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2019年10月19日(土)

友人に教えてもらった猫背矯正ベルトを装着。意外にも心地よい。若いころから、姿勢があまり良くなかったが、パーキンソン病を患ってからは、薬がきれると足が前に出ないので、前かがみになることが多かった。周囲の人からも、「姿勢良くして歩いたほうがいいよ」と言われるのだが、どうやって姿勢を直したらいいかがわからない。パーキンソン病患者の身体は、神経伝達物質ドーパミンの不足により、届きにくくなった脳の命令に代わる、別の指揮系統を求めているようなところがある。例えば、すくんだ足も、一歩先に線を引いてやると、その線を越えることで踏み出せることがある。矯正ベルトも同じことで、筋肉に動く規範を与えてやると、うまく動けるようになるのではないか。

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アメリカ黒人の呼称について考えてみた。「黒人」という言葉は、アメリカ黒人のなかにある肌の色の多様さを捨象する不正確な表現であるとして、「アフリカ系アメリカ人」という呼称が選択された、という一面がある。しかし、もし正確さだけにこだわるなら、肌の色の多様さにも現れているように、「混血」が進んだ現在、アメリカ黒人のほとんどはアフリカ系であると同時に、ヨーロッパ系であったり、アジア系であったりするはずである。とすれば、アフリカ系アメリカ人という呼称は、一滴でもアフリカ人の血が混じっていれば、「黒人」として差別されたワン・ドロップ・ルールを追認することにならないだろうか。もちろん、これは表現の正確さにのみこだわるなら、という話である。「アフリカ系」という呼称は、様々なルーツを抱え込んだ人たちが、共通の歴史を基盤として選択したアイデンティティである。同時に、表現の不正確さにもかかわらず、「黒人」という言葉にも、同じような可能性が残されているのではないかとも思われる。

一方で、60年代くらいまでは普通に使われていた「ニグロ」という言葉は、現在では差別的なニュアンスがあるとして、使うのを避けるようになった。語源であるラテン語negroには、「黒い」という以外の意味はなく、差別的ニュアンスはないと、この呼称を擁護する人もいる。実際、60年代の統計では、自分のことを「ニグロ」と呼んで欲しいというアメリカ黒人が一番多かった。しかし、差別語が最初から差別的なニュアンスを持っていたとは限らない。差別的なニュアンスを持たなかった言葉が、差別的なコンテキストで、差別的な意図を持って使われるうちに、差別的なニュアンスを刻印され、差別語として忌み嫌われるようになっていくことはめずらしくない。(逆に、黒人同士の間で、差別語が連帯を表すために使われることがあるのは、コンテキストが違うからこそ成立することである)

例えば、誰かがぼくのことを「ひらげ」と呼ぶとき、「やあやあ、ひらげさん」と親しみを込めて呼んでくれれば、これは愛称である。しかし、「やーい、やーい、ひらげ」「ひらげめ」となると、蔑称に他ならない。それが数十年もずっと続いて、子供も「ひらげの息子め、ひらげの娘め」と罵られるようになれば、これはもう立派な差別語だ。「ひらげ」という言葉にはもともと差別的なニュアンスはなかったのに。このように、差別的なコンテキストのなかで、いつの間にか刻印された差別的なニュアンスは、現実の差別を放置しているうちに、たちまち増殖していく。差別的な状況を放置したり、あるいは加担したりしているものが、「ニグロが差別語なのはおかしい」などというのは、見ていて片腹痛いというべきだろう。(しかし、差別語を擁護するものは、しばしば差別の主体者だったりするのだ)

結論としては、本人たちが呼んで欲しい呼び方というのがひとつの目安になるだろうが、それも状況は刻々と変わっており、昨日「政治的に正し」かった呼称が、いつの間にか差別語になっているということもありうる。まったく、世話が焼けると思う人もいるかもしれないが、それはそうした呼称で呼ばれる本人たちの責任ではなく、そうしなければ、現在も続いている差別的な状況のなかで、差別的な色に染められていく言葉の、差別的な視点に絡み取られてしまうことに問題がある。

※後記
誤解を招く表現が多いという指摘を受け、元の文章を訂正しました。読む人に元の文章の意図を正確に伝えようとするための訂正であり、議論をかく乱したり、間違いを糊塗したりする意図のもとに行ったものではないことをお断りしておきます。

どうも、ぼくの文章は伝わりにくいようなので、念のため書いておきますが、上掲の文章は、差別語は「文脈を理由に復活させるべきではない」という立場から、書かれています(それは文章を直す前からそうです)。差別的な文脈でくり返し使われてきた言葉には、差別的なニュアンスが染みついてしまっています。ある世代の日本人が、ペレス・プラードの「タブー」を使おうとすると、カトちゃんの「ちょっとだけよ」がついてきてしまうようなものです(プラード自身はストリップというコンテキストは想定していなかったと思う)。そうしたニュアンスに無自覚でいることは、被差別者を排除した閉じられたサークルのなかでなら可能でしょうが、いったん気づいてしまうと、表現に誠実であればあるほど、そうした刻印を押された言葉を差別的でない文脈で使うことが難しくなる。差別語の排除が過ぎると、文脈を無視した言葉狩りのようになって、自由な表現が損なわれるというのもわかるのですが、文脈を重視するなら、差別的なニュアンスが染みついた言葉をそうでない文脈で使うこともまた、適切ではないように思います。

そういった意味では、黒人同士が差別語で呼び合うとか、ジョン・レノン「女性は世界の奴隷か」("Woman Is the Nigger of the World")とかは、言葉の差別的なニュアンスをわかったうえで、逆手にとって差別に対する皮肉やカウンターとして使っており、「あり」なのではないかと個人的には思います。ぼくはそれについて結論じみたことを言える立場にはありませんが。

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コメント

誤解を招く表現が多いという指摘を受け、元の文章を訂正しました。読む人に元の文章の意図を正確に伝えようとするための訂正であり、議論をかく乱したり、間違いを糊塗したりする意図のもとに行ったものではないことをお断りしておきます。

「良い意味で」と付けてよろしくない評価をする言い方が、聞いていて切なくなります。
断りを入れないと悪意があると取られかねない表現は、そもそも言葉の選択が間違っていると思わずにいられないのであります。
読みながらそんな事を思いました。

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