2009年7月11日(土)

Img326映画『ソウルビート・ストリート』(Good To Go、ブレイン・ノバック監督、1986)を見た。今さら?と言われるかもしれないが、ゴーゴーを聞きなおしている。地元コミュニティと結びついた「いなたい」音楽を求めるうちに、チャック・ブラウントラブル・ファンクを思い出した。どたんどたんと垢抜けないビートをくり返すゴーゴーは、どこか村祭りを思わせるローカル色強い音楽で、地元ワシントンDC以外ではほとんど大きな成功を収めなかったというのもうなずける。それだけに、それ自体地元密着のメタファーになりそうな、跳ねているのに重心の低いビートが気になってしかたがない・・・そんななか、石田昌隆さんの新刊書『オルタナティヴ・ミュージック』に、「ゴーゴーは今でもヴィヴィッドな音楽だと感じてしまう」(145)という文章を見つけて嬉しくなってしまった。そこでも紹介されているゴーゴーのライブてんこもりの映画がこれだ。

まあ、ゴーゴーの一時的流行にのって作られた(おそらく低予算の)映画なので、ストーリー映画としての深みは求めるべくもない。すっかり禿げあがったアート・ガーファンクル扮する新聞記者ブリスが、警察からの情報を鵜呑みにして書いたニセ記事の真相を求めて悪徳刑事ハリガンと対決する。レイプ殺人に関わったとして追われる身となった兄の無実を信じるリトル・ビートは、ブリスの真摯な態度に接して次第に心を開いていく。よくある「ヒューマン・ドラマ」だが、登場人物それぞれの背景がほとんど描かれていないので、行動に必然性が感じられない。リトル・ビートはなぜブリスが信頼できる人間だと認めたのか。ブリスは何がきっかけで自分のなかの人種差別に気づいたのか・・・全く見えてこない。「環境の犠牲者」なんて言葉は、それがどんな「環境」なのか一人ひとりの人生に即して描き出さなければ説得力を持つはずがない(それにしても、陳腐なセリフだけど)。まあ、この映画にそんなことを期待するのは、ないものねだりというものかもしれないけど・・・

結局、この映画の魅力は、音楽のカッチョよさ、ゴーゴーの背景となるワシントンDCの黒人街の雰囲気が捉えられているということにつきる。それは・・・素晴らしい。映像というのは恐ろしいもので、言葉が上すべりしているときでも泥臭い現実を伝えてしまうことがある。犯罪と隣りあわせで生きる人びとの生活と、そのなかに占める音楽の位置がイメージとして伝わってくる。陳腐なストーリーはそこに犯罪、人種差別、腐敗といった「名詞」の枠をはめてしまう。そこから一回きりの「動詞」としてはみ出す部分を、生々しい映像から垣間見ることができる。

↓ この人・・・

チキリカのメンバーに欲しい・・・

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2009年7月10日(金)

Wizダイアナ・ロス主演のミュージカル映画『ウィズ』(The Wizシドニー・ルメット監督、1978)を見た。『オズの魔法使い』をオール黒人キャストでミュージカル化し、トニー賞7部門を受賞した舞台(1975)の映画版である。

夢と現実のはざまで明けていくオズの国の朝。背景美術の素晴らしさに引き込まれる。くすんでいながら鮮やかな色彩には、グラフィティなんかにも通じるキッチュな感覚がある。スラムの廃墟、地下鉄、摩天楼・・・といったニューヨークのイメージが、もともとインダストリアルな国のチープなファンタジーである原作に不思議な生々しさを与えている。ドロシー(映画では24歳の設定になっている)を当時34歳のダイアナ・ロスが演じることに違和感はあるものの、それも予想していたほどではない(舞台では二十歳そこそこのステファニー・ミルズが演じていたのだから、無理があることは否定できないが・・・まあ、ダイアナ・ロスはそもそもカマトトだからね)。

それよりも素晴らしいのは、「かかし」役のマイケル・ジャクソン。うまく歩けない詰め物のかかしを演じながら、なおかつ華麗なステップを踏むという離れ業ができるのは、この人を置いて他にいないだろう。晩年の彼からは想像できない、豊かな表情に魅了される。母親キャサリンによれば、思春期を迎えるころから持ち前の天真爛漫さが影をひそめ、次第に引きこもりがちになっていったというマイケルだが、少なくともこの時点ではそうしたナイーヴさが演技や歌に良い影響を与えている。そして、このころのマイケルは「キング・オヴ・ポップ」ではない。黒人コミュニティーの息子だ。のちに人種を超えたスターになっていったことが良いことだったのか、悪いことだったのか、ぼくにはわからない。ただ、そのなかでこの映画に見られる何かが始まるようなウキウキとした感じを、豊かな表情とともに失ってしまったのはとても残念だ。

音楽や踊りに加えて、敵から逃げまわるドロシー一行のドタバタぶりもコミカルで楽しい。ひらげは根が子供なのでこういうのを見ると、キャッキャと手を叩いて喜んでしまう。それでいて、西の魔女イブリーンの工場でこき使われていた人びとがみすぼらしい服を焼き捨て踊りだすシーンなんかは、どこか奴隷の解放を思わせる。出演者には他にもレナ・ホーンリチャード・プライヤーらが名を連ねていて、アフリカ系スター総出演の感がある。監督が『十二人の怒れる男』のシドニー・ルメットだというのも驚き。

追記:ダイアナ・ロス扮するドロシーとマイケルかかしが黄色いブリック・ロードを踊りながら歩いていくシーンを見て何か思い出すものがあると思ったら、チャップリンの『モダンタイムス』のラスト、チャップリンと当時の奥さんだったポーレット・ゴダードが手に手を取って旅立っていくシーンだった。あの、何かがはじまる、不安だけどウキウキした感じ、それも似ているんだ。

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2009年3月29日(日)

日曜洋画劇場』(テレビ朝日)で『相棒―劇場版 絶体絶命42.195km』(和泉聖治監督、2008)を見た。テレビCMでピックアップされた右京のセリフがひっかかっていたのだが、やっぱりそういう内容だったか。この10年ぐらい大人として日本に暮らしていれば身に憶えがあるはずの悲劇。娯楽映画ではなかなか扱いにくいテーマだが、安易な結論を出さないところが、決してメデタシメデタシでは終わらないこのドラマらしい。スケールの大きさを求めるあまりテレビ版の軽妙さが失われていたらイヤだなーと思っていたのだけれど、そんなこともなかったし。チェスの盤面を使ったトリックや二転三転する展開も目が離せなかった。もう一度、見てみたい。

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2009年2月3日(火)

Img108映画『スライディング・リベリア』(Sliding Liberia、Briton Caillouette監督、2008)を見た。サーフィンを愛する青年ニコライは平和援助団体の活動中に知り合った友人を頼って、内戦終了後間もない西アフリカの国リベリアを訪れる。彼は故郷から呼び寄せた3人のサーフィン仲間とともに、波を求め首都モンロビアから海岸沿いの町ロバーツポートにたどりつく。戦争の傷跡が残る国でサーフィンに興じるとはなんと不謹慎な!と思う人もいるかもしれないが、ニコライたちは普段の自分たちのまま気負わず行動しようとしただけなのだろう(自国では決してしないことを平気でする人たちよりはずっといい)。そして、この行動が思わぬ出会いを誘いだす。リベリア人少年アルフレッドは内戦中にボディボードを拾い、大事に取っておいた。彼はニコライたちが華麗に波を乗りこなす姿を見て、はじめてサーフィンというものを知ったのだ。

リベリアは1822年、解放されたアメリカの黒人奴隷によって建国された。そこには黒人をアメリカから厄介払いしようとするアメリカ植民協会などの力が働いていた。ともあれ、アフリカ帰還を夢見る人たちによって入植がすすめられ、首都は当時のアメリカ大統領ジェームズ・モンローの名前にちなんでモンロビアと名づけられた・・・しかし、解放奴隷が入植する前から、そこにはアフリカ人が暮らしていた(当たり前だ!)。両者の間には大きな社会的格差が生まれ、このことが後の内戦の火種となる。1989年、チャールズ・テーラー率いる反政府組織「リベリア国民愛国戦線(NPFL)」が蜂起して内戦が勃発。2003年、国連の介入によって内戦が終了するまで、リベリアの人々は常に命の危機に晒される毎日を送った。

映画は悲惨な戦争体験を語るリベリアの人々を淡々と映しだす。そこにサーフィンをするニコライたちの姿がはさみこまれる。一見、ミスマッチにも見える構成だが、やがてアルフレッドをはじめとする地元の人たちもサーフィンに興味を示し、波乗りを楽しむようになっていく。そんななか、戦争の残酷さとは裏腹に、印象に残るのは未来に希望を託して生きようとする人々の姿だ。サーフィンはそうした「生きること」そのもののメタファーとしても働いている・・・内戦に苦しみ続けた国などというと、そこの人々はぼくらとは全く違う感覚で生きているかのように錯覚しがちだ。でも、実際にはそうではない。ぼくらと同じように、自然や音楽、「生きること」それ自体を楽しもうとしている。だからこそ、「生きること」そのものを否定する戦争は残酷なのだ。ニコライたちが自分たちの楽しみ方、自分たちの生き方を持ち込んだおかげで、そのことが見えやすくなっている。

アフリカの音楽とサーフ・ミュージック(トッド・ハンニガン)が交錯するサウンドトラックも素晴らしい。

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2008年12月8日(月)

2008_12_08nanttsutei今日のラーメン:「らーめん(700円)」@品川・麺屋七人衆 品達ラーメン『なんつッ亭 弐
以前は平日でも長い列ができていたものだが、だいぶ落ち着いたようだ。もともとかなり苦味の強いマー油をたっぷり使ったここのラーメンは、一般受けするようなものではないと思う。ただ、ぼく自身はこういうクセの強いものは大好きだ。パリっとした麺や分厚いチャーシューもグー・・・★★★★

Img9002月に日本でも公開予定の映画『ユッスー・ンドゥール 魂の帰郷』(Retour à Gorée、ピエール・イヴ・ボルジョー監督、2006)を見た(配給元のアルシネラテンさんからサンプルDVDを送っていただきました。感謝、感謝)。

原題にある「ゴレ(Gorée)」とは、セネガルの首都ダカールの沖にある小さな島のこと。かつて、そこは西アフリカ全域から集められた奴隷の集積場だった。十数年前、初めてのアフリカ旅行でゴレ島に行った。肌色の壁が眩い光を反射する美しい町並みと対照的な、元奴隷小屋の冷たく暗い牢獄。海岸に面した壁には長方形の積出口があり、そのむこうには限りなく青い空と海が広がっていた。

自分たちの音楽とジャズやブルース、ラテン音楽といった奴隷として連れ去られた人びとの音楽に共通性を見い出したユッスー・ンドゥールは、ゴレ島を出発点にアトランタからニューオリンズ、ニューヨーク、ルクセンブルグ・・・と奴隷とその音楽の軌跡をたどる旅に出る。各地のミュージシャンと交流し、彼らをひきつれてゴレ島に「帰郷」するために・・・アフリカ系ディアスポラによるアフリカ帰還の試みは数多いが、自分たちがもはやアフリカ人ではないことを思い知らされ、苦い結末に終ることも少なくない。この映画がそうした帰還と大きく違うのは、アフリカ人の側が拉致された同胞を迎えにいくという設定である。

もちろん、食い違いがないわけではない。アトランタでW・マイケル・ターナーJr.のゴスペル・カルテットと共演したユッスーは、歌詞に宗教的意味を持たせることに抵抗して敬虔なキリスト教徒のターナーとぶつかっている。すぐあとに、ホテルでひとりイスラム教の礼拝をするユッスーの姿が映し出されるのは象徴的だ。しかし、ニューオリンズのセカンドラインのなかにアフリカと同じリズムを感じるあたりから、アメリカのミュージシャンとユッスーの音楽が徐々に共鳴しはじめる。

ニューヨークのスタジオに眼光鋭い猫背の老人が姿を現す・・・アミリ・バラカ(リロイ・ジョーンズ)だ!形を変えながら受けつがれていくアフリカ系文化のしぶとさを「変っていく同じもの」という言葉で表現した偉大な詩人が、ジャズ・ミュージシャンの演奏をバックに詩を朗読する。「長老」に敬意を表するために訪れたバラカ邸で、アフリカ系アメリカ人の語り部が「忘れられた戦い」について語る。ゴレ島で奴隷たちの体験を語るブカバル・ジョセフ・ンジャイの姿がそこに重なる(ユッスーは出発する前に、ンジャイに旅の目的を打ち明けている)。2人の語り部たち・・・そして、ユッスーやバラカも体験を語り伝えているという意味では語り部に他ならない。こうしてアフリカ系の人びとの語りが大きな円環を形作る。

そして、再び、セネガル・ゴレ島。ンジャイの話にこわばった表情で耳を傾けるターナーたちゴスペル・カルテットのメンバー。呻くような、すすり泣くような、重たく美しい歌が、奴隷小屋の冷たい石の壁に響く。ゴスペルというよりも、スピリチュアルのような静謐さを持ったその歌には、ゴレ島の名前と苦難の歴史を生き抜いた人々の誇りが織りこまれている。こんなことを書くと怒られるかもしれないが、アトランタでの彼らの演奏はどこかルーティーンにはまっているようなところがあった。彼らの歌もまた、語り部の語る奴隷の体験に触れることで生まれ変わったのだ。それはもはやキリスト教でもイスラム教でもない、歴史を共有する人びとの歌になっていた。

2008年2月14日(土)~ シアターN渋谷で公開予定

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2008年3月30日(日)

2008_03_30harukiya_2今日のラーメン:「中華そば(750円)」@荻窪『荻窪中華そば 春木屋
ラー博店で食べたときには「まあ、こんなもんか」と思ったのだが、本店はさすがの美味さ。鶏がら中心のスープに煮干がほんのりと香る。昆布の旨味に加えて化調も強そうだが、それはそれ。庶民的な押しの強さは、癖になりそう。ルーツにあたる『春木家本店』と比べると上品さに欠けるが、どちらも捨てがたい・・・★★★★

Img240フリップ・ロス原作、アンソニー・ホプキンスニコール・キッドマン主演の映画『白いカラス』(The Human Stain、ロバート・ベントン監督、2004)を見た。1998年、名門アテナ大学の古典学教授にして学部長のコールマン・シルク(アンソニー・ホプキンス)は、欠席続きの学生を「亡霊(spooks)」と呼んだことから、辞職に追い込まれる。欠席していた学生が黒人であったために、spooksが俗語で黒人の蔑称であることが問題になったのである。しかも、知らせを聞いた妻は、ショックからあっけなく死んでしまう。失意と怒りのなか、コールマンはフォーニア・ファーリー(ニコール・キッドマン)という若い女性と出会う。義父による性的虐待、ベトナム帰還兵の夫からの暴力、子どもの死・・・悲惨な過去を背負ったフォーニアとの関係にコールマンはのめりこんでいく。フォーニアとの恋は、コールマンに若いころの苦い体験を思い出させる。ニューヨーク大学に通っていた1948年のこと。若きコールマンは図書館で出会った女性スティーナ・ボールソンと恋に落ち、将来を誓いあった。しかし、その幸せな日々は、コールマンの実家を訪れたスティーナが彼の秘密を知ってしまったことで終わりを告げる。以来、コールマンは家族を捨て、出生の秘密を隠して生きてきたのである・・・

いつもはネタバレ覚悟でどんどん書いてしまうのだけれど、この映画の場合、回想シーンを通してコールマンの秘密が明らかになっていくところがミソなので、あらすじはこれくらいにしておきたい(それでもストーリーが知りたい人はここに)。重い過去を背負った男女の出会いというテーマがあるからこそ、単なるPC(ポリティカリー・コレクト)批判に終らずにすんだのだと思う。ドキュメンタリーではないかと錯覚する瞬間もあるほど生々しい映像と演技に、すっかりのめりこんでしまった。ぼくがずっと頭で考えてきた人種と仮面という問題にまつわる痛みというものが、こんなにヒリヒリと感じられる作品ははじめてだ・・・と書くと、せっかく隠したストーリーがバレバレか。フィリップ・ロスの原作も読んでみなくては。

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錦糸町It's VegitableでEncuentrosの演奏を聞いた。今日はチフリン≧バンドのアリガさんがダンスで参加。

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2008年3月29日(土)

2008_03_29toki_2今日のラーメン:「杜記牛肉麺(900円)」@横浜中華街『杜記別館
中華街ではじめて刀削麺を出した『杜記』の二号店。確か本店は麺だけのメニューだったと思うが、ここは各種中華料理を取りそろえている。他の店の刀削麺と比べると柔らかいぴらぴらした部分が少なく、肉厚でしっかりとしたかみごたえがある。スープもさすがの美味さ。ほんの少し辛味がきいているのがグー・・・★★★★

Arubabaよしもとばなな原作、堀北真希主演の映画『アルゼンチンババア』(長尾直樹監督、2007)を見た。誰が何と言おうと、堀北真希が好きだ。でも、彼女が主演したテレビ・ドラマはどれも、クール・ビューティに大げさな演技をさせようという的外れな意図が感じられて見る気にならなかった(実際に見ていないから、内容については何とも言えないけど)。そんななか、フォロクローレの名曲「花祭り」を下敷きにしたタテタカコさんによる挿入歌「ワスレナグサ」の切なさもあって、この映画は予告編を見たときから気になっていた。

リアリティって何だろう。「町外れの洋館に暮らすアルゼンチン生まれの謎めいた老婆」というのは、鉄板少女男子校に紛れ込んだ美少女と同じくらい無茶な設定だ。なのに、どういうわけか、「こんなこともあるだろうな」と納得してしまう。ぼくのまわりの生や死が、映画のなかのそれと反響しただけかもしれないが・・・

冒頭、堀北演じるミツコの母が病気で亡くなるシーン。点滴の痕であざだらけになった左腕がアップになり、次の瞬間母親の姿がベッドから消える。最も身近な人の死は、そんな身もふたもない物質的な事実として現れる。突然の喪失感や悲しみは、言葉や表情といった表現を見いだせない。表現してしまえば、失ったものがあることを認めることになってしまうからだ。父の悟(役所広司)は妻の死に立ち会うこともなく姿を消し、数ヵ月後、アルゼンチン生まれの老婆=アルゼンチンババア(鈴木京香)と暮らしているところを発見される。妻の死を受け入れられず、現実から逃げまわる男の姿に、「だめじゃん」と思いながらも深く共感してしまった。死を受け入れられないのはミツコも同じことだ。ミツコは父やアルゼンチンババアに対する怒り(そして、最後には愛)を通して、感情に表現を与えることを学んでいく。悟もまた同じ心の痛みを持つアルゼンチンババアの助けをえて、妻の死に向かいあう。何よりも、セリフや大げさな演技で語ろうとしていないところがよかった。表現を探している人の言葉や表情が饒舌だったら、リアルに見えるはずがない。表現を探しているうちにぽろっと漏れてしまったもの、そんなところを上手く捉えているから、ぼくのなかのリアリティと共鳴したんだと思う。そして・・・

やっぱり、ホリキタが好き!

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2008年2月22日(金)

2008_02_22mutsumiya今日のラーメン:「幻の醤油ラーメン(700円)」@『らーめん むつみ屋』横浜天王町店
『むつみ屋』新メニューのひとつ。「浜塩」よりも以前のメニューに近いイメージ。『むつみ屋』の豚骨スープにたっぷり魚介系を加えた感じ?逆に言えば、以前の醤油ラーメンでもよかったんじゃないかなぁ・・・脂の張り方が旭川ラーメンみたいでもある。美味しいけど、「幻」っていうのは・・・★★★+

Img226インド系移民とアフリカ系アメリカ人の恋を描いた映画『ミシシッピー・マサラ』(Mississippi Masala、ミーラー・ナーイル監督、1991)を見た。1972年、悪名高きウガンダの独裁者=イディ・アミンは、ウガンダ国籍を持たないアジア系(大半がインド系)住民に国外退去を命じた。この政策によって、アジア系は財産を奪われ、ウガンダ生まれであるにもかかわらず、イギリスをはじめとする世界各地に移住せざるを得なかった。この映画は退去命令によって「祖国」ウガンダを追われ、イギリス、さらにはミシシッピへと移住したインド系家族の物語である。ウガンダに対する思いの強い父親のジェイはウガンダの新政権に対して、没収された財産の返還を求めている。そんなジェイとは対象的に、若いインド系移民の多くはビジネスライクなアメリカのやり方に順応しているように見える。美しく成長したジェイの娘ミーナはある日、不注意で起こした交通事故をきっかけに、アフリカ系アメリカ人の男性=デミトリアス(デンゼル・ワシントン)と知りあい、恋に落ちる。二人の関係がインド系、アフリカ系双方の家族に波乱を巻き起こす。自分たちが「根無し草」であることを痛感しているジェイ夫妻に対し、若いミーナとデミトリアスは閉鎖的なコミュニティから逃げ出したいと考えている。デミトリアスと怒りをぶつけあううち、ジェイの心に浮かびあがってくるのはウガンダで兄弟のように暮らしながら、退去命令によって気まずい別れ方をしたアフリカ人の親友=オケロのことだった・・・

インド系とアフリカ系の恋物語と聞いて、すごく期待してしまったんだけど・・・いや、確かに興味深い内容で、悪い映画ではないと思う。にもかかわらず、どうも感覚的に納得できない部分があった。理由のひとつは時間の流れ方じゃないかと思う。インドからアフリカへ、そしてミシシッピ・・・という移民の歴史は、ジェイ夫妻とミーナだけの物語ではない。ジェイのウガンダに対する愛着も、ミーナの感じる窮屈さも、淡々とした日常がそれぞれの土地に何代にも渡って刻みつけられてきたからこそ生まれるものだと思う。そのための舞台としてロンドンやニューヨークではなく、ミシシッピというのはうってつけだと思ったのだが・・・ウガンダのシーンもそうだが、風景に刻みつけられた時間の重みみたいなものがいまひとつ画面から伝わってこないのだ。起承転結のはっきりしたドラマ的な時間には収まりきらないもの、現在のなかに過去があり、過去のなかに現在があり、ぐるぐると循環しているような・・・この映画に足りないのは、そんなとりとめもない時間と記憶の感覚ではないかと思う。

※少しざっくりと書きすぎたので、補足。
ジェイのウガンダへの愛着って、オケロとすごした少年時代に象徴されるような日常的な感覚に根ざしたものなんじゃないかと思う。例えばそれは、裸の足に触れる泥の感触とかだったりするんじゃないだろうか。そういう個人的な感覚のなかにこそ、土地への愛着をふり切って移動してきた人々の歴史が逆説的に浮かび上がってくるはずだ。ストーリー上必要な(起承転結的)エピソードをつなぎ合わせたこの映画からは、そうした何でもないような感覚がこぼれ落ちてしまっている。肝心のオケロとすごした少年時代のフラッシュバックも第三者的な視点から撮られていて、ジェイの生の感覚が伝わってくるとは言いがたい。

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2007年12月29日(土)

2007_12_29menhitosuji今日のラーメン:「ラーメン(700円)」@桜木町『尾道ラーメン 麺一筋』桜木町店
やや甘めの醤油の味がきいたスープは、瀬戸内海の小魚を使っているという通りほんのり煮干の香りがする。表面には揚げ玉のような大きめの背油が浮いている。麺はかなり太めだが、さらに太いものも選べるらしい。うどん粉を入れてあるらしい。期待した以上に美味しかった・・・★★★+

Yaadikoone_215日に行われた多民族研究学会第9回大会で紹介・上映したセネガルの映画監督=ジャブリ・ディオップ・マンベティの短編映画『ル・フラン』について、ひとつ分かったことがあるのでご報告。主人公の貧しいミュージシャン=マリゴは拾った紙幣で買った宝くじを部屋の扉に貼りつけ、初老の男性のポスター(写真)で覆って願をかける。宝くじに当たったマリゴは扉ごと引換所に持っていくのだが、当選券を剥がさないと金は渡せないと言われてしまう。意気消沈したマリゴだったが、海水で糊を洗い落とすことを思いつき、波と格闘の末、当選券を手にいれる。その一方で、大切にしていたポスターは波にさらわれていく・・・というストーリーで、ポスターが宝くじの象徴する金銭欲・物欲と対をなす重要な意味を持っていることは明らかなのだが、肝心のポスターに描かれた男性が誰なのかについては、たぶん宗教指導者か何か(例えば、スーフィーの神秘主義者=ティエルノ・ボカールのような)だろうというような曖昧なことしか言えなかった。見た人のなかには、憧れのミュージシャン?という感想を持つ人もいたようだ。でも、ちょっと調べたらすぐわかった。ポスターに書かれたYAADIKOONEという文字・・・これはセネガルの伝説的な義賊=ヤーディコーネ・ンジャエ(Yaadikoone Ndiaye、1922-1984)のこと。金持ちから金を盗み貧乏人にばらまくロビン・フッドねずみ小僧のような人物だったらしい。マンベティはインタビュー(ドイツ語)のなかで、「反抗的な子どもたちはみな、自分のことをヤーディコーネだと考えていました(Alle aufmüpfigen Kinder hielten sich für Yaadikoone)」と言っている。また、マンベティ自身、母親にヤーディコーネというあだ名をつけられ、「ンジャエ」と呼ばれていたとも。ポスターが流されるラスト・シーンは、マリゴが当選金と引き換えにそうした憧れや義憤を失ってしまったことを表している・・・とも考えられる。

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2007年12月15日(土)

多民族研究学会第9回大会@立教女学院短期大学。今回も盛りだくさんの内容だった。

国士舘大学/工学院大学・野村史織先生の発表は、1910~20年代のアメリカにおいて、『日米新聞』のような日系メディアに投稿された文学作品、エッセイ、投書のなかで、日系女性があるべき家庭の姿をどのように表象していたかを追うもの。移民に対する反感が強まるなか、日系人コミュニティは自分たちが「健全な」家庭を通じてアメリカ社会に同化できることを示す必要に迫られていた。こうした必要に答える形で女性たちも良き妻・良き母としての役割を受け入れるような言説を量産していく。そんななかにあって、対抗的な声をあげる市岡旭蘭のような女性もいたということが印象に残った。

早稲田大学・五島一美先生の発表は、19世紀チカーノ文学をテーマとしたもの。公民権運動以前のチカーノ文学は黒人や先住民と一線を画することによって、自分たちの「白人性」を証明しようとした。そのことを裏切りや逃走と考えるのはたやすいが、それもまたギリギリの状況下における彼らの抵抗だったのではないか・・・というお話だったと思う。だとすると、アイルランド移民やユダヤ移民が自分たちの白人性を証明するために黒人を戯画化してみせたミンストレルにも通じる話で、大変興味深かった。アイルランド系やユダヤ系の黒塗り芸人、あるいは自らミンストレルに身を投じた黒人たちと同じように、チカーノの人たちもこうした試行錯誤のなかで、本質主義的ではない、境界線上を行き来するアイデンティティを模索していったのだろう。

ゾラ・ニール・ハーストン『騾馬とひと』についての大阪大学・田中千晶先生の発表。曖昧で統一性のないハーストンのテキストは、その曖昧さ、不統一ゆえに一種のvernacularとして白人の支配的なテキスト(直線的な語り?)に対抗しうる力強さを獲得している。ぼくもハーストンについては同じ印象を抱いていた。こうした曖昧さ・・・というより、不統一性は、彼女のテキストがやり直しのきかない口承文化を色濃く反映していることに由来しているのではないだろうか。そうしたオーラルな「方言(vernacular)」が抑圧された人々に抵抗する力を与えている・・・というのは大事な視点だと思う。

四日市大学・山本伸先生の講演。霊的な存在や自然がないがしろにされたコミュニケーションには問題があると、ぼくも思う。カウンター席を嫌うような密なコミュニケーション(それはコミュニティと言い換えてもいいのではないか)のなかに、そうした問題を解決する糸口があるとも・・・ただ、そうした密なコミュニケーション、狭いコミュニティのつながりには、時に「抑圧」といってもいいくらいの息苦しさがあることも確か。だからこそ多くの人々がそこから逃走してきたのではないかとも思う。沖縄やカリブにぼくらが失ったコミュニケーションの濃密さを見いだしても、そうした葛藤はなくならないのではないか・・・というのがぼくの意見。何はともあれ、いろいろと考えさせられるところの多いお話だった。

そして、最後にエンターテイメント担当のひらげが、セネガル出身の映画監督ジャブリ・ディオップ・マンベティの短編映画『ル・フラン』を紹介・上映した。懇親会で親交をあたためたあと、何人かの先生方とカラオケへ・・・今日は飲みすぎなかったよ(笑)。※ここに書かれた発表の内容は、あくまでもひらげの聞いた印象です。文責はひらげにあります。

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2007年12月1日(土)

2007_12_01kameya今日のラーメン:「ラーメン(400円)」@天王町『中華料理 かめや
見るからにレトロな店構え。しかも、店頭にはなぜか白菜がごろごろと転がっている。店内も清潔感があるとは言いがたい。でも、出てきたラーメンは昔懐かしい感じでなかなか美味い。この手のラーメンにしてはやや太めの麺はコシがあり、スープも旨みが口に残る。これでこの値段だから、大満足・・・★★★+ 松本零士度・・・☆☆☆☆

Img077スパイク・リーブラック・パンサー党の指導者ヒューイ・P・ニュートンを題材に映画を撮ったという話は聞いていた。2001年にテレビ番組として公開されたきりで日本公開もされなかったのでずっと見ることができなかったのだが、DVD化されたその映画『ア・ヒューイ・P・ニュートン・ストーリー』(A Huey P. Newton Story)をようやく見ることができた。ブラック・パンサー関連の映画というとマリオ・ヴァン・ピーブルズ監督の『パンサー:黒豹の銃弾』(Panther、1995)があるが、団結して権力に立ち向かう若者たちを描いた青春映画のような趣すらあった『パンサー』に対し、この映画で描かれるのは弾圧とパブリック・イメージに苦しめられ憔悴しきった40代の革命家である。『パンサー』ではFBIの指示でオークランドの黒人街に麻薬をばら撒く冷徹な黒人ギャングの役を演じていたロジャー・グァンヴァー・スミスがニュートンを演じている。グァンヴァー・スミスは屈折した人物の不安定な心情を演じるのが得意で、『パンサー』のほかスパイク・リー監督の『マルコムX』(Malcolm X、1992)にもハスラー時代のマルコムの盗賊仲間として出演している。この映画はほぼ全編、そんなグァンヴァー・スミス演じるニュートンの独白で占められている(80年代前半のテレビ・ショー?という設定だが、こんな番組が本当にあったのか、完全に架空のものなのかはわからない)。ニュートンの伝記映画というよりも、グァンヴァー・スミスの独白劇を映画化したものと言ったほうがいいかもしれない。暗殺の恐怖に苛まれ、軟禁状態に近い生活を強いられたニュートンは、恐怖を打ち消すかのように自ら観客に挑みかかり、言葉を投げつけていく。早口は雄弁というよりも正体をつかまれまいとする無意識の防衛反応であるかのようだ。その語りのなかからアフリカ系アメリカ人の歴史、現在、未来が浮かびあがってくる。はらわたを抉るような重たい内容だった。

→『白いアメリカよ、聞け:ヒューイ・ニュートン自伝』(Revolutionary Suicide、1973、石田真津子訳、サイマル出版) 映画のなかにも「煙草や麻薬で寿命を縮めるのは『反動的自殺(reactionary suicide)』だ」なんて、この本の原題『革命的自殺』を思わせる言葉が出てくる。

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2007年11月8日(木)

2007_11_08yatai今日のラーメン:「ラーメン+コロッケ(700円)」@淵野辺南口の屋台
ラーメン侍の原点=淵野辺の屋台に約7年ぶりに行った。なくなったと思っていたら、ちょっとだけ場所を変えて営業を続けていた。旨みが強く、それでいてサッパリした味は健在。コロッケを入れてスープをしみこませて食べるのが好きだった。ラーメンマニアが絶賛するようなものではないかもしれないが、ぼくにとってはかけがえのない味だ・・・★★★★

レジナルドくんから「腹痛がおさまらないので、薬を送ってくれ」というメールが来た。正直、「おいおい、おトナリに味噌を借りにいくのとわけが違うんだから、メンドー見きれないよ~」とも思ったのだが、無碍に断るのも友だち甲斐がないので下痢止めの薬「ワカ末」を送った。経済混乱が続くジンバブウェでは水道が止まることも多く、人々は日ごろからためておいた水やにわか作りの井戸で生活用水を確保している。井戸の水はとても清潔とはいえないものだし、断水が続くと水道設備の維持・管理もままならないだろう(9月にジンバブウェでお腹を壊したのも、水のせいだったかもしれない)。念のためいっておくと、こんなことになるまではジンバブウェの水道設備は比較的しっかりしていたのだ。このままだと、伝染病が蔓延しないとも限らない。心配だ。

一応、見たんで書いておこう。映画『HERO』・・・キムタク主演のTVドラマの映画化。うーん・・・ひどかった(理由あって「優しいぼく」キャンペーン期間が終了したんで、厳しく行きます。薦めてくれた人、ゴメン)。TVドラマのほうはリアリティのなさはさておき、軽妙なやり取りが楽しかったのだが、映画は・・・デタラメにもほどがある。裁判で元検事の弁護士・蒲生(松本幸四郎)が久利生検事(キムタク)に「推定無罪の原則」を説く。それを聞いて久利生は「それは痛いところをつかれた」みたいな顔をする。おいおい、そんなこと知らないで何年も検事やってたのかよ・・・だいたいこの蒲生って男は冤罪を生むことを恐れて検事を辞めたくせに、弁護士として悪徳政治家に利用されても良心の呵責を感じないらしい。ひとつの事件に全力で取り組む久利生や文句を言いながらも手伝ってしまう同僚の姿に喝采を送る人がいるのだとしたら、ちょっと待て、他の事件はどうなっているんだと言いたい。これはTVドラマでもそうだったけど、久利生も同僚もたくさんの事件をかかえているはずで、ひとつの事件にこんなに力を注いだら他の事件がおざなりになることは間違いない。現実の検察官や弁護士はそういう過酷な状況のなかで何とか良心的な仕事をしようと苦悩しているのではないだろうか。この映画にそんなリアリティを求めることが間違っているのかもしれないが、それなら冤罪であるとか被害者の苦しみであるとかいったエセ社会派的なテーマを盛り込むのはやめたほうがいい。単純に娯楽映画としても、イ・ビョンホンを出演させるだけのために取ってつけた韓国ロケとか、どう考えてもミスキャストなタモリの演技とか(あの人にあんなことやらせてはいけません)、イライラすることばかりだった。時間が長い分、テンポも悪いし。唯一、中井貴一の演技が印象に残ったくらい。これだけの役者をそろえてこれかよ・・・日本のヒット映画って、こんなに酷いもんなの?

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2007年9月5日(水)

今日の『ホタルノヒカリ』はなんか切なかったなぁ・・・来週は最終回だけど、明後日からアフリカに行くので録画して見ます。結末を書き込んだりしないでね!(笑)

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2007年8月8日(水)

第5回目にしてはじめて、綾瀬はるか主演のドラマ『ホタルノヒカリ』を見た。何を隠そう、ラブコメものは大好物である。『時効警察』も霧山くんの行動に一喜一憂する三日月さんにスポットを当てたラブコメとして見ていた節がある。『猟奇的な彼女』なんかも大好きだし、高校生のころは妹の少女マンガをこっそり読んでいたほどだ。そういえば、大好きなチャップリンも、「恋する男」を滑稽に演じるのが上手かった。ラブコメの極意とは、つまり、恋愛にうつつを抜かしている人は、はたから見るとやたらにおかしい・・・ということなんだな。恋の予感に跳ねまわったり、突然この世の終わりのような顔をして落ち込んだり、一人二役で妄想にふけったり・・・そんなおかしな人たちを見ていると、ぼくのなかの乙女な部分がキュンキュンしてしまうのだ(←何のこっちゃい)。で、『ホタルノヒカリ』だけど・・・綾瀬はるか最高。綾瀬はるか演じる蛍が部長を風呂場に閉じ込めるところとか、「(新婚旅行は)カリブ海がいいわぁ」というのを聞いて「お前は海賊か」と心のなかで毒づくところなんかが、ベタに面白かった。あ~あ、最初から見ておけばよかった。

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2007年6月24日(日)

2007_06_24daichyu今日のラーメン:「ラーメン(元味)(500円)」@京都『大中
近鉄桃山御領駅のガード下にあるラーメン屋。「元味」は豚骨スープ(他に和風の「新味」がある)。京都のラーメンは濃ゆいという印象だったのだが、ここは軽めの豚骨スープで臭みもほとんどない。ガッツリ行きたい人にはちょっと物足りないかもしれない。地元の人に愛されているラーメン屋という感じがする・・・★★★+

朝から黒人研究の会の続き。次々と刺激的な発表を聞く。なかでも、鉄井孝司先生の発表はアフリカ系アメリカ人の音楽と造形芸術のインターテクスチュアルな関係を追うもので、ぼくの興味と重なるところも多くて勉強になった。キース・バイアマン先生の発表では、否定的なステレオタイプでも、『ルーツ』に見られるような理想化された姿でもない、新たなアフリカのイメージを探るアフリカ系アメリカ人作家たちの試みが紹介された。これからますます考えていかなければならないテーマだと思った。

学会後、以前アカシモモカさんに紹介してもらったラーメン屋へ行く(「今日のラーメン」参照)。

Img029_3新幹線に乗って名古屋へ。名古屋の友人と松本人志監督作品『大日本人』を見た。ところが、3、40分たったころ、友人は「気持ち悪くなった」と言い残して外へ。心配になって後を追うと、友人はちょうどトイレから出てくるところだった。だいぶ良くなったというが、まだ気分が悪そうだ。ドキュメンタリー・タッチのカメラワークに平衡感覚を失ったらしい。まあ、それだけ松ちゃんのつくる映像がパワフルだったということかもしれない・・・それにしても、いつものことながらフリが長い!!映画だと2時間ぐらいあるので、オチにいくまでイマジネーションを保つ気力・体力が要求される。一度気持ち悪くなったら、ちょっとつらいかもな・・・というわけで、とりあえず今日は退散して、食事に行くことにする。海鮮料理と焼肉をはしご。友人はとたんに笑顔に(笑)。腹ごなしもすんだところで、自称「名古屋一古い」カラオケやで3時間歌いまくる。カラオケ屋のおじちゃんは「だって~おじちゃん、困るも~ん」というようなおっとりした口調の好人物。でも、こういう人に限ってすごい過去があったりするんだよなぁ・・・(←勝手な想像)。歌いまくり、飲みまくり(←「飲みまくり」はひらげだけ)、気がつけば3時。友人と別れたあと、ウェブ喫茶の個室に転がりこんで寝た(写真は『大日本人』のパンフレットだが、「映画鑑賞後、見よ」とのただし書きつきなので、中身はまだ見ていない)。

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2007年6月6日(水)

2007_06_06kookai今日のラーメン:「冷やしラーメン(980円)」@天王町『麺屋 空海』天王町店
『空海』が冷やしラーメンを出していたので食べてみた。冷たいながらも、豚骨・鶏がらを燻してから使った『空海』の味はしっかり出ている。チャーシュー、江戸菜、海苔、白髪ネギ、鰹節に温泉卵までのっていて、食欲のない夏場にはよさそう。麺もキュッとしまって、これはこれで魅力・・・★★★★

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パム・グリアー主演の映画Sheba, Baby (ウィリアム・ガードラー監督、1975)とFriday Foster (アーサー・マークス監督、1975)を見た。Sheba, Babyはいつものパム様。父親を殺した悪党どもを懲らしめるため、敵のパーティーに単身乗りこんでいく。合法的手段にこだわる恋人や、のろまな警察は置いてけぼり。チンピラぐらいは簡単にしめあげちゃうし、ピンチになったらお得意のお色気攻撃でバカな男どもを悩殺する。かっこいい。それと比べるとFriday Fosterはずいぶん女の子らしくなっちゃって、つまらない。ファッションも心なしかおとなしめ。金玉蹴りあげたり、機関銃ぶっ放したりするシーンがないのが物足りない。

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2007年5月30日(水)

2007_05_30hamatora今日のラーメン:「胡麻香るつけそば(ITOスタイル)(750円)」@横浜『麺場 浜虎
夏の限定メニュー。胡麻ダレのようなつけ汁を想像していたら、見た目は普通の醤油味だったのでビックリ。食べてみたら胡麻の味と香りが口に広がって二度ビックリ。基本のスープがスッキリしているので、胡麻を使っている割には重たくなく、墨が織りこまれた麺はプルプルとして清涼感もある。美味い・・・★★★★

Brian_jones映画『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男』(Stoned、ステファン・ウーリー監督、2005)を見た。最初に手に入れたストーンズ関係のレコードが、ブライアン・ジョーンズがモロッコの音楽を録音・編集した『ザ・パイプス・オブ・パン・アット・ジャジューカ』(写真下)だったというのは、ストーンズ遍歴のはじまりとして相当歪んでいるといわれてもしかたがない。あまつさえ、高校時代には同級生のアート少女Kさんに「何かストーンズのレコード貸して」と言われて、得意気に『ジャジューカ』を渡すという人の道に外れたことすらやっていた。今でこそ、できれば200年ぐらい生きたいと考えているけれど(←考えてるだけで何もしてません♪)、若いころはブライアンやジャニス・ジョップリンに憧れて、「27歳で死ぬんだ」なんて平気で言っていた。今考えると若気の至りとしか言いようがないが(「俺が死ぬもんか!」と言い放つチャック・ベリーのほうがずっとカッコいい)、設定年齢をとうに超えた今でもブライアン・ジョーンズは気になる存在であり続けている。60年代の不健康で性格の歪んだロック・ミュージシャンのイメージをひたすら体現したまま、死んでしまったからかもしれない(キースはそもそもいい奴だし、ミックはジョギングはじめちゃったし)。ミュージシャンとしてのブライアンはもちろんすごく才能にあふれているんだけど、どこか瞬発力頼みのところがある。もし、あの時死ななくても彼の音楽があれ以上の発展を遂げていたかどうかあやしい(もちろん、だからって死んでよかったわけじゃないけど)。『ジャジューカ』のような音楽をも飲み込んで、懐の深い「ワールド・ミュージック」的な音楽をつくっていったのはむしろストーンズ本体のほうだったりもする。でも、やっぱり、ブライアンは好き。この映画でも、麻薬に溺れバンドから脱落していくダメダメなブライアンの姿が余すことなく描かれている。同時に、屋敷の改築を請け負った建築業者フランク・ソローグッドのブライアンに対する屈折した愛情と嫉妬にも焦点が当てられていて、そのことがこの映画を単なるロックスターの伝記映画ではなく、人間関係を描いたドラマにしている。気弱で平凡な男だったフランクがブライアンの無茶なライフスタイルに巻きこまれ、結局はロックスターになりきれない自分を他ならぬブライアンの死によって精算する・・・という展開は、60年代のロック・ファンの多くがたどった道を象徴しているのかもしれない。もっとも、現実のフランク・ソローグッドが死の床でブライアン殺害を告白した・・・とのキャプションが出るものの、ブライアンの死の真相としてはけっこう眉唾な話ではある。
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2005年5月25日(金)

2007_05_25brazil今日のラーメン:「中華そば(650円)」@本厚木『麺や食堂 ブラジル
食べはじめは見た目より甘みが強いような気がしていたのだが、食べすすむうちに煮干系の苦味や旨みが支配的になってくる。この辺が凡百のラーメンと違うところなのかも。けっこう危ういバランスなのだが、美味い。細めのストレート麺も固めの茹で具合でグー。しかし、なぜブラジル?・・・★★★★

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Amazonで予約注文しておいた『帰ってきた時効警察』のサントラが届いた。ドラマのサウンド・トラックを収録したCDとは別に、催眠術にかかった三日月しずかが歌う「しゃくなげの花」「月見そばのうた」「たべもの」が入ったCDがついている。「たべもの」の「頭はジャガイモ/ゆでて 食べろ/お尻はコンニャク/プリプリして 食べろ」というくり返しが頭から離れない。3曲とも出演者の一人、犬山イヌコさんの作詞作曲だが、「たべもの」だけは作曲者に犬山さんとならんでKERAのクレジットが・・・ケラって、有頂天の?ともあれ、この3曲のオリジナル・バージョンを収録した犬山さんのアルバム『inu cafe』も7月4日に発売される。さっそく予約した。

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こちらはオマケの「誰にも言いませんカード」

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2007年5月12日(土)

今日のラーメン:「とんこつしょうゆらーめん(600円)」@白楽『らーめん工房 ひらやま
店内撮影禁止とのことで、ラーメンの撮影はあえなく断念。あるラーメン・サイトでおいしい醤油ラーメンの店として紹介されていたのに、メニューは豚骨ベースのものばかり。店主は以前、三ッ沢下町で『筑後亭』という久留米ラーメンの店を経営していた人物。その頃はライトな印象の豚骨ラーメンを出していた。その後、醤油ラーメンを経て、パンチのある豚骨スープとの組み合わせへとたどり着いたらしい。これがぶちかましも強いが懐も深い横綱級の味。他にもストレートな豚骨や魚系のだしを加えたものなど計5つのメニューがある・・・★★★★+

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川崎CINECITTA'で、シエラ・レオネの内戦とダイヤモンドをめぐる利権争いをテーマとした映画『ブラッド・ダイヤモンド』(Blood Diamond、エドワード・ズウィック監督、2006)を見た。『ラスト・サムライ』(見ていないのでイメージだけだが)の監督ということで二の足を踏んでいたのだが、アフリカ文学研究の師匠=福島先生が見て「すごかった」とおっしゃっていたので、重い腰をあげて見に行くことにした。1991年、リベリア内戦への派兵に抗議して、リベリア愛国戦線(NPFL)がシエラ・レオネ領内に侵入。NPFLと同盟関係にあった国内の反政府勢力=統一革命戦線(RUF)も蜂起して、シエラ・レオネの内戦は始まった。シエラ・レオネ最大の資源であるダイヤモンドは、政府・RUF双方の資金源として使われた。外国資本は両者の対立を利用し、資金や武器を提供することによってダイヤモンドを安く手にいれる。再三にわたる禁止決議にもかかわらず、紛争地域からのダイヤモンド密輸は止むことがなかった。ダイヤの利権がからんだ内戦はますます激化し、RUFは支配地域内の村を襲っては住民を虐殺し、子供たちをさらって洗脳し少年兵に仕立てあげた・・・ここまではフィクションでもなんでもない、西アフリカの小さな国で実際にあった出来事だ。

映画では、RUFの襲撃によって家族から引き離された漁師=ソロモン・バンディー(ジャイモン・フンスー)、ダイヤモンド密輸業者=ダニー・アーチャー(レオナルド・デカプリオ)、ダイヤモンド密輸の不正を暴こうとするジャーナリスト=マディー・ボウエン(ジェニファー・コネリー)・・・バンディーの見つけたピンクに輝くダイヤモンドをめぐって三者の思いが交錯する。ダイヤを売ってアフリカを抜け出したいアーチャーは、家族との再会を望むソロモンの思いを利用して、ダイヤモンドの隠し場所を聞きだそうとする。一方、不正を暴く証言を求めてアーチャーに接近するマディー。そんななか、シエラ・レオネの内戦は首都フリータウンにまで及び、RUFが町を制圧。政府支配地域に逃れたソロモンとアーチャーは、再会したマディーと共にピンクのダイアモンドを求めて紛争地域の深くへと潜入していく。金と保身しか考えていなかったアーチャーだが、行動を共にするうち、RUFにさらわれた息子ディアを救い出そうとするソロモンに協力するようになっていく。アーチャーが自らを犠牲にしてソロモンとディアを救うシーンは冷静に考えるとちょっとかっこ良すぎるのに、なぜか涙が止まらなかった。アーチャー自身、ジンバブウェの独立戦争で両親を殺され、傭兵として暴力の世界で生きてきた。金と暴力の力しか信じてこなかったアーチャーがソロモンやマディーを通して周囲の人々への共感を取り戻していく過程が、RUFの洗脳によって凶暴な少年兵となっていたディアが父親への愛を取り戻す姿に重なって、泣けてしまったのだ。

アメリカの映画には珍しく、ちゃんとアフリカの言葉(+字幕)が使われているのにも感心した。アメリカらしいアクション映画という一面もあるが、ライフルが観客に向かって向けられるシーンも多く、暴力シーンはどれも「痛い」。ソロモンとその家族が助かったのを見て、「めでたしめでたし」と思えるのはそうとうオメデタイ人だけだろう。ソロモンたちが出国しても、シエラ・レオネでは大勢の人々が殺され続けている。アーチャーが死ぬところで終わっていたら、「結局、白人がヒーローかよ!」と思ったかもしれない。最後にソロモンがダイヤモンド密輸の実態を訴えるシーンがあることで、映画全体が別の意味を帯びてくる。ダイヤモンドを取引する人々の世界に、足蹴にされたアフリカ人自身の声(代弁者ではなく)が届いたのだ。ソロモンとアーチャーの潜入と逃避行はそのためにあったのだと意味づけることもできる。もちろん、すべてが解決されたわけではなく、胸に大きなとげが刺さったような感じは残る(いや、残らなければならない)。その後、シエラ・レオネの内戦は小休止を得たが、アフリカを含む世界各地で同じような紛争と利権争いは続いているのだ。

明治学院大学の授業(「アフリカ系アメリカ人の歴史と文化」)で、奴隷貿易についてビデオなどを交えながら語った後でアンケートをとったところ、「こんな酷いことがあったなんて信じられない」という感想が大半を占めた。うーん、同じようなことは現在でも形を変えて続いているし、それにはぼくたちも加担しているかもしれないんだよ・・・次回の授業では少し横道にそれて、この映画や携帯電話やコンピューターに使われている希少金属タンタルをめぐるコンゴの利権争いの話などをしようと思う。ぼくが奴隷貿易について怒りをこめて語るのは、自分が罪と無縁だと思っているからではない。

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2007年5月4日(金)

今日の注目アーチスト:沖田博史さん

今週も『帰ってきた時効警察』が面白かった。時効になった事件を趣味で解決する時効管理課の警察官、霧山修一郎(オダギリジョー)。その霧山に思いを寄せる婦人警官が麻生久美子演じる三日月しずか。今回は三日月の幼馴染で催眠療法師のスリープ玲子(ともさかりえ)が犯人だったのだが、三日月は玲子の助手がかけた催眠術で自分が歌手だと思い込み、自宅のベランダに近所の人たちを集めてライブをやってしまったりする。そのとき歌われる歌がこのドラマらしいゆる~い笑いのセンスに溢れたもの。例えば、ベランダでギターを片手に歌う「しゃくなげの花」は、たしかこんな感じの歌詞。

しゃくなげの花をください
5本の束でください
お金ならあります
「うちにはそんなものありゃしねぇ おとといきやがれ」
そーでーすかー

歌詞だけ書くといまいち面白さが伝わらない気もするが、フワフワしたメロディー、三日月のいかにも催眠術にかかっていますというトロンとした表情もあいまって、めちゃくちゃおかしかった。三日月の妄想のなかだけにとどめておかず、現実にCD化して欲しい。ぼくは絶対に買います。

※今月23日に発売される『帰ってきた時効警察サントラ』に、三日月しずかの歌が収録されているらしい。さっそく予約。

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2007年5月2日(水)

2007_05_02garaya今日のラーメン:「ラーメン並(600円)」@戸部『らーめん がら屋
「劇団ひとり」によく似た中国人のお姉ちゃんが接客してくれた。家系を鶏がら中心に組み立てなおしたようなスープ。味が濃すぎるうえ、妙にしつこい旨みが舌に残る。こういうのは「コクがある」とは言わないと思う。控えめに散らされた焦がし玉葱も、刻んだ岩海苔もあまり効果がないような・・★★+

TsotsiTOHOシネマズLalaport横浜で、南アフリカタウンシップを舞台にした映画『ツォツィ』(Tsotsi、ギャヴィン・フッド監督、2005)を見た。スラムの過酷な生活のなかで、生きることに意味を見出せず、金を奪うためなら人を殺すことも厭わない不良少年ツォツィ。ある日、奪った車のなかにいた赤ん坊を家につれて帰ったことから、殺伐とした生活に変化が訪れる・・・あらすじだけ聞くとチャップリンの『キッド』を思わせるような話だが、南アフリカの現実はチャップリンの喜劇よりもずっとシビアだ。ツォツィは赤ん坊の世話に四苦八苦しながらも、少しづつ優しい表情を取り戻していく(恐持てのギャングと優しい少年の間を揺れ動くツォツィ役=プレスリー・チュエニヤハエの演技が素晴らしい)のだが、同時に赤ん坊の母親を撃ったのが他ならぬ自分であるという事実が彼を苛んでいく(母親は一命を取りとめているのだが、ツォツィはそのことを知らない)。ツォツィは乱暴な父親から逃れてストレート・チルドレンになった自分の生い立ちを見つめなおし、彼なりに周囲の人々との関係を(金と暴力で)修復しようと努力するが、それがかえって彼を孤独に追いこんでいく。ついに、赤ん坊を両親の元に帰すことを決心したツォツィは・・・

暴力シーンが多いせいでR15に指定されたこの映画を、子供たちに見せる自主上映会が行われているという。映画を通して世界に存在する「格差」がいったいどんなものなのか、子供たちといっしょに理解したいと考えてのことだろう。でも、それだけではない。この映画のもうひとつ大切なテーマは「生きる」ってことだと思う。ツォツィは車椅子の浮浪者を追いつめて、「そんな身体になってまで生きたいか」と問う。浮浪者は「太陽の光を感じていたい。こんな俺だけど、両手は暖かさを感じることができる」と答える。また、赤ん坊を預かった女性がつくった装飾品を「ただのガラスのかけら」と言い放つツォツィに、女性は「ただのガラスじゃないわ。光があるし、色があるわ。見えないの?」と言う。何かを獲得することが人生なのではない。もちろん、食うためのお金がなければ生きてはいけない。でも、生きるということは感じること。赤ん坊を通じて、ツォツィは暴力によって麻痺していた感覚を取り戻す・・・日本と南アフリカの状況の違いにもかかわらず、日本の子供たちにこの映画を見て欲しいと思う人たちにぼくが共感するのはそのためだ。生きるってことは楽しいことばかりじゃないし、大そうな意味があるわけでもない。ただ、感じることができるというのは素晴らしいことなんだ。

全編に渡って使われている、ヒップホップやダンスホール・レゲエの影響を受けた南アフリカの音楽クワイトにも要注目。映画に多くの曲を提供しているクワイトのミュージシャンZOLAは、車窃盗組織のリーダー役で出演もしている。

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「とんかつ・季節料理」の店が何で「パリ一」なんだ?(最初は気取って「パリ~」と名のっているのかと思ったが、縦書きの看板を見るとどうも「パリいち」のようだ)

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2007年5月1日(火)

2007_05_01keika今日のラーメン:「太肉麺(950円)」@横浜『桂花』横浜ビブレ店
横浜店ができたころは足繁く通ったものだが、『大石家』や『火の国』といったより本格的な熊本ラーメンを食べた今となっては・・・うーん。熊本ラーメンといえばマー油だが、いくらなんでもこんなに量が多くてはスープの味もよくわからない。太肉(たーろー)は半分以上が脂で、40になろうというオッサンにはつらい。値段も高すぎる・・・★★★

Img001ミゲル・ピニェロの生涯を描いた映画『ピニェロ』(Piñero、レオン・イチャソ監督、2001)を見た。ミゲル・"マイキー"・ピニェロはニューヨークのローワー・イーストサイドを拠点に活動したプエルトリコ系の詩人、俳優、劇作家。1946年、プエルトリコ東部の町グラボに生まれる。7歳のとき、両親とともにニューヨークに渡るが、やがて両親が離婚。母親や兄弟を助けながら生きていくために、ありとあらゆる犯罪に手を染め、20歳になるころには重度の麻薬中毒に冒されていた。1972年、獄中のワークショップで書いた戯曲Short Eyes(幼児に性的虐待を与える者)がトニー賞の候補にノミネートされる。映画の冒頭、仮釈放の公聴会で委員たちを前に自分の生い立ちを語る言葉が、リズムを得て、ひとつの詩になっていくシーンは見るものの目を釘付けにする。釈放後、ピニェロは詩人、劇作家として本格的な活動を開始。仲間たちと「ニューヨリカン(プエルトリコ系ニューヨーカー)・ポエッツ・カフェ」を立ち上げ、俳優としても独特の存在感で『マイアミ・バイス』などのテレビ番組や映画へと活躍の場を広げていった。この映画は現在、過去、未来さまざまな時間のエピソードが細切れに並べられていて、流れをつかむのに苦労する(もう一度見てみないと・・・)。父親に虐待された記憶(恋人も同じ体験を持っている)、プエルトリコへの郷愁、仲間の死といったエピソードが、ピニェロの言葉とともに渦になっていく。死ぬまで麻薬や犯罪と手を切れなかったピニェロは、ローワー・イーストサイドのストリートから書くことをアイデンティティの拠り所とした詩人だった。結局、ピニェロは麻薬のやりすぎで肝臓を壊し40歳の若さで死んでしまうのだが、肝臓病で余命数ヶ月と告げられてから死ぬまで移植する肝臓を求めて醜いほどに生に執着する。文学的才能を認められて刑務所から出ることができたことからわかるように、彼の詩もまた「生きのびる」ためのものだった。それは思うようにならない人生そのものだったとも言えるかもしれない。

彼は死んでいた
一度も生きずに死んだ
目的を探して死んだ
だが目的は聞こえていた
スラムの子らの泣き声
マルコムの忠告
監獄への道が敷かれる音
彼は目的を探しながら死んだ
死んでいた 一度も生きずに
アップタウン ダウンタウン クロスタウン
彼の死体は街じゅうで目的を探す
それは75ドルとワニ皮の靴
白人女を黒人の子に売ること
ジプシー・ローズやJBにもある
公園でハッパをやって歌うことにも
(ドゥーワップの真似)
彼は死んだ
目的を探して
そして目的は死んだ
彼を探して・・・

ちなみに、本物のピニェロが盟友ミゲル・アルガリンとともにポエトリー・リーディングをしている映像がYouTubeにアップされている。

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横浜・狸小路の『はな家』で、ケーナ奏者アンデス清水さんと飲んだ。

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2007年4月14日(土)

2007_04_14ouka今日のラーメン:「つけそば(700円)」@神奈川新町『めん創 桜花
豚+鶏がらの動物系のダシと、煮干などの魚系のダシはどちらも重量級。しかも、ケンカすることなく、濃厚なつけ汁をつくりだしている。そこに鶏肉のつみれが2つゴロゴロと入っている。麺はうどんと見まがうほどの太さ。実際、うどんっぽいが、コシはある。太い分、吸いあげは弱いが、そこはつけ汁の濃厚さでカバーしている。美味い・・・★★★★

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今日の収穫:東京ぼん太「マアいろいろあらあな/東京の田舎っぺ」(200円)

NHK衛星放送で録画しておいた映画『十二人の怒れる男』(12 Angry Menシドニー・ルメット 、1957)を見た。父親殺しで有罪確実と思われていた少年の評決を、ひとりの陪審員が有罪を信じて疑わない他の陪審員を説得して無罪へと持ち込む法廷劇の傑作。12人の陪審員は広告代理店勤務の軽薄な男、スラム街への偏見丸出しの会社社長、大声で相手を恫喝するたたき上げの男、ユダヤ移民、冷静沈着なビジネスマン、思慮深い老人、野球に夢中ないい加減な男、スラム街出身の男などさまざま。それぞれがアメリカ社会の一面を象徴している。ヘンリー・フォンダ演じる8番の陪審員は少年の犯罪を示す証拠を一つひとつ覆していくのだが、そのたびに「スラム街出身の乱暴な少年だから・・・」という偏見が取り除かれていく。少年が父親に殺すと言ったのは本気だったと言いはる陪審員を挑発して、「殺してやる!」という言葉を引きだすところなんかは実に痛快だ(あんたも本気なの?笑)。こうして、少年に起こったことは誰にでも起こりうることだ、ということを陪審員とともに観客が納得していく。だから逆に、最後まで少年は有罪だと言いはっていたその男が、姿を消した息子の写真を破り捨て、「若いやつらは苦労すればいいんだ!」と泣き崩れながら無罪を認めるシーンに観客は感情移入できる(ぼくは泣いてしまった)。この男もまた重たい過去を抱えており、それは誰にでも起こりうることなのだ。場面転換のない密室劇なのに全く飽きさせない。観客の注意を議事の進行とは違うところへ引きつけるカメラワークとか、登場人物のキャラクターを暗示するさりげないしぐさとか(例えば、休憩時間にトイレに行った8番がタオルについたゴミを丁寧に取るところなど、この男の実直さが伺われる)、ぼくみたいな鈍感人間にもわかるシカケがいっぱい。一度も名前では呼びあうことのなかった裁判所を出て、8番と老人がファースト・ネームだけ明かして分かれるラスト・シーンもシャレている。もちろん、あまりにも勧善懲悪であるとか(8番にだって欠点はあるはずだ)、黒人や女性の視点が全く反映されてないとか、限界はある。アメリカであれ日本であれ、実際の裁判がこんな美しい終わり方をすることはむしろ少ないだろう(『それでもぼくはやっていない』も見に行かなくては)。でも、それはそれとして、ドラマとしてサイコーに面白いし、手本となるような陪審員像を提供するという意味もあったのだと思う。

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2007年4月13日(金)

2007_04_13wadachi今日のラーメン:「らーめん(700円)」@神泉『渋谷神泉 轍
ちょっと酸味のあるスープは鰹節の旨みがしっかり出ている。それがストレート細麺にからむカラム。美味い。チャーシューは口のなかでほろりと崩れるが、レア気味に仕上げてあるので肉の味がしっかり味わえる。店を出た後も口のなかに鰹の味が残っている。しばしの幸せをかみしめる・・・★★★★

テレビ朝日のドラマ『時効警察』が復活した。時効になった事件を趣味で捜査する時効課の警察官=霧山修一朗のお話。霧山役・オダギリジョーのギャグ・センスが好き。霧山に思いを寄せる婦人警官=三日月しずか(麻生久美子)のけなげさに胸キュン(←死語)。あくまで趣味っていう、犯人を追いつめないスタンスがいい。ゆるいギャグ満載で癒される。好きなんだよなぁ、こういうの。全部録画しそうなイキオイ。

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2007年4月1日(日)

2007_04_01mutsumi今日のラーメン:「北の味噌ラーメン(800円)」@天王町『むつみ屋』横浜天王町店
『むつみ屋』の新メニューは、新しい味噌ラーメンをつくりだすために試行錯誤していた時代のメニューをアレンジしたものらしい。コクのある味噌ラーメンは縮れた太麺、野菜たっぷりで、なるほど『むつみ屋』の原点はこういうものかと納得する。上にのっているのは鰹節と唐辛子を粉末にしたものだろうか・・・★★★+

TBSで放送された植木等の追悼番組を見た。『植木等ショー』や『8時だよ!全員集合』にゲスト出演したときの映像など見所はたくさんあったんだけど、ナベプロの後輩にあたるタレントたちがクスリとも笑わずに「今見ても笑えますねー」などと歯の浮くようなコメントをしているのは、やっぱりキモチ悪かった。事務所内の上下関係もあるだろうし、追悼番組だからしかたないのかもしれないけど、何だかいたたまれない気持ちになった。ぼくは植木さんもクレイジーも大好きだけど、「今見ても笑える」とは思わない。若いころの植木等や青島幸男が「今」いたら、全然違う笑いをつくっていただろう。今見て笑えるのは、ダウンタウンであり、爆笑問題であり、タカ and トシオリエンタルラジオおぎやはぎでも、ケンドーコバヤシでも何でもいいが)であるはずだ。いとしこいしみたいに「笑える」とかいうレベルを超えてしまった人たちはともかくとして、クレイジーキャッツの場合、当時いちばん尖がった存在だっただけに、その「笑い」は時代を色濃く反映している。とりわけ時事ネタなんかを多用したコントは、「今」という時代とは微妙にずれてしまうのだ(ナンセンス色の強いレコードになると、音楽の力もあってそうでもないんだけど)。そのことがわかっていたからこそ、植木さんはシリアスなドラマに転じたんだろう。「今見ても笑える」という言葉にこだわらなければ、もちろん、クレイジーキャッツは面白い。サイコーに可笑しい。一昔前の「笑い」だと了解していれば(←「時代背景を考えれば」ということではない)、かえって新鮮な気持ちで見ることもできる。「今」の視点からクレイジーを消化することだってできるのだ。どうせなら、『植木等ショー』の残っている映像をかぶせなしで全部流すくらいのことをして欲しかった。関係者のコメントなんかいらないから、裸のクレイジーキャッツや植木等を見せて欲しかった。あとの評価は「今」を生きる視聴者に任せて欲しかった。

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2007年3月31日(土)

2007_03_31kujiraken今日のラーメン:「らーめん薄口醤油(650円)」@品川・麺達七人衆品達『横濱 くじら軒
本店が良いときと比べるとかなり平凡な感じだが、それでもかなり美味い。鰹節や煮干が渾然一体となった味・香りが強く印象に残る。麺もプリッとしたストレート細麺でグー。本店よりもやや塩っぱいのと、味が平面的なのが残念。本店はいろいろな味が時間差で責めてくる感じで、もっと奥が深い・・・★★★★

ImagineNHK衛星第2で録画しておいたジョン・レノンの伝記映画『イマジン』(Imagine: John Lennon、アンドリュー・ソルト監督、1988)を見た。ジョン・レノンには核心に近づくと抽象的な言葉やシュールなイメージ、壊れたユーモアで聞き手を煙に巻いてしまうところがある。母親を亡くして子供のころに負った心の痛みを直視したくなかったからかもしれない。痛みと向き合うためにはヨーコさんや、プライマル・スクリーム療法や、ハリー・ニルソンと飲んだくれることが必要だったんだろう。「煙に巻く」という意味ではボブ・ディランとも似てるけど、ディランが確信犯なのに対して、ジョンはそうせざるを得なかったというか、思わずそうしてしまったというようなナイーブなところがある。だから、勘違いしたファンが寄ってきても邪険に扱うことができなかったのだ。ディランならそんなバカが来ることはあらかじめ想定しているから、映画『ドント・ルック・バック』でやっていたように散々イヂワルして追いかえしただろう。それができないジョンは優しく語りかけ、食事まで与えてしまう。だいいち、「煙に巻く」といってもジョンのやり方はひどく不器用で、隠したはずの痛みがミエミエだ。そんなところに惹きつけられてしまうんだな。コントロールの行き届いたものが美しいとは限らない。もうすぐ(ジョンが死んだときと同じ)40になろうというのに、いまだにビートルズやジョンの音楽を聞くとションベンちびりそうなほどドキドキしちゃうんだ。

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2007年3月26日(月)

2007_03_26shirukou今日のラーメン:「支那そば(550円)」@飯田橋『支那そば しる幸
店内にはトンコツと煮干が混ざったような独特のニオイが漂う。このニオイがだめ、という人もいるだろうが、ぼくは好き。白濁したスープはトンコツ鶏がらに野菜、煮干?などを加えたものか。舌触りはサラリとしているが後をひく旨みがある。麺はポキポキしていて美味い。チャーシューは醤油味が濃い・・・★★★+

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飯田橋ギンレイホールで映画『麦の穂を揺らす風』(The Wind That Shakes The Barley、ケン・ローチ監督、2006)を見た。1920年、アイルランド南部の町コーク。医師を志す青年デミアンはロンドンの病院に就職が決まり、祖国を離れようとしている。アイルランドではイギリス軍が暴虐の限りを尽くしていた。ゲール語ハーリングといった独自の文化は禁止され、アイルランド名を名のったがために暴行を受け殺される・・・そんな状況に怒りを募らせる若者たち。デミアンの兄テディはそんな若者たちのリーダー的存在だ。兄を尊敬しながらも、強大な武力を持つイギリスに抵抗することは非現実的だと考えていたデミアンだが、ロンドンへ出発する日、駅で見た光景が彼の気持ちを変える。イギリス兵の乗車を断固として拒否する駅員、車掌、運転士。イギリス兵の暴力にもかかわらず、彼らは断固として組合の決定を守り通したのだ。デミアンはロンドン行きを取りやめ、「アイルランド共和国軍」に参加する。やがて、イギリス軍に対するゲリラ戦がはじまる。医師として人の命を救おうと思っていたデミアンも、裏切り、拷問、処刑といった血生臭い経験を経て、心に痛みを抱えながらも革命家として成長していく。イギリス軍に殺されたミホールの姉シネードもまた戦いを支えている。戦いのなかで、彼女はデミアンと愛し合うようになる。1921年12月、ついに停戦協定が結ばれ、イギリス軍はアイルランドから撤退する。しかし、協定の内容はアイルランドは依然としてイギリス連邦内の自治領にとどまり、イギリス国王が総督として権限を持ち続けるという不完全なものだった。アイルランド人は協定を支持する「アイルランド自由国」側と完全独立を求める「共和国」側とに別れ、骨肉の争いをくり広げることになった。自由国側についたテディと共和国の大義を守ろうとするデミアンもまた引き裂かれていく。やがて、デミアンが捕らえられ・・・

やり切れない結末に会場のあちこちからすすり泣く声がもれた。こういう政治的な背景のある映画で泣きたくはなかったんだけど、ぼくもこらえ切れなかった。アイルランドの歴史はある程度知っているつもりでいたんだけど、何にもわかっていなかったことに気がついた。そして、これはアイルランドだけの話ではない。アイルランド人を痛めつけるイギリス兵はナチスのようでもあり、イラクの民家に踏みこむアメリカ兵のようでもある。しかし、戦いのなかで、アイルランドのゲリラ兵も敵と同じような怒声をあげるようになっていく。もちろん、彼らの戦いがなければ、アイルランドの人々が自由を獲得することはできなかった。そのために人間的な部分を押し殺し、暴力に訴えなければならなかったのだ。同じようなことはアフリカをはじめ、世界の独立闘争についても言える。アイルランドの美しい自然を背景にしているだけに、胸がしめつけられた。

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2007年3月17日(土)

2007_03_17taian_shyokudou今日のラーメン:「正油ラーメン(平打ち麺)(600円)」@海老名『喜多方 大安食堂
チェーン店などで食べた印象だと喜多方ラーメン=塩辛いというイメージがあったのだが、ここのは全くそんなことはない。むしろ、ほんのりとした甘みのある優しい味。煮干と豚骨が一体となった独特の香り。麺は平打ちと中細が選べるが、今日は平打ちで。プルプルとしてながらコシもあって極上・・・★★★★

SakuranTOHOシネマズ海老名で映画『さくらん』(蜷川実花監督、2007)を見た。幼くして吉原の廓に売られた遊女「きよ葉」の物語。安野モヨコの人気漫画を土屋アンナ主演で映画化、監督は新進気鋭のフォトグラファー・・・と聞けば、悪かろうはずはない。菅野美穂木村佳乃が妖艶な花魁に扮し、濡れ場も披露するという。しかも、音楽は椎名林檎。期待に胸を膨らませ、大半が女性の観客にまじって席に身を沈めた。

映像の美しさは予想以上。もちろん、時代考証なんかはちゃんとやっているのだろうけど、わざとそれをはずすというか、映像美のためなら嘘ついてもいいじゃん・・・っていうようなところが、逆に歌舞伎っぽくて江戸時代の感触に近づいているような、ありえない世界の艶かしさをかもし出しているような・・・(例えば、吉原の門に備えつけられた巨大な水槽とそこに泳ぐ金魚)。菅野美穂と木村佳乃の「艶」技はもちろん素晴らしかったのだが、「色っぽいねぇ~!」というよりも「女ってこわっ!」って感じでトッツァンボーヤのひらげは圧倒されるばかり。すごすぎます。

ストーリーは単純といえば単純なんだけど、プロットでは表しきれないつながりが映像でほのめかされていて、時々ドキッとする。例えば、菅野美穂演ずる花魁が幼いころの「きよ葉」にカンザシを渡すとき、隣の女の子が「何でこの子に!」って嫉妬に燃えた目で睨みつけてるんだけど、大人になった「きよ葉」が客と相思相愛になったことに嫉妬した別の遊女が同じ目つきを見せるのだ。ああ、あの娘が成長してこの遊女になったのかも・・・と思った。そんなイメージのつながりがいくつもあって、おそらく無意識のうちにぼくの心のなかに入りこんでいる。浮世絵というよりも錦絵のような重厚な世界で、それだけにラストシーンの解放感が強く印象に残る(もちろん、このままでは終わらないということは容易に予想できるわけだけど・・・)。

土屋アンナは大好きだけど、あの目を見ると「ぶたないで!ぶたないで!!」って言いたくなっちゃうところがあった(←トホホ)。でも、この映画を最後まで見たら「かわいいなぁ~」ってすっかりのぼせてしまった。石橋蓮司夏木マリといった脇を固めるベテランの演技もさすが。なかでも、映画自体歌舞伎に近いイメージがあるだけに、市川左團次演じるご隠居は様式的であるがゆえにかえってリアルというか、本当にこういう人いたんだろうな、などとすっかり騙されてしまった。そうそう、忌野清志郎が一瞬出演しているということは事前に聞いていたし、どこで出てくるかも大体わかっていたのにもかかわらず、見逃してしまった!!もう一度見に行くか・・・

あ、あと、映画本編とは何の関係もないけど、これ、面白かった。た~か~の~つ~め~

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2007年3月14日(水)

194853_109鈴木ヒロミツさんが亡くなった。言葉もない。ヒロミツさんがヴォーカルをしていたモップスは、「たどりついたらいつも雨降り」「朝まで待てない」「月光仮面」などのヒット曲で知られ、ブルースやサイケなんかに真正面から取り組んだバンドだった。日本人のロック・ヴォーカリストのなかでも特に大好きな人のひとりで、ぼくは大学時代に「ヒロミツ」っていうバンドを組んでいたこともある。 俳優になってからも、コミカルな演技や『夜明けの刑事』のエンディング・テーマ「でも、何かが違う」が強く印象に残っている。「でも、何かが違う」のジャケットは、ぼくが「ばかジャケ」というものを思いつくきっかけになったもので、いまだにこれを超える「ばかジャケ」には出会っていない。 享年60歳。ご冥福をお祈りします。

Rutlesビートルズのパロディ映画『ラトルズ 4人もアイドル』(The Rutles: All You Need Is Cash、エリック・アイドル/ゲイリー・ワイス監督、1978)を見た。ラトルズモンティ・パイソンエリック・アイドルボンゾ・ドッグ・ドゥーダー・バンドニール・イニスが中心となって結成されたビートルズのパロディ・グループ。二人が出演していたテレビ番組『ラトランド・ウィークエンド・テレビジョン』の1コーナーとして始まったが、これが人気を呼びアメリカの人気コメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ』の協力で映画化された。ラトルズの凄いところはただのモノマネではなくて、パロディ音楽の天才ニール・イニスのつくった曲のクオリティがすごく高かったことだ。「アウチ!」(「ヘルプ」のパロディ)、「ゲット・アップ・アンド・ゴー」(「ゲット・バック」のパロディ)などモトネタがはっきりしているものもあるけど、いろいろな曲を思い起こさせるものもあって、「チーズ・アンド・オニオンズ」なんかになるともはやビートルズの影響を受けた良質のポップとしか言いようがない(実際、この曲はジョン・レノンの未発表曲として海賊盤に入れられたことがあるとか)。エリック・アイドルはベース弾けるのかどうか怪しいし、ジョージ・ハリソンのパロディであるスティッグ・オハラ役のリッキー・ファターはどちらかというとドラマーとして有名(南アフリカのフレームズというバンド出身で、ビーチボーイズにも参加していたことがある)だけど、演奏シーンは口パクとは思えないほど生き生きしている。いろんなところにビートルズ・ファンを喜ばすクスグリが散りばめられていて楽しい。例えば、ラトルズがライブをやったスタジアムがゲバラから名前を取った「チェ・スタジアム」(ビートルズは「シェア・スタジアム」)だったり、リンゴ・スターのパロディ=バリー・ウォムが解散後美容師になっていたり(リンゴは若いころ、「早く音楽をやめて美容師になりたい」と言ったことがある)、ラトルズの設立した会社のトレードマークがバナナだったり(もちろん実際にはアップル=りんご)。4人がボブ・ディランからお茶を教えられて、警察から追われるっていうのも笑える(マリファナやLSDのパロディ)。奇想天外な話にもかかわらず、あんまりに良くできているので、パラレル・ワールドで活躍する別のビートルズを見ているような気になる。出演者も豪華。ミック・ジャガーポール・サイモンが本人役で出ているほか、パロディされる側のジョージ・ハリソンも・・・もちろん、『サタデー・ナイト・ライブ』のコメディアンたち=ビル・マーレーダン・エイクロイドジョン・ベルーシも出演している。十数年前、最初に見たときには最後に出てきてラトルズについてまくしたてる女がギルダ・ラドナー(大好き!)だということに気づいていなかった(「ユダヤ人のメンバーがいないのもいいわね」なんて言ってるけど、彼女自身両親ともユダヤ系の家庭に生まれている)。見れば見るほどに新しい発見がありそうだ。

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2007年3月8日(木)

Kubi
オール黒人キャスト初のホラー映画Sons of Ingagi (リチャード・カーン監督、1940)を見た。監督のリチャード・カーンは白人だが、オール黒人キャストの西部劇をはじめ、1930~40年代に黒人観客向けの映画を数多く世に送り出したことで知られる。カーンの他の映画同様、この作品でも後に黒人映画監督の草分けとして活躍することになるスペンサー・ウィリアムズが出演・脚本で重要な役割を果たしている。

結婚したばかりの若いカップル、ボブとエリノア。二人の門出を祝って友人たちが開いたパーティーを窓の外から見守る老女ヘレン・ジャクソン。アフリカ帰りの科学者であるヘレンは、なぜか弁護士ブラッドショーに依頼して遺言書をつくらせている。パーティの最中に起きた火事を見にボブと友人たちがその場を離れると、ヘレンが入ってきてエリノアを驚かす。結婚式に招いてくれた礼が言いたいというのだ。胡散臭い人物だと思われがちなヘレンだったが、エリノアは老女の優しさを知っていた。ヘレンは竜巻で亡くなったエリノアの両親の古い友人であった。ヘレンはエリノアの父親に恋していたことを明かし、彼からもらったロケットを新婦に託す。まもなくボブとエリノアはロケットと同じ印が描かれたメモを見つける。そのころ、姉がアフリカで黄金を手に入れたことを察したヘレンの弟が、彼女の書斎にやってくる。しかし、へレンがドラを叩くと秘密の実験室から猿人が現れ、分け前をよこせと迫る貪欲な弟を追い払う。ヘレンはこの猿人を息子のようにかわいがっていた。ところが、ある日へレンが調合した薬を誤って飲んだ猿人は、彼女を絞め殺してしまう。メモの謎を追ってやってきたボブとエリノアがヘレンの死体を発見し、警察に通報する。捜査にやってきたネルソン警部(スペンサー・ウィリアムズ)はヘレンの財産がすべてエリノアに相続されるという遺言書を見つけ二人を怪しむ。ヘレンの屋敷で暮らしはじめたボブとエリノアのもとに、弁護士のブラッドショーがやってくる。ブラッドショーがめぼしいものはないかとヘレンの机を漁っているうちに見つけたバチでドラを叩くと、猿人が現れて彼を絞め殺す(写真上)。第二の殺人を捜査に来たネルソンは屋敷に泊まりこんで寝ずの番をする。そこへヘレンの弟が忍び込んできて、またもや猿人に殺される。傷を負った猿人は夫婦の寝室に近づき、気を失ったエリノアを実験室に連れ去る。猿人がランプを倒し、実験室は火の海になる。目を覚ましたエリノアの叫び声を聞いて、場所をつきとめたボブとネルソンは実験室に踏み込む。ボブとエリノアは屋敷から逃げ出すが、せっかく相続した財産はすべて失われてしまう。猿人とともに焼け死んだかに思われたネルソンだったが、がっくりと肩を落とす二人の元に黄金を持って現れる。コレでもう一度家具や屋敷が買える!めでたしめでたし。

Enjin_1ホラーと言っても、猿人の存在が明らかなので見ていてそんなに怖くない。それどころか、結婚パーティーでの友人たち(フォー・トロッパーズ)のジャズ演奏など楽しい要素も多い。猿人に後をつけられながらまったく気づかず、サンドウィッチがなくなっている(もちろん、猿人が食べたのだ)ことに驚くネルソン警部(写真右)なんか、ホラーというよりもコメディ(志村・・・じゃなかった、ネルソン、うしろ、うしろ!!)。それよりも、単純なハッピーエンドのように見えて、真相が明らかでない部分がいくつもあって、それが後味の悪い引っかかりを残す。パーティの最中に起きた火事は果たして偶然だったのか?メモはダレが置いていったのか?財産を残すなんて、ヘレンはエリノアの実母なのではないか?・・・などなど。そもそもエリノアがアフリカから持ち込んだのは猿人だけだったのか?ちなみに、「インガジ」という言葉はコンゴの森に住むというゴリラを崇拝する架空の「部族」を描いた映画(1931)から取られたものである。そのことだけ取ってみてもこの映画がステレオタイプに満ち満ちたものであることは察しがつく。にもかかわらず、この映画を楽しんで見ていたのはゴリラを操るインガジ族という禍々しいイメージで貶めらているはずのアフリカ系の人たちだった・・・というのが興味深い。もちろん、ヘレンを除く登場人物の洗練された身振りを見れば、黒人の観客が自分たちを(ここで描かれている)「アフリカ」と同一視していたわけではないことも確か。ヘレンにしたってアフリカそのものを代表しているわけではなくて、彼女と「アフリカ」の間には「科学者」という「現代的」な要素がひとつ介在している。ヘレンのイメージは科学者というよりもヴードゥーの女司祭みたいではあるのだけれど・・・

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2007年2月21日(水)

2007_02_21onomichi今日のラーメン:「ラーメン(500円)」@保土ヶ谷『ラーメン ONOMICHI
こんな名前だけど家系・・・だったのだが、醤油ラーメンを導入して家系と尾道ラーメンの二本立てになったらしい。今日は家系豚骨醤油の「ラーメン」を。『六角家』出身というだけあって、濃厚でパンチのあるスープはなかなか。麺も家系らしい鋭角的な舌触りで美味しい。でも、チャーシューがかなりガッカリ・・・★★★+

Borojino銭形金太郎スペシャル』で、南大東島のモー娘。ことボロジノ娘を紹介していた。ボロジノ娘は南大東島の小学5年生~中学1年生の女の子6人でつくられたロリコン魂をくすぐる民謡グループ。沖縄で新春恒例の「民謡紅白歌合戦」に出演するほどの実力派で(そのときの演奏@YouTube)、2005年には『夢は大きく・・・』でCDデビューも果たしている(CDデビュー時のメンバーは5人。島には高校がないので、中学卒業後島を離れる。そのため、メンバーの「卒業」と新加入によって構成が変わったらしい)。名前は南大東島を最初に発見したロシアの軍艦に由来(「娘」がついていることについては、モーニング娘。に言及するまでもなく、沖縄では昔から「でいご娘」をはじめ「○○娘」という名前の民謡ガール・グループがたくさん存在するのだ)。ちなみに、ビンボーさんとして紹介されたのは娘たちではなく、彼女たちの師匠である新垣則夫さんである。さんざん引っぱった割には彼女たちの演奏シーンはほんのちょっとだったけど、ま、音楽番組ではないのでしかたないでしょう。知名定男の「バイバイ沖縄」を「バイバイ沖縄~♪」と三線をふりながら生きいきと歌う姿にノックアウトされた。それにしても、彼女たちの持っている三線、ヘッドのところがギターみたいになってるんだけど、こんなのあるんだ。三線はチンダミー(調弦)が難しいので、あれいいなぁ。

沖縄タイムズの紹介記事

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2007年2月16日(金)


たけしの誰でもピカソ』でちあきなおみの特集をやっていた。こういう特集って歌をちゃんと流さずに関係者のコメントを並べ立てるものも多いけど、今回は本人の歌をじっくり聞かせる内容。ちあきなおみと言っても「喝采」ぐらいしか聞いたことがなかった。それも、コロッケの物まねのほうが印象に残っているくらいだったんだけど、実際の歌を聞いてとにかく圧倒された。こういう演劇性の強い歌手ってあまり得意じゃないはずなんだけど、この人の場合、対象に感情移入せず対象そのものになってしまうような、イタコ的な強さがあって好きだ。進行役の渡辺満里奈も言ってたけど、「喝采」で歌われているのはちあきさん本人のエピソードで、今このステージは歌の物語の続きなのではないかと思ってしまう。他にも友川かずき作詞作曲の「夜へ急ぐ人」(←紅白でのちあきさんの熱唱を受けて山川静夫アナウンサーが思わず「何とも気持ちの悪い歌ですねぇ」と言ってしまったという伝説を持つ)、「朝日のあたる家」のカヴァー(訳詩・浅川マキ)、ちあきさんが本当に閉店するバーのママに見えてくる「紅とんぼ」など、どれも圧倒的なパフォーマンスだ。ゲスト解説の船村徹細川たかしで有名な「矢切の渡し」はもともと船村さんがちあきさんのためにつくった曲だった)が、1992年以来活動を停止しているちあきさんに手荒い言葉で復帰を呼びかけたのも、彼女の歌がいかにかけがえのないものと思われているかがわかって感動的だった。

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2007年2月12日(月)

2007_02_12due_italian今日のラーメン:「イタリア麺塩(780円)」@川崎『らぁ麺トラットリア Due Italian
『ガチンコらーめん道』出身の『Ramen Strada』が、ラーメンとイタリア料理の店として生まれ変わった。「支那そば」というメニューもあり、基本的には『支那そばや』の味を受け継いでいる。たっぷり入ったタマネギで味が薄まることもない力強いスープ。麺はふるふるとした食感でどうもコシが定まらない感じ・・・★★★+

Tonarimachi_sensou_1109シネマズ川崎で映画『となり町戦争』(渡辺謙作監督、2006)を見た。静かに進行する町と町の戦争に実感のないままに巻き込まれていく若者を描いた三崎亜記の原作は、先月この日記で紹介したばかり。映画は原作のとらえどころのなさを生かしながらも、コメディ色の強い前半をはじめとして、娯楽映画として楽しめるように脚色が加えられている。「となり町戦争推進室」の女性職員=香西さんを演じるのは、原田知世。見る前から予想していた通り、これがはまり役!しばらくはテレビで原田知世を見るたびに、「香西さん・・・」と呟いてしまいそうだ。一方、パンフレットのインタビューで監督自身認めているように、江口洋介演じる主人公=北原は原作とはずいぶん印象が違う。原作の北原は一歩距離を置いて観察し、考えるタイプの人間だったのに対し、映画では戸惑いながらも行動する人になっている。おそらくこのこととも関係があるのだろうが、北原と周囲の人間との距離も原作よりずっと近い。原作では北原の職場の人間は、海外での戦闘経験を持つ主任以外ほとんど登場しないのに対し、映画では存在感のある脇役としてストーリー上の重要な役割を果たしている。主任にしても、原作ではとなり町の傭兵となったことが推察されるだけだが、映画では実際に戦場で北原と出会う。そのため、何かすごく深刻なことが起きているのに手を触れることができない、もどかしい感じは原作に比べて少ない。それを補うためか、戦争とは何なのかといった直接的な言葉が登場人物の口から語られるのは、ちょっと興ざめな感じがした。こうした原作とのずれは、クライマックスとも言えるラスト・シーンをまったく違うものにしてしまう。原作では間接的にしか戦争を感じることのできない自分と、戦争に人生を抉り取られてしまった香西さんの間の距離を前にして、北原は言葉を失うのだが、映画では香西さんの直面する現実のえげつなさが少し薄められていることもあって、北原は香西さんを抱きしめる。完全にめでたしめでたしとはならないものの、こういう条件つきのハッピーエンドはぼくを含む原作の読者が潜在的に望んでいたものといえるかもしれない。その分、原作の何ともいえない苦さ、やりきれなさは失われてしまった。「娯楽映画として楽しめるように」と書いたのはこのことでもある。とは言え、原作と比べなければ、けっこう面白い映画だと思う。何よりも、香西さんに会えたのがうれしい。

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2007年1月21日(日)

2007_01_21genraku今日のラーメン:「元ラーメン(醤油味)(650円)」@東銀座『らーめん 銀座元楽
背油の浮いたスープはかなり甘い。とはいえ、不自然な甘さではないので悪い感じはしない。一口目はちょっとくどいかと思ったのだけれど、煮干のだしがきいているせいかけっこう飽きがこない。太目の縮れ麺もいい感じ。味が濃いので多目のネギも良く合っている・・・★★★+

Hodou東京国立近代美術館フィルムセンターで、映画『鋪道の囁き』(鈴木傳明監督、1936年撮影、1946年公開)を見た。フィルムセンターでは1月5日から2月4日まで、日本の歌謡・ミュージカル映画を特集している。『鋪道の囁き』は日本タップダンスの草分け=中川三郎と、日系アメリカ人ジャズ歌手=ベティ稲田主演のミュージカル映画。1936年に製作されながら公開は戦後となり、1996年にアメリカで発見されるまでフィルムは行方不明とされていた幻の作品である。

日系アメリカ人の歌姫として鳴り物入りで来日したジャズ歌手=ベティ吉田(ベティ稲田)は悪徳興行師=栗田に騙され、身包みはがされて路頭に迷うことに。無銭飲食でミルクホールからたたき出されたところを、貧しいミュージシャン/タップダンサー=沖(中川三郎)に救われる。沖のアパートに転がり込んだベティは、そこで美しい日本女性=初恵に出会う。初恵は、アメリカの友人に頼まれてベティのことを気にかけていた新聞記者=佐竹の妹だった。佐竹は沖のバンドとベティの歌を結びつけて売り出すことを思いつき、資金ぐりに奔走する。ところが、初恵が沖に恋していることを知り、身を引くべきであると考えたベティは演奏会の直前に姿を消す。そんななか、佐竹が車にはねられ入院。佐竹の弟分のカメラマン=磯谷がベティを発見し、演奏会に連れていく。ベティの歌と沖のタップで演奏会は大成功。レコード契約も約束される。そのころ、佐竹は初恵に「沖のことはあきらめて、磯谷と一緒になれ」と言い残して息を引きとる。演奏会の後、佐竹の墓に参る一同・・・Fin

まあ、いかにもよくある話だし、ご都合主義的な展開であることは否定できない。でも、中川三郎のタップダンスは想像以上に激しく華麗。ベティ稲田のかわいらしい歌もあいまって、見ていてすごく楽しい。中川氏は今ならジャニーズ系とでも言うべき紅顔の美少年。思い悩むベティに「どうしたの?」と聞くところなど、甘く囁くような声に男のぼくですらゾクゾクした。中川氏のことは『舶来音楽芸能史 ジャズで踊って』という本で知ったのだが、タップダンスの草分けであっただけではなく数々のレヴューを演出したオオモノという印象を持っていたので、アイドル然とした佇まいに少し驚いた。1916年生まれの中川氏は撮影当時19-20歳だったのだから、当たり前といえば当たり前なのだけれど・・・磯谷役の俳優(関時男?)をはじめとする脇役陣のコメディアンぶりも愉快。カットのつなぎ方がえらく唐突でフィルムの欠損があるのでは?と疑ってしまうほどだが、それはそれとしてエンターテインメント的要素がもりだくさんの楽しい映画だった。

久しぶりに渋谷でなげやりくんと飲んだ。ウィ~

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2007年1月7日(日)

2007_01_07rasuta今日のラーメン:「らすた麺(600円)」@日吉『らすた
ちょっと酸味のあるスープが他の家系とは一線を画す。『吉村家』のパンチの効いた醤油ダレとは違うが、これはこれで個性的。やや縮れた麺も色が濃く、ぱっと見ただけで他の家系とは違うことがわかる(製麺所も違うらしい)。コシも強く、ぼくはかなり好きなタイプだ。全体としてかなり好印象・・・★★★★

季節柄、ニュースなどでラーメンの特集を見ることが多くなったが、新橋の『ゆらり』という店で食べられる「いのししラーメン」が気になっている。一人で行ってラーメンだけ食べてくるような店ではないらしい・・・だれかいっしょに飲みに行ってくれる人、募集。

00618r_1Oscar Micheaux and His Circle: African American Filmmaking and Race Cinema of the Silent Era(Pearl Bower et al. ed. Bloomington: Indiana UP, 2001)という本に、Gloria J. Gibsonという人の書いた"Cinematic Foremother: Zora Neale Hurston and Eloyce King Patrick Gist"という文章が載っていたので読んでみた。オスカー・ミショースペンサー・ウィリアムズなど黒人映画のパイオニアについて調べているうちに、思いがけずハーストンに戻ってきてしまった。ゾラ・ニール・ハーストンはぼくの研究の出発点とも言える黒人女性作家である。民俗学者でもあった彼女がフィールドワークの対象をフィルムに収めていたということは知っていたが、まさかこんなところでひょっこり出くわすとは思わなかった。もちろん彼女が撮ったのは十数分ほどのスケッチばかりで、とても映画と呼べるようなものではない。しかし、著者はハーストンのフィルムを、エロイース・ギストが夫と製作した2本の宗教映画と共に黒人(女性)映画の萌芽として捉えようとしている。

米南部でフィールドワークをはじめたとき、ハーストンはパトロンのシャルロット・オスグッド・メイソンに必要経費に加えて映画用のカメラと車の提供を求めた。ハーストンはフィルムが調査に必要不可欠であると考えていたのだ。理由のひとつは彼女が収集することになっていた南部黒人のフォークロア(口承文化)が、身体の動きと切っても切れない関係にあるからだろう。例えば、日本でいうところのカゴメカゴメのような子供の遊びは、言葉だけ書きとめてもその全貌を捉えることはできない。かといって、言葉で動きを描写するのにも限界がある。ハーストンは(サイレント)フィルムやレコーダーを使って、そうした点を補おうとしたのだろう。南部黒人のフォークロアにおいてからだの動きが重要な意味を持つのは、ひとつには「何をやるかだけではなく、どのようにやるか」(207)ということに重点が置かれているからである。子供たちの遊びの場合、ゲーム形式のものですら、結果としての勝ち負けだけが問題なわけではない。「パフォーマンスのスタイル―どのようにダンスが行われ、リズムの複雑さはどうか―が評価する当たって考慮すべき点となる。(中略)ひとつのゲームはもっぱらパフォーマンス指向である。ひとりの男の子が複雑なステップを踊ると、他の子供たちが彼を取り囲み、手を叩いて彼を励ますといったように」(208)。こうした決まりごとのなかで、ひとつのパフォーマンスを共有することによって、彼らはコミュニケーションを図っているのだ。ここではゲームの勝ち負けとか、歌われている歌詞の内容とかいったことは実はそれほど重要ではない。同じ行為を共有するということこそが、お互いの存在を確かめ合う手段として大切なのだ。ぼくはこうしたコミュニケーションのことをハーストンがテーマの修士論文で「非伝達的コミュニケーション」として論じたのだが、その場の空気をヴァーチャルに再現するフィルムは、まさにそうした「非伝達コミュニケーション」がどのように行われているかを記録する恰好のメディアであるとハーストンは考えたのだろう。ちなみに問題のフィルムは米国会図書館に収蔵されているが、複製はしてくれないらしい。行くしかないか・・・(写真右はフィルムをもとにした写真。4コマ目がハーストン。同じく米国会図書館所蔵)。

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2007年1月6日(土)

2007_01_06ippudo今日のラーメン:「赤丸新味+辛肉味噌(850+200円)」@横浜『一風堂』横浜ポルタ店
洗練された博多ラーメンの先駆けとも言えるお店。端正な美少年のような軽やかなスープ。普段は「白丸元味」を頼むのだが、今日はあえて「赤丸新味」で。麺はもちろん「ばりかた」。マー油のきいたパンチのあるスープに、徐々に辛肉味噌を加え、変化を楽しむ。美味い・・・★★★★

Heavens_doorスペンサー・ウィリアムズ監督の映画Go Down Death (1944)を見た。ジェイムズ・ウェルドン・ジョンソンが書いた同タイトルの詩にインスパイアされたサム・エルジェイの脚本に基づいてつくられた宗教映画。酒場の経営者=ジム(スペンサー・ウィリアムズ)は新しい牧師が日曜の営業を禁止しようとしていることを知り、牧師を陥れようと画策する。酒場の女たちを牧師に接近させ、牧師が女たちと酒を飲んだり、キスをしたりしているように見える写真を撮ることに成功する。それを見ていた教会の敬虔な信徒で、ジムの育ての親=キャロラインはジムを強く叱責するが、ジムは聞く耳を持たない。ジムの留守中、思い悩んだキャロラインのもとに亡き夫の亡霊が現れ、ジムが写真を隠した金庫を開ける。キャロラインは問題の写真を手に入れるが、帰宅したジムに見つかってしまう。写真を取り返そうとしたジムはキャロラインを投げとばし、頭を打ったキャロラインは牧師たちに見守られながら死んでしまう。教会でキャロラインの葬儀が行われ、牧師がジェイムズ・ウェルドン・ジョンソンの「死よ、行け」を朗読する(この詩自体、黒人牧師の説教を模しており、この場面も詩の朗読と言うより牧師の説教と理解することができる)。牧師と会衆の映像に、天国の扉が開かれるイメージ(写真左)や白馬に乗った「死」がかけつけるイメージがはさみ込まれる。式が終わって教会の外に出たジムは、彼の殺人を責める声を聞く。声から逃れようと駆けまわっているうちに荒野に迷いこんだジムはそこで、冥界の扉が開かれるのを見る。人を食う悪魔が現れ(写真下)、地獄の恐ろしい光景が次々とくり広げられる。罪の意識に押しつぶされてジムは精神に破綻をきたす。

昨日紹介したDirty Gertie from Harlem USAや、The Blood of Jesusのようにヴードゥーを思わせるようなシーンがあるわけではないが、宗教映画にもかかわらず酒場の様子がやけに生きいきと描かれている点は同じ。もちろん、黒人の人たちが土曜日は酒場ですごして日曜には教会に行っていた、といった話を知らないわけではない。酒場も教会もアフロ・アメリカン文化の一側面なのだ。でも、この映画の牧師やDirty Gertieのミスター・クリスチャンのような人間と、酒場を根城とするガーティ・ラルーやジムのような人間が簡単に和解できるわけでもない。ミュージシャンから録音技師を経て、スタッフとして映画の世界に入ったウィリアムズ自身、酒場=悪魔の世界と無縁ではなかったはずである。それだけに放蕩に対する罪の意識も強かったのかもしれない(ロバート・ジョンソンがそうであったように)。ジムにしてもガーティ・ラルーにしても、放蕩者は無残な最後を迎えるのだが、その前に超自然的な力が彼らの未来を予言している。ウィリアムズはヴードゥーや霊のような超自然的な力(それはコジツケればアフリカの多神教的な神に結びつけることができるかもしれない)に、キリスト教的な「善」と放蕩者の「悪」(それが本当に「悪」なのかどうかはさておき)を結びつける可能性を見出していたのかもしれない。それにしても、このイメージの生々しさはどうだ。ロバート・ジョンソンや他のブルース・マンが、放蕩の末に何を恐れていたのか多少なりとも理解することができたような気がする。
Devil


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2007年1月5日(金)

2007_01_05yoshimuraya今日のラーメン:「ラーメン+野菜畑(590+30円)」@横浜『吉村家
今年初の家系総本山。他の家系に比べて醤油ダレの味が濃厚で、まさに「とんこつ醤油」の名前にふさわしい。昆布の旨みや鶏油の風味の絶妙なバランスには繊細さも。柔らかいのに噛みごたえのあるチャーシューも最高。「野菜畑」のせいで最後にスープが冷めてしまったのが残念・・・★★★★

Gertie_welcomedスペンサー・ウィリアムズ監督の映画Dirty Gertie from Harlem, USA (1946)を見た。リニダード島(トリニダードがモデルか?)のパラダイス・ホテルでは、旅回りの劇団を迎える準備で沸きかえっている。音楽にのって劇団が到着し、一座のスター=ガーティ・ラルーは人々の歓迎を受ける(写真右)。ホテルのオーナーであるダイアモンド・ジョーはガーティと劇団のメンバーに最高の部屋を割り当てるように命じ、ガーティと彼女の相談役であるステラは個室に案内される。大部屋を割り当てられたコーラス・ガールたちは、ガーティに酷い仕打ちをされたハーレムの男=アルの噂話をしている。一方、フロントにはミスター・クリスチャンとその助手エズラが到着。劇団のせいで部屋がひとつしか残っていないことに腹を立てている。ステラが止めるのも聞かず外出することにしたガーティは、クリスチャンたちとすれ違う。ガーティが淑女扱いされるのに我慢がならないクリスチャンは、ガーティをジェゼベル呼ばわりする。ガーティはホテルの外で彼女に会いたがっていた水兵タイト・パンツ、兵士ビッグ・ボーイと知りあい、彼らを引きつれて町へくり出す。ダイアモンド・ジョーはクラブのピアニスト=ラリーに劇団のショーのために演奏するよう命じる。ガーティの写真を見せられたラリーは、どこかで彼女に会ったことがあるような気がしてならない。そこへ、ガーティが二人の男と共に現れる。ジョーはガーティをオフィスに呼び寄せ、ダイアモンドのネックレスをプレゼントする。ジョーが愛を告白しようとしたとき、ガーティはラリーの弾く奇妙なメロディを聞く。どこかで聞いたことのあるメロディが、彼女の不安をかきたてる(のちにそれはラリーの友だち[=おそらくアル]が彼を酷い目に合わせた女について書いた歌だとわかる)。ガーティが二人の男と遊び歩いているのを見たエズラは、クリスチャンに報告する。クリスチャンはガーティが彼の忠告を聞かなかったら、知事に訴えて劇団を島から追い出そうと決意する。ホテルのロビーでガーティたちが帰ってくるのを待つクリスチャン。午前4時半になってやっと帰ってきたガーティは二人の男と別れのキスをし、アルの幻影に悪態をつくが、話をしようと暗がりから現れたクリスチャンに驚いて気を失う。気がついたガーティにクリスチャンは信仰の道を説くが、彼女は聞く耳を持たない。クリスチャンはいよいよショーを妨害する決意を固める。神のお告げを受けて、何が罪深いのかをはっきりさせるため(←ほんと?ニヤニヤ)ショーを見に行くことにしたクリスチャンだが、エズラにはショーを見ることを許さない。彼はジョーに会い、ショーを中止するよう説得する。ジョーはリハーサルでショーの決行を宣言し、ガーティにダイヤの指輪をプレゼントする。部屋に戻ったガーティは何人もの男が自分に言い寄ってくると有頂天になっている。ステラはアルやクリスチャンのことがトラブルになるかもしれないから、ヴードゥーの女祭司に相談したほうがいいと勧める。ガーティは女祭司=オールド・ヘイガー(←スペンサー・ウィリアムズ自身が演じている)の小屋に行き、「男が見える。彼はお前に怒っている。お前を追ってくるようだ。血が見える」と不吉な予言を受ける(写真下)。複雑な表情のクリスチャンが舞台袖から見つめるなか、ショーが始まる。ガーティが登場し官能的なしぐさで手袋を脱いだとき、クリスチャンが飛び出しショーを中止させる。混乱のなか部屋に戻ったガーティは、ブルースのレコードをかける。気持ちが落ち着かずレコードを消し、鏡に向かったとき、窓から男が入ってくる。アルだ。アルはガーティの懇願に耳を貸さず、彼女を撃ち殺す。警官と部屋に踏み込んできたステラに「なぜ、そんなことをしたの?」と聞かれて、アルは「愛しているから殺したんだ」と答える。

同じ年に発表された作品にもかかわらず、以前の日記で紹介したThe Girl In Room 20よりもはるかに完成度の高い作品だ。正体がわからないまま登場人物の会話にだけ現れる「アル」が、見るものに不吉な緊迫感を与える。宗教映画を3本も撮っている監督の作品とは思えないくらい、敬虔なミスター・クリスチャンが笑いものにされている。舞台袖からショーを見るクリスチャンをエズラが後ろからニヤニヤ眺めているところなど、けっこう笑える。悪女であるガーティは最後に報いを受けることになるわけで、教訓的な映画とは言えるかもしれない。しかし、真実を言い当てていたのはキリスト教ではなく、ヴードゥーの占いのほうなのだ。そう言えば、同じ監督の宗教映画The Blood of Jesusも宗教的なイメージとジューク・ジョイント(安酒場)のドンちゃん騒ぎが交錯する不思議な魅力のある映画だった。テーマはやはり堕落した女の更正という教訓的なものなのだが、悪魔の棲家であるはずのジューク・ジョイントがやけに生きいきと描かれているのだ。キリストが現れるのがクロスロードだったりするのも怪しかった。どうも、ウィリアムズにとって信仰とは単純に敬虔なクリスチャンのそれではないようだ。彼の信仰の対象は、キリストの姿をとってはいても、実は清も濁も飲みこんだアフリカの多神教的な神なのではないか。混合宗教であるヴードゥーがカトリックの聖人を隠れ蓑にしてアフリカの神を崇めていたように・・・とにかく、衝撃的な内容だった。
Gertie_hager

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2006年12月4日(月)

2006_12_04kagetsu今日のラーメン:「道頓堀ラーメン(650円)」@天王町『げんこつらーめん花月・寅』天王町店 次々に季節限定ラーメンを出す『花月』だが、そのうちのいくつかは有名店のパクリである。「道頓堀ラーメン」ってどこからどう見ても、『どうとんぼり神座』じゃないか!「三度食べればやみつき」っていうキャッチフレーズまでそっくり同じ・・・これはアンマリだ。他にも『二郎』そっくりの「ラーメン太郎」なんてのもある。味以前の問題・・・★★

Bronze_buckarooオール黒人キャストの西部劇映画The Bronze Buckaroo(リチャード・C・カーン監督、1939)を見た。白人の映画監督・作家・プロデューサーのリチャード・C・カーンは、30年代に黒人向けの娯楽映画を5本製作している。そのうちの4本が何と、オール黒人キャストの西部劇である。黒人のカウボーイ("buckaroo"っていうのはカウボーイのこと)っていうのは実際に何人かいたみたいだけど、黒人ばかりの西部なんてありえない・・・完全に虚構の世界だ。逆に言えば、そうした人種隔離された虚構の世界だけに、白人の視線を気にせずにヒーローを演じることができたのだろう。主演のハーバート・ジェフリーデューク・エリントン楽団でも活躍したことのある歌手。背筋のピンとのびた色男で、アクションもかっこいい。当時、こういうパーフェクトな黒人の姿を白人の目にさらすことはできなかったはずだ。先月20日の日記で紹介したスペンサー・ウィリアムズが俳優として出演するだけではなく、脚本や監督などの面でもアイディアを出しているらしい。

友人ジョー・ジャクソンの農場にやってきたボブ・ブレイク(ハーバート・ジェフリー)と仲間たち。ところが、ジョーの姿が見えない。ジョーの美しい妹ベティによると、数日前から行方がわからないという。ボブはベティのためにジョーを探しはじめる。やがて、近隣の農場主で酒場のオーナーでもあるバック・ソーンズが、ならず者たちに命じてジョーを誘拐させたことが明らかになる。ジョーの農場を狙っているソーンズは、無理やり契約書にサインさせようとしていたのだ。一方、ボブの弟分ダスティはジョーの農場で働くスリムの腹話術にだまされて、「人の言葉を話す」ラバを120ドルで買うはめに(物語はジョーを救出するボブの大立ち回りと、ダスティの道化を二本の柱にしてすすんでいく)。ボブはジョーの監禁現場にのりこむが、頭を殴られ失神。ならず者たちを取りのがす。そのころ、ジョーが怪我をしていると言われてついていったベティは、まんまとならず者たちに捕らえられてしまう。ジョーの顔に焼きごてが押しつけられそうになるのを見て契約書にサインをするベティ。ならず者たちがジョーを脅迫するため、ベティの顔に焼きごてを近づけたとき、ボブと仲間たちが現れる・・・が、すぐにならず者たちに捕まってしまう。しかし、機転を利かせたスリムが腹話術で助けが来たように思いこませ、銃撃戦の末、ならず者たちを倒す。最後にスリムの部屋で腹話術の本を見てからくりに気づいていたダスティが、詩を朗読できるラバがいるか賭けてスリムから金を奪い返す。

ストーリーは西部劇によくあるパターンといっていいだろう。雄大な西部の自然をバックにくり広げられる銃撃戦なんかは、それだけで映像として迫力がある。ハーバート・ジェフリーもさることながら、ダスティを演じるルシアス・ブルックスの道化ぶりが見事だ。これもまた、典型的なステレオタイプとして黒人中産階級には嫌われたのかもしれないが、ぼくなんかが見るとミンストレルのような卑屈なワザトラシサないので素直に笑える。もちろん、ミンストレル的なものと無縁なわけではなくて、スペンサー・ウィリアムズ演じるならず者に強制されて煙草を口いっぱいにほおばる姿(写真下)なんかは、大口を売り物にした黒人ヴォードビリアン=ビリー・カーサンズの芸を思い起こさせる。この頃、黒人向けの娯楽映画がたくさん撮られている(その多くは白人監督によるもの)が、一体どんな映画館で、どのくらいの料金で、どんな人たちに向けて上映していたのか・・・わからないことが多い。ただ、この時期の映画は明らかに貧しい人たちのためのものだった。おそらく、貧しい黒人の人たちもこの映画を見てゲラゲラ笑ったのではないだろうか。
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2006年11月23日(木)

2006_11_23kookai今日のラーメン:「特製つけ麺【醤油】(880円)」@天王町『麺屋 空海』天王町店
コシのある幅広の平打ち麺が自慢のつけ麺。今日は9月に食べた「とんこつ魚介」ではなく、醤油味で。やや甘めのスープは「とんこつ魚介」ほどのインパクトはないが、標準以上の美味さ。ラーメンのスープよりも魚系の味が強く感じられ、油も少なめ。何しろ、麺が美味いので、ズルズル一気に食べてしまう。スープ割りもグー・・・★★★★

Harlem_is_heaven
ビル・ロビンソン主演の映画Harlem Is Heaven(アーウィン・フランクリン監督、1932)を見た。ビル・"ボージャングルズ"・ロビンソンは1920~30年代に活躍した黒人タップダンサー。1878年生まれのロビンソンは7歳の頃からプロのダンサーとして活動をはじめ、旅回りの一座と全国を巡業し、ナイトクラブやミュージカル・コメディのステージなどで名声を確立した。しかし、その名前が白人にも知られるようになったのは1928年、白人興行主ルー・レズリーが白人聴衆向けに企画した黒人レヴュー『ブラックバーズ』に出演してからのこと。当時、ロビンAnise
ソンはすでに50歳だった。30年代になると、ロビンソンはその卓越したタップの腕前と、紳士的な物腰を売り物に多くの映画に出演することになる。なかでも有名なのは名子役シャーリー・テンプルの相手役(1 2 3 4 5 6 7 8)だが、アフロ・アメリカンの文化に興味のある人なら当時の黒人スター総出演の映画『ストーミー・ウェザー』(1943、ロビンソン出演シーン1 2)をあげるところだろう(もっとも、60代のロビンソンがレナ・ホーンの相手役というのはどう考えても無理があるが)。『ハーレム・イズ・ヘヴン』は、ロビンソン初の主演作・・・ダンサーとして成功することを夢見てハーレムにやってきた田舎娘ジーン。大物興行主マネー・ジョンソンに拾われて、劇団に参加する。そこで劇団のスターであるダンサーのビル(ロビンソン)、新米劇団員のチャミーと知り合う。ビルもチャミーも天真爛漫なジーンの魅力にすっかり夢中になってしまう。ところが、ジョンソンの目的はジーンを自分のものにすることにあった。そのことを察したビルはジーンに関係を迫るジョンソンを殴りたおし、ジーンのために新しい劇団を設立する。それほどジーンのことを愛していたビルだが、彼女とチャミーが愛し合っていることを知り身を引く・・・ま、よくあるお話なんだけど、何しろジーン役のアニス・ボイヤーがすごくカワイらしいので最後まで引きこまれてしまう(萌え~)。ちょっと気が強そうなところがたまらない。もちろん、ロビンソンのダンスも素晴らしいけど、ボイヤーのキュートな魅力に持っていかれちゃった感じは否めない。でも、この人、この一本しか出演していないんだよなぁ・・・惜しい・・・ちなみに音楽はユービー・ブレイク楽団が担当している。

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2006年11月20日(月)

2006_11_20kookai今日のラーメン:「わんたんそば・醤油(880円)」@天王町『麺屋 空海』天王町店
今日はワンタンメンを試してみた。特製の海老ワンタンはぷりぷりしていて美味い。しかも、3つも入っている。醤油ラーメンは味がやや甘めなので、淡白なワンタンの味にあっていると思う。いつもの炙りチャーシューも入っているので、なかなかのボリューム。これなら880円でも安い。ラーメンが800円と言うことはワンタンは80円?・・・★★★★

Spencer_williams2スペンサー・ウィリアムズ監督の映画Girls in Room 20 (1946)を見た。スペンサー・ウィリアムズ(写真右)は黒人映画創生期に活躍した監督・俳優のひとり。40年代に3本の宗教映画と8本の劇映画を監督している。俳優としては、自身の監督作品の多くに出演したほか、『エイモス・ン・アンディ』のテレビ・シリーズでアンディ役を務めたことでも知られている。この作品にも主人公の田舎娘デイジーを助けるタクシー運転手ジョー・フィリップスとして出演。1893年生まれのウィリアムズは当時すでに50代。シロウト同然の他の出演者とは比較にならない余裕の演技を見せる。

テキサスの静かな田舎町。黒人中産階級の家庭に育った娘=デイジー・ウォーカーは、家族と恋人=ダンバー・ハミルトンに囲まれて、別れの歌を歌っている。音楽の教育を受けてきたデイジーは、歌手として成功することを夢見てニュー・ヨークに旅立とうとしている。ダンバーは本心ではデイジーを引きとめたいが、黙って彼女を送り出す・・・ニュー・ヨークに着いたデイジーはグランド・セントラル駅でタクシーを拾い、母親の友人宅に向かう。教えられた住所には「メイミーズ・プレイス」と書かれている。それを読んで売春宿だと気づいた運転手=ジョー・フィリップスは、デイジーに入らないよう忠告する。ジョーの忠告を無視して扉をノックするデイジー。出てきた売春宿の女主人に、母親の友人がカリフォルニアに引っ越したことを知らされる。女主人に招き入れられ、あやうく売春宿で働かされそうになったデイジーだが、寸でのところでジョーに救われる。ジョーに紹介されたホテルに部屋(20号室)を取ったデイジーは、そこである楽団のメンバーと知り合う。彼らは次週コンゴ・クラブに出演することになっており、デイジーに歌が歌えることを知って彼女をメンバーに迎えいれる。一方、自分の娘と同じ年頃のデイジーを、ジョーは何かにつけ気にかけている。出演は成功し、クラブの経営者=アーノルド・リチャードソンは楽団をパーティに招待するが、彼の目的はデイジーにあった。アーノルドの甘いトークにすっかり夢中になるデイジー。そんなデイジーを心配したジョーはテキサスからダンバーを呼び寄せる。ダンバーとジョーがデイジーの部屋を訪れると、まさにアーノルドがデイジーに関係を迫っているところだった(写真下)。扉を蹴破って入った部屋で、ダンバーとアーノルドが殴りあう。それを静かに見守るジョー(写真上)。ところが、ジョーの背後から銃を持ったアーノルドの妻が現れ、夫と間違えてデイジーを撃ってしまう。デイジーは病院に運ばれ、楽団員からのカンパもあって一命を取りとめる。退院したデイジーを囲むパーティーで、楽団の資金不足が明らかになる。ダンバーは資金を出すことを申し出、デイジーと楽団をテキサスへ連れ帰る。

正直、ストーリーはお約束通りだし、展開もたるい。ウィリアムズ以外の役者はセリフも棒読みに近い(録音の問題で大声で話さなければならないということもあったのかもしれないが)。カメラワークも単調。限られた予算で作られたことを差し引いても、今楽しんで見ることのできる作品とは言いがたい。同じ監督の映画でも、宗教映画の『ブラッド・オヴ・ジーザス』(1941)は宗教的なイメージと賑やかな酒場を行き来する不思議な魅力のある映画だったし、娯楽映画『ジューク・ジョイント』(1947)はテンポのよい軽妙なコメディで、それなりに魅力的だった。この映画は宗教映画をつくっていたウィリアムズが、娯楽映画への路線転換を図った過渡期の作品なのかもしれない。それでも、アーノルドがデイジーに関係を迫るシーンとか、ダンバーとアーノルドが殴りあうシーンなんかは、当時としてはかなりのインパクトを持っていたんじゃないかと思う。どんな観客が、どんな興味で見ていたのか気になるところ。また、他の作品でもそうだけど、ウィリアムズ自身の演技がすごくいい。デイジーを見守るジョーの優しさを表情ひとつで表現している。このときと比べて、(人種的ステレオタイプの代名詞と言われる)『エイモス・ン・アンディ』での演技がどうなのか、検証しなくちゃ。
Cap023

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2006年11月19日(日)

2006_11_19kookai今日のラーメン:「鳥そば・塩(830円)」@天王町『麺屋 空海』天王町
スープ、麺などは基本メニュー=「支那そば」と変わらないと思うが、チャーシューの代わりにラーメンのスープで柔らかく煮込んだ鶏肉がのる。これが、美味い。ラーメンにのせる前にちょっと炙っているようだ。チャーシューも美味いのだが、淡白な鶏肉のほうがこのスープにはあっているようにも思える・・・★★★★

Black_caesar映画『ブラック・シーザー』(Black Caesar、ラリー・コーエン監督、1973)を見た。1952年、ニューヨーク。黒人少年トミー・ギブズは小銭欲しさにギャングに雇われて、暗殺の手助けをする。さらに、悪徳警官にギャングの金を渡しにいくが、金をくすねたと疑われ、ボコボコに殴られたあげく刑務所行きとなる。十数年後、出所したトミーは裏切り者を暗殺することによってイタリア・マフィアに取り入り、百二十七番街を任せられる。苛められっコの秀才だったジョーや、今や牧師になった幼馴染のルーファスらと徒党を組み、金と暴力で町を支配していく。白人弁護士コールマンと組んだトミーは、不正の証拠となる帳簿を手に入れて悪徳警官=マッキンリーを支配下に置く。やがて、イタリア・マフィアを町から追い出したトミーは名実共に街の支配者へと登りつめる。だが、そんな姿に母親は悲しみ、恋人のヘレンは恐怖と憎悪を感じている。

そんなトミーのところに、彼と母親を見捨てた父親がひょっこり現れる。母親につらい生活を強いた父親を目の前にして思わず射殺しそうになるが、すんでのところで思いとどまる。その直後、愛する母親が亡くなり、墓地に姿を見せた父親に「いっしょに暮らそう」と語りかけるが、「ムリだ」と断られる。マフィアとの抗争を避けるためにヘレンをつれて西海岸でレコード会社をはじめるようジョーに命じるが、ヘレンはそこでジョーと結ばれてしまう。ヘレンの浮気を知ったトミーは西海岸にのりこんでジョーを殴り倒すが、ジョーは金のことしか考えていないトミーを「白い黒人」と罵り、二人は袂を分かつ。そのころ、コールマンとマッキンリーが共謀して、トミーを陥れる計画を実行に移しはじめている。ヘレンを利用して帳簿と金を盗み出した二人は、トミーの側近を次々と暗殺していく。トミーも街中で腹を撃たれるが、重傷を負いながらもルーファスの元を訪れ、自分の代わりに自宅へ行って帳簿と金を取ってくるように頼む(どちらもすでに盗まれているのだが)。ところが、取り乱したルーファスは神に祈るばかり。トミーはジョーに電話して、いっしょにコールマンのオフィスに来てくれるように頼む。かつての確執を忘れ、ヘレンの制止も聞かずにコールマンのオフィスに向かったジョーは、マッキンリーに殺されてしまう。一方、遅れてオフィスに到着したトミーは、コールマンが殺されているのを発見する。マッキンリーが現れ、トミーはマッキンリーと対決する。マッキンリーの顔に靴墨を塗り、「マミー」(黒塗りの芸人=アル・ジョルソンの十八番)を歌ってみろと罵るトミー。かつて自分を殴りつけた悪徳警官の顔を、血だらけになるほど殴りつける。帳簿を取り戻して逃げる途中、エレベーターでジョーの死体を見つける。オフィスを後にして廃墟そばの空き地に逃げ込んだトミーだが、そこで黒人の不良少年グループに襲われ・・・

ブラックスプロイテーションのご多分にもれず、この映画も最後は逃亡シーンで終わる。しかし、そこまでの展開は常に追われる側だった黒人が白人にひと泡吹かせているという点で、この種の映画のなかでも抜きんでた印象を残す。一時的とは言え白人の権力や金を手にしたトミーは、かつて自分たち黒人に向けられた侮蔑的な言葉を白人たちに投げ返していく。黒人の観客はこうしたシーンを見て、さぞかし溜飲を下げたことだろう。では、それだけでいいのか?コミュニティを支えてきた親や友人や恋人はそれを望んでいるのか?暴力の連鎖は白人に対してだけではなく、コミュニティ内部で働くものなのではないか?(黒人の不良少年グループに襲われるラスト・シーンはまさにそのことを示している)・・・そうした苦い質問を投げかける映画でもあると思う。そして、ここにもミンストレルが・・・

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2006年11月17日(金)

2006_11_17chabuton今日のラーメン:「カラカラ味噌ラーメン(830円)」@横浜『CHABUTON』ヨドバシYokohama店 白濁した豚骨スープに味噌を加えた「トンコツ味噌」と聞くと、いまだにゲテモノ的なイメージを持ってしまう。だが、ここのはさすがに洗練されている。挽肉と揚げネギを辛味噌であえた「カラカラ」を加えたせいか、不思議な酸味があってそれがスープをひとつにまとめている。とは言え、味噌なんだか、豚骨なんだか、担々麺なんだか・・・★★★+

Chaplin_sainyumon大野裕之『チャップリン再入門』(NHK出版/生活人新書、2005)を読み終わった。チャップリンが好きだ。中学生のころは、あの独特の歩き方やしぐさを真似するくらい、チャップリンにイカレていた。特に『チャップリンのサーカス』(1928)は大好きで、何度もくり返し見た。笑って笑って笑って泣いてしまう。最近やっと、サーカスに取り残されて深いため息をついたチャーリーが、ヒョコヒョコと歩き出すラスト・シーンを見ても大泣きしなくなった(と言いながら、思い出しただけでもう少しウルウルきている)。ひらげは基本的におセンチな人間なので、チャップリンのロマンティシズムにコロリとやられてしまうのだ。

大野さんは日本におけるチャップリン研究の第一人者。チャップリンの公開作品をすべて押さえているのはもちろんのこと、英国映画協会に保管されているNGフィルムのすべて、さらにはチャーリーの兄シドニー所有の『独裁者』メイキング・フィルムまで見ている。NGフィルムを撮影順に追いながら、(特に初期の)チャップリンが当時としては異例とも言えるほどの長い時間をかけて撮影した膨大なフィルムを、厳しい自己検閲のもとに取捨選択して、完成度の高いコメディをつくりあげていく過程を明らかにした第二章は特に刺激的だった。ミンストレルをはじめとして人種的ステレオタイプ(ユダヤ人やアイルランド人も含む)をもとにした笑いが定番だった当時のアメリカにありながら、また、ユダヤ人やロマ(ジプシー)をバカにする「帝国の笑い」があたり前だったイギリス大衆演劇出身でありながら、チャップリンの映画に人種的ステレオタイプが出てくることはほとんどない。著者はNGフィルムに映しだされた髭をたくわえたユダヤ人の姿が完成版ではことごとくカットされていることから、チャップリンが意図的に人種的ステレオタイプを排除していたと指摘する。また、初期の短編『移民』(1917)が上流階級のきどったサロンを舞台にしたコメディから出発して、次第にその姿を変え、荒々しい人々が行きかう騒々しい船上を舞台にした移民の物語へと発展していったことを明らかにする(チャップリン自身イギリスからの移民であり、当時アメリカで移民排斥の動きがあったこととも関係している)。チャップリンのヒューマニズムは単に頭で考えたものではなく、アメリカの笑いを表現しようとする試行錯誤から生まれてきたものなのである。

そんな第二章と比べると主に長編作品を扱った三章以降は、「孤独で自由な放浪者チャーリーが、アメリカ資本主義が大規模になるにつれ、大衆のなかに飲み込まれていった」という枠組を意識しすぎている感じ。著者もあとがきで述べているように、チャップリンの多面性が見えにくくなっていることは否めない。論文ではなく入門書なんだから、もっと自由に作品ひとつひとつの魅力を語ってもよかったんじゃないかと思う。個人的には、「放浪者→大衆のひとり」というテーマにも関わらず、『サーカス』の評価が低いというのも納得がいかない。『モダンタイムズ』(1936)の文明批判、『独裁者』(1940)のナチズム批判のような明確なテーマがない分、『サーカス』にはチャップリン映画の核心が生々しく表出している。著者もサーカスをのぞこうとする人々にチャーリーが紛れるシーンに大衆に飲みこまれる放浪者を、「鏡の間」のシーンに出口のわからなくなった巨大な資本主義社会を見出しているが、個々のシーンだけではなく、放浪者の逃亡がサーカスという産業の商品(芸)として取りこまれていく物語自体が、自由を失っていく放浪者というテーマを暗示している。しかも、それは放浪者チャーリーを演じるチャップリン自身の姿でもあるのだ。放浪者の逃亡を演じる放浪者チャーリーを演じる俳優チャーリー・チャップリン・・・こんなこと言っても、映画見てない人にはチンプンカンプンだと思うので、サーカス産業の成立とかもからめていつか文章にしてみたくなってきた。P・T・バーナムミンストレルなんかとも関係するテーマだし。

・・・と、話がずれたけど、何だかんだいって、すごく面白い本でした。新書というフォーマットは著者には小さすぎたのかもしれない。ぼくが書いたようなことは、とっくにわかっているだろうし・・・

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2006年11月13日(月)

2006_11_13debusoba今日のラーメン:「ラーメン(470円)」@大船『でぶそば
渥美清が愛したラーメン。店内に漂う醤油の香りが美味いラーメンの予感をかきたてる。『大勝軒』のようなストレート太麺も悪くはないのだが、食べすすむほどに滋味深く優しいスープが沁みる。スープの吸いあげはそれほどでもないが、麺を食べた後に旨みが広がる。丼はすごく小さい。でも、大盛も520円なので問題ないでしょう・・・★★★★

Across_110th_street映画『110番街交差点』(Across 110th Street、バリー・シアー監督、1972)を見た。ニューヨーク、ハーレム110番街。三人組の黒人が、イタリア・マフィアの拠点を襲撃する。30万ドルが奪われ、マフィアと黒人の手下、警官が殺される。メンツを潰されたイタリア・マフィアは全力で犯人を探しだし、血祭りにあげることを誓う。一方、二人も殉職者を出した警察でも、大学出の黒人警部補ポープとその地域を担当してきた白人警部マテリが中心になって捜査を開始する。人種偏見を顕にし、暴力にものを言わせようとするマテリは、何かにつけ捜査主任のポープと対立する(実は黒人マフィアに買収されているマテリだが、殺された犯人の妻にお金を渡す優しさも持っている)。やがて、黒人マフィア=ドック・ジョンソンの情報網を使ったイタリア・マフィアによって、犯人たちが次々に惨殺されていく。マフィアが最後まで残された主犯格のジム・ハリスを廃屋に追いつめた頃、情報を得たポープやマテリも現場に向かう。そして・・・

ブラックスプロイテーションのテーマは、「逃げる」ことなんじゃないかと思う。その意味では、この作品における犯人たち、とりわけジム・ハリスの逃げっぷりは見事だ。メルヴィン・ヴァン・ピーブルズ『スウィート・スウィート・バック』に匹敵する逃亡劇である。希望があるわけじゃない。現実的な選択としては、マフィアになぶり殺しにされる前に警察に身を任せたほうがいい。それでも、ジムは逃げる。さっきまで優しく抱きしめてくれた恋人が頭を撃ちぬかれてあっけなく死んでしまっても、泣き崩れるでもなく逃げ続けるのだ。死ぬ間際、ジムはビルの屋上から奪った金の入ったバックを投げ落とす。バックの中身を奪いあう黒人の子供たち・・・言わば、ジムは逃亡をビルの下にいる黒人の子供たちに引き渡したのだ・・・と、ここまでネタをばらしちゃっても、まあ、いいでしょう。もっと衝撃的なラストが待っているからね・・・

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2006年11月3日(金)

2006_11_03akanoren今日のラーメン:「らあめん(650円)」@九段下『赤のれん 麺徳
九州ラーメンの老舗『赤のれん』の支店。とろみの強いスープはさすがにパンチがある。いわいる塩豚骨ではなく醤油をあわせているらしいが、水で薄めたような軟弱さは微塵もない。麺は細麺特有のパキパキとした食感に加えて、ぷるんという弾力性もあり、独特の美味さ。チャーシューも薄い割には食べ応えがある・・・★★★★

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センター街は相変わらず・・・

Toure3月に亡くなった西アフリカ・マリのミュージシャン=アリ・ファルカ・トゥーレの活動を追ったDVDドキュメンタリー、A Visit to Ali Farka Touré (マーク・ユーオ監督、2002)を見た。トゥーレは、1939年、マリ北西部の町カナウ生まれ。幼くして父が亡くなり、母親の実家のあるニアフンケに移り、生涯そこを拠点として活動を続けた。マリのライトニン・ホプキンスと言われることもあるトゥーレだが、表紙でギターを抱える姿はライトニンによく似ている。

父親を亡くした後の生活は、辛いことも少なくなかったようだ。饒舌に語られるわけではないのだが、ポロリと漏らす言葉から叔父との確執や、多くの仕事をこなさなければならなかった少年時代のことが伝わってくる。そんな生活が変わりはじめたのは、村のミュージシャンを真似てつくった自作のギターを弾きはじめたときだという。前後して、トゥーレ少年は精神に破綻をきたし、2年間ほど入院生活を送った。退院して家に戻ってきたトゥーレに、霊媒師でもあった祖母は指輪を与えた。トゥーレはそれ以来その指輪をはずしていない。指輪をしていると、直後に亡くなった祖母が常にそばにいてくれるからだ。また、トゥーレ自身、精霊と話をした経験があるという。こうした経験がトゥーレの言葉に謎めいた深さを与えている。トゥーレの言葉の「謎(ミステリー)」は人を煙に巻こうとする小ざかしいトリックではなく、人生の謎そのものだ。

首都バマコまで、徒歩で家畜を売りに行く人々。土壁の建物が並ぶ町。広いが舗装されていない道に土埃がまききあがる・・・閉じられたスタジオではなく、開け放たれた土壁の建物のひとつで行われたレコーディングの話や、オーティス・レディングに聞き入るトゥーレの姿など興味深いシーンが満載。もちろん、演奏シーンもたっぷり。

※アリ・ファルカ・トゥーレ関連の動画をYouTubeからピックアップしてみました。 ①映画『フィール・ライク・ゴーイング・ホーム』からの映像:1 2 3(以上3つは同じ内容) ②アリ・ファルカに捧ぐ ③アリの息子ヴィウのソロ・ギター:1 2 3 4

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2006年7月20日(木)

遅ればせながら、YouTube にはまっている。 最初はRCサクセションとかツービートの漫才とかを見ていたのだけれど、 途中からもう二度と見れないと思っていた特撮ヒーローやアニメの挿入歌探しに夢中になった。実は、音楽的にも見すごせないものがあるのだ。 例えば、『レインボーマン』のエンディング・テーマだった「死ね死ね団の歌」。当時の日本人はむちゃくちゃ一方的な被害者意識を抱いていたのでは?と思わせるやばい歌詞だが、 曲はブルース・ロック+プログレのモンドだ。 もう少し明るいものでは、『がんばれロボコン』のオープニングテーマがあった。最初の強烈なホーンセクションからはじまり、マイナーから一転してメジャーになるところがかっこいい。 最後はフラメンコみたいになったり、つめこみすぎなぐらいにアイディアがつめこまれている。 『ジャングル黒べえ』のエンディング・テーマも、すごい。藤子不二雄原作のアニメは、放送されなくなってしまったのも致し方ないと思われるほどの露骨なステレオタイプのオンパレードだが、このテーマソングのとてつもないマンボ感はなんだ? オープニング・テーマのほうはジャングルに見せかけて音頭だったりする。 『デビルマン』のエンディング・テーマは、曲全体に漂う孤独感が切ない。哀愁の篠笛からいきなりガレージサイケになってしまう『怪傑ライオン丸』のテーマもすごい。続編『風雲ライオン丸』のテーマともども、どこかカントリー・タッチなところがステキ。忍者の話なのに幌馬車が出てきたりして、時代・地域設定がまるでわからないところが日活アクション的。ひらげはいわいる「オタク」ではないけれど(ある意味でオタク的なことは認めるが)、実はこういうものにも影響を受けてきているのだなぁ。それにしても、このころの大人って、子供に対して容赦とか遠慮とかって言うものがない。音楽的に手を抜かないというのはもちろんのこと、怪人はどれも夜眠れなくなるほど怖かったし(トラウマですよ!)、『レインボーマン』や『妖怪人間ベム』なんかは作者のコンプレックス丸出しだし。『キューティーハニー』や『魔女っ子メグちゃん』(←残念ながら見つからなかった)に至っては、おやじの妄想全開です(笑)。

それにしても、これってやっぱり著作権法上問題があるよなぁ・・・ぼくはそのうち問題のないアイテム(レジナルドくんとかチキリカとか)をアップしようかと思っています。

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2006年7月17日(月)

2006_07_17wasanbou今日のラーメン:「支那そば(630円)」@九段下・飯田橋『和三房
一押しは豚骨ラーメンらしいが、醤油から塩、味噌まで何でも取り揃えている。こういうポリシーのない店は信用しないことにしているのだが、案外悪くなかった。和風醤油の「支那そば」はワザトらしいぐらいに煮干が香る。ホタテの味もする。アザトイ感じになりそうだが、ギリギリ許せる範囲にとどまっている・・・★★★+

Moolaade岩波ホールウスマン・センベーヌ監督の映画『母たちの村』(Moolaadé、2004)を見た。セネガルを代表する作家・映画監督=ウスマン・センベーヌの作品についてはこのブログでも何度か紹介した。『母たちの村』は、今年で83歳になる巨匠の最新作である。

西アフリカのとある村。村の女性コレは、第一夫人のハアジャドゥ、第三夫人のアリマや子供たちと平和に暮らしていた。そこへ突然、4人の幼い女の子が逃げ込んでくる。この村では昔から、女の子は割礼を受ける決まりになっている。その日、6人の女の子が割礼で性器を切られるのを嫌がり儀式から逃げ出して、そのうちの4人がコレに「保護(モーラーデ)」を求めてきたのである。コレもまた割礼を受けていたが、そのせいで2人の子供を死産し、一人娘アムサトゥの出産では帝王切開で死ぬ思いをした。そのため、アムサトゥには割礼を受けさせなかった。逃げ込んできた少女たちはそのことを知っていたのである。コレは入り口に縄をかけ、「モーラーデ」をはじめる。この村の風習ではいったん「モーラーデ」を宣言すると、村長や長老たちといえども祟りを恐れておいそれと手を出すことができなくなる。前代未聞のできごとに村は大混乱となる。旅から帰ってきた夫シレもコレを非難するが、コレは頑として意思を曲げようとはしない。そこへ、アムサトゥの婚約者である村長の息子イブラヒムがフランスから帰国する。帰国の当日、割礼から逃げていた2人の少女が井戸に身を投げて自殺する。すべてはコレの扇動のせいだと激怒した男たちは、新しい情報が入るラジオを女たちから取り上げる。女たちは不満を募らせいていく。村長はアムサトゥとイブラヒムの結婚に反対するが、イブラヒムは自分の結婚は自分で決めると言い、父を怒らせる。シレは兄に促されて、村中の人たちが集まるなかコレを鞭打つ。いくら鞭打たれても意思を曲げようとはしないコレに、女たちから声援があがる。ついに「兵隊さん」と呼ばれる国連軍あがりの商人が間に入り、鞭打ちは終わる。しかし、村の掟を破ってコレを助けた「兵隊さん」は、村を追われ殺されてしまう。逃げ込んできた女の子のうちの一人は母親に連れ出され割礼の儀式を受けるが、出血が止まらず命を落とす。女たちはついに立ち上がり、割礼師からナイフを取り上げ、長老たちに「もう二度と娘たちを切らせない!」と宣言する。男たちのなかからも、イブラヒムやシレら女たちの意見を支持するものが現れる。

アフリカについて語るとき、特にフェミニスト的な立場から問題とされるのが、女子割礼(女性性器切除)である。アフリカの一部の地域では「割礼」と呼ばれる成人の儀式として、女性性器を一部もしくは全部切除したり、あるいは縫合したりということが行われている。そのため、多くの女性が手術時の出血や感染症のために死亡したり、膣口が縫合されたり硬質化したりしてるために赤ん坊が出られずに死産したりしている(もちろん、そのときには母体も命の危険にさらされる)。こうした暴力的な本質を明らかにするために、この儀式に反対する人たちはそれを「割礼」ではなく「女性性器切除(FGM)」と呼ぶ。百害あって一利なしと思われるFGMだが、その文化的な側面が問題を複雑にしている。「割礼」もまたアフリカの文化であり、西洋の立場からそれを否定することはアフリカの文化を野蛮なものとして退ける自文化中心主義にすぎないという意見がある。こうした意見には、例えばアリス・ウォーカーが「FGMは文化なんかじゃない。誰もアパルトヘイトを文化などといわないのと同じことだ」として反論している。ウォーカーはFGMが女性を支配するための暴力装置であることを強調したかったのだろう。それは、その通りだ。ただ、FGMをアパルトヘイトに喩えるのはやはり不適切だと思う。外部から押しつけられた人種隔離政策とコミュニティの内部で受け継がれてきたFGMとの間には、本質的な違いがある。誤解を恐れずに言えば、FGMはやはり「文化」だと思う。それはものすごくリスキーな文化、性差別と結びついた「悪習」なのだ。コミュニティの内部で受け継がれてきた「文化」だからこそ、自らFGMを受けたいと思ったり、娘にFGMを受けさせたいと思う女性がいる。逆に言えば、「文化」だからこそ、内部から変えていくことが出来るのだ。「文化」が常に正しいもの、素晴らしいものとは限らない。「文化」だから守らなければならないのではなく、「文化」だからこそ変えていかなければならないし、変えていくことができる・・・と、こんなことは、FGMと闘い続けてきた人たちには当たり前のことなのかもしれないけど・・・この映画では、「文化」としてのFGMが日常生活でどのように受けとめられてきたのかが描かれており、それを変えていく契機もまたコミュニティの文化(=モーラーデ)のなかに求められている。そのことによって、FGMの問題がアフリカ内部の文脈に位置づけられている。ここでは、「反FGMは自文化中心主義だ」という主張は根拠を失う。男たちはラジオを焼いてしまえば女たちは従順になると思っているが、そうはいかない。FGMをやめることは、彼女たちの日常、彼女たちの文化からでてきた願いだからだ。

◆FGM廃絶を支援する女たちの会
◆インター・アフリカン・コミッティー(IAC)

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2006年7月15日(土)

2006_07_15shigeji今日のラーメン:「白麺(750円)」@外苑前・表参道『麺亭 茂司
よくある豚骨+鶏がらブレンドかと思いきや、あとからお魚の味が追いかけてくる。かなり濃い目の味なのだが、引きがはやいのでしつこい感じはしない。強烈なインパクトを与えて、さっと消える感じ。ニクイネ~、このぉ。細麺と太麺が選べるのだが、今回は細麺にした。スープがよくからんで、これまたグー・・・★★★★

Show_boat映画『ショウボート』(Show Boat、ジェイムス・ホエール監督、1936)を見た。1927年に上演されたミュージカルの映画化。ミシシッピ川を巡演するショウボート=コットン・ブロッサム号。船長の娘=マグノリア・ホークスは、流れ者の賭博師=ゲイロード・ラヴェナルと恋に落ちる。そんな折、一座のヒロイン=ジュリー・ラヴェーヌに黒人の血が流れていることが明らかになる。相手役で夫のスティーヴ・ベイカーは、彼とジュリーが州法の禁じる異人種間の結婚をしているとの嫌疑を晴らすため、自分にも黒人の血が流れていると宣言する。異人種間結婚の嫌疑は晴れたものの、黒人が白人と同じ舞台に上がることは許されず、二人は一座を追われる。ジュリーを姉と慕っていたマグノリアは悲しむが、代役に選ばれたのは彼女とゲイロードだった。恋する二人による真のこもったラブ・シーンは評判となり、舞台は大成功。現実の二人もマグノリアの母=パーシーの反対を押し切って結婚。「キム」という名の女の子をもうける。ショーボートでの生活に馴染めないゲイロードは妻子を連れてシカゴへ移住するが、そこでの華やかな生活は長くは続かなかった。ツキに見放されたゲイロードは、妻子を捨てて姿をくらます。マグノリアはかつての劇団仲間の紹介で、歌手としての仕事を探す。オーディションを受けた劇団の看板歌手は、他ならぬジュリーだった。ジュリーはマグノリアに仕事を譲るため、正体を明かさずに姿を消す。大晦日の晩、マグノリアは歌手としてデビューを果たす。その客席にいたのは娘を探しに来ていた父=アンディ・ホークス。アンディの「笑って、笑って」というアドバイスに助けられながら、マグノリアのステージは成功に終わる。その後、歌手として一代をなしたマグノリアは引退、あとを娘のキムが受け継ぐことに。キムのデビューが行われている会場を警備している老人は、かつて姿を消した父親=ゲイロードであった・・・

ジグフィールド・フォリーズの最高傑作であるミュージカル『ショウボート』は、ヴォードヴィルで培われた歌や踊り、笑いなどのさまざまな芸を一貫したプロットにまとめあげ、アメリカのミュージカルを根本から変えたエポック・メイキングな作品であるといわれる。映画化は1929年、36年、51年の3回(ただし、29年版はサイレント)。こうした記念碑的な作品が異人種間の結婚をあつかい、黒人のキャラクターを印象的に描いているというのも、アメリカ芸能界の重要な一面をあらわしている。黒人の登場人物はメインのプロットとは直接関係のない「脇役」だし、ハッティ・マクダニエルがいつものマミー役を演じていることからもわかるようにそのイメージはやはりステレオタイプの域を出てはいない。ただ、重要な場面で黒人の視線が痛いほどに意識されていることが、この作品をただの黒人への同情を装ったミンストレルとは一線を画すものにしている。例えば、ジュリーとスティーヴが劇団を追われる場面で、黒人たちは一部始終を窓の外から眺めている。また、劇団のレパートリーにはミンストレルそのものの芸が含まれているのだが、そのシーンに限って天井桟敷から舞台を眺める黒人の視点によるカメラ・ワークが採用されている(時代を考えれば、黒人のミンストレルに対する反発というよりも、共感を表す表現と考えるのが妥当かもしれない。いずれにしても白人が黒人の真似をするのを黒人が眺めていることを可視化しているという意味で、興味深い)。そんななか、ポール・ロブソンの歌う「オール・マン・リヴァー」はやはり、素晴らしい(この人の朗々とした歌ってそんなに好きじゃないんだけど、やっぱりハマリ曲だな)。

単発芸の積み重ねだったそれまでのヴォードヴィルを葬り去った『ショウボート』が、そうしたヴォードヴィル的演芸を愛情をこめて笑いに変えているところも興味深かった。セリフを間違えたり、進行が滞ったりする田舎芝居に、観客は熱狂する。三文芝居のなかでマグノリアとゲイロードのラブ・シーンだけが迫真の演技だったりするところは、ヘボな演技と迫真の演技(さらには、オフステージの自然なしぐさ)を演じ分ける役者のうまさに舌を巻く。ヒロインが襲われるシーンで、客席にいるならず者が「いい加減にしろ!」とピストルをぶちかますシーンなど、寅さんの活躍に声援を送る下町の観客を思わせて微笑ましい。ならず者の乱入で中断した舞台を何とかつなごうと、団長(船長)=アンディ自らがひとり三役でクライマックス・シーンを体当たりで演じきって、「ここが一番面白いところでして」とかいうのもかなり笑える(アンディ役のチャールズ・ウィニンガーがヴォードヴィルの舞台で十八番としていた芸なのだろう)。このあたり、ショウボートやドサまわりの劇団がかろうじてまだ人気を保っていたころの映画なだけに、生きいきと描かれている。51年版(一般的にはこちらのほうが有名かも)はどうだろうか。見比べてみようと思う。

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2006年6月24日(土)

No_direction_homeボブ・ディランの伝記映画『ノー・ディレクション・ホーム』(マーティン・スコセッシ監督、2005)を見た。カントリーやブルースの影響を受け、ロック・バンドでピアノを弾いたりもしていたミネソタ生まれのユダヤ系少年=ロバート・ジママンが、ニューヨークでウディ・ガスリーをはじめとする偉大なパフォーマーたちと出会い、フォーク・シンガー=ボブ・ディランへと成長していく過程に、ロック・バンドを従えた演奏によって「裏切り者」と非難された1966年のツアーの映像が何度も挿入される。65年のニューポート・フォーク・フェスティバルでポール・バターフィールド・ブルース・バンドの痙攣するような演奏をバックに「マギーズ・ファーム」を歌ったディランは、フォーク絶対主義の観客から「商業主義に転向した」として大ブーイングを受けた。共演者のなかにも、斧でケーブルをぶった切ろうとしたピート・シーガーのようにディランの「転向」を許せない裏切りと捉えたものが多かった。でも、映画を見ればわかるように、ディランはそもそもレコード・デビューしたときから、「商業主義」として批判されてきた。ディランにとってピュアなフォーク・ミュージックと商業音楽の違いなどどうでもいいものだったのだ。「ウディ・ガスリーの継承者」「時代に警鐘を鳴らすプロテスト・シンガー」といったレッテルをはりたがる連中が、ディランの歌を受けとめられるはずはなかった。ディランの歌詞がどんどん長くて複雑なものになっていったのも、そうしたレッテルや思いこみに押しつぶされないために虚構の力を必要としたからだろう。ディランの歌詞って一見「象徴的」に見えるけど、書かれていない何かを表現しようとしているわけじゃない。たしかに、イメージはすごく豊かだ。でも、抽象的な言葉はほとんどなくて、どの言葉のイメージもすごく具体的でクリアだ。逆に言えばそれ以上でもそれ以下でもない。イメージを通じて何かを「主張」しようとしているわけじゃないんだ。それは虚構だけれども、すごく具体的な、パラドクシカルな言い方をすれば現実的な虚構だ。だれも現実に起こっていることに意味を求めたりはしない(いや、「神の意思」を見たりする人はいるかもしれないが)のと同じように、ディランの歌詞は彼の頭のなかで実際に起こっていることで、裏の意味なんていうのは聞いたり読んだりする人があとからつけた解釈にすぎない。もちろん、雨が降ることに原因があるのと同じように、起こっていることには理由がある。でも、ディランは理由探しをする前に見たものを言葉にしてしまうんじゃないだろうか(っていうか、詩人ってそういうもんだよな)。それはフォーク時代からそうだったと思う。

答えは風に吹かれているプヒ~♪・・・ディラン、かっこいい。

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2006年6月14日(水)

2006_06_14dekuno_bou今日のラーメン:「らーめん(600円)」@町田『でくの坊
豚骨、鶏がらと鰹節、昆布などからダシをとった和風スープは、いわいる「昔ながらの東京ラーメン」。派手さはないが、ジンワリと美味い。縮れた細麺に高級感はないが、北海道の小麦「ハルユタカ」を使っているだけあってしっかりした味。ボロボロ崩れるチャーシューは好みじゃないけど、スープを吸うとけっこうイケル・・・★★★+

今、瀬川昌久さんの『舶来音楽芸能史 ジャズで踊って』という本を読んでいる。戦前日本におけるジャズ、ダンス、レヴューの発展史を生きいきと描いたこの名著については読み終わってから改めて感想を書きたいと思う。残念なのは、ダンス・ホールに集まる人々の熱狂やジャズも笑いも飲みこんで軍国主義の時代に娯楽を突いたレヴューの楽しさは伝わってくるものの、今それを見ることができないということだ。戦前のミュージカル映画だけがその片鱗を見せてくれる唯一のものなのだが、現存していないものも多いし、もちろんDVD化なんかされていない。東京国立近代美術館に併設されたフィルムセンターにはタップダンサーの嚆矢=中川三郎の主演映画『舗道の囁き』をはじめとする貴重なフィルムが残されているはずなのだが・・・と思ってフィルムセンターのホームページを見たら、来年の1~2月ではあるが日本の歌謡ミュージカル映画の上映会が予定されている。ラインナップもまだ明らかにされていないが、戦前のコミックバンド=あきれたぼういずやザツオン・ブラザース、ハット・ボンボンズの姿が拝めるかもしれない。忘れないようにしなくちゃ。

エル・スールの閉店セールで買ったLP『エノケン芸道一代』を聞きながら・・・

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2006年6月11日(日)

2006_06_11nagoya今日のラーメン:「醤油らーめん(682円)」@名古屋・驛麺通り『名古屋ラーメン なご家』
何度か来ているけれど、名古屋でラーメンを食べるのは初めて。名古屋駅構内にある「驛麺通り」に出店しているなかから、せっかくなので「名古屋ラーメン」のお店に入った。名古屋コーチンを使ったトロリとしたスープはけっこうおいしい。でも、名古屋コーチンを使ったからご当地ラーメンというのは・・・どうか。わりとありがちな味ではある・・・★★★+

Jazz2_18日の日記で紹介したBBC制作のジャズ史ドキュメンタリー、ビバップ以降=モダン・ジャズを扱った第2部全6回を見終わった。第二次世界大戦中、ベニー・グッドマングレン・ミラーのスウィングは、ヒットラーのナチズムに対するアメリカの自由という幻想を世界に広めるのに一役買った。デューク・エリントンルイ・アームストロングら黒人ミュージシャンも、母国アメリカの戦争に協力を惜しまなかった。この時期のスウィングやビック・バンド・ジャズが「アメリカの夢」を象徴する音楽だったとするなら、ビバップは「アメリカの悪夢」(マルコムXの言葉)に苦しむ人のための音楽だったと言えるかもしれない。ニューヨークのジャズ・クラブで夜毎ジャム・セッションをくり広げていたチャーリー・パーカーディジー・ガレスピーといった気鋭のミュージシャンのなかから生まれたビバップは、一部の熱狂的なファンにカルト的な人気を誇るアンダーグラウンドな音楽からジャズの表舞台へと踊りだしていく。とは言え、メロディをコードのなかに解体し、幾何学的なリズムに従属させたその音楽は、アメリカの主流に背を向けたものだった。ぼく自身はジャズをそれほど熱心に聴いてきたわけではないのだけど、モダン・ジャズの巨人といわれるような人の演奏はどれもそれなりに好きだ。でも、ときに息苦しさを感じさせることもあるマイルス・デイビスジョン・コルトレーンよりも、どちらかというとディジー・ガレスピーやセロニアス・モンクオーネット・コールマンの突拍子もないユーモアのほうが性に合う(あ、あとソニー・ロリンズの懐の深さも)。高度な技術を用いた即興演奏が求められるモダン・ジャズが、常に息が詰まるような緊張感を抱え込んでいることは確かだ。ただ、ガレスピーやモンク、コールマンはギリギリのところでおもちゃ箱をひっくり返してしまうようなところがあって、そこが好き。バップの元祖=チャーリー・パーカーには突拍子もないユーモアと自分を追い詰めてしまう破滅型の思考というふたつの要素が共存していたような気がする。パーカーとガレスピーの「ソルト・ピーナッツ」なんか、すごくユーモラス。そう考えるとやっぱり、スリム・ゲイラードとかキャブ・キャロウェイがビバップの誕生に果たした役割ってすごく重要だと思うんだけど、その辺はほとんど扱っていない。ジャズ「正史」としては手堅くまとまっていて、写真や映像もワクワクするようなものがたくさん出てくるのだけれど・・・最後の「ジャズは永遠なり!」みたいのはいらなかったかなぁ。そう言えば、チャールズ・ミンガスがほとんど登場しないのはなぜだろう?

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2006年6月8日(木)

2006_06_08koshinbou今日のラーメン:「黒い虎心麺(600円)」@相模原『らあめんだいにんぐ虎心房
塩味の「虎心麺」に対し、こちらは醤油味。とは言え、「ただ醤油入れただけ」になっていないのはさすが。こがしニンニク油を使っていると聞くといかにも癖のあるものを想像しそうになるが、スープのやさしさはそのままにインパクトのある味をつくりだしている。ぷるぷるした縮れ麺もグー・・・★★★★

Jazz去年の7月から8月にかけて、NHK教育の『ドキュメント地球時間』でBBC制作によるジャズ史のドキュメンタリーが放送された。サッチモ(ルイ・アームストロング)とエリントンの回を半分ぐらい見たらなかなか良かったので、ぜひ録画したいと思っていたのに、再放送も見逃してしまった。入試採点の打ち上げで野口先生と話していたら、何と全部録画してあるという。さっそくお借りしたのだが、まとまって借りてみるとナカナカ見る機会がない。ようやく時間ができたので、ジャズ誕生からビバップ前夜までを扱った第1部全6回(1回45分だから4時間半)を一気に見た。BBCはこういうドキュメンタリーの制作がうまい。マーチング・バンド、ミンストレル・ショー、ブルース、スピリチュアル、ラグタイムなどが渾然一体となって「ジャズ」が生まれてくるところなど、一方の視点に偏ることなく手堅く描かれている。ニューオリンズの売春街ストーリービルで破天荒な人生を送っていたジェリー・ロール・モートンバディ・ボールデンら初期のジャズ・ミュージシャンには、どうしてもこちらの身勝手なロマンを重ねてしまう。時代的なこともあって動いている姿を見れることは少なく、写真にナレーションが被さることがほとんどなのだが、写真自体貴重なもので音楽が好きな人間なら想像力をたくましくせずにはいられないだろう。サッチモやデューク・エリントンの時代になると動画も多くなる。やっぱりこの二人はすごかったんだ・・・というのはあまりにも当たり前の感想か。エリントンはともかく、サッチモって晩年の好々爺然とした姿があまり好きになれなかった時期があった。バップ以後のミュージシャンのなかには「サッチモはわかったよ・・・で、あの頃本当にすごいトランペッターは誰だったんだい?」と言った人もいたそうだから、そんな風に思っていたのはぼくだけではないらしい。でも、最近サッチモ初期の録音をよく聞くんだけど・・・これが、ヤバイ。良いとかカッコイイという以上になんかヤバイのだ。時代が変わっていくときの狂騒というか、高揚というか。ドキュメントはさらにスウィングの時代、ベニー・グッドマンのような(主に)白人のジャズ・ミュージシャンが洗練されたジャズで商業的な成功を収めた時代へと移っていく。ベニー・グッドマンってそんなに好きじゃなかったんだけど、これを見てあの時代の熱気というものが少し理解できた。ベニー・グッドマンはようするにビートルズだったんだ。写真でしか見れないけれど、グッドマンの演奏につめかけた10代から20代の若者(もちろん、ほとんどが白人)の表情を見ればよくわかる。みんな、今まで体験したことのない高揚感に身を震わせている。それに、「ジャズは白人がつくった」と公言してはばからなかったニック・ラロッカなんかと違い、グッドマンは黒人ミュージシャンの才能を認めていた(ビートルズがそうだったように)。テディ・ウィルソン、ライオネル・ハンプトンら黒人ミュージシャンとステージで共演したのも、当時は勇気あることだったのだ。そんなグッドマンの「洗練された」スウィングの響きに聴衆が飽き足らなくなったとき、カンザスからカウント・ベイシーの荒っぽいジャンプ・サウンドが登場する・・・ぎゃーん

・・・いやあ、面白かった。もちろん、スリム・ゲイラードやキャブ・キャロウェイ、ファッツ・ウォーラーといった「ジャイヴ」なエンターテイナーはジャズ正史からは抜け落ちてしまうのかなぁ・・・とか、不満がないわけではない。その辺、ビバップ以降を扱った第2部でどこまでフォローされているか、楽しみでもある。スマシタ言葉で語られることも多いジャズだけど、生まれた当時は何よりもワクワクするヤバイ音楽だったのだ。ぎゃーん

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2006年6月3日(土)

2006_06_03yorowiya今日のラーメン:「ざるらーめん(650円)」@浅草『与ろゐ屋
ひらげには食べないと禁断症状がでるラーメンがいくつかあるが、そのうちの一つがこちら。ラーメンもおいしいのだが、ここに来たら何といっても「ざる」・・・いわゆる「つけ麺」だが、つけダレはそれほど濃くない。店内に漂う香りが予感させるとおり、鰹節や煮干のダシがきいた和風スープ。麺もプリプリ・・・★★★★+

Soul_food映画『ソウル・フード』(Soul Food、ジョージ・ティルマン・ジュニア監督、1997)を見た。「ビッグ・ママ」の愛称で家族から慕われているマザー・ジョーは、亡くなった夫がギャンブルで借金をつくった後も、白人の家で働いたり洗濯物を引き受けたりして三人の娘たちを育てあげた。ミシシッピ出身のママがつくる「ソウル・フード」は家族の心をつなぐ絆であり、娘たちが独立した後も日曜日になると家族たちばかりか大食漢のウィリアムス牧師までもが彼女の家に集まり、「ソウル・フード」に舌鼓を打った。3人の娘たちはそれぞれに問題を抱えている。長女テリーは弁護士として成功しているが、同じく弁護士でありながら音楽活動に没頭している夫マイルスとうまくいっていない。彼女と次女マキシーンは、マキシーンがかつてテリーの恋人だったケリーを奪い取って結婚してしまったために折り合いが悪い。マキシーンは二人の子宝にも恵まれケリーと幸せな結婚生活を送っているが、心のどこかでは姉をうらやましく思っている。三女のバードはテリーから開店資金を借りて美容室を経営している。夫レムは麻薬密売の前科があり、失業中。マザー・ジョーはさらに、何年も部屋に籠もりきりの兄ピートの面倒も見ている。そこにこの家で育った娘たちの従妹フェイスが帰ってくる。こうしたてんでバラバラな家族をひとつに結びつけているのが「ビッグ・ママ」であり、彼女のつくる「ソウル・フード」であった。ところが、糖尿病を患ったママは片足を切断する手術を受けなければならなくなり、手術中に脳卒中を起こして意識を失ってしまう。精神的支柱を失いバラバラになっていく家族のありさまが、マキシーンの息子アマッドの視点から描かれる・・・

テリーの夫マイルスは、ダンス・オーディションを伴奏したことがきっかけでフェイスと不倫関係に。バードの夫レムは印刷工場に仕事を見つけるが、それが妻の元恋人シュミエルの口利きであると知って激怒・・・シュミエルを殴り、やけ酒を飲んでいたバーで銃をふりまわし刑務所送りになる。テリーが「ビッグ・ママ」の家を売ろうとしていることを知って彼女と妹たちの関係は険悪に・・・そんななか、「家族を団結させるのがお前の仕事だよ。私はもう疲れた」とアマッドに遺言を残し、ママは息を引きとる。ママの遺言を実行するために、アマッドはかねてから噂されていたママの「隠し財産」をネタに(もちろん、アマッドの嘘)、家族を「ビッグ・ママ」の家におびき寄せる。そこで一同は昔のように食卓を囲むが、打ち解けあうどころか互いの非を非難しあうありさま。そんなとき、キッチンで火事が起こり、一家族が力を合わせて火を消す・・・そこに姿を現したのは何年も部屋に籠もっていたピート叔父・・・彼はマザー・ジョーの隠し財産をキッチンにぶちまける・・・

ソウル・フードや迷信・ことわざの役割とか、南部とのつながりとか、女系家族における男性の立場とか、アフリカ系アメリカ人の文化を研究しているものには興味のつきない映画なのだけれど、個人的にはぼくの家も元々大家族で(しかも完全な女系家族)、祖母が脳梗塞で寝たきりになってからバラバラになっていったようなところがあるので(それは悪いことばかりではないのだけれど)、涙なくしては見られなかった。たまには入院しているお祖母ちゃんに会いに行かなきゃなぁ・・・

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2006年5月30日(火)

2006_05_30shionoya今日のラーメン:「鴨ねぎつけそば(950円)」@たまプラーザ『汐のや
季節限定メニューの「鴨ねぎつけそば」。つけダレは比較的薄めだが、コクのある醤油味でなかなかしっかりしたもの。麺はカンスイ多目の黄色い縮れ麺だが、プリッとしていて美味しい。そこに鴨肉3枚とたっぷりのネギがのる。シンプルな割には食べごたえもある。あとは値段がもう少し安ければ・・・★★★+

昨日の岡田真澄さんに続いて、今日は映画監督の今村昌平さんが亡くなった。中学生のときだったか、『戦場のメリークリスマス』を見に行ったら同時上映が今村昌平監督の『楢山節考』で、そっちのほうに衝撃を受けたのを憶えています。謹んでご冥福をお祈りいたします。

The_best_of_louis_jordanルイ・ジョーダンの映像集Five Guys Named Moe: The Best of Louis Jordan and His Tympany Five を見た。ルイ・ジョーダンやスリム・ゲイラードキャブ・キャロウェイといった、いわいる「ジャイヴ」と呼ばれるジャズとR&Bのはざ間の音楽を演奏するミュージシャンが好きだ。なかでもルイ・ジョーダンは後のロックンロールにつながるノリを前面に出しながらも、幾何学的なサックスのフレーズにビ・バップに通じるものがあって、すごくカッコいい。ディジー・ガレスピーなんかも、ルイ・ジョーダンと同じ体質を持っているような気がする。映像集は40年代サウンディーズ用の短いフィルム、46年の中編映画Beware! からの映像と、60年のテレビ番組で構成されている。のっけからロナルド・レーガンが登場して、ひっくり返る(テレビ番組の映像)。後のアメリカ大統領レーガンも、このころは三流芸能人だったんだよなぁ・・・レーガンの紹介で始まる演奏は、「モーという名の5人の男」・・・モーという苗字の5人の男が集まってモモモモモモモ・・・というサイコーにバカバカしくてかっこいい、ひらげのフェイバリット・ソングだ。しびれるねぇ。さらに2曲目は「かれどにあっ!かれどにあっ!」と突拍子もない裏声で叫んで、ばたばたと足を踏みならす「カレドニア」。このフィルムは見たことがあったんだけど、やっぱりカッコいい。大きな目をひん剥いて豪快に歌い、サックスをブロウするルイの姿はある意味ミンストレルなんだけど、ステレオタイプをねじ伏せ自分のものにしてしまったようなところがあって、卑屈さは微塵もない。驚いたのは5曲目「レット・ザ・グッド・タイム・ロール」でドラマーがブラシでシャフルを刻みながら、身体は跳ねずに8ビートでリズムを取っていることだ(解説の吾妻光良さん曰く「良くわかんないけど、怖い」)。アフロ・アメリカンの音楽は、アフリカの音楽のようにポリリズムが前面に出ることは比較的少ない。でも、アメリカの黒人ミュージシャンは、前面に現れない別のリズムを感じながら演奏をしているのではないか。ちなみに20曲目の「バズ・ミー」でもベーシストが同じようなリズムの取り方をしている(こういうリズムの取り方って他にも見たことがあるような気がする)。これだから映像を見ないとわからないんだよなぁ。ぜんぜん違うリズムで踊ってたりするからさ。

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2006年5月29日(月)

2006_05_29hikariya今日のラーメン:「ラーメン(600円)」@天王町『光家
近所にある家系のお店。世間での評判は悪くないのだが、あまりおいしいと思ったことがなかった。ところが、味が変わったか、時間帯のせいか、あるいはひらげの体調が影響したか、今日はずいぶん違った印象。鶏油がチーズのようなコクを出していて美味。肉厚ホロホロのチャーシューもグー・・・★★★★

Baadasssss_cinema70年代ブラックスプロイテーションについてのドキュメンタリー映画『バッドアス・シネマ』(BaadAsssss Cinema、アイザック・ジュリアン監督、2002)を見た。70年代に大量生産された黒人アクション映画=ブラックスプロイテーションは、初めて黒人のヒーローを生みだしたとして評価される一方、麻薬、暴力、犯罪といった黒人のステレオ・タイプを垂れ流した金儲けの道具として批判されることも多い。実際、NAACP(全米黒人地位向上委員会)などの公民権団体は、当時からブラックスプロイテーションを厳しく批判してきた。出資者の多くが白人であり、結局は貧しい黒人観客から金を巻き上げているだけではないのか(black黒人+exploitation搾取=blaxploitation)という声もある。また、次第に低予算で量産されることが多くなり、二流三流の作品が多くなっていったことも評価を下げている理由のひとつだろう。ブラックスプロイテーションが黒人の暴力的イメージを広めたことを否定するのは難しい。しかし、それが金持ちでもインテリでもない黒人の人々に熱狂的に迎えられたこともまた事実である。かつて、ミンストレル・ショーや『エイモス・アンド・アンディ』のようなステレオタイプ的な芸能もまた、貧困層の黒人には受け入れられていた。しかし、ミンストレル・ショーや『エイモス・アンド・アンディ』の提供するステレオタイプが白人の望む従順でマヌケな黒人だったのに対し、ブラックスプロイテーションのそれは黒人が密かに胸に抱いていたヒーロー像だった。逆に言えばそれは、白人が忌み恐れる黒人のステレオタイプだったのだ(タランティーノのようなちょっとオカシイ白人は除いて)。ブラックスプロイテーションの重要なテーマのひとつは「逃げる」ということだと思う。『スウィート・スウィート・バック』で疲れ果てた主人公が砂漠に横たわるシーンを見た黒人の老婆が、「彼を死なせて!白人に殺させないで!」と叫んだという話がすごく印象的だ。老婆は黒人が無事に逃げおおせる映画など想像することができなかったのだ。ところが、スウィート・バックは追っ手をかわし、生きのびる。「やべぇ黒人が復讐に戻ってくるぜ」という言葉を残して・・・衝撃のラスト・シーンを見た黒人の観客は息を飲み、大喝采を送ったという。当時の黒人が切実に同じ民族のヒーローを求めていたことが伺われる。他に、ブラックスプロイテーションに批判的なベル・フックスが、パム・グリアーだけは強い黒人女性像を提示したとして評価していたのも面白かった。

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2006年5月28日(日)

2006_05_28menshyo_tora今日のラーメン:「醤油ラーメン(550円)」@保土ヶ谷『麺匠 虎
保土ヶ谷に魚味のおいしいラーメン屋さんができたというので行ってみた。煮干の香りが漂うスープは色の割には味が濃く、苦味も強すぎるような気がするが、基本的には好みの味。肉厚のチャーシュー、ポキポキした感じの麺もグー。これでこの値段は驚き。今後にますます期待したい・・・★★★★

Bound_for_gloryボブ・ディランなどに影響を与えた伝説的フォーク・シンガー=ウディ・ガスリーの半生を描いた映画『ウディ・ガスリー わが心のふるさと』(Bound For Glory: The Sory of Legendary Woody Guthrie、ハル・アシュビー監督、1976)を見た。テキサス州パンパ。しばしば酷い砂嵐に襲われるこの田舎町で、ウディ・ガスリーは妻、二人の娘とともに暮らしていた。家族を養うために看板を描いたり、占い師の真似事をしたりしていたが、生活はなかなか楽にならない。ある日、ウディは仕事と金を求めてカリフォルニアへ旅に出ることを決意する。ヒッチハイクや無賃乗車をくり返し、時には放浪者として虐待を受けながらも、何とか目的地にたどり着いたウディ。ところが、そこまでしてたどり着いたカリフォルニアでは、農園での仕事を求めて移住してきた労働者がキャンプ生活を送っていた。仕事を見つけるのは難しく、見つけられたとしても賃金はひどく低い。ウディは友人のギターを借りて町へ出るが、なかなかお金にはならない。そんな折、労働者のキャンプへ慰問にやってきた人気歌手オザーク・ビュールが、組合への参加を呼びかけながら貧しい人々の生活を歌うのを聞いて、いっしょに演奏するようになる。やがて、スポンサーを刺激するような歌を歌わないことを条件に自分のラジオ番組を持つまでになったウディは、生活も安定しパンパから妻子を呼び寄せる。当初の約束にも関わらず、ウディは貧しい人たちの生活を歌い続け、スポンサーの嫌気を買う。ラジオ局のプロデューサーとぶつかり合った末、道端や工場で歌うために姿を消すウディにあきれた妻は娘を連れてパンパに帰ってしまう。ラジオの全国放送出演の話が持ち上がるが、ラジオ局の思うとおりの歌を歌うことで仲間を裏切ることを潔しとしないウディは、契約を棒にふってニューヨークに旅立つ・・・

ウディ・ガスリー自身が書いた原作『ギターを取って弦をはれ』(Bound For Glory、1943、中村稔・吉田廸子訳、晶文社、1975)は半分ぐらい呼んだところなのだけれど、映画はだいぶ端折ったりディティールを変えたりしているようだ。とはいえ、貧困と放浪のなかで自分の歌を見出していったガスリーの半生が鮮やかに描かれていて、けっこう引きこまれた。砂嵐の恐ろしさなんかは、言葉で説明されてもなかなかわからなかったのだけれど、町をつつみこみ何もかも砂だらけにしてしまう不気味な黒い雲は圧巻。説明は少なく、時代背景がわからないと展開もわからないところもあるかもしれないけれど、その分音楽が多くを語ってくれるところもある。148分の長い映画にも関わらず、ガスリーの波乱に満ちた人生を考えると、まだまだ食い足りない気が気もしてしまうの事実なのだが・・・

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2006年5月16日(火)

2006_05_16marutakehonpo今日のラーメン:「ふるさと味噌ラーメン(750円)」@センター北・ラーメン甲子園まる竹本舗』 『むつみ屋』の竹麓輔氏による新ブランド。豚骨・鶏骨・昆布・野菜を煮込んだスープは「従来の北海道ラーメンよりあっさりしている」とのことだが、『むつみ屋』のラーメンよりもむしろ味噌ラーメンの定石に近い印象。縮れ麺も、キャベツ・もやし・コーンをたっぷり使っているところもセオリー通り。まあまあ美味しいけど、すごくフツー・・・★★★+

Do_not_adjust_your_setとうとう、こんなものまでDVD化されてしまった!!イギリスで67~8年に放送されたコメディ番組Do Not Adjust Your Set!!・・・のちにモンティ・パイソンで活躍するエリック・アイドル、テリー・ジョーンズ、マイケル・ペイリンが出演し、ボンゾ・ドッグ・ドゥーダー・バンドが音楽を担当した夢のような番組だ。ナンセンス極まりない短いコントが続く内容は、日本で言えば『ゲバゲバ90分』のノリに近い。個人的にはもちろんモンティ・パイソンにつながるコント部分もしびれるのだが、何といっても毎回ボンゾ・ドッグ・ドゥーダー・バンドの演奏(口パクでふざけているだけとも言える)を見ることができるのが至福の喜び。ほんと、バカだわ、こいつら(笑)。それにしても、第二回放送の"Look Out , There's a Monster Coming"で、ミンストレル・ショーさながらに顔を黒く塗って登場したのにはちょっと驚いた。「でゅでゅでゅのでゅでゅでゅのでゅでゅのでゅの」という間抜けなコーラスが楽しい"Hunting Tiger (Out in India)"では楽器を抱えたままジャングルのセットをうろうろしたり、ヴィヴィアン・スタンシャルをはじめとするメンバーのはしゃぎぶりがステキすぎる。もともとは子供向け番組としてつくられたらしいけど、こんなもの子供に見せたらいけません。教育上どうだとかいうんではもちろんなく、ガキにはもったいない・・・ということ!!ちなみに、「テレビを調節しないでください」というタイトルは放送事故のときに流れる定番フレーズだとか。XTCのアンディ・パートリッジが日本人のインタビュアーに「え?見てなかったの?」とかむちゃくちゃなことを言ってたなぁ(どうやって見るんだ、日本で!)。それくらいバッド・チューニングなガキどもを夢中にさせたということでしょう。

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2006年5月15日(月)

Prayer映画『プレイヤー 死の祈り』(Eve's Bayou、キャシー・レモンズ監督、1997)を見た。ルイジアナに暮らす少女イヴは、ある日町医者をしている父ルイスの不倫現場を目撃してしまう。何でもないと言いくるめられたものの疑いを拭いきれないイヴは、姉シシリーに打ち明ける。シシリーはイヴを抱きしめ、父が母を裏切るはずがないと諭す。父を愛するあまり母親に反発することも多いシシリーだが、イヴとは喧嘩しながらも仲のいい姉妹だ。イヴの伯母(ルイスの妹)モゼルは霊視能力を持ち、悩める人々の相談を聞いて暮らしている。イヴもそんな伯母の能力を幾分引き継いでいるらしい。3人の夫に先立たれ自分が呪われた女であると思いつめているモゼルは、ブードゥーの祈祷師に「疫病神。次の夫も死ぬだろう」と宣告されショックを受ける。一方、イヴの母ロズは同じ祈祷師に「思わぬ方法で悩みは消える。子供を守りなさい」と告げられる。祈祷師の言葉をまともに受けたロズは、モゼルが子供が車に轢かれる幻覚を見たこともあって、子供たちを守ることに異常な執着を見せはじめる。子供たちを家に閉じ込め、一歩も外にでることを許さなかったのだ。シシリーはそんな母親に強く反発する。やがて、近所の子供がバスに轢かれて死に、子供たちは解放される。ところが、ちょうど初潮をむかえたシシリーはそのときから、部屋に閉じこもり食事もとらなくなってしまう。初潮のことをからかったせいかと思い悩んだイヴは、シシリーから意外な事実を知らされる。ルイスから性的虐待を受けたというのだ。強い怒りを覚えたイヴは父を呪い殺そうと思いつめ、ルイスの髪の毛と20ドルを手にブードゥーの祈祷師を訪ねる。祈祷師を探すうちにルイスの浮気相手マッティの夫レニーに出くわし、ルイスがマッティと不倫関係にあることを仄めかす。ようやく祈祷師を探し出したイヴはルイスを呪い殺すことを依頼し、祈祷師の言葉通りルイスは酒場でマッティといるところをレニーに撃ち殺される・・・イヴの目の前で・・・ルイスの死後、モゼルに宛てた手紙が見つかる。そこに書かれていたのは、恋人のようなキスをされたことに動揺してシシリーを殴ってしまったというルイスの告白だった。ルイスは娘を殴りはしたものの性的虐待は加えていなかったのか?嘘をついたと言って、シシリーを責めるイヴ・・・真実はどこに?イヴはモゼルから受け継いだ能力を使って記憶を読み取ろうとするが、シシリーの記憶そのものが混乱している・・・

何が真実なのか見ているほうも最後までわからない、不思議な映画。シシリーの証言だけではない。祈祷師の言うとおりルイスが死んだことでローズの悩みが消えたのか、モゼルと新しい恋人ジュリアンの結婚生活が悲劇的な結末をむかえることになるのか、確かなことは誰にもわからない。ルイスの死にしたって、本当に祈祷師の呪いのせいか、イヴがレニーに妻の不倫を仄めかしたからか、どちらとも解釈できる。オカルト的なストーリーのなかから浮かびあがるのは、そうしたつかみどころのない「現実」に振りまわされて生きる人々の姿だろう。ロズがシシリーに「私もあなたの年頃には何でもわかっていると思っていたわ。でも、今は何もわからない」と言うシーンがある。「現実」には判定不能のグレーゾーンがあるということを知ることが大人になることだとするなら、子供の視点から描かれたこの映画はイヴが混乱した現実に接して大人になっていく物語であると言うことができるかもしれない。

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2006年5月7日(日)

2006_05_07mutsumiya今日のラーメン:「味噌ラーメン(赤みそ)(750円)」@天王町『むつみ屋』横浜天王町店
『むつみ屋』はいろいろある新メニューよりも、やっぱり基本メニューのほうが美味いなぁ。玉ねぎを使ったちょっと甘めのスープは、ちょっとぼくには優しすぎるところはあるんだけど、悪くはない。特に昨日はウィルス性の風邪で寝込んでいたので、病み上がりの身体にはこの優しさがウレシイ・・・★★★+

Get_on_the_bus1995年、ネイション・オヴ・イスラムの指導者=ルイス・ファラカーン師の呼びかけで全米の黒人男性が首都ワシントンに集結した「百万人行進(Million Man March)」へと向かう男たちの姿を描いたスパイク・リー監督の映画『ゲット・オン・ザ・バス』(Get On the Bus、1996)を見た。「男たち」に黒人コミュニティ内での責任を果たすことを訴えた「百万人行進」は、発起人であったファラカーン師が女性蔑視的発言やユダヤ人差別的な発言をくり返していたこともあって、女性排除・逆差別であると批判されることも少なくない。ぼく自身、公民権法の成立という具体的な目標があった63年のワシントン大行進と比べると、目的や意図が分かりにくいという印象を持っていた。しかし、この映画を見て、なぜ70万以上もの人々がこの運動に参加したのか(参加者数は諸説あり)、その理由が少しだけ分かったような気がした・・・ロサンゼルスから長距離バス=「フクロウ号」に乗ってワシントンへ向かう人たちは、黒人男性である以外はまるで共通性のない人たちである。保護監察中の息子を鎖につないで参加した父親、別れ話をくり返すゲイのカップル、ゲイに強い反感を示すマッチョな俳優、白人の母親と黒人の父親の間に生まれ父親を「ブラザー」に殺された肌の色の薄い男、不良少年の更生施設で働く元ギャングの男、映画監督の卵、忠実に働きつづけた会社をクビになった老人・・・などなど。議論しあい、罵りあい、ときには殴りあいながら、旅は進んでいく。ゲイとマッチョの、父親と息子の、犯罪者と被害者の論争が安易な結論を向かえることはない。ただ、狭いバスの中で笑ったりいがみ合ったりしているうちに、どうしようもなく「違う」存在である互いへの理解は深まっていく。結局、ワシントンに到着する一歩手前でオシー・デイヴィス演じるジェレマイ老人が心臓発作で亡くなり、病院に付き添うことを選んだ一行は行進に参加することができない。しかし、最後に運転手のジョージが語るように、彼らにとっての「百万人行進」はここから始まる。「本当の百万人行進がスタートするのは、われわれ黒人が自分たちの問題に対して、責任を持って取り組むときだ」・・・ワシントン大行進が「公民権法の成立」という具体的な成果を「外に」求める示威行動だったとするなら、百万人行進はコミュニティの問題を見つめなおすという「内へ」向かう行動だったのだ。だから、大切なのはは具体的な要求を掲げることではなく、とにかく一緒に何かをすることだった。だとすれば、「フクロウ号」の乗客たちは行進に参加したのと同じことをバスの中でしていたことになる。ラストシーンでは、父子をつないでいた鎖がリンカーン記念堂に置かれている。黒人の男たちが奴隷的な存在であることをやめ、自立して問題の解決に取り組んでいくことを示しているのだろう。もちろん、現実の問題はそんなに簡単じゃないだろうけど・・・ジェレマイの死という悲劇にもかかわらず、爽やかな後味の残る映画だった。

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2006年5月5日(金)

2006_05_05bankara今日のラーメン:「ばんからラーメン(580円)」@新宿『ばんからラーメン』新宿店
池袋に本店がある背脂たっぷりの豚骨醤油ラーメン。同じような傾向の『花月』と比べるとスープ自体に旨みやコクのようなものがあるが、やっぱり若い人向け。背脂だけではなく油膜が分厚い層をつくっており、クドイことこの上ない。10代の頃だったら喜んで食べたかもしれないけど・・・★★★

久しぶりのチキリハ(チキリカ・リハーサル)。

Ghosts_of_mississippi公民権運動家=メドガー・エヴァースの暗殺と、容疑者が逮捕されながら審理無効になった事件の再調査に乗りだした白人検事の奮闘を描いた映画『ゴースト・オブ・ミシシッピ』(Ghosts of Mississippi、ロブ・ライナー監督、1996)を見た。1963年6月12日、公民権法の成立を訴えるケネディ大統領の演説が全米で放送されているちょうどそのとき、ひとりの黒人公民権運動家が家族の目の前で射殺された。間もなく、白人至上主義者=バイロン・デ・ラ・ベックウィズが逮捕されるが、白人男性ばかりの陪審員による判決で審理無効となる。ベックウィズは釈放され、地元白人の英雄となった。それから30年以上たったある日、ミシシッピ州ジャクソンの検事局にエヴァースの未亡人マーリーが現れる。今こそ、事件を再調査し夫の無念を晴らして欲しい・・・証人の多くがすでに死亡し、犯行に使われた銃や弾丸すら失われた過去の事件の調査に検事局長は二の足を踏むが、エヴァースの殺害現場を訪れた若き検事ボビー(アレック・ボールドウィン)は自分と同じ年で子供を残して死んだエヴァースの無念を思い、調査を引き受ける決心をする。保守的な検事の娘である妻は、夫の決断を受け入れることができずにボビーのもとを去っていく。人種差別的な白人社会からの嫌がらせに苦しめられながらも、ボビーは失われた証拠を集め、生き残った証人の証言を集める困難な作業に取り組んでいく・・・

白人検事の奮闘に焦点があてられているため、ウーピー・ゴールドバーグ演じるマーリーを除くと黒人の登場人物の印象はそれほど強くはない。むしろ浮かび上がるのは、執拗に残る人種差別とそれを乗りこえていこうとする努力だろう。お化けが出るから眠れないという娘に南部連合の国家「ディクシー」を歌おうとしたボビーが、その差別的な意味に気がついて黙りこむシーン。マーリーがボビーへの誤解を解き、大切に保管していた裁判記録の謄本を託すシーン。自宅に爆弾を投げ込むとの脅迫を受けたボビーが、新しい恋人に「天国に行こうと地獄に行こうと、やりとげるまでだ」とメドガー・エヴァースがかつてマーリーに言った言葉をくり返すシーン。単なる正義感ではなくて、こうした細かいエピソードの積み重ねによって、人種の壁が乗りこえられていく過程が描き出されている。一方、この映画で最優秀助演男優賞を受賞したジェームス・ウッズが演じるベックウィズは狂気さえ湛えるほどの憎々しさ。変わりゆく南部と変わらない南部の両方を感じずにはいられなかった。

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2006年5月4日(木)

2006_05_04yoshimuraya今日のラーメン:「ラーメン+野菜畑(590+50円)」@横浜『吉村家
ぼくが禁断症状が出るほどの『吉村家』のファンであることは、その筋では有名である。今日も悪くはなかったのだが、新トッピングの「野菜畑」(今までの「もやしミックス」を豪華にしたもの)は温度が低いので、スープが急激に冷めてしまう。ラーメンだけのほうがよかったかも。それと盛りつけにもう少し気を配ってもいいのでは?・・・★★★★

実るほどのけ反りかえる稲バウアー(←意味なし)

Screen_ni_miru_black_women岩本裕子『スクリーンに見る黒人女性』(メタ・ブレーン、1999)を読み終わった。ほんの半世紀前までアメリカ黒人女優というと、『風と共に去りぬ』でアカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞したハッティ・マクダニエルがそうだったように、従順なメイド役ぐらいしか活躍の場がなかった。マクダニエルら黒人女優のパイオニアは、実際にメイドとして働くかメイド役で映画や舞台で活躍するかの選択を迫られ、後者を選ばざるを得なかったのである。本書は映画に関わるアメリカ黒人女性が自由な表現を獲得していく歴史を綴りながら、章立てとしては映画が扱っている時代の順に話がすすめられていく。そのため、ウーピー・ゴールドバーグアンジェラ・バセットといった女優や、ジュリー・ダッシュのような女性監督、あるいは映画会社ハーポ・プロダクションを立ち上げたオプラ・ウィンフリーのような女性プロデューサーに焦点をあてながらも、必ずしも女性だけの映画史にはなっておらず、奴隷としてアメリカに「拉致」された黒人の人たちが公民権運動の時代を経て、そうした闘い以外の部分にも目を向けるようになっていく過程を浮かびあがらせている。だからこそ、黒人コミュニティのなかですら抑圧されながら、「この人たちにできたのだから、私にもできるはず」という思いを伝える表現手段として映画を洗練させていった黒人女性の姿が強く印象に残るのだ。それにしても、まだまだ見ていない映画があるなぁ・・・とりあえず、『ソウル・フード』『プレイヤー/死の祈り』あたりから見ていこうかな。

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2006年5月2日(火)

2006_05_02fujiyama今日のラーメン:「ラーメン(700円)」@中目黒『フジヤマ製麺
魚系のダシがきいたスープといい、つるんとしたストレート太麺といい、二玉はあろうかという量の多さといい、池袋『大勝軒』を意識していることは明らか。『大勝軒』系と比べると煮干の苦味よりも、鰹節の酸味が強く出た仕上がり。『大勝軒』系の単調な味よりも、ぼくはコチラのほうが好き。でも、量はやっぱり多すぎ・・・★★★+

Kawaha_nagareru仲宗根美樹・桑野みゆきの主演映画『川は流れる』(市村泰一監督、1962)を見た。沖縄に生まれた亜紀(桑野みゆき)は母と死別し、内地に住むという父を思いながら歌手になることを夢見て暮らしている。ある日、戦争中沖縄守備隊の将校で、亜紀の母と恋仲であった三谷弘太郎が沖縄を訪れる。友人から三谷が実の父であることを知らされた亜紀は、三谷を追って上京する。亜紀は三谷の幸せな家庭を見て自活することを決意するが、亜紀のことを思った友人=咲子が亜紀の居所を三谷に告げ、亜紀は出生の秘密を隠したまま三谷の家族と暮らすことになる。三谷の娘=理江(仲宗根美樹)もまた歌手志望で、作曲家の卵=西圭介にほのかな恋心を抱いている。理江は何かにつき亜紀に甘えるが、三谷家に暖かく迎え入れられたことへの感謝と、出生の秘密を隠している負い目もあって、亜紀は献身的に妹に尽くす。亜紀は三谷の計らいで作曲家=石津のもとにレッスンに通いはじめ、弟子の圭介と思いを通じ合わせるようになっていく。圭介の気持ちが亜紀に傾くにつれ、嫉妬した理江は亜紀につらく当たるようになり、理江に罵られた亜紀は三谷家を後にする。やがて、亜紀は新人歌手発表会でデビューすることが決まり、デビュー曲の作曲が圭介に任される。圭介は亜紀の母が残した詩に曲をつけ、「川は流れる」を書きあげる。圭介が亜紀のために曲を書いたことを知った理江は、亜紀から曲を奪ってやると息巻く。妹の気持ちを悟った亜紀は、曲も発表会のチャンスも譲って沖縄に帰る。両親から亜紀が姉であることを知らされた理江は、姉のために「川は流れる」を立派に歌おうと決心する。新人歌手発表会で「川は流れる」を歌う理江の声が、沖縄にいる亜紀の元にも届く。そこへ圭介が亜紀を迎えに来る。「結婚しよう、理江も二人を祝福してくれている」というのだ・・・ようやく訪れた幸せに涙ぐむ亜紀・・・

亜紀が三谷の正体を知ったり、三谷の妻が亜紀の出生の秘密に気づいたりする経緯はあまりにも唐突で、ご都合主義のストーリーはとても評価に値するようなものではない。出演者の演技も、のちの大映ドラマなどにつながる感情移入過多なもので、見ていて白けることこの上ない。まだ戦争の記憶が生々しかったころの日本人のメンタリティーに訴えるところがあったのだろうということを考慮しても、映画としての完成度は低い。それにしても、痩せていたころのナッチを幸薄くしたような桑原みゆきが哀れな沖縄娘を、沖縄出身でエキゾチックな顔立ちの仲宗根美樹が「本土」の元気娘を演じるという逆転は、ある意味で興味深い。戦争で焼け野原になった悲劇の地=沖縄の娘がハネッカエリの元気印であるわけにはいかなかったのだ。しかも、沖縄娘=亜紀は本土の妹にすべてを譲って沖縄に帰っていく。彼女が得ることができるのは、本土の男との関係だけだ。当時の日本における沖縄の位置が透けて見えるようではないか・・・

Kwaha_nagareru_ten_inchというわけで、あんまり気分のいい映画ではなかったのだけれど、唯一の魅力はやっぱり仲宗根美樹の歌。「川は流れる」もさることながら、パンチのきいた「雷ロック」が最高。写真右は「川は流れる」をフィーチャーした仲宗根さんの10インチレコード(1961)。「川は流れる」みたいな哀愁路線の曲もあるけど、収録曲の多くは軽いラテン調の陽気な曲。「あなたはライター/私は炎/ああ もっと燃えたくなっちゃうの/そのあと わからない」と歌う「わたしは炎」なんか(「ライト・マイ・ファイア」よりこっちのほうが先でっせ!)、なかなかセクシー。でも、パンチのきいた元気のいい歌声はいい意味で健康的で、イヤらしい感じはしない。けっこうハマっている。他に沖縄民謡を歌った10インチや、2枚組LPなんかも手に入りそう。

エル・スール・レコード閉店記念パーティー。数少ないワールド・ミュージック専門のレコード店として、マニアックな人々の交流の場ともなってきたエル・スールだが、5月いっぱいで移転することになった(移転場所はまだ決まっていない)。ぼくにしてはかなりセーブして飲んでいたし、終電で帰るつもりすらあったのだが、タムチャオが来たあたりから俄然楽しくなってきて、結局朝まで飲んでしまった。後半はほとんど記憶がない・・・(気がつくと桜木町のクィーンズスクエアを歩いていました)

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2006年4月24日(月)

2006_04_24kagetsu今日のラーメン:「ラーメン菜菜(680円)」@天王町『らあめん花月
「動物系の素材は一切使わずに、野菜だけの旨みで完成した画期的なスープ」とのこと。うーん。まずくはないんだけど・・・これが本当に野菜だけだとしたら、かなり化学調味料を入れているのでは?菜花、大根、ジャガイモ、ニンジン、プチトマトと野菜ばかりの具はなかなか美味しい。でも、「深い味わい」ってほどではないなぁ・・・★★★

Black_girlウスマン・センベーヌ監督の映画Black Girl Noire de...La、1966)を見た。ウスマン・センベーヌはセネガルを代表する作家・映画監督。この映画はセンベーヌが最初に撮った長編(65分なので、中編というべきか・・・これ以前に2本の短編がある)。アフリカ人の少女がフランスにやってくる。彼女=ジュアナはフランス人夫婦に子守として雇われたのだが、彼女を待っていたのは料理・洗濯といったメイドの仕事だった。一日中狭い部屋に閉じ込められ、フランスに行けば華やかな生活を送れるという彼女の希望は裏切られる。何かにつけ怒鳴りつける女主人。ジュアナの精神は次第に追いつめられいく。ジュアナが思い出すのはダカールで出会った男のこと。あの頃の彼女はこれから旅するフランスのことで頭がいっぱいだった。男はそんな彼女を苦々しく思っていたに違いない。「働かないなら、食べるな」という女主人の言葉に、「食べられないなら、働かない」と仕事を拒否するジュアナ。主人夫妻にプレゼントした仮面を取り返し、荷物をまとめて、主人の手の届かないところへ行こうと決意する。そして・・・(衝撃の結末は書かないでおきます)

全編フランス語が使われており、淡白な映像もフランス映画っぽい(←そんなにフランス映画を見たわけじゃないけど・・・)。ウォロフ語が使われた後の作品と比べると、まだ自分のスタイルを確立していないとも言える。とは言え、ポスト植民地的なテーマはアフリカの映画ならではのもの。淡々と続くジュアナの独白のなかに、ヨーロッパとアフリカの距離が浮かびあがる。自分では何もしようとしないくせに、ジュアナを怠け者呼ばわりする女主人。ジュアナを動物扱いする友人の言葉を否定しようともしない。にもかかわらず、なぜ自分たちがジュアナの気持ちを傷つけたのか、彼女たちにはまるでわからないのだ。もちろん、こうしたことは他人事ではないのだけれど。ぼくらはこうした無神経さを乗りこえて、アフリカの人たちと出会うことができるだろうか。

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2006年4月22日(土)

Hogs_and_warship横須賀のドブ板通りを舞台にした映画『豚と軍艦』(今村昌平監督、1961)を見た。アメリカ兵のためのキャバレーで賑わう戦後間もない横須賀。米軍の残飯を豚の餌に使う利権を牛耳るヤクザたち。チンピラの欣太(長門裕之)はヤクザの手下として住民から金を巻きあげる毎日。工場をクビになり、戦死した長男を思い出してばかりいる父親(東野英次郎)と港の近くで暮らしている。欣太がアニキと慕う銀次(丹波哲郎)は病床に臥せっており、大衆料理屋を経営する妻に頼りきっている。その大衆料理屋で働く欣太の恋人=春子(吉村実子)は、米兵に言い寄られている。春子の姉は米兵の愛人になることで家計を支えており、姉も母も春子に同じ道を歩んで欲しいと思っている。欣太の子供を身ごもった春子は、欣太にヤクザをやめてマトモに暮らして欲しいと願う。そんななか、欣太は兄貴分のヤクザたちと親分の殺した男の死体を海に捨てる。「親分の罪をかぶって警察に出頭しろ。出所したら幹部候補だ」という兄貴分の甘い言葉にのって、思わず承知してしまう欣太。やがて、沈めたはずの死体が浮かびあがり、欣太の父に発見されてしまう。欣太は銀次と死体を隠すが、ヤクザ仲間で豚の丸焼きを食べていたら、入れ歯が出てきて大騒ぎ。銀次に処理を頼まれたヤクザは、餌に混ぜて死体を豚に食わせてしまったのだ。それを聞いて、銀次は「おえっ~」・・・入院した銀次は「自分は癌ではないか」と疑い、レントゲン写真を盗み他の医者に見てもらうよう欣太に命じる。欣太が持っていったレントゲンはどこでも「もってあと三日」と宣告される。欣太の報告を聞いてショックを受け、病院を抜け出す銀次・・・一方、母や姉にうんざりした春子は自暴自棄になり、米軍のパーティーにでかけ、3人の米兵に犯されてしまう。米兵の金を盗んでいるところを見つかり、捕らえられる。釈放後、米兵の家から逃げ出した春子は、再び訪ねてきた欣太と川崎でやり直そうと話し合う。そんななか、米軍が残飯をただで引き渡すことをやめることがわかり、ヤクザたちは養豚から手を引くことに。親分を見限った欣太の兄貴分たちは豚を盗み出して売ることを思いつき、その手引きを欣太にやらせる。ところが、子分の造反を知った親分が先回りし、しこたま殴られた欣太は豚といっしょにトラックの荷台に放りこまれる。親分と兄貴分たちはドブ板通りでぶつかり合うが、結局手打ちに。懲りもせず、欣太を殺人罪の身代わりにしようとする。ぶちぎれた欣太は荷台で見つけたマシンガンをぶっ放し、親分・兄貴分と銃撃戦に。欣太は何台ものトラックにつめこまれた豚をいっせいに放す。ドブ板通りは豚に埋め尽くされ、兄貴分たちは豚に踏みつぶされる。腹に銃弾を受けた欣太も売春宿の便器に頭をつっこんで力尽きる。約束の時間に駅に現れないことを心配した春子がドブ板通りに来てみると、欣太の死体が担架で運ばれている。春子は連れ戻そうとする母親に抱きかかえられながら、「ばかやろー」と叫ぶ・・・その後、米兵の愛人になろうとしている春子。春子の家の外では米兵が待っている。ところが、「やっぱり川崎に行く!」と思いたった春子は母や姉が止めるのも聞かず、家を出る。入港した軍艦目当てに港へ向かう女たちとは逆に、横須賀駅に向かう春子・・・Fin。

笑えるけどヘビーな「重喜劇」としてつくられたらしいけど、この時代からは60年も隔たった現代のぼくはあまりに圧倒的な現実を前にして、素直にフィクションを笑うことができなかった。61年公開当時はどうだったんだろう。多かれ少なかれ身近な現実を反映した内容に、お腹を抱えて笑ったのかもしれない。笑うしかないとも言えるが。昨年亡くなった白石顕二さんが、飢餓を扱った残酷な内容の映画を見てアフリカの観客がゲラゲラ笑うという話をされていたが、60年前の日本も大して変わらなかったのかもしれない。早口だし時代も違うので、正直セリフが聞き取れないところもあったが、それがかえってリアル。中国語や英語で話している場面もあるのに、字幕はない。言葉の意味よりも異文化がぶつかり合っていた当時の空気を感じろということだろう。画面の暗さも同じこと。見えないものを見えないものとして描くことで、映像に凄みが加わっている。それから、この映画で鮮烈デビューした春子役の吉村実子はぜんぜん美人じゃないけど、カワイイ。萌え~

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2006年4月20日(木)

2006_04_20taishyoken今日のラーメン:「らーめん(750円)」@淵野辺『大勝軒』(南口)←北口にも同名店あり
有名な池袋のお店と同じく永福町『大勝軒』の暖簾分けだが、池袋『大勝軒』系のお店とはずいぶん印象が違う。共通点は麺が太めであることと、量が多いことぐらい。煮干や鰹節の味がすっきりしていて、ぼくはこちらのほうが好き。分厚いチャーシューもグー。表面に油が層をつくっているのも特徴的・・・★★★★

Suizenji昨日に引き続き、淵野辺の「遊べる古本屋」でドーナツ盤を漁った(結局、散財してしまった)。ばかジャケの宝庫である70年代ディスコの日本盤シングルや、トーキング・ヘッズ「サイコ・キラー」のパロディ=「サイコ・チキン」(←たぶん、イントロのギターが「コッコッコッコケー」と聞こえたんだろう)とか、山本リンダ「狂わせたいの」(ジョン・レノンは「ビートルズであれストーンズであれ、ジェリー・リー・ルイスの『火の玉ロック』にかなうものはない」と言ったが、日本では同じことが山本リンダに当てはまる)とか、B面のほうが百倍カッコいいゴールデン・カップス「長い髪の少女」とか、ジャケがかっこいい沢田研二「時の過ぎゆくままに」(←いい曲だなぁ~)とか、愛しのキャンディーズとかいろいろ手に入れたのだけれど、今日はとりあえず水前寺清子「1+1の音頭」(1970)を紹介しよう。日本太鼓でいかにも盆踊り風に始まっておきながら、ホームドラマで使われそうな軽快なホーンが入り、チータがぐいっと押し出すようなこぶしを利かせて弾けたヴォーカルを聞かせる。「さみしいときはめそめそしよう/怒ったときはふくれちゃえ/嬉しいときはにやにやしよう/たのしいときは口笛吹こう/君たす僕 アイ・ラブ・ユー」・・・作詞は星野哲郎。この人、演歌の巨匠のくせに時々子供みたいな歌詞を書く。それがまた、いいんだ。ちなみに、同じく星野氏作詞のB面は「A・B・C小唄」。両面とも振り付けつき。

Lesson_before_dying_1アーネスト・J・ゲインズの小説が原作のテレビ映画A Lesson Before Dying (ジョセフ・サージェント監督、1999)を見た。『ジェファーソンの死』として邦訳も出ている原作とストーリーの流れはほとんど変わらないので、邦訳を紹介した1月9日の日記から引用すると・・・

「舞台は1948年、米南部ルイジアナ州の田舎町バイヨンヌと、そこから20キロほど離れたプランテーションの小さな村。町で白人の商店主が強盗との撃ちあいの末、殺される。たまたま現場に居合わせた黒人青年ジェファーソンは、出来心からレジの金を盗んで逃げようとしていたところを捕まり、死刑の判決を受ける。弁護士はジェファーソンの無罪を勝ちとろうと、彼を豚呼ばわりする。知能の劣った黒人を電気椅子に送るのは、豚を電気椅子に送るのと同じだ・・・と。村の教師グラントは育ての親であるおばとジェファーソンの祖母ミス・エマに求められて、しぶしぶ獄中のジェファーソンに話をする役割を引き受ける。ジェファーソンを豚としてではなく、人間として死なせるために・・・自らを豚呼ばわりし、『恵まれた』黒人であるグラントに憎悪の目を向けていたジェファーソンだったが、死刑の日が決まったころから、次第にグラントに心を開いていくようになる。一方、不倫相手である女教師ビビアンの離婚を待って、停滞した田舎町を出て行こうとしていたはずのグラントも、ジェファーソンと話をするなかで自分自身を見つめなおす。信心深いおばやミス・エマ、アンブローズ牧師らとぶつかり合いながらも、コミュニティの人たちを愛しながら、人種差別に晒された閉鎖的なコミュニティの『悪循環』を断ち切る可能性を、ジェファーソンとの会話のなかに見出していく」

苦悩する教師グラントを、『ホテル・ルワンダ』『青いドレスの女』のドン・チードルが好演。原作では内面の葛藤がつぶさに描かれているためか、生徒に当り散らすグラントの嫌な部分も目についたのだが、映画では生徒を思いやる優しい先生といった印象。とは言え、白人が支配する閉鎖的な南部で、読み書きや算数を教えることにどれほどの意味があるのか自問しつづけているところは同じ。そんなグラントがジェファーソンとのやりとりのなかで気づいたのは、人々と暮らしを共有することの大切さであると言えるかもしれない。だからこそ、ジェファーソンは「豚」ではなく、他人を思いやる「人間」として死ななければならなかったのだ。また、南部を捨てようとしていたグラントを思いとどまらせたのも、ジェファーソンの死を受けとめるコミュニティとの絆だったろう。教師の仕事は知識を伝えることだけではない。もっと大切なのは、自分自身も答えが見えないことに対して生徒とともに取り組むことなのではないだろうか・・・グラントとジェファーソンのやりとりを見ていてそう思った。また、死が約束されている重苦しいストーリーとは対照的に、南部の美しい自然と人々の暮らしが鮮やかに描き出されており、これほどまでに抑圧的な南部を捨てられない人々がいるのはなぜなのか、見るものに訴えかける。グラントの生徒たちがジェファーソンに別れを告げに来るシーンで、不覚にも涙が止まらなかった。

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2006年4月8日(土)

Mandabiセネガルを代表する作家・映画監督=ウスマン・センベーヌの映画Mandabi (1968)を見た。イブラヒマ・ディエンは二人の妻と七人の子供を抱えながら、仕事にあぶれている。家族はその日の食事にもこと欠き、近所の商店からツケで買い物をして何とか暮らしている。そこへパリで働く甥=アブドゥから郵便為替が届く。同封された手紙には、送った金の一部を母親に渡し、一部をイブラヒマが受けとって欲しいと書いてあった。さっそく郵便局で換金しようとするが、手数料50フランと身分証明書が必要だと言われてしまう。身分証明書をもらいに警察署に行くと、出生証明書とスタンプ、写真3枚と50フランが必要だと断られる。そのころ、イブラヒマの家では為替が届いたことを知った近所の人たちがお祭り騒ぎをはじめている。また、悪徳商人のマヤベはイブラヒマの家を狙っている。帰宅したイブラヒマに金や米を無心する人たち。イブラヒマはどうせ数日中には換金できるのだからと、気前よくなけなしの米を貸す。翌日、市役所で出生証明書を発行してもらおうとすると、正確な生年月日が分からないとだめだという(イブラヒマが生まれたのは「1900年ごろ」ということしか分からない)。困り果てたイブラヒマは成功した甥=アマスに頼んで何とか出生証明書を発行してもらい、借りたお金で写真を撮ってもらう。家に帰るとアブドゥの母親=アストゥが金を受け取りに来ている。アストゥは為替が換金されていないことを知り、烈火のごとく怒る。イブラヒマは妻のアクセサリーを担保に金を借りるが、アストゥに渡す金額には足りない。次の日、写真屋に行ってみると写真はできていないと突っぱねられ(写真屋は詐欺師だったのだ)、抗議したイブラヒマはボコボコに殴られる。傷だらけで帰宅した夫を見て、二人の妻は夫が為替を盗まれたと近所に吹聴する。妻たちの嘘を信じた近所の人から施し物が届けられ、イブラヒマは罪の意識を感じずにはいられない。商店からもこれ以上借金することができなくなり、困り果てたイブラヒマにマヤベが声をかける。自分が為替を換金してきてやろうというのだ。すべてをマヤベに委ねたイブラヒマが翌日彼のオフィスを訪ねると、マヤベは為替を盗まれたと言う。お金はないからと米を10キロ渡されて、呆然として家に帰るイブラヒマ。この国では謙譲は美徳ではなく、罪になってしまったと嘆く・・・

郵便局から警察署、市役所とたらい回しにされるところなんかはコメディというべきなのかもしれないけど、アフリカではいかにもありそうな話なので、ちょっと笑えない。詐欺師に騙されたり、近所の人にお金を無心されたりというところも同様。それだけアフリカの社会がリアルに描かれているということだろう。ある意味では、濃密な人間関係が生きているとも言えるわけで、犯罪や貧困にもかかわらず人々は互いに助けあっている。だが、アフリカの人たちだって、そうしたモタレアイを鬱陶しいと思っていないわけではないのだ。アフリカの人がこの映画を見たら、どんな反応を示すんだろう。ゲラゲラ笑うのか、それともやっぱりニヤリとしながら複雑な思いを抱えこむのか・・・本筋以外では、妻たちから至れり尽くせりの世話をされながら、たえず威張り散らしているイブラヒマの亭主関白ぶりがこと細かに描かれており、後半の打ちひしがれた姿と鋭い対照をなす。赤茶けた砂埃に覆われたダカールの町が鮮やかに捉えられているところも魅力。画面全体がくすんでいるのはたぶん保存状態のせいだろうけど、それすらも砂漠に追いつめられた港町ダカールの風景とリンクしているかのような錯覚に陥る。コラやジェンベとメリスマのきいたヴォーカルで織りなされる音楽も素晴らしい。

1923年セネガルのカザマンス地方に生まれたウスマン・センベーヌは、フランス語で小説を書く作家として活動をはじめた。しかし、文盲率の高いアフリカで、しかも現地の言葉ではないフランス語で書くことに疑問を覚え、より広い人々に自分の作品に触れてもらうため映画製作をはじめた。一方で作家としての活動も続けており、『セネガルの少年』(1957)、『帝国最後の男』(1981)などの作品は邦訳もある。この映画と同内容の中編小説(Le Mandat、1964)も、『消えた郵便為替』(片岡幸彦訳、青山社)として翻訳されている(「アフリカ文学の日本語訳一覧」参照)。1日の日記にも書いたように、最新作『母たちの村』(Moolaade、2004)が6月に日本でも公開される予定である。

In_old_chicago1871年のシカゴ大火を題材にした映画『シカゴ』(In Old Chicago、ヘンリー・キング監督、1937)を見た。1871年10月8日夜、オレアリー家の納屋から出た火は、二日間にわたってシカゴの町を焼き尽くし、300人近くが命を落とした。この大火はオレアリー家の牛がランタンを蹴とばして起こったと言われており、ビーチボーイズブライアン・ウィルソン『スマイル』に収録されている「ミセズ・オレアリーズ・カウ」もこの言い伝えを元にしている。映画は1853年、アイルランド移民のオレアリー家が中西部からシカゴに出てくるところからはじまる。シカゴに到着する直前、父パトリックはスピードの出しすぎで馬車から落ちて死んでしまう。母モリーはシカゴで洗濯屋をはじめ、女手ひとつで三人の息子ジャック、ディオン、ボブを育てあげる。またたく間に13年がすぎ、ジャックは正義感の強い弁護士に、ディオンはギャンブル好きの青年になっており、ボブは洗濯屋の女中グレチェンと恋に落ちる。ディオンはシカゴの歓楽街を牛耳るギル・ウォーレンの酒場で、美しい女性歌手ベレ・フォーセットを見初める。彼女に何かを感じたディオンはストーカーまがいの求愛で彼女の心を射止め、共同経営者として新しい酒場をはじめる。一方、酒場を閉店したウォーレンは市長に立候補し、ディオンは半ば強引に市長選への協力を約束させられる。一方、兄のジャックも良識派の支持を得て市長選に出馬。ディオンはウォーレンの差し出した金を受け取りながら、裏に手をまわしてウォーレンの落選を画策する。市長になったジャックは町の浄化に乗りだすが、賭博場を廃止しようとしたことからディオンと衝突。ジャックはベレを仲間に引き入れ、ディオンの不法行為について法廷で証言させようとする。ディオンはベレと結婚することによって、証言を阻止しようとする(妻は夫に対する不利な証言ができない)。立会人として結婚を祝福したジャックはディオンの汚いやり口に激怒し、兄弟は殴りあう。ちょうどそのとき、オレアリー家の納屋から火の手があがる。賭博場を一掃しようとするジャックの陰謀だと思いこんだウォーレンら一行は、ジャックのもとへ押しかける。やはり兄の仕業だと考えていたディオンだが、火がオレアリー家から出たものであることを知り誤解を解く。最後は兄弟三人が力を合わせて、シカゴの人々を延焼から救おうとするが・・・

火事のシーンは圧巻。延焼を防ぐためにダイナマイトを仕掛けられた賭博場が轟音と共に崩れ落ちるところなど、ブライアン・ウィルソンもこの映画を見ていたに違いないと思わせる。爆破に驚いた牛の群れが逃げ出しウォーレンがつぶされるシーンも、ものすごい迫力だ。70年近くも前の映画とは思えない大スペクタクルである。他にもアイルランド系家族の結びつきの強さとか、初期シカゴの舗装されていない道路(雨が降るとドロドロになってしまう)とか、見どころはたくさん。例によって、黒人のメイドさんとか「オールド・ケンタッキー・ホーム」とか、ミンストレル的要素もチラホラ。何にしても、見逃せない作品だと思う。

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2006年4月3日(月)

2006_04_03ichihachiya今日のラーメン:「ラーメン+茎わかめ(600+50円)」@横浜『壱八家』横浜スカイビル店
家系の店にはトンコツ(+鶏がら)の味わいがストレートに出たところと、昆布のような旨みが加わったところとあるような気がするのだが、ここのは後者だと思う。化学調味料の部分もあるのだろうが、この程度なら気にならない。重たいスープはパンチもある。麺は典型的な家系とは違うかもしれないが、ぼくは好き。スカイビル10階・・・★★★★

Their_eyes_were_watching_godゾラ・ニール・ハーストンの代表作をTVドラマ化したTheir Eyes Were Watching God (ダーネル・マーチン監督、2005)を見た。黒人だけの田舎町イートンヴィルに、ある日身も心もボロボロになった黒人女性が戻ってくる。人々は彼女=ジェイニーが年下の恋人=ティー・ケイクに騙されて身包みはがされたのだと噂するが、ジェイニーは「ティー・ケイクは何も取らなかった」と友人フィービーに身の上を打ち明ける・・・ジェイニーは南部の田舎町に生まれた。梨の木が花を咲かせるのを見て愛に目覚めた彼女は、通りかかった若者=ジョニー・テイラーにキスをする。育ての親である祖母はそれを見て厳しく咎める。孫娘に「ちゃんとした結婚」をして欲しいと望んでいた祖母は、ジェイニーを父親ほども年上の農夫=ローガン・キリクスと結婚させる。キリクスとの結婚生活は農作業に追われる単調なものだった。そこに現れたのがやり手の自信家=ジョディ・スタークスである。ジェイニーはスタークスの誘いにのってキリクスを捨て、黒人だけの「町」イートンヴィルへ向かう。ジョディは自らの手腕で何もない田舎の村を小さいながらも街灯や郵便局のある町へと発展させ、市長に選出される。今や市長夫人となったジェイニーだが、日に日に束縛を強めるジョディとの生活に息苦しさを感じはじめる。ジョディが死んだとき、彼女は悲しみと同時に自由を感じている。ジョディの喪も明けないころ、ジェイニーの雑貨店に魅力的な若者ティー・ケイクが現れる。ティー・ケイクはジェイニーにチェッカーを教え、夜中の釣りに連れだす。恋に落ちた二人は、周囲の反対を押し切ってイートンヴィルを出ることに。ギャンブルで彼女の金を使いこんだりしてジェイニーを心配させるティー・ケイクだったが、そうしたトラブルも二人の絆を強めるばかりだった。ところが、フロリダの湿地帯で平穏な生活をはじめた二人を嵐が襲う。ジェイニーを助けようとしたティー・ケイクは犬に噛まれ、狂犬病に罹ってしまう。病気による妄想のなかジェイニーが自分を捨てると思いこんだティー・ケイクは彼女を撃ち殺そうとするが、身を守ろうとしたジェイニーに逆に撃ち殺される・・・

いくつか省かれたエピソードがあったり、セリフが加えられていたりするものの、ストーリーの流れは原作のまま。美しい言葉で描かれた苦い結末の物語に、鮮やかなイメージが与えられている。何度も読んだ作品なのに、この映画を見ると「まだまだ頭で考えていたなぁ・・・感じ取れいていなかったなぁ」と思う。ぼくのイメージはせいぜい白黒の静止画像でしかなかった。そこに色がついて動きだすと、美しく悲しい物語が現実のものとして立ちあがる・・・ジェイニーだけではない。そこには土地を耕すことだけが人生だったキリクスや、誇り高く生きようとするあまり自分で自分の首を絞めていったジョディの孤独も浮かびあがる。人生は苦いもの。でも、だからこそティー・ケイクと出会って自分をとり戻し、開放感あふれる湿地帯の風景のなかで周囲の人々と交わりながら暮らした幸せな日々が際だつのだ。話を終えるとジェイニーはティー・ケイクの上着を引きよせる。原作はここで終わっているのだが、映画ではそのあと外に歩みでたジェイニーが満足げな高笑いをする。何にしても彼女は他の人が見れないものを見た。ジョディのような男との結婚で人生を終わらせてしまう女性がほとんどなのだ。ジェイニーはその一歩先まで見てきた。そして、彼女の人生は終わったわけじゃない。映画では「彼らの目は神を見ていた」という言葉が、「神さまを見てるの」というジェイニーのセリフ(3回くり返される)に置き換えられているが、製作者がその言葉にこめたのもそのことではないか。一瞬でも自分の人生を生きたという実感を持てたジェイニーの物語は決して悲劇ではない。ジェイニーはまた歩きだす。

もう一度原作を読んでみよう。

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2006年3月31日(金)

2006_03_31arigataya今日のラーメン:「キャベツらーめん(700円)」@平沼橋『ありがた家
名古屋コーチンの鶏油が自慢とのこと。なるほど、油の香りが全体を包み込んで、豚骨醤油なのに鶏がらのスープであるかのような錯覚を受ける。家系のなかではさっぱりしているが、鶏油の強いコクのおかげでキャベツを受けとめるだけのインパクトもある。チャーシューは味が濃く、ほぐれ方がコーンビーフみたいで、ぼくにはちょっと・・・★★★+

Black_samurai『燃えよドラゴン』に出演して一躍スターダムにのし上がった元全米空手チャンピオン=ジム・ケリーの主演映画『ブラック・サムライ』(Black Samurai、アル・アダムソン監督、1977)を見た。香港からの麻薬密輸計画を未然に防いだ大臣の令嬢トーキーが、悪の教団と手を結んだ麻薬組織によって誘拐される。香港のサムライ養成所で訓練を受けた秘密調査員サンド・ドラゴンは「ブラック・サムライ」の異名を持つ空手の達人。サンドはガールフレンドのトーキーが誘拐されたことを知り、単身教団の本部へ乗り込んでいく・・・バイオレンス、お色気シーン満載の典型的ブラックスプロイテーションだし、もちろんブルース・リーをはじめとするカンフー映画の影響も色濃いのだが、どちらかと言えば『Gメン'75』海外ロケの世界に近い。『シャフト』『スーパー・フライ』『コフィ』といったブラックスプロイテーションの名作は、誇張はあるにしても麻薬犯罪や人種差別といった現実を反映している。日本人は目をつぶりたがるけど、ブルース・リーのカンフー映画だって日本の支配という重い現実が背景にある。それと比べると、「悪の教団との対決」というこの映画のテーマはあまりに荒唐無稽で、次々と残忍なやり方で敵を殺すサンドの怒りがどこから来たものなのかよく理解できない。香港で修行した場所が「サムライ養成所」だったり(トーキーは「父は本物のサムライよ!」なんて言ってる。香港の中国人が?)、悪の教団の名前がブードゥーだったり(下っ端は黒人ばかりなのに、教祖は白人)、異文化に対する無神経さが鼻につく。しかも、演じているのが当の黒人やアジア人なのだから、ある意味ミンストレル的だ。小人症の「フリークス」が脈略なく使われているところも含めて、P・T・バーナムをはじめとするアメリカの見世物小屋の伝統に連なる作品と言ってもいい。こうしたことを知ったうえで、この映画のおバカぶりを楽しむこともできるだろう(実際、B級映画としてはツッコミどころ満載。教祖の別荘がある離島にジェット噴射機を背負ってぶーんと飛んでいくところなんか、かなりトホホ)。でも、当時この映画を見ていた人たちに、異文化に対する知識や配慮があったとは到底思えない。それは「おバカ」というよりも、「愚か」と言ったほうがいいのではないか。ま、さすがにこの映画を笑って楽しむバカはそう多くはなかったと見え、興行的には散々だったらしい。

Enter_the_dragon_1・・・なんて偉そうなことを書いたくせに、ブルース・リーの映画をちゃんと見ていないことに気がついた。さっそく、『燃えよドラゴン』(Enter the Dragon、ロバート・クローズ監督、1973)を手に入れて見てみた・・・ワナワナワナワナ・・・こ、ここまで凄いものだったとは・・・ジム・ケリー扮するウィリアムズが白人警官の嫌がらせを受けていたり、ローパーとウィリアムズがベトナム戦争の戦友だったり、本筋とは関係のない登場人物の背景がさり気なく描かれているので、それぞれの行動がすごく納得いくものになっている。香港の貧しい水上生活者の様子が鮮やかに映し出されたあと、ウィリアムズが「(武道大会を主催する)ハンってやつは金持ちらしいな。ここにいるやつらとは違うってわけだ。どこの世界にもあることだけど、胸糞悪いぜ」って言うシーンなんかは、登場人物のパーソナリティと香港の現実を同時に浮かびあがらせる見事な演出だと思う。緩急つけたプロット、格闘シーンの見せ方の多彩さも秀逸。ウィリアムズとハンが鳥籠から逃げ出した鳥をはさんで戦うシーン、鏡の間でリーとハンが決着をつけるシーンなど目が離せない。首がボキッとなっちゃったりする残酷なシーンはほとんど格闘家のアップで、かえって見るものの想像力をかきたてる。血まみれになったウィリアムズがつるされているシーンとか、槍に刺さったハンの死体が回転扉のうえでくるくる回るシーンの倒錯的な美しさが際だつのもそのためだ。何よりも、リーのカッコよさ、チャーミングさにしびれた。すべての戦いが終わったあとに軍のヘリがやってきたとき、「おせーよ!!」とつっこんだのはぼくだけではないだろう。ブルース・リーのカンフー映画は全部見ることにしますアターッ。

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2006年3月29日(水)

2006_03_29kwankwan今日のラーメン:「ラーメン(600円)」@瀬谷『本格博多ラーメン くわんくわん
店内に立ちこめる豚骨臭は臭いというよりも、むしろ心地よい。出てきたラーメンは見た目かなりシンプル。スープは濃厚そうに見えて意外とサッパリ。旨みは強いがひきも早く、化学調味料は使っていないと思う。豚骨ラーメンというよりも、シンプルな塩ラーメンのような趣も。極細麺やコリコリしたキクラゲもいい感じ・・・★★★★

God最近、自分がひどい方向音痴であるということにようやく気がついた。昔から、助手席に座ってナビゲーターなんて絶対にムリだった。どっちが北か考えながら地図をグルグル回しているうちにわけがわからなくなってしまうのだ。地図を片手に行ったことのないラーメン屋に行こうとした日には、ほとんどオリエンテーリング状態である。電信柱の住所を見て「ここが3-4だから・・・すぐそばのはず!」とか言っているうちはまだいい。「さっきあのガソリンスタンドの横を通ったから・・・」とか言いだすと(←せめて右とか左とか言って欲しいものである)あとは同じところをグルグル回って、結局人に助けを求めることになる。今日も駅から徒歩20分のラーメン屋に行ったまでは良かったのだが、帰りの道を間違えてふと気がついたら見たこともないお墓のなかにいた。げげっ、呼ばれてる!(←呼んでません)・・・でも、迷ったおかげで変な店を見つけた(写真)。神さま!・・・これがあるから、オリエンテーリングはやめられない。

Amandlaアパルトヘイト闘争における音楽の役割を描いた映画『アマンドラ!希望の歌』(Amandla!、リー・ハーシュ監督、2002、DVD)を見た。1991年にアパルトヘイトが廃止されるまで、南アフリカではオランダ移民の子孫であるアフリカーナーが、アフリカ人やインド系住民などの有色人種に対して過酷な隔離政策を強いていたことは広く知られている。とりわけコサズールーなどのアフリカ人は民族ごとにホームランド(バントゥースタン)と呼ばれる痩せた居留地に隔離され、パス(身分証明書)なしには自由に移動もできなかった。一方で、白人の産業は安価な黒人労働力を必要としており、アフリカ人出稼ぎ労働者やその家族は、都市周辺につくられたソウェトのようなタウンシップで非人間的な生活を送ることを余儀なくされた。制度としてのアパルトヘイトが完成したのは、1950年代のことである。それまでも人種差別はあったが、都市部にはソフィアタウンのような町でジャズの影響を受けた華やかな文化を謳歌する比較的裕福なアフリカ人もいた。ところが、50年代後半、隔離政策の強化にともなって、ソフィアタウンからアフリカ人が一掃される。さらに、パス法に反対する人々に軍隊が発砲し、69名の死者、180人以上の負傷者を出したシャープヴィル事件をきっかけとして、自由を求めるアフリカ人の闘いは激しい弾圧を受けることになった。

こうした歴史のなかでの音楽である。音楽理論を学べる程度には裕福な暮らしをしていた50年代のジャズ・ミュージシャンのなかには、アメリカのジャズが抱え込んでいるようなエリート意識を持つ者もいたかもしれない。しかし、隔離政策によって住む場所を奪われ、虐殺によって家族を殺されるなか、彼らもまた闘いに身を投じていく(ヴィシニ・ミニのように絞首刑に処されたミュージシャンもいる)。自由を求める闘いのなかで、南アフリカのジャズは急速に土着化した。ミリアム・マケバヒュー・マセケラアブドゥーラ・イブラヒムといった人たちは亡命を余儀なくされたが、彼らはみな狂おしいまでに故郷の人々を恋しがった。亡命者のなかには、ジャーナリストで雑誌『ドラム』の編集者だったナット・ナカサのように望郷に駆られて自殺するものも少なくなかった。亡命者たちが生きのびてこれたのも、闘いと音楽を通じて人々との結びつきを失っていないことを意識できたからだろう。

1976年、ソウェトでアフリカーンス語(オランダ語をもとにできたアフリカーナーの言語)による教育の強制に反対した子供たちに軍隊が発砲し、死者176人、負傷者1139人を出す(ソウェト蜂起)。これ以降、若い人たちの力によって反アパルトヘイト闘争は急速に激化。61年に結成されたANCの武装部門ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の盾)の指導のもと、周辺のアフリカ諸国で訓練を受けたアフリカ人ゲリラが各地で破壊活動をくり広げるようになる。戦闘や獄中で多くの「同志」が命を落とすなか、人々を勇気づけたのもまた音楽だった。戦士たちは仲間の死を涙ではなく、歌を歌うことで悼んだ。死刑囚たちは歌を歌いながら絞首台に向かった。また、80年の独立以降、反アパルトヘイト闘争の拠点となったジンバブウェから伝わった、踊りと歌が一体となった「トイ・トイ」(トーマス・マプーモのアルバムにも同タイトルのものがある)は人々を鼓舞し、機動隊員を震えあがらせた。80年代を通じて行われたこうした闘いの結果、90年にはネルソン・マンデラが釈放され、91年にアパルトヘイトが廃止される。94年に行われた総選挙でANCが過半数を獲得、マンデラが大統領に就任。南アフリカは「虹の国」として再出発した。

今の日本人の目からすると、闘いと音楽というテーマはピンと来ないかもしれない。「気をつけろよ、フルウールト、黒人が来るぞ」とか「ボタを殺せ」(フルウールトとボタは、アパルトヘイトをすすめた南アフリカの首相、大統領)といった直接的な言葉に嫌悪を覚える人もいるかもしれない。しかし、虐殺を行ったのはアフリカ人ではなく、アフリカーナー政府の側だったことを忘れてはならない。アフリカ人はアフリカーナーの暴力に対して、最小限の抵抗をしたにすぎない。そして、そうした抵抗がなければ彼らは自由を獲得することができなかっただろう。もちろん、革命が成功したあとに、その暴力的なエネルギーが行き場を失ってエスカレートするということはありうる。南アフリカの場合、マンデラやツツ司教といった人たちの人望もあって、そうした事態には至らなかった(もちろん、治安や経済の点でたくさんの問題を抱えてはいるのだが)。

なお、「アマンドラ」とは「(人々に)力を!」という反アパルトヘイト闘争の合言葉である。十数年前、日本でも上演された同名のミュージカルとは別内容(映画はドキュメンタリーだからね)。→アパルトヘイト時代の南ア史@Wikipedia

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