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2017年9月6日(水)

詩神頼みのミューズ商売。

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今日のお絵描き。笑わないサッチモ

村松梢風川上音二郎〔下〕』(潮文庫、1985、1952)を読み終わった。「オッペケペー節」で一世を風靡し、日本の演劇を改革するべく、新劇をはじめた音二郎が、二度のヨーロッパ公演などを経て、妻・貞奴とともに演劇界の立役者になっていくまでが描かれた上巻に対し、下巻では功成り名を遂げた音二郎が、九代目市川團十郎との交流を深めたり、初代市川左團次亡き後、その息子・市川莚升(のちの二代目左團次)の後見人になるなどして、日本演劇界のフィクサー的な存在になっていく。一方で、音二郎自身も、翻訳劇を手掛けたり、劇場の因習を廃止したりして、俳優として、(俳優引退後も)座長・興行師として、日本演劇の改革に取り組み続けた。念願だった自分の劇場・帝国座の完成直後、48歳の若さで命を落としている(ぼくはもう、その年齢を超えてしまった)。音二郎が日本の演劇の中心にいた時代の話なので、自然、音二郎個人を超えて、日本の演劇、芸能(浪曲の桃中軒雲右衛門の話も)の近代史というべき内容も含んでおり、大変興味深い。

江古田マーキーに、ひらげエレキテルとして出演して、6曲歌ってきました。演目は、「New Song」「正義の味方はいつも顔を隠している」「まあるいお月さま」「かわいい子猫ちゃん」「左目のブルース」「最後の日」。聞いてくださった皆さん、どうもありがとうございました。共演は、達者なフィンガーピッキングで独自の世界を披露するスペッキオさん(2度目の共演)、女性ヴォーカルの声が出ないというアクシデントに見舞われながらも、クオリティの高い演奏を聞かせてくださった中前適時打のお二人。お疲れさまでした。

2017年9月1日(金)

村松梢風川上音二郎〔上〕』(潮文庫、1985、1952)を読み終わった。「オッペケペー節」で人気を博し、妻・貞奴とともに新派劇の創始者となった川上音二郎の伝記小説。上巻では、博多に生まれた音二郎が、京都・大阪を中心に「オッペケペー節」で一世を風靡し、「演劇改良」を志し、「壮士芝居」と揶揄されながらも、注目を集めるようになっていった。しかし、国会議員に立候補して落選、続く新派劇合同の公演も失敗すると、妻・貞奴とともに半分死ぬつもりでヨットで東京から神戸を目指す。無謀な挑戦は世間の注目を浴び、音二郎人気は息を吹き返す。そんな矢先、十数人の劇団と渡米。全米各地で公演を行う。結果、二人の劇団員を病気で失う悲劇に見舞われながらも、アメリカ人の心をつかんでいく。さらに、ヨーロッパに渡り、イギリス王室の前でパフォーマンスを披露、パリ万国博にも参加してフランスのメディアに絶賛される・・・とにかく、破天荒な人生が面白い。下巻も楽しみ。

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今日のお絵描き。スリーピー・ジョン・エステス

2016年9月17日(土)

今日は比較的調子がいい。チャックが全開だったことをのぞけば。

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マイケル・J・フォックスラッキーマン』(Lucky Man、2002、入江真佐子訳、ソフトバンク・パブリッシング、2003)を読み終わった。ファミリー・タイズ』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で知られる俳優の、パーキンソン病の体験を軸とした自伝。病気と前向きに向かい合う人たちの言葉には共通するものがある。昨日の日記で紹介したごとう和さんも、フォックスも、病気を「贈り物(プレゼント)」と言っている。また、ごとうさんは、発病のショックから引きこもってしまった患者さんについて、「身体が動かなくなってしまった未来を先取りして創ってしまった」(『ぴんくのハート』 151)と書いているが、フォックスも演技に喩えて同じことを言っている。

「結果を演じることは絶対するな」 これは演技の鉄則のひとつだ。(中略)役者にとって結果を演じるとは、登場人物がいまいる、劇中のこの時点にではなく、その登場人物がそのシーンの、あるいはその芝居の最後にどうなるかに集中して演じるということだ。(中略)しかし、人生そのものと同じで、どんなセッティングにするか、どんな演技をするかは選択の連続で、そのひとつひとつが次へとつながっていく(309)

フォックスがコメディを得意とする俳優であることも、病気と向かい合う力になったと思う(ダイアナ妃との会食中にトイレに行きたくなったエピソードなど、コメディ俳優の面目躍如だ)。喜劇の裏に悲劇があるのだとしたら、悲劇を喜劇に変えることもできる。もちろん、「若年性パーキンソン病」という悲劇は、そう簡単には笑いには転嫁しない。それでも、病気を通じて、自信が持てない、他人の目を気にする自分自身を見つめ直し、乗り越えようとするフォックスの姿には、自分自身と家族、ファンやスタッフに対する誠実さが表れている。病気は、ありのままの自分に誠実であることを要求する。逆に言えば、病気と向き合うことで、人は誠実になる。「病気は贈り物」であるという言葉の意味は、そういうことではないかと思う。勇気をもらいました。

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同級生Kと、同級生Yの寿司屋で飲んだ。沖縄居酒屋の元店長や、ほろ酔いケニア人も現れて、めちゃくちゃ楽しかった。こんなに笑ったのは久しぶりだ。

2016年8月30日(火)

ヤキモチやくなんて、いジェラシーじゃないの。

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辻田真佐憲大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』(幻冬社新書、2016)を読み終わった。信用できない報道の代名詞とされる「大本営発表」。日中戦争開戦から、敗戦に至るその歴史を、一次資料や関係者の証言をもとに詳らかにする。太平洋戦争初期までは比較的正確だったその内容は、戦況が悪化するにつれて、戦果を誇張し、劣勢を誤魔化すデタラメな内容に転落していく。その背景には、国民の戦意喪失を防ぐための情報操作という側面に加えて、そもそも情報をあまり情報を重視していなかった日本軍の体質、陸軍と海軍、作戦部と情報部といった軍隊内の対立があった。そのため、いろいろな部署を回っているうちに、発表はどこも傷つかない内容へと落ち着き、真実は隠蔽された。また、いかに現実離れしたものであっても、戦地から報告される戦果に、疑問を投げかけることは許されなかった。さらに、こうした「公式発表」の誤りをチェックすべき報道機関は、軍部と癒着し、陸海軍報道部の下請けと化していた。こうした歴史を前提に、作者は第二次安倍内閣のメディア対策と、それを後押しする「偏向報道」批判に警鐘を鳴らす。メディアは「公式発表」をチェックするために存在する。ときの権力と反対の方向に向かうのは当然のことであり、それができなくなった先には、もう一つの「大本営発表」が待っているのではないか・・・ぼくも同じ懸念を持つものである。

OGSアコナイトVol.126@新大久保Club Voiceに、ひらげエレキテルとして参加して、3曲歌ってきました。演目は、「行こうよ」「かわいい子猫ちゃん」「最後の日」。聞いてくださった皆さん、ありがとうございました。他の出演者も多士済々。放浪の旅から帰ってきたオレオさんのギター弾き語り、その妹トモコ姐さんの歌。長沼ハピネスくんは、はじめて聞く曲も多く、ピアノ弾き語りも新鮮でした。続いて、涼ちゃんの優しくも力強いピアノと歌。韓国からのスペシャル・ゲストをはさんで、トリは我らが神田苑。楽しい夜でした。Tommy姐さんのケータリング=ジャージャー麺は、すごいボリューム。おいしかった。

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今日のお絵かき。マザーズ・オヴ・インヴェンション

2016年8月21日(日)

となりの柿はよく客食う柿だ。

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木村友祐イサの氾濫』(未来社、2016、2012)を読み終わった。東京での生活になじめず、故郷の八戸に帰ってきた将司。高圧的な父に反発しながら、何もできない自分を恥じている。震災後の不条理を飲み込む東北の人びとの人の好さにもなじめない。そんななか、一度も会ったことのない乱暴者の叔父イサこと勇雄が、蝦夷の猟師になって夢のなかに現れる。故郷の人たちに、叔父のことを聞いてまわるうち、将司のなかの何かが、イサを通して溢れだす・・・「まづろわぬ(従わない)民」の決起を予感させるラストシーンは、強烈。東京の衛星都市に暮らすぼくのような人間(父のルーツは青森だが)には、「がんばれ」という他人事の言葉を捨て、反抗者の側に立つかと迫る、鋭い切っ先のようだ。幼馴染が東北の言葉で語る子供のころの思い出話を聞くうちに、恐ろしい事実が明らかになる「埋み火」も同様。心して読むべし。

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今日のお絵かき。ジューク・ジョイント。

2016年8月16日(火)

スマッパ、スマッピ、スマップ、スマッぺ、スマッポの5人組(イミフ)。

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安冨歩マイケル・ジャクソンの思想』(アルテスパブリッシング、2016)を読み終わった。正直に言うと、最初はマイケル・ジャクソンの「思想」というタイトルに、胡散臭いものを感じた。マイケルをガンディーになぞらえ、「救世主」、20世紀「最大の思想家」と呼ぶ前書きにも、げんなりしてしまった。しかし、内容はマイケル・ジャクソンの作品を、歌詞を中心に丁寧に読みこんでいくもので、説得力がある。本書によれば、マイケルのいう「スムース・クリミナル」とは、世の中をスムースに回していくために、一人ひとりが自分を殺して歯車になることであり、スムースな流れをあえて詰まらせて、それに抵抗するのが「ジャム」である。多くの人が自分を殺して「スムース・クリミナル」になっている原因の一つが、親による一方的な「愛」の押しつけであり、多くの人はそうした「愛」に報いようとして自分を殺してしまう。だとすれば、マイケルは「空気を読むな」と言っていたことになる。彼を悩ませたもう一つの「スムース・クリミナル」である人種差別もまた、「黒人は空気を読んでおとなしくしていろ」ということだ。もちろん、「自分らしさ」とは何かとか、一方的な「愛」と「本当の愛」に線を引くことができるのかとか、いろいろ疑問はあるが、マイケルに対する見方が大きく変わる本であることは間違いない。

2016年6月26日(日)

「人生は短い」と「人生は二次会」

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ナイジェリアの作家ケン・サロ=ウィワの手記『ナイジェリアの獄中から ― 「処刑」されたオゴニ人作家、最後の手記』(A Month and a Day、福島富士男訳、スリーエーネットワーク、1996)を読み直した。8月に開催される日本エコクリティシズム研究学会多民族研究会の合同大会で、サロ=ウィワについて報告しなくてはならないのだが、まだ何も手につていない。まずは、日本語訳も出ているこの本からはじめてみた。

サロ=ウィワはナイジェリア東部の少数民族オゴニ人の出身で、ナイジェリア政府とシェル石油など国際石油資本によるニジェール・デルタの石油資源搾取と環境汚染に反対し、オゴニの民族自立を訴えた。1990年に結成されたオゴニ民族生存運動(MOSOP)を中心とした活動はあくまで非暴力の方針のっとったものだったが、1995年11月10日、MOSOPの方針と対立する4人の首長の殺害を教唆したとの嫌疑で、8人のMOSOP指導者とともにナイジェリア政府により処刑された。この手記は、その直前、1993年6月に逮捕されたサロ=ウィワが、拘留の体験と、オゴニ人の民族自立と環境保護の運動の経緯をまとめたもの。MOSOPは同年1月にオゴニ人による大規模な示威行動を実現し、6月に行われた大統領選挙ではボイコットを訴えて成功に導いている。こうしたことから、サロ=ウィワの存在は、当時のババンギダ政権にとって、この上なく目障りなものだったに違いない。

今回読み直すにあたって、特に注目したのは、サロ=ウィワにとって「民族」(一部の人は「部族」と呼ぶかもしれない)が何を意味しているかという点である。アフリカの問題をすべて「部族」というマジックワードで理解しようとする傾向がある一方で、いわいる「進歩的な」知識人の間では、アフリカの「部族」(あるいは「民族」)自体が植民地主義のツクリモノであるという考えが、一般的になりつつある。例えば、ルワンダ虐殺の背景となったフツ人とツチ人の対立の場合、言語も宗教も居住地域も同じ両者に、本質的な違いは何もない。分断統治に都合のいい「民族対立」がでっち上げられたというのが実情だ。ナイジェリア東部における「民族」は、フツとツチのような実体のないものではない。それぞれ独自の言語や宗教、歴史を持っている。しかし、民族間の「対立」については、植民地時代に奴隷やパーム油交易の利害をめぐって煽られたという側面が見逃せない。

しかし、サロ=ウィワはこうしたアフリカの「民族」がツクリゴトであるという見方を真っ向から否定する(254)。少数民族オゴニ出身の彼は、多数派の民族によって、オゴニランドの富が奪われ、環境が破壊されるのを見てきたからである。ナイジェリアは2百余りの民族が共存する多民族国家である。そうしたモザイク状の国家が生まれた背景には、もちろんヨーロッパ列強によるアフリカ分断がある。しかし、独立後、主導権を握った多数派の民族が、少数民族を抑圧するとき、「民族=植民地主義のツクリモノ」という考えは、問題の隠蔽にしかならない。「時に肌の色は抑圧を補強する。肌の色が同じだと抑圧が見えにくくなるからだ。南アフリカで白人が黒人を抑圧すると即座に非難を呼ぶ。人種問題が絡んでいることが見えるからだ。しかし黒人が黒人を抑圧しても、人々は肩をすくめてこう言うだけである。『まあ、ぼくらには関係ないよ』」(252)

この、「ぼくらには関係ないよ」という欧米人の視点、これが問題なのだ。しかし、ここにひとつのジレンマがある。民族間の対立があることを強調すれば、すべての問題はおなじみの「部族対立」が原因であるとして、欧米は責任を回避してしまう。実際、2003年のBBCニュースは、「ナイジェリアのデルタ地帯で操業する石油会社は、民族紛争に悩まされてきた」と報じている。問題は搾取や環境汚染ではなく、「部族対立」であるというのである。サロ=ウィワの言う「民族」はこれとは微妙に違っている。彼はオゴニの搾取と環境汚染の問題を「先住民問題」と捉える。「ブラック・アフリカには先住民問題などないという世間の通説はまったくまちがっています。私たちの調査によれば、ナイジェリアでもザンゴン・カタフやオゴニがそれにあたります。これらはオーストラリアのアボリジニや、ニュージーランドのマオリ、あるいは南北アメリカのインディアンと少しも変わらないのです。土地を奪われ、資源を盗まれ、独自の文化を破壊され、殺戮されているという点ではすこしも変わりません」(184)。こうした視点から、サロ=ウィワはオゴニ人の運動がナイジェリアの他の少数民族を鼓舞することを期待し、さらに世界の少数民族との連携も模索している。1992年、オゴニは代表なき国家民族機構(UNPO)に参加している。

オゴニ人の窮状を、新植民地主義と多数民族が結託した先住民抑圧の問題として発信し、そのことを通じてナイジェリアや世界の先住民と連帯すること、そうした運動のなかで、オゴニ人の一体性を再確認し、民族としての誇りを取り戻すこと ― こうしたサロ=ウィワの戦略は、しかし、ときに内部から攻撃を受けた。連邦政府に妥協的な首長たち、MOSOP創立メンバーの裏切り。血気盛んな若い運動家たちと、保守的な首長たちを取りまとめて、運動を進めていくには、サロ=ウィワの存在は欠かせないものだったと思われる。一時的に拘禁を解かれたサロ=ウィワは94年5月17日にこの手記を脱稿するが、そのわずか5日後、再び逮捕され、1年半後、ババンギダの後を継いだサニ・アバチャ政権によって処刑された。処刑されるよりもはるか前、1989年に書かれた「アフリカが彼女の太陽を殺す」は、獄中で死刑を待つ強盗が、かつての恋人に宛てて書いた手紙の形をとった短編である。今日読み始めたところで、まだ読み終わっていないのだが、気になる一節をざっくり訳してみた。「どうせアフリカの部族問題でしょ」と片付けてしまいがちな我々に向けられたメッセージかもしれない。

きみも新聞に載っているのを見たはずさ。ぼくらも見た。例の看守に金をつかませて、記事の載っている新聞を送らせたからね。無情な国さえなければ、罪悪に慣れ、命が失われるのを見てサディスティックな喜びを感じる連中のなかにも、疑問を声をあげるやつがいたかもしれない。間違いなく、たくさんの人が疑問の声をあげるだろう。もっとも、安全で快適な自宅で、ビール瓶の山の向こうから投げつけられる疑問だが。ヨーロッパやアメリカでお払い箱になり、埋め草として輸入された、退屈で陳腐なテレビ番組をぼんやりながめながらね。ビールを何本も飲んで良心をなだめ、喉につかえた答えを洗い落とし、答えも疑問も良心も、ゴミや泥で詰まった下水溝にたれ流す。そして、忘れるのだ。

2016年6月25日(土)

居酒屋でとなりの客が店員に「流れもんさ」と言ってるので、何かと思っていたら、生レモンサワーが運ばれてきた件。

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日本生まれ、日本育ちの台湾人作家=温又柔(おんゆうじゅう)さんの小説『来福の家』(集英社、2011)を読み終わった。「好去好来歌」「来福の家」の二作品を収録。言葉を発しようとする喉が、やっとの思いで意味にならない音を搾り出す、「好去好来歌」の冒頭から、自分たちの名前の響きの美しさを確かめ合う「来福の家」のラストシーンまで、一貫して「声」や「響き」が作品を支配している。それだけに、声を描写する表現は豊かで、「からだのそこにある水溜りをヒタヒタと波打たせる、低く囁くいつもの麦生の声」(52)といった表現に、ぞくっとさせられる。縁寿や笑笑のアイデンティティは「声」を通して形成され、アイデンティティの揺らぎもまた、「響き」の違いとして認知される。そうしたことが、聴覚を通じて、読者に伝わってくる作品だった。

Pファンクのキーボーディスト、バーニー・ウォーレルが亡くなった(現地時間24日)。死因は肺癌。72歳だった。ファンカデリックパーラメントの他、トーキング・ヘッズとの共演でも知られる。ツイッターの書き込みを見ると、4月にもシアトルでライブをやっているし、7月にもライブが予定されていた。フェイスブックのページには、奥さんと思われる人からのメッセージが掲載されている。「2016年6月24日11時54分、バーニーは<偉大なる精霊の国>へと移行しました。安らかに、愛する人よ ― あなたは間違いなく、世界をよりよい場所にしてくれました。また会う日まで、よい旅を!」・・・R. I. P.

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今日のお絵かき。七人の侍

2016年2月22日(月)

政治家はちょっと冗談通じないくらいがちょうどいいと思う。

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ラングストン・ヒューズの自伝『終りのない世界』(i Wonder As I Wander、1956、木島始訳、河出書房新社、1973)を読み終わった。ヒューズの2冊目の自伝 I Wonder As I Wander の後半(5~8章)を日本語に訳したもの(前半は17日の日記で紹介した『きみは自由になりたくないか』に訳出)。原題が示す通り、自伝というよりも旅行記に近い内容。ソビエト領中央アフリカからモスクワに戻ったヒューズは、シベリア~中国経由で日本へ。中国に戻って、上海に滞在したあと、横浜経由でアメリカに帰国した。その後、父急死の知らせを受けて、メキシコへ。帰国後、新聞の特派員として内戦中のスペインに向かった。先行きのわからない動乱の30年代、世界をめぐりながら、職業作家として文章を書き続けた30代のヒューズである。

モスクワに戻ったヒューズは、ソビエトのお役所仕事を身をもって体験する。また、スターリンによる粛清の噂はヒューズの耳にも届いていた。しかし、ヒューズは「ソ連の実験」を頭から否定しようとはしない。帝政下で差別されてきた中央アフリカの有色人種が、カラーラインの廃止された世界で、新社会の建設に奮闘する姿を見たことが、ヒューズに大きな影響を与えていた。そんな希望はいずれ粉砕されると、現在の私たちが笑うことはたやすい。しかし、私たちの知っている未来を知らないヒューズにとって、人種差別が存在するかどうかということは、何よりも重要な判断基準だったに違いない。同行したハンガリー出身のジャーナリスト=アーサー・ケストラーが、中央アジアの革命に不潔と怠惰しか見ようとしないのとは対照的である。ヒューズは、それが、人種差別のない社会のありがたみが、白人であるケストラーに実感できないためだと仄めかしている。

旅行中、ヒューズが最も嫌な思いをしたのが、我が国・日本だった。要注意人物として警察にマークされたヒューズは、ホテルで拘束され、しつこい聴取を受けた末、国外追放となっている。革命後間もないソ連から来日し、プロレタリア演劇の拠点だった築地小劇場を訪問、中国で孫文の未亡人・宋慶齢と会談する ― パン太平洋クラブでのスピーチで、日本の植民地主義に警鐘を鳴らしたことも含め、ヒューズの一連の行動が、軍国主義へと向かう日本の警察を刺激したのだろう。ちなみに、ヒューズはソ連でプロレタリア演劇の演出家・佐野碩と会い、数年後、パリでばったり再会している。築地小劇場で見た「漁師たちのストライキに関する日本の現代作家の芝居」とは、『蟹工船』のことか。小林多喜二は、ヒューズ来日の前年(1933年)、特高警察の拷問によって亡くなり、他ならぬ築地小劇場で「労農葬」が行われている。それにしても、任意と言いながら拘束し続ける警察のやりくちは、下劣という他ない。このときの経験を生かして、短編「ちっぽけな老いぼれスパイ」を書いたヒューズはさすが。

父の死、母の乳癌、初の戯曲『混血児』の舞台化といった出来事を経て、1937年、『ボルティモア・アフロ・アメリカン』紙の特派員として、ヒューズは内戦中のスペインへと向かう。ドイツやイタリアの支援を受けたフランコ将軍率いる右派の反乱軍と戦う人民戦線政府を支えるために、世界の反ファシズム運動が結束した国際旅団には、アーネスト・ヘミングウェイなどの作家に加えて、多くのアフリカ系アメリカ人も参加していた。反ファシズムの戦いに参加した黒人兵士たちは、戦闘を通じて、自分たちの国際的な位置に目覚めていく。皮肉なことに、反乱軍には、多くのイスラム教徒のアフリカ人が参加していた徴発されていたのだが。ヒューズはこうした黒人兵士たちの戦いや、反乱軍の攻撃が始まっても町を離れようとしないマドリード市民の姿を、共感をこめて描いている。

ヒューズは、長い旅を通じて、「ハーレムやアメリカの黒人から、世界のすべての有色人種」にまで、関心の幅を広げたと言っている。とはいえ、スペインから帰国した時点で、まだ1938年1月。ヒューズは、スペイン内戦が反乱軍側の勝利で終わることも(39年3月)、ヒトラーのドイツがポーランドに侵攻し(39年9月)、第2次世界大戦がはじまることも知らず、不吉な予感に打ち震えている。そして、自分に何度も言い聞かせる。すべての国家や文明は、必ず終わる。しかし、「私の世界は終わらない」。

2016年2月11日(木)

現実頭皮。

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ラングストン・ヒューズの自伝『ぼくは多くの河を知っている』(The Big Sea、 1940、木島始訳、河出書房新社、1972)を読み終わった。ラングストン・ヒューズの2つの自伝、The Big Sea (1940) と I Wonder As I Wonder (1956)を全3巻に編集した日本語訳のうち、実父との確執に悩む少年時代から、船員として世界各地を放浪し、ハーレム・ルネサンス期に詩人として頭角を現し、パトロンの白人女性(名前は伏せられているが、シャルロット・オスグット・メイソンと思われる)と袂を分かつまでを描いたThe Big Seaを訳出した第1巻。

人種差別社会を逃れ、メキシコで実業家として成功したヒューズの父は、同胞のアメリカ黒人や貧しいメキシコ人を蔑み、息子を自分と同じような人間に育てようとする。ヒューズは父の援助を受けて入った大学を中退し、船員として世界を放浪する。似たようなことは、ずっと後になって、パトロンとの間でくり返される。パトロンの求める原始的な美しさ、純粋さが自分にはないことに気づいたヒューズは、惜しみない経済的援助に居心地の悪さを覚え、それが彼女との決定的な衝突につながっていく。

ようするに、ヒューズは自分らしく生きることに妥協できない人なのだ。もちろん、「自分らしさ」は無条件で与えられるものではなく、他者との関係のなかで、ぼんやりと認識されるものだろう。ヒューズの場合、父やパトロン(あるいは鼻持ちならないワシントンの黒人上流階級)との関係に違和感を覚えると、体調を崩し、モヤモヤを振り払うために詩を書く。世界を放浪したのも、いわいる「自分探し」ではなく、他者との軋轢を通して、自分の立ち位置を確かめる作業だったのかもしれない。

パトロンとの破局に、株の大暴落によってハーレム・ルネサンスの華やかな時代が終わりを告げたことが重なり、ヒューズは職業作家として身を立てることを決意する。パトロンの援助を受けることなく、自立した経済活動として文筆を行おうとしたのだ。このあたり、大げさなお世辞を振りまいてでも、パトロンから金を引き出すことを厭わなかったゾラ・ニール・ハーストンとは対照的である(もっとも、ハーストンは自分らしさを失わずにそういうことができる稀有な人物だったのだが)。共作した戯曲『らばの骨』をめぐる二人の確執も、やはりメイソンから援助を受けていたハーストンが、パトロンの厭気を買うのを恐れて、ヒューズとの関係を断ち切ろうとしたということかもしれない。

I Wonder As I Wander を訳出した2、3巻では、職業作家としてのヒューズが描かれる。続けて読んでみよう。

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若き日のラングストン・ヒューズ。

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