しかし、決して服従しない。殴られても、蹴られても、殺されても、抵抗し続ける。もちろん、これには覚悟が必要だし、社会に緊張をもたらす「危険」な行為である。不服従の運動は、大衆動員の直接行動の形で行われる。キング師周辺の運動が、画期的だったのは、エリートによる裁判闘争が中心のそれまでのやり方に、デモや座り込み、ボイコットといった大衆を動員した直接行動を取り入れた点にある。裁判闘争は従来通り運動の軸となるが、それだけでは限界がある。人種差別社会アメリカの裁判所が、運動を後押しする判決を下す可能性は、控えめに言っても五分五分でしかない。直接行動によって論点を明確にする緊張を生み出すことで、「性急な改革」に二の足を踏む人々に、問題の緊急性を突きつけることができる。

大衆動員の直接行動が、はじめて大きな成果を上げたのが、有名なモントゴメリーのバス・ボイコットである。運転手の指示に従わず、白人に席を譲ることを拒否した黒人女性ローザ・パークスが逮捕されたことをきっかけとして、バスの座席における人種隔離撤廃を求めて、モントゴメリーの黒人住民がバスの利用を1年以上も拒否し続けたた事件である。当時、バスの人種隔離は、ある線を境に黒人用白人用に分かれているというようなニュートラルなものではなかった。黒人は後ろ、白人は前から席を占めていき、満員になった時点で白人が乗ってきたら、一番前の席の黒人(とその隣に座る黒人:白人の隣に黒人が座るなんてとんでもない)は席を譲らなければならない。黒人たちは、朝早く起きて歩いたり、車を持つものが何往復もして送り迎えをしたりして、運動を成功に導いた。この運動のなかで、公民権運動の指導者として一躍注目を浴び始めたのが、地元デクスター・バプティスト教会に赴任したばかりの、若い牧師(26歳!)マーティン・ルーサー・キング・ジュニアだった。

バスボイコット事件とキング師に刺激を受け、白人黒人問わず、多くの人々が人種隔離撤廃の運動に飛び込んでいった。なかでも、ノースカロライナ州グリーンズボロにはじまる白人専用ランチカウンターでの座り込みや、バス・ターミナル施設における人種隔離撤廃を確認しながら、白人黒人の公民権運動家が、長距離バスで首都ワシントンからニューオリンズを目指した「フリーダムライド」などは、大きな成果を上げた。また、キング自身も、バーミンガムのC計画や、セルマからモントゴメリーへの行進などで、人種差別主義者や地元警察の執拗で残虐な攻撃にあいながらも、着実に成果を積み重ねていった。丸腰のデモ隊へ犬をけしかけたり、高圧放水をかけたりする警察の姿は、テレビによって全世界に放映され、「自由の国」アメリカの面目をつぶすことになった。

一方、人種差別主義者による反動も熾烈を極めた。ミシシッピでは1955年、叔父のもとに遊びに来ていたシカゴ在住の少年エメット・ティルが、白人女性に声をかけたというだけの理由で、無残な死体となって発見された。1963年には、ケネディ大統領が公民権法の成立を国民に訴えているちょうどその夜、NAACPミシシッピ州デイレクターであったメドガー・エヴァーズが、自宅の勝手口のそばで、後ろから背中を撃たれて死亡。1964年には、やはり、ミシシッピ州で、若い公民権運動家3名が、KKKのリンチにあって、殺されている。どの事件も、容疑者は白人のみの陪審員によって無罪となり、何十年もたってから裁判がやり直され、一部のものが有罪となるも、真相解明にはほど遠い結果に終わっている。J・B・ルノアーの「ダウン・イン・ミシシッピ」は、人種差別主義者の暴力が吹き荒れる、当時のミシシッピを赤裸々に歌ったブルースである。

最後に、暗殺の数年前から、キングが大きく変わった点について。南部の制度的な人種隔離との闘いがある程度成果を上げ始めると、それだけでは何も解決しないことに気づく。相変わらず、黒人の多く、そして、白人貧困層は苦しい生活に喘いでいる。貧困との闘いを構想し始めたキングは、そこにつぎ込めるはずの莫大な予算がベトナム戦争に消えていくことに我慢ができなくなった。しかも、戦場では、国内では同じレストランで食事をすることも許されない貧しい黒人と白人の兵士が、東南アジアに自分たちが味わったこともない自由を与えるという名目で、手に手を取り合って殺戮をしている。1967年4月4日、キングはベトナム戦争反対を表明する。彼がメンフィスで凶弾に倒れたのは、ちょうど1年後のことだった。

※ある学生のリアクション・ペーパーに、「先生のブログを見ると、いつもタイトルと共に絵がついてると気づいたのですが、先生が描いているのですか」と質問が・・・見つかっちゃった。そうです。絵は僕が描いています。絵だけではなく、音楽も、ダジャレも、アナグロムも、何もかも、ぼくです。

國學院の授業は、創立記念日(4日)の振替で休み。

2017年11月1日(水)

アナグラム・トゥデイ。
「クリムゾンキングの宮殿(くりむぞんきんぐのきゅうでん)」
「緊急で、ムンクのリングぞ(きんきゅうでむんくのりんぐぞ)
画家に何をやらせるつもり!?

横浜国大非常勤「英米文学」、第四回目。アレックス・ヘイリー原作のテレビドラマ『ルーツ』を見た。クンタ・キンテが競売でジョン・レイノルズに買われ、彼の農場でフィドラーの指導のもと、さまざまな経験をした末、逃亡を試みて失敗するところまで。フィドラーの優しさに感動したという学生が多い一方で、奴隷の扱いが思ったほどひどくないと見た学生も相当数いた。たしかに、逃亡を図ったクンタが鞭打たれるシーンを除けば、『ルーツ』のこのエピソードでは、『それでも夜は明ける』で描かれているような、ひどい虐待の場面は少ない。実際、農場によって、奴隷の待遇にはかなりの違いがあったことも確かだ。虐待があまり厳しくない農場が舞台に選ばれたのは、お茶の間に入り込むテレビ番組の限界ということもある。また、より虐待の厳しい農場を舞台にした場合、「そんな農場ばかりではなかった」という反論を招くことになる。比較的、「ましな」農場を選ぶことによって、問題は身体上の虐待だけではないことを明らかにする意図があったのかもしれない。原作では、クンタは「本当にちょっとした口実さえあれば、クンタの背中にも、白人(トゥボブ)の鞭」(『ルーツ』上、243)が振り下ろされた最初の農場から、「黒人たちの暮らし」が「前のトゥボブの農園のそれよりはマシ」(260)な別の農場に移り、そこでフィドラーに出会っている。フィドラーもクンタも、ドラマとは違って、アメリカで黒人の置かれた状況を冷静に捉えている。ドラマは時間上の制約もあり、読者の感情に直接訴えるために、さまざまな要素を犠牲にしている。だから、ドラマがダメということではないのだが。昨年発表されたリメイク版は、まだ見ていないのだが、どうなっているだろうか。

2017年10月31日(火)

日本女子大非常勤、後期第七回目。「米文学論文随筆演習」は、ハリエット・アン・ジェイコブズの奴隷体験記を読む。リンダの子供たちを売ってしまったドクター・フリントは、リンダ(ジェイコブズの仮名)の祖母に聞いて、リンダの子供たちを買ったのが祖母であることを確かめる。「リンダはもうすぐ戻って来る。あいつは生きている限りオレの奴隷だし、死んだら子供たちがオレの奴隷だ」と強がる。しばらくの間、リンダは幸福と感謝の気持ちに包まれて暮らす。フリントは伯父のフィリップを、リンダの逃亡を助けた罪で訴えるが、無罪に。リンダは、ベティを通じてそのことを知る。一方、なぜか近所でリンダの捜査が再開される。そのうえ、女中がリンダの部屋に入ろうとする事件が起き、リンダは、べティの手引きでそれまでの隠れ家(親切な白人の婦人の屋根裏)を離れることを決意する。

「アアカデミック・ライティング」はいつものように、それぞれのペースでエッセイを書く作業。書いてきたものにあんまり注文を付けても、書き進めなくなっちゃうかなあ。

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