石田一松『のんき哲学』(大空社、1998、1946)を読み終わった。石田一松は広島県出身の演歌師。添田唖蝉坊の東京青年倶楽部で演歌師としての活動を始め、得意のヴァイオリンを手に「のんき節」などの流行歌で一世を風靡した。1946年には戦後初の衆議院選挙に立候補して、見事当選。53年のバカヤロー解散による総選挙で落選するまで、寄席に出演しながら議員活動を続けた。いわば、タレント議員第一号である。そんな一松が代議士になった直後、「のんき節の寄席芸人に何ができる」という世間の嘲笑に一矢酬いんとして書いたのが本書である。とはいっても、「へへ、のんきだね」という暴力的なオチで聴衆を沸かせた一松のこと、生真面目なマニフェストのようなものを書いたわけではない。「序言」からして、「読者諸君、仕舞った!と、この本を買ったことの後悔はもう遅い、何故ならば、きっとこの本を諸君に売った本屋は、買った値段では、この本を買戻しはしないだろうから」(6)と読者を煙に巻くトリックスターぶりがまぶしい。
「いわいる哲学者の哲学は難解なる文章の羅列によって、文章の意味を解読することだけでも、一つの事業であり、さしづめ語学の研究だけでも大変である。哲学書というより鉄学書と呼ぶべき冷たく、固いものである」 (17) ― 「のんき哲学」と銘うちながら、冒頭からの「哲学」批判である。上の引用に続けて、一松は哲学書が難解な言葉で書かれているのは、その内容(のなさ)を見抜かれないようにするためであると喝破する(18)。こうして哲学の専門性が孕む問題を暴き出しながら、一松の言葉はそこにとどまらない。一歩すすんで、自らを批判する対象のパロディとして提示するところが、トリックスターのトリックスターたる所以である。「闇の哲学的考察」と題して、一松は難解な文章の無内容を自ら演じてみせる。
「闇とは明に対する語であり文字である。即ち光明の絶無なる暗黒の空間である。故に完全なる闇の空間においては、人間の視覚は無であり、視覚の無なるが故に、視覚による物体の認識も無である。
視覚による物体の認識が無である必然の結果は、少く共、視覚に関する限り、物体の存在も無である」(20)
抽象的な「闇」の定義は間髪いれずに、現実の「闇取引」、それもより生々しい「女を対象とする闇取引」の暴露へとなだれ込む。こうして読者を引きずりまわした挙げ句、一松は現実の「闇」に対する批判を狂った言葉遊びのなかに解消してみせる。
「不当なる価格であると、自覚する人間の自覚は、五感の中の視覚を無視した四官によるものであるから、これはノーマルな人間の自覚と称することはできない。これは自覚にあらずして四覚である。この四覚は不完全自覚である。不完全自覚である四覚を、完全自覚にするためには、視覚を加えなければならない。
即ち四覚プラス視覚は八カクである。八カクの八と、味覚のミの三とを連絡して「八三」と呼び、闇の意味に用いられるのである」(22)
認識論のような顔をしながら、ダジャレにダジャレを重ね、最後はメチャクチャな結論(オチ)にたどり着く・・・クラクラするほどの見事な手腕である。
「伝記叢書」の一冊として復刻されたものの、本書のほとんどは伝記的な内容ではなく、上に書いたようなヘリクツである。そう。もうわかったと思うが、一松はヘリクツ親父である。それも、ああいえばこういう、ハンパじゃないヘリクツ親父なのである。もちろん、代議士として社会問題や若者の生き方をまじめに語っている部分もあり、そのなかには今となっては古臭い部分もある。そんなときもなお、一松はヘリクツを忘れず、「へへ」と笑って読者をのんき節の異次元へと置き去りにする。後半、ホンの少しだけ自らの半生を語るときも、その自意識過剰なヘンクツぶりは変わらない。出生についての一節など、まるで『ブリキの太鼓』を読んでいるかのようだ。
「私が生まれたのは ― 私が生まれたのです。私は断じて、生まれた瞬間から、石田一松ではなかったのです。私が生れて、七日間ほど経って、私は石田一松になったのです。― 明治三十五年十一月十八日生れです。この生年月日も、父親から教えられ、或は役場の戸籍謄本に書いてあるのを、私が読んで記憶したので、七歳の幼い頃に覚えた自分の生年月日を、何十年も忘れないでいる、この素晴らしい記憶力には、われながらつくづく感心しています」(200)
幼少時代の話は、愛人をつくって出て行った母との別れ、継母との確執など、悲しいものが多いのだが、一松は記憶から湿っぽさをふり払い、どこかヒトゴトのような顔をして語る。母に対する怒りも、ぼくにはどこか怒ったふり、演技のように思えてしかたがない。そうしなければならないほどつらかったということだろうか・・・稀代のトリックスターというのはこういうところから生れるものなのかもしれない。
ともかく、こんな男が国会にいたと考えるだけで、愉快だ。ちなみにこの一松論もまた、難解で無内容な文章のパロディであることはいうまでもない・・・なんて。へへ、のんきだね。