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2018年1月31日(水)

横浜国大非常勤「英米文学」、第十五回目(最終回)。最終回にようやく、1970年代後半に注目を浴びた黒人女性作家たち ― アリス・ウォーカーと、トニ・モリソンにたどり着いた。もっと早く取り上げて欲しかったという学生もいたが、時系列でアフリカ系アメリカ人の歴史を追いながら、文学を紹介していくと、こういうことになっしまう。今回の内容は、明治学院「アメリカ研究」の最終回とほぼ同じなので、そちらを参照されたい。ウォーカーについては、女性器切除反対の運動に触れたところ、反響が大きかった。授業の後半では、アミリ・バラカの「変わっていく同じもの」、ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニアの「シグニファイイン」といいった概念を紹介しながら、先行するテキストをパロディ的に援用しながら、新しいテキストを生み出してく、アフリカ系アメリカ人の文化の受け継ぎ方について話し、グランドマスター・フラッシュの「ザ・メッセージ」を聞きながら、その機械的なビートは先行する肉体的なビートをパロディ的に受け継いでおり、これをリズムのシグニフィイインと呼んでも良いのではないかという自説を展開した(これで、ヒップホップに言及するという「宿題」も果たせた)。

歴史や社会的な問題ばかりで、「英米文学」らしからぬと言われたこの授業。もちろん、黒人作家の作品を理解するには、その背景を知らなければならないという考えがあってのことだが、来年度はそのあたりも少し考える余地があるかもしれない。歴史的な事実の解説と、それをテーマとした作品をひとセットにして紹介するとか。ともかく、お付き合いいただいた学生諸君、ありがとう。

2018年1月30日(火)


YOuTubeで、iPS細胞を用いたパーキンソン病治療についての京都大学の高橋淳先生のお話を聞いた。勉強になった。薬が効いている状態というのは、数が少なくなったドーパミン神経細胞が、L-ドパドーパミンの原料)から必死でドーパミンをつくっている状態なので、必ずしもハッピーな状態ではないというのは、なるほどと思った。根本的な治療としては、ドーパミン神経を再生するしかないのだな。iPS細胞やES細胞による治療研究は思った以上に進んでいるようだ。

2018年1月29日(月)

先週、大雪で中止になった國學院の期末試験。終了後、「飲みに行きませんか」という学生がいた。いきなりかい笑。さすが、若者はバウンス感が違うな。けっこう、うれしかったのだが、パーキンソン病の薬が切れる可能性もあり、試験の答案を持ったまま帰れないということになると厄介なので、「また日を改めて」ということにさせてもらった。それにぼくには、若者に囲まれると、「ひ、ら、げ!ひ、ら、げ!」など大勢に煽りたてられて、高いところに登ってしまうのではないかというオブセッションがある。飲むなら静かにね笑。

2018年1月28日(日)

殺処分ゼロを目指すオープン・マイク「わんにゃんレスキュー」@西荻窪Zizi Annabelle に、ひらげエレキテルとして参加して、2曲歌ってきました。演目は、「焼酎」「かわいい子猫ちゃん」。「焼酎」にはウディさんにブルースハープで参加してもらいました。ウディさん素晴らしいハープをありがとう。

2018年1月27日(土)

なます&パパス。

偶然、宇多田ヒカルの「あなた」という歌を聞いた。歌われているのは、子供のことか。あるいは、亡くなったお母さんのことか。泣きそう。


2018年1月26日(金)

ECDさんが亡くなった。無念。


何気に切ない新曲「きみに会ったよ」。

夢のなかで きみに会ったよ
昨日のことさ
夢のなかで きみに会ったよ
昨日のことさ

もう会えないと思ってた
二度と 二度と
もう会えないと思ってたけど
二度と 二度と

夢のなかで きみは笑ってた
笑ってた 笑ってた
夢のなかで きみは笑ってた
笑ってた 笑ってた

2018年1月25日(木)

「女風呂は小学生以下の男性のお子様と、お身体の不自由な男性のお客様にもご利用いただいております」「えっ」というところで目が覚めた。パーキンソン病患者は「お身体が不自由」にはいるかどうか。

首都大非常勤、後期第十三回目(最終回)。『ジャズの誕生』をテキストに、ほぼ毎回、最初に音楽をかけてきたこの授業だが、最終回は急にぶっとんで、ドン・チェリーの『永遠のリズム』をかけた。いわいるフリー・ジャズに入るのだろうが、この人やオーネット・コールマンの演奏には、アルバート・アイラ―のような極北に立つ悲痛さのようなものはない。むしろ、子供がおもちゃ箱をひっくり返したような感じで、楽しい。学生は、「なんかわけのわかんないもの聞いちゃったな」という感じかもしれないが。テキストは、1限が「特殊な組織というのは、秘密結社のことである。ニューオリンズの黒人の生活には、秘密結社が隅々まで入り込んでいる。<秘密結社や友愛団体を中心としたものほど、人種に特徴的で、急速に発展した黒人の生活の局面はない>と、H.W.オーダムは書いている」まで。2限が第5章「バディ・ボールデンとジャズの発展」に入り、「かつて<カーヴィング・コンテスト>として知られてた音楽のバトルは、ジャズの歴史の中で頻繁に起きてきたし、今でも起きているニューオリンズ時代の初期、それ(音楽バトル)はアームストロングキッド・レナ(これはまさに伝説である)、レッド・アレンガイ・ケリージョー・オリヴァー(のちのキング)対フレディ・ケパードであった」 <もしラッパで相手を吹き負かせられなかったとしても>、トランペッターのマット・キャリーは『ヒア・ミー・トーキン・トゥ・ヤ』のなかで述べている。<ラッパを使って、そいつの横っ面をぶっ叩くことはできるさ>。30年代のカンザス・シティでは、それ(音楽バトル)はサキソフォーン奏者のコールマン・ホーキンスレスター・ヤングであり、ニューヨークではトロンボーン奏者のビッグ・グリーンジミー・ハリソンだった(1953年のバンド・ボックスでは、カウント・ベイシーデューク・エリントンのバンド全体であった)。ジャズのような自由な音楽では、ミュージシャンは持続性があってスウィングする即興演奏の能力によって評価される」、3限はその先、ボールデンのバイオグラフィの続き。「彼は人々の称賛によって「キング」の初号を獲得した最初のジャズマンであり、7年間の間、間違いなくチャンピオンだった。それから、29歳のときに、パレードの最中に発狂し、1907年6月5日、アンゴラの州立病院に収容され、24年後に亡くなった」(ここから、カルテの引用)「死の6年前、ボールデンはS・B・ヘイズ医師の回診を受けている」「接しやすく、返事もはっきりしている。偏執的妄想、誇大妄想あり。幻聴幻覚あり。独り言を言う。過剰な反応。壁に貼ってあるものをむしりとる。自分の服を破る。洞察力、判断力に欠けている。病状は悪化しているように見えるが、記憶はしっかりしている。とりとめのない一連の話。ここに来る前に彼を悩ませた人々の声を聞く。アルコールが原因で、一か月拘置所に入れられた経験あり。診断:早発性痴呆症、偏執狂型」「公式の記録には、バディのっコルネットを運ぶ特権をめぐって女性たちが争ったことを臭わすものは何もない」

江古田マーキーに、ひらげエレキテルとして出演して、6曲歌ってきました。演目は、「New Song」「行こうよ」「かわいい子猫ちゃん」「煙草屋のお嬢さん」「焼酎」「最後の日」。聞いてくだったみなさん、ありがとうございました。暖かいお客さんに支えられて、トークも空回りせず(笑)、楽しく歌うことができました。

2018年1月24日(水)

電車のなかで出産した女性に対して、「自己管理能力なさすぎ」といった批判がぶつけられているという話。ぼくも他人ごとではない。パーキンソン病が悪化して、電車のなかで動けなくなったり、ジスキネジアで身体が勝手に動いてしまったとき、やはり、「そんな身体で電車に乗って来るなよ」「自分の身体のことぐらい、自分で管理しろ」と冷たい目で言われるのかもしれない。実際、身体がうまく動かなくてまごついていると、それに似たような経験をすることもある。そういう人には、あなたは自分の憎悪を管理できているのか?と問いたい。人間、自分の心身だからと言って、そうそうコントロールできるものではないのだということを分かって欲しい。

横浜国大非常勤「英米文学」、第十四回目。前回紹介したマーティン・ルーサー・キングと比較しながら、マルコムXの思想を見た。あいかわらず、文学らしからぬ授業だが、キング師とマルコムのスピーチを文学として読むというテーマを掲げた。キング師のスピーチのベースとなっているのは、言うまでもなく黒人教会の説教だ。会衆とのコール&レスポンスを交えて、聖書のイメージを駆使するその言葉は、絶望のなかで暮らす人々に約束の地を指し示す希望の光というべきかもしれない。一方、マルコムXのスピーチにそうした歓喜の響きはない。皮肉な笑いを交えながら、聴衆が心のなかではわかっていながら、目を背けようとしている現実をつきつける。いわば、異化作用のあるスタンダップ・コメディに近いスタイルだ。

スピーチのスタイルはもちろん、キング師とマルコムは、さまざまな点で鋭い対照を見せる。図式的なことは否めないが、両者の違いをまとめてみた。

Mlkmalcolm

マルコムが訴え続けたのは、自分自身が何者であるかを知り、そのことを引き受けて生きていくということだった。アフリカ系アメリカ人の場合、それは自分たちが奴隷の子孫であるということだ。アメリカ社会で黒人として生まれれば、自分たちの祖先がアフリカから拉致されてきた奴隷であるということは知っている。しかし、そのことを常に意識し続けるのは、あまりにもつらいことで、多くの人がそこから目をそらして生きている。しかし、マルコムはそこから出発するしかないと主張した。奴隷の子孫であることが、現在の苦境の出発点であり、そのことから白人アメリカの罪も見えてくる。アメリカの夢は、黒人にとってアメリカの悪夢であるという言葉も、白人と袂を分かつ分離主義もすべては、そこに端を発する。

キング師の非暴力に対し、暴力も辞さない過激派というのがマルコムの一般的なイメージかもしれない。しかし、マルコムは、「いかなる暴力を支持したことはない」と断言している。仮にマルコムに暴力と関係する面があるとしても、それは黒人の自己防衛とセットで語られるべきものだ。その点では、キング師の非暴力が不服従とセットなのと似ている。マルコムは、武装して身を守る権利が認められた国アメリカにおいて、黒人だけが自衛を認められないことの不公平を訴えただけだ。黒人も、KKKのような団体からの暴力に対し、自衛すべきである。そのためには銃を持つことも辞さない、と。この点は、ネイション・オブ・イスラムとの決別、メッカ巡礼のあとも変わっていない。

メッカ巡礼で白人も有色人種も兄弟として手を取り合っている姿を見て、「白人はすべて悪魔だ」といったイライジャ・ムハンマドの思想から離れ、大きく変化したと言われるマルコムだが、以前から人種を越える思想の萌芽は見られた。バンドン会議を取りあげ、黒人が国際的には少数派ではないことを訴えた1963年のスピーチで、マルコムが「黒人」という言葉で意味しているのは、アフリカ系の人々だけではない。アジア、アフリカ、中南米の広範囲にわたる、すべての抑圧された人々である。この時点ではまだ、肌の色にこだわっているが、ここから境界線は抑圧する側とされる側に引かれるべきであり、白人=ボスであるというのはアメリカ特有の現象であるということに気づくのは、あと一歩という気がする。

いずれにしても、人種を越えた視点という意味では、晩年のマルコムはキング師の思想に近づいたと言えるのだが、キング師もまた晩年にマルコムの思想に近づいたことはあまり指摘されない。とりわけ、ベトナム戦争反対表明に踏み切ったキング師は、あらゆる抑圧されたものの共闘という国際的な視点という意味で、マルコムに接近していたのだと言えるかもしれない。

残りの時間で、「アフリカ文学つまみ食い」第三弾として、チヌア・アチェベの『崩れ行く絆』を紹介した。マッチョな成功者だが、人付き合いの下手なオコンクオと、金にだらしない、しかし、人付き合いの良い失敗者の父ウノカという対照的な親子の葛藤の物語。

ベトナム戦争と黒人というテーマが出てきたので、最後に、アメリカの国歌「星条旗」が北爆の爆撃音と逃げ惑う人々の悲痛な叫びに変わっていく、ウッドストックにおけるジミ・ヘンドリックスの演奏を聞いて、終わり。考えてみれば、アメリカの夢が、抑圧されたものにとっては、アメリカの悪夢であることをこれほど鮮やかに表現したものもないだろう。

2018年1月23日(火)

蕎麦屋へ行くと、ごくたまに、昼から男が一人で酒を飲んでいることがある。大抵は初老で、何も語らず(一人だから)、酒を口に運ぶペースもハシビロコウかというほど、間のびしている。蕎麦は頼まず、ちょっとしたサイドメニューを肴に、ひたすら冷酒と向かいあう姿は、何かの修行かと思える程ストイックだ。昔の時代劇なら、剣豪が身を持ち崩した素浪人といったところか。ここでぼくが悪漢に襲われたら、「酒が不味くなる」とか何とか言って、愚連隊をバッタバッタと切り倒し、銭だけ置いて姿を消す。そう言う人なのだ・・・と言う妄想にふけっているうちに、素浪人はもう一杯酒を注文して、トイレに消えた。剣豪にしては、高いうわずった声だった。まあ、いい。そう言う剣豪もいるだろう。宮本武蔵だって、どんな声をしていたか知れたもんじゃない。剣豪と昼食を共に出来て、ぼくは幸せだった。

2018年1月22日(月)

大雪。休講措置で、國學院のテストは次週に延期。

2018年1月21日(日)

OGSブッキングライブ@新大久保Club Voiceに、ひらげエレキテル+ぢぞ郎で参加して、6曲歌ってきました。演目は、「New Song」「行こうよ」「かわいい子猫ちゃん」「煙草屋のお嬢さん」「焼酎」「最後の日」。聞いてくださった皆さん、ありがとうございました。共演者の皆さん(月桃姉妹、IKAMEN、神田苑)、スタッフの皆さん、お疲れさまでした。

2018年1月20日(土)

國學院非常勤、補講。

2018年1月19日(金)

神奈川大非常勤、後期第十四回目(最終回)。「基礎英語」2コマは最後に読解テストをやって、文法再復習テストの再復習。「基礎英語」は期末テスト。

終了後、保坂さん、山根さん、松野さんと飲みに行く。

2018年1月18日(木)

アゲハ蝶と禿げアチョー。

首都大非常勤、後期第十二回目。『ジャズの誕生』をテキストとするリーディング3コマ。キング・オリヴァーの演奏を聞きながら、授業開始。1限は、「1871年(原書の誤りで、正しくは1881年)、13もの黒人組織が、ガーフィールド大統領の葬儀で、自分たちの楽団によって代表された」「ニューオリンズにおける黒人楽団の卓越と頻出(ニューオリンズから優れた黒人楽団が次々と現れたこと)はどう説明できるだろう。フランスとの密接な関係とブラスバンドの一般的な人気に加えて、ニューオリンズには楽団に雇用を与える特殊な組織と、広範囲の機会に楽団の存在を受け入れる他にはない伝統があった」まで。2限がその続き、「特殊な組織というのは、秘密結社のことである。ニューオリンズノ黒人の生活には、秘密結社が隅々まで入り込んでいる。<秘密結社や友愛団体を中心としたものほど、人種に特徴的で、急速に発展した黒人の生活の局面はない>と、H.W.オーダムは書いている。秘密結社は<埋葬費、疾病手当や亡くなったメンバーの受取人への使用額のお金を払う>。秘密結社はまた、<仕事の単調さからの気晴らし、野心や陰謀の場、パレードの機会、不幸に備えた保険を提供する>とW.E.B.デュボイスは付け加える」まで。3限はずっと先の第5章。「ジャズにおける最初の典型的な伝説は、チャールズ・「バディ」・ボールデンの生涯である。彼はカーヴィング・コンテストで負け知らずだった。コンゴ広場のダンスが終わる前に、8歳になろうとしていた。また、おそらくヴードゥー教のすべてを知っていたし、彼の入っている秘密会議に出席していた。彼はブラスバンドの熱狂のなかで育ち、西洋の楽器であるコルネットを習得した。子供のころ、教会の叫ぶ会衆の一人だった。彼はニューオリンズとその周辺に残っているあらゆる音楽的影響を受け継いでいた。そして、彼のコルネットから飛びだした音が、新しい音楽の確立を助けた」。これまでテキストの課で取り上げられてきた、ジャズ誕生につながる要素(コンゴ広場、ヴードゥー、秘密結社、ブラスバンド、西洋の楽器の導入、黒人教会)が、ボールデンのなかに流れ込み、コルネットからジャズという新しい音楽になって飛びだす、というスリリングな瞬間。ぼくがこのテキストのなかで、一番好きなパッセージのひとつだ。そして、テキストはボールデンのバイオグラフィに。「ボールデンは1868年(教科書の間違いで、本当は1877年)、ニュー・オリンズの荒っぽい住宅地域で生まれた。理髪店を経営し、「ザ・クリケット」と呼ばれるスキャンダル誌を編集し、1897年ごろには、最初の正真正銘のジャズ・バンドを結成した」

2018年1月17日(水)

横浜国大非常勤「英米文学」、第十三回目。前々回、前回と、ようやく文学らしい話になったこの授業だが、再び社会的・歴史的背景の話に。今回は、50年代半ばから70年代初頭にかけての、公民権運動について。50年代に入って、黒人の権利を求める運動は各分野で成果をあげつつあった。とりわけ、公教育における人種隔離を否定したブラウン判決によって、プレッシー対ファーガソン判決の「分離すれども平等」の原則が覆されたことの意味は大きかったあ。しし、そのことに対する差別主義者の反発も大きく、それを利用しようとする政治家の思惑なども絡み、ルーシー事件リトル・ロック高校事件などの形で噴出した。チャールズ・ミンガスは「フォーバス知事の寓話」で、入学式の直前に白人住民を扇動する発言をしたフォーバス州知事や対応が遅れたアイゼンハワー大統領を罵倒した。

この当時までの、運動は言論と裁判闘争が中心で、ブラウン判決はその最大の成果というべきものだ。しかし、裁判闘争は諸刃の剣である。裁判所が人種差別にノーの判決を下す可能性は五分五分で、裁判が人種差別を支持する判決が出れば、判例となって残り、長きにわたって運動を停滞させることになる。黒人エリートによる言論活動は、圧力をかけるにはあまりにも弱い。裁判闘争は重要だが、それを支える力が必要だった。モントゴメリーのバスボイコット事件(1955)は、裁判闘争を支える圧力として、大衆動員による直接行動が行われたという意味で、エポック・メイキングな出来事だった。そして、この運動を通じて、公民権運動の指導者として頭角を現したのが、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアだった。

公民権運動と言えば、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、キング師と言えば非暴力。それはそれで間違ってはいない。キング師と公民権運動における非暴力は、不服従という言葉とセットで語らなければならない。それは右の頬を打たれて項垂れる敗者の非暴力ではない。暴力は使わない、しかし、決して服従もしない。抵抗者の非暴力だ。そして、非暴力不服従の運動を進めるために、採用されたのが大衆動員による直接行動、すなわち、デモや座り込みである。先日、セルマからモントゴメリーへの行進を描いた映画『グローリー 明日への行進』を見て、ぼく自身、「非暴力不服従」が現実にどのようなものだったのか、わかっていなかったと感じた。それは、殴られる(時には、殺される)とわかっていて、徒手でそこに出向くことなのだ。

キング師は、なぜ直接行動を?交渉というもっといい手段があるではないかと問う人々に、そう、その言論こそが私たちの求めているものなのだと答える。黒人との話し合いを絶えず拒否してきた相手を、話し合いのテーブルにつかせること、言い換えれば、そこに問題があることを認識させることこそが、直接行動の目的なのだ。こうしたキング師の手法に共感する人々によって、非暴力不服従の運動は、さまざまな形で広がっていく。シットイン、フリーダムライドなどは人種差別主義者の側からの強い反発にあいながらも、成果を残していく。キング師もバーミンガムの闘争やセルマの行進などで、運動を指導し、ワシントン大行進では「私には夢がある」で有名な演説を行った。

一方で、人種差別主義者の反発は激しさを増した。1955年、アメリカ南部で、北部から遊びに来ていた黒人の少年エメット・ティルが、白人の女性に口笛を吹いて声をかけたというだけの理由で、無残な遺体となって発見された事件は、全米を震撼させた。また、1963年には、NAACPのミシシッピ州ディレクター、メドガー・エヴァースが自宅前で後ろから銃で撃たれ死亡、1964年には、SNCCの公民権運動家が3人、KKKによって殺害された。いずれの事件も容疑者は、白人ばかりの陪審員によって無罪となり、裁判のやり直しが認められた直は数十年後だった。

この当時の新南部ミシシッピの黒人が置かれた状況を皮肉を込めて歌ったのが、J・B・ルノアーのブルース「ダウン・イン・ミシシッピ」である。

2018年1月16日(火)

行きつけのバー「アゲイン」で、スタッフの女の子の鳩胸を、中国人の社長が褒めちぎったエピソードをもとにつくった新曲「鳩胸の女」。結末はフィクションですが、そこまでの話は、ほぼほぼ事実です。笑

ある夜、街を歩いていると
見たこともないような鳩胸の女が
雑居ビルの階段を登っていくのを見た
まさか。そんなばかな。
あんな あんな 見事な鳩胸の女が
この世に存在するはずがない
オレは女の後を追って
階段を上り、
2階の扉を開けた

あー鳩胸の女 クルック

扉のむこうでは
バーカウンターに立ち
鳩胸の女が酒をつくっていた
「いらっしゃい 来ると思っていたわ」
お前は一体だれだ
どうして どうしてオレを知っている
わからないことばかりだ
あーそれにしても、
何と見事な鳩胸だろう

あー鳩胸の女 クルック

オレはくり返し女の鳩胸を褒めた
しこたま酔った
酒ではなく 鳩胸に
女のために高いシャンパンを開け
常連たちに振る舞った
「きみの鳩胸に乾杯」
・・・そのときだった
やつらが
ダーツをはじめたのは!

あー鳩胸の女 クルック

ダーツをはじめた若い男女と
さして若くない男女
そのなかにおぼつかない手元の
素人がひとり
まざっていたのさ
ダーツはそいつの手からすりぬけ
オレの大事な鳩胸に
オレの大事な鳩胸に

あー鳩胸の女 クルック

かくて、鳩胸ははじけた
オレの夢とともに
鳩胸だった女は、
「先生、ひどい」とむくれている
先生と呼ばれた男は悪びれもせず
オレが開けたシャンパンを
ぐいと飲み干し
こう言った
「それにしても見事な鳩胸だったなあ」

あー鳩胸の女 クルック

2018年1月15日(月)

夢見る山村林業。

明治学院非常勤「アメリカ研究」、後期第十五回目(最終回)。アフリカ系アメリカ人の歴史と文化をテーマにしたこの授業も早いもので、今回で最終回。前回紹介したリチャード・ライト『アメリカの息子』を原作とする2つの映画(1951年バージョンと1986年バージョン)から、ビガー・トーマスがメアリーを殺してしまうシーンを見た。ビガーを突き動かしているのは保身のための計算ではなく、人種差別社会で刷り込まれた不条理な恐怖だ。その意味で、ビガーをアメリカ社会の犠牲者とする弁護士マックスの見解は正しい。学生には、映画からビガーの緊迫した恐怖を読み取って欲しかった。

続いて、1970年代後半に俄然注目を浴びた黒人女性作家から、アリス・ウォーカートニ・モリソンを紹介した。『グレンジ・コープランドの第二の人生』(1970)でデビューしたアリス・ウォーカーは、作品のなかで、一貫して黒人男性を含む男性の暴力や抑圧を告発している。なかでも義父にレイプされた上、義父に強要された結婚相手アルバートに虐待され続ける黒人女性セリーの半生を描いた『カラー・パープル』(1982)は、衝撃をもって迎えられ、賛否両論のなか、ピューリッツァー賞を受賞した。作品に描かれた黒人男性像が、野蛮で暴力的というステレオタイプを助長するという批判もあった。しかし、それでは、黒人として、女性として、二重の差別を受けてきた黒人女性は、自分たちの状況をどう訴えたらいいのか。作品は、黒人男性による抑圧を批判するばかりではなく、義父のもとを逃げ出した妹ネティ、アルバートの愛人シャグとの、女性同士のつながりにも光を当てており、白人女性目線の運動であったフェミニズムを、女性全体の運動に昇華することを志す「ウーマニスト」=ウォーカーの姿勢が表れている。『カラー・パープル』の続編で、アフリカに渡ったネティを主人公とする『喜びの秘密』(1992)は、アフリカなどに見られる女性器切除(FGM)の問題を正面から扱った作品である。しかし、伝統的な習慣を外部から変えようとする姿勢には批判もある。

トニ・モリソンは、現在のところ、ノーベル文学賞を受賞した唯一のアフリカ系アメリカ人作家である。ウォーカーが登場人物になりきり、登場人物の口になって語る、巫女のような印象を受けるのに対し、モリソンは語りのテクニックを駆使して、第三者的な立場から、物語を紡ぎだす語り部と呼ぶのがふさわしい。白人の設定した美しさに対する黒人女性の葛藤を描いたデビュー作『青い目が欲しい』(1970)の、幸せな白人家庭を描いた教科書の文章が崩壊し、意味を失っていく冒頭からして、モリソンがどのように語るかということに自覚的な作家であるということを示している。作品を発表するごとに、語りの手法を変えながらも、重厚な語り口には一貫したものがある。1988年に発表された『ビラブド』では、奴隷になるくらいならと子供を殺した黒人女性セテの物語。セテは、殺した子供のせいか、心霊現象の絶えない家に、生き延びた子供たちと暮らしている。そこに、殺した娘がもし生きていたら同じ年頃だろうと思われる娘が突然現れ、「ビラブド(愛されしもの)」と名づけられ、いっしょに暮らしはじめる。ビラブドはセテと恋人ポール・Dの間に割って入り、セテをポール・Dから引き離すために、ポール・Dを誘惑する。ビラブドは結局、コミュニティの力で追い払われるが、そのことは殺した娘との別れを意味していた。歴史にもとづきながら、重厚な物語のなかにひとりひとりの人間を浮かび上がらせる、「語り部」モリソンらしい作品である。

國學院非常勤、後期第十四回目。「1st Year English」は、分詞。現在分詞と過去分詞の形容詞的用法について。「英語(L&W)」は、バラク・オバマの大統領就任演説を読む。「これが私たちが現在続けている旅である。私たちは今でも、世界でもっとも繁栄し、力を持った国であり続けている。我が国の労働者は、この危機が始まる前に負けない生産性がある。我一週間前、一ヵ月前、一年前と比べても、私たちの精神は独創性を失っていないし、私たちの製品やサービスは変わらず求められている。私たちの能力も衰えてはいない。しかし、頑固に今までのやり方を変えず、一部の利益を守り、下しにくい決断を先延ばしにする時間 ― そうした時間は間違いなく終わったのです。今日から始めて、私たちは起き上がって、埃を払い、アメリカを立て直す仕事を再開しなければなりません」

2018年1月14日(日)

1月6日8日と「ひらげ日記」に連載してきた、昨年7月の第28回多民族研究学会全国大会のシンポジウム「ローカル・トゥ・ローカル:ワールド・ミュージックの新たな展開」の報告論文、明日の締め切りを前に何とか書き上げた。以下が、ムビラジャカナカのお二人に聞いた話を参考に書き上げた、第3節と結論。

日本におけるムビラ普及 ― ムビラ・ジャカナカを例に

 レジの日本公演を成功させるために、作者は日本でムビラに関わる活動をしている人たちを探し、協力を仰いだ。とりわけ、関西を中心に活動している「ムビラ友の会」を通じて、ムビラの音色に魅せられ、演奏やワークショップなどを通じて、日本におけるムビラの普及に力を尽くしている多くの人たちがいることを知った。そして、2006年6月、JAGATARAやビブラトーンズで活動していたギターリスト、OTOさんらの提唱で、日本の親指ピアノ奏者を集めたイベント、「ムビラ・サミットVol.1」が、秋葉原Aunty Navel開催される。司会を担当した作者は、この楽器の研究と普及に関わる多くの人たちと知己を得ることができた。そのなかに、当時、「ムビラ・ジャカナカ」として、各地でムビラの演奏とワークショップを行っていた「マサさん」こと櫻井雅之さんと、ハヤシエリカさんがいた。

 櫻井さんとハヤシさんは、バックパッカーとして世界を巡る途中、たまたま訪れたジンバブエで、ムビラに出会ったという共通点がある。2000年、世界一周を目指して旅に出た櫻井さんは、アフリカ縦断中にジンバブエでムビラに出会った。ハヤシさんもまた、2001年に出発したアジア縦断、アフリカ縦断の旅の途中、2002年7月ごろにムビラに出会っている。二人とも、ワールド・ミュージックのブームとは無縁に過ごしてきたし、とくに音楽を求めて旅に出たわけでもなかった。ましてや、ムビラという特定の楽器が、念頭にあったわけではない。ハヤシさんは、「私は、1990年代のワールド・ミュージックの動きなどと無縁の人でした。音楽経験もなく、絵の活動経験もなく、看護師としてまじめに働き、日本の医療事情や生き難さに旅に出て、旅で絵を認められ、アフリカで突然音楽に目覚め、ムビラに出会いました」(7月1日 電子メール)と証言している。旅行前、レコード会社に勤務していたとはいえ、櫻井さんも特にワールド・ミュージックに関心があったわけではない。だからこそ、それまでの音楽業界とは違う発想で、ムビラ音楽を日本に普及することができたのかもしれない。

櫻井さんとハヤシさんが、バックパッカー生活を終え、ムビラを手に帰国した2003年までに、ムビラに魅せられ、自ら演奏をする人たちが、日本の各地に同時多発的に現れていた。ハヤシさんは、日本におけるムビラ普及に貢献した先駆的な人物として、二人の名前を挙げている。一人は、「ムビラ・ジャンクション」として、ワークショップなどを通じて、日本におけるムビラの普及に多大な貢献をされ、残念なことに2006年に亡くなられた「クマさん」こと熊越シンヤさん。旅先で熊越さんと出会ったハヤシさんは、「彼が宿でブックカフェのライブやムビラ奏者の家、儀式に連れていってくれなければ、突然旅人がローカル文化にどっぷり浸ることはできなかったでしょう」(7月1日 電子メール)と語っている。もう一人は、「ゆきねえ」こと中村由紀子さん。2005年6月に、兵庫にすごいムビラ奏者がいると聞いて会いに行ったハヤシさんは、中村さんが合理的にムビラの奏法を理解し、スコアブックまで出していたことに驚いたと言う。

先生が弾くのをみて、真似をして自分も弾くという伝承的な方法でムビラ奏法を得た自分には、リズムの位置、合奏がどう組み合わされるのか、合奏でどのようにポリリズムがなされているのか(基本的な曲が4分の2拍子のクシャウラと8分の6拍子が一緒に弾かれる)、そういうことを可視化されていることに、自分自身のムビラ理解も深まり、日本人に伝えるときにはこういう合理的な方法が必要ではないかと、思いました(7月1日 電子メール)。

口承が基本の伝統的なアフリカ文化では、書かれたテキストを介して学ぶことは異例である。しかし、学んだことを書きとめ、再構成することに慣れた日本人に教えるには、口伝えの伝統だけでは限界がある。この時点で、ジンバブエのローカルなコンテキストを大切にしながらも、コンテキストの違う日本のローカルにどう移植するかという問題が意識されていることは注目に値する。

 2002年7月ごろ、旅先で出会い、意気投合した櫻井さんとハヤシさんは、帰国後、「ムビラ・ジャカナカ」を結成。熊越さん、中村さんなどから多くを学びながら、演奏、ワークショップとムビラ教室を中心とした活動を展開していった。このとき、大規模なプロジェクトではなく、ワークショップやムビラ教室という、草の根的な手法を選んだことは、大事なポイントである。もちろん、「ワールド・ミュージック」ブームの時のような大きなスポンサーは望むべくもなかったということもあっただろう。しかし、ワークショップや教室は、集まった人たちにムビラに直接触れる機会を提供し、楽器に対する理解を広め、結果として、それは「ムビラ・ジャカナカ」の活動を、グローバル経済の力関係から自由にした。また、教室やワークショップでへのジンバブエのローカルな文化に直接触れた人たちのなかから、次世代のムビラ奏者が生まれていった。

こうした「ムビラ・ジャカナカ」の活動は、ムビラを現地ローカルのコンテキストに位置づけて学ぶことに重点を置いていた。伝統的な儀式を通じてムビラに出会い、現地で巨匠リケン・パシパミレの薫陶を受けたハヤシさんが当初から、最もこだわっていたのは、ムビラの「シャーマン的役割」だった。前述したように、ムビラは祖霊を下す儀式で使われる神聖な楽器である。大切なのは、音楽として鑑賞することではなく、「延々と同じフレーズを引き続け、トランスし霊を降ろす」ことにある(7月1日 電子メール)。ハヤシさんのやり方は、いわば、儀式の一部としてのムビラの「音」を、「音楽」という捏造されたジャンルに回収するのではなく、降霊というもとのコンテキストに位置づけることであると言えよう。ハヤシさんがこうした視点を持てたのは、ジンバブエで本物の儀式に触れた経験があったことはもちろん、個々の「音」をコンテキストから引き離し、「音楽」として鑑賞する「ワールド・ミュージック」と無縁だったためと言えるかもしれない。

一方、櫻井さんは、最初のうち、「一般大衆を相手にするときに、宗教色を強調しないという意見だった」とハヤシさんは記憶している(7月2日 電子メール)。もちろん、「現地で儀式への参加、伝統を守る奏者たちとの交流など素晴らしい体験をした」(7月5日 電子メール)櫻井さんもまた、ムビラのシャーマン的な価値に対しては強い思い入れがある。しかし、櫻井さんは、ムビラ音楽としての面白さ、演奏の構造的な美しさもまた、コンテキストを越えて人を惹きつけることを強調する。「(ムビラ)教室で少しずつ基礎から伝統奏法を覚えていき、ムビラの合奏スタイル、合奏により完成される音世界を初体験した生徒さんたちの驚き」を見て、「未知の音楽を伝えることが出来た充実感」を覚えている(7月4日 電子メール)。ここでは、儀式の一部として存在していたはずのムビラの「音」が、「音楽」に回収されてしまったかのように思える。しかし、「音楽」に回収されたからと言って、必ずしも祖霊信仰のコンテキストが無効になるわけではない。ムビラの演奏はシャーマン的な価値と音楽的な面白さを併せ持つことができる。例えば、前述したトーマス・マプーモの「チムレンガ・ミュージック」は、ポピュラー・ミュージックでありながら、祖霊信仰と無縁ではない。「音」が「音楽」に回収されるというよりも、「音」を通じて、祖霊が「音楽」に忍び込んでくると言うべきか。言い換えれば、「音」はコンテキストから引き離されると同時に、コンテキストを象徴的に引き受けている。ここに、ワールド・ミュージックのパラドクシカルな課題を解くヒントが隠されている。

 とはいえ、ムビラの持つ祖霊信仰のコンテキストを失わずに、日本のコンテキストに接続する作業には、困難が伴うことは想像に難くない。二人はムビラの持つシャーマン的な価値を日本に紹介する根拠を、現代の日本人がそうした価値を潜在的に求めていること、ジンバブエと日本の文化に共通性に求めている。ハヤシさんは、ムビラがシャーマン的な価値を持っているからこそ、日本という別のローカルと響きあうことができると考える。「時代の行き詰まりは進み、ムビラ的な原始宗教のもつスピリチュアル的なものは今の方が一般にも求められて、ムビラもそのまま受け入れら安くなっていると感じています」とハヤシさんは語る(電子メール7月2日)。現世利得では割り切れないスピリチュアルな価値が、ジンバブエでも日本でもますます求められつつあるという考えは、櫻井さんも共有している。彼は「資本主義の過度な進展により、人間としての根が失われようとしている危機において、ムビラは自分たちのルーツを思い出させてくれるツールだと位置づけていますし、そこに価値を感じています」と言う。そして、もともと日本にもあった祖霊信仰が、ジンバブエのローカルと日本ローカルとの結び目になる可能性を示唆して、「ムビラ音楽は祖霊信仰を基盤にしていますが、日本文化にも同様の信仰が通底しているから、文化・信仰の側面を説明しても違和感を感じずに受け入れやすい」と述べている(電子メール 7月2日)。

出会いからミクスチャーへ

 櫻井雅之さん、ハヤシエリカさんのお話からは、ローカル・トゥ・ローカルな文化の出会いについて、多くの示唆を受けた。しかし、話を聞けば聞くほどに、出会いの先の展望について、新たな疑問が頭をもたげた。シャーマニズム的な価値を大切にしながら、ムビラを「音楽」として紹介していくことによって、ローカル・トゥ・ローカルな文化の「出会い」が果たせたとして、その「場」において、日本ローカルはジンバブエ(あるいはショナ)ローカルから、文化的価値を受け取るばかりなのだろうか。日本から発信できるものはないのだろうか。そして、ローカルとローカルが混ざり合うなかで、新しい価値が生まれてくる、スリリングな瞬間はないのだろうか。ハヤシさんは安易な混淆に対しては否定的である。「(ムビラで)普通の曲は弾けないの」と聞かれたエピソードを紹介し、「普通の曲を弾く意味がない、霊を降ろせる伝統曲を弾くことに価値がある」と断言している(電子メール 7月2日)。一方、櫻井さんは、「他のローカルのミュージシャンと、ショナのムビラのスタイルを崩さずに、共演することは可能だと思いますか」という作者の質問に対し、「僕はジャムセッションも好きですが、スタイルを崩さずに共演するのは難しいと思っています」と難しさを指摘しながらも、ミクスチャーの可能性は否定していない(電子メール 7月13日)。そして、ミクスチャーが面白い結果を生んだ例として、前述の「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド」から生まれた、ジンバブエのチウォニーソ・マライレ、トーゴのピーター・ソロ、カメルーンのエリク・アリアーナ、韓国のチャン・ジェヒョ、日本サのカキマンゴーによるユニットである「スキヤキ・オール・スターズ」(詳しくは、リバレ・ニコラさんの報告を参照されたい)の名前を挙げている。

 最後に、こうした文化混淆の観点から、ローカル・トゥ・ローカルの可能性を示すミュージシャンをもう一人、紹介しておきたい。スキヤキ・オール・スターズにも参加していたマルチ親指ピアノ奏者、サカキマンゴーさんである。鹿児島県出身のマンゴーさんは、巨匠フクウェ・ザウォセに代表されるタンザニアの親指ピアノ、リンバから出発して、ムビラをはじめとするアフリカ各地の親指ピアノを学び、それらを駆使し、コンゴ民主共和国の「コノノNo.1」によって俄然注目を浴びた強いサウンド・エフェクト、レゲエのダブ的な要素の強いリズム・セクションなど、さまざまな要素を取り込んで、独自の音楽を生み出しているミュージシャンである。その音楽には、ロック的とも言うべき激しさや、ファンキーなグルーヴもあるが、それが親指ピアノという楽器から自然に生まれたもののようき聞こえるのが、魅力である。そのマンゴーさんが、親指ピアノのリリカルなサウンドにのせて、故郷・鹿児島の言葉で歌ったのがファースト・アルバム『リンバ・トレイン』(2006年)所収の「浜へ」(はめへ)である。スキヤキ・オール・スターズの東京公演(2010年)でも演奏されたこの曲は、親指ピアノのリズムと、鹿児島方言のリズムが、無理なく絡み合っており、本報告のテーマであるローカル・トゥ・ローカルな出会いの、一つの可能性を示すものではないかと思われる。

 一方で、彼は、音楽が生まれてくるローカルな場を、個人という最小の単位にまで細分化する。著書『ムビラ道場 !アフリカの小さな楽器でひまつぶし』(2009年)には、「コンサートを開いて誰かに聞かせるのでも、あるいはそのせいで『練習しなきゃ』と焦るのでもなく、まず自分のために自分で弾いて楽しむ」という「暇つぶし」こそが音楽が生まれてくる最も根源的な場であり、そうした個人の「暇つぶし」には、「演奏というより、鳴らすという気軽な感覚が似合う」(88)と書かれているという認識が示されている。音楽という捏造されたカテゴリーから解放され、ローカル・コミュニティのコンテキストさえ排除したとき、そこに残るのは、「音」を楽しむ個人というローカルの最小単位である。もはや、人にとって「音」とは何か、という根源的な問題に迫る認識である。音楽の最小単位である「個人」に対する認識と、さまざまなコンテキストと交差する音楽が、サカキマンゴーの世界をどこに導いていくのか、目が離せない。

まとめ パラドクシカルな課題とその回答

 「ワールド・ミュージック」が残したパラドクシカルな課題 ― 現地ローカルのコンテキストを守りながら、別のローカルに接続すること ― は、ブームの終焉から四半世紀の時を経て、いくつかの解答を探り当てつつある。「音楽」という捏造されたカテゴリーに回収された「音」を、現地ローカルのコンテキストで理解しつつ、尚も「音楽」として聞くことを諦めないことによって、「音」が生まれる場としてのローカルを、「音楽」を聞くもののローカルに直接、接続する。こうした試みは、グローバルな市場の持つ圧倒的な経済的、社会的力を迂回し、中心と周縁の力関係とは無縁な文化交流を志向する。そのために、ワークショップや小さな演奏会といった草の根的な活動を行い、ローカルなオーディエンスを巻き込んでいく。巻き込まれたオーディエンスは、(レジの演奏に参加した女性糖尿病患者や、「ムビラ・ジャカナカ」のワークショップをきっかけにムビラ奏者を志した人々のように)、すでに単なるオーディエンスではなく、ローカルな文化の担い手である。一方、日本ローカルの側からも、サカキマンゴー「浜へ」のような、日本のローカルをアフリカのローカルに接続する試みが行われている。「ワールド・ミュージック」は、こうしたローカル・トゥ・ローカルな文化交流を生む土壌を作ったが、そこに種を播き、育てた人たちの多くは「ワールド・ミュージック」のブームとは無縁なところにいた人たちである。そうした人たちに敬意を表して、この報告を終わりたい。

2018年1月13日(土)

謎の古代遺跡アッサーガヤ。

愛間純人さんの企画「ほっと楽しやハートライブ(第12夜)」@阿佐ヶ谷Next Sundayに、ひらげエレキテル+ぢぞ郎で参加して、6曲歌ってきました。演目は、「New Song」「行こうよ」「かわいい子猫ちゃん」「煙草屋のお嬢さん」「焼酎」「最後の日」。聞いてくださったみなさん、盛り上がってくださったみなさん、ありがとうございました。主催の愛間さんをはじめ、素晴らしい共演者のみなさんにも感謝です。ピロシキアンサンブルのお二人とは2回目の共演(メンバーのカノミさんとは3回目)、そして、大学時代の先輩で、いっしょにブルース・ブラザーズ・スタイルのソウル・バンドをやっていた(そのときのギターリストが、ぢぞ郎さん)、ソウル・ブラザーNo.1、吉浦(隆司)さん。奈良で暮らしている吉浦さん&奥さんと久しぶりに再会できたのもうれしかった。奥さんとは、まだソウル・バンドをやっているころに、ご自宅に泊めていただいて以来。お互い熱狂的なキヨシロー・ファンということで意気投合し、貴重な渋谷屋根裏ライブの海賊版テープを譲っていただいたのが昨日のことのようです。そう、「人の目を気にして生きるなんてくだらないことさ」、あの歌詞がすべての始まりだったんだよ・・・再会の機会をくださった愛間さんに感謝です。

2018年1月12日(金)

神奈川大非常勤、後期第十三回目。「初級英語」2コマは、教科書の新聞配達少年の話を最後まで。「基礎英語」は、プレースメント・テスト。

鈴木雅之山下達郎に会ったとき、「実は達郎さんとは初めてじゃないんですよ」と、あるレコード屋で山下が諦めたキャデラックスのレコードをすかさず買ったのが自分であると告白し、山下は「お前かー!」となった

・・・という話をHさんから聞いて、似ているようで全然違う話を思い出した。

デーモン小暮谷村新司に会ったとき、「実は谷村さんとははじめてじゃないんですよ」と、谷村が常連だったビニール本専門店で受付をしていたのが自分(世を忍ぶ仮の姿)であると告白し、谷村は「お前かー!」となった

似ているようで、全然違う。いや、全然違うようで、似ている?

2018年1月11日(木)

あの人は一点一点しまった
あの人は一点一点しまった
もう入らない〜♪

首都大学非常勤、後期第十一回目。『ジャズの誕生』をテキストとするリーディング3コマ。1限は、「以前の植民地として、ニューオリンズは軍楽隊におけるフランスの流行にぴったりとついていったので、当然のことながらそれで有名になった(ずっとあとの1891年、父親がメンバーだったクラリネット奏者のエド・ホールによれば、ニューオリンズの黒人で編成されたオンワード・ブラス・バンドがニューヨークのコンテストで優勝した)。楽団はほとんどあらゆる機会 ― パレード、ピクニック、コンサート、川舟の周遊、舞踏会、葬式 ― に雇われ、成功間違いなしの呼び物だった」 2限が、そのあと「1871年(原書の誤りで、正しくは1881年)、13もの黒人組織が、ガーフィールド大統領の葬儀で、自分たちの楽団によって代表された」「ニューオリンズにおける黒人楽団の卓越と頻出(ニューオリンズから優れた黒人楽団が次々と現れたこと)はどう説明できるだろう。フランスとの密接な関係とブラスバンドの一般的な人気に加えて、ニューオリンズには楽団に雇用を与える特殊な組織と、広範囲の機会に楽団の存在を受け入れる他にはない伝統があった。この組み合わせが、スウィングし始めた最初のバンドを生む手助けになった」まで。3限は、第5章「バディ・ボールデンとジャズの発展」に入り、「かつて<カーヴィング・コンテスト>として知られてた音楽のバトルは、ジャズの歴史の中で頻繁に起きてきたし、今でも起きているニューオリンズ時代の初期、それ(音楽バトル)はアームストロングキッド・レナ(これはまさに伝説である)、レッド・アレンガイ・ケリージョー・オリヴァー(のちのキング)対フレディ・ケパードであった」 <もしラッパで相手を吹き負かせられなかったとしても>、トランペッターのマット・キャリーは『ヒア・ミー・トーキン・トゥ・ヤ』のなかで述べている。<ラッパを使って、そいつの横っ面をぶっ叩くことはできるさ>。30年代のカンザス・シティでは、それ(音楽バトル)はサキソフォーン奏者のコールマン・ホーキンスレスター・ヤングであり、ニューヨークではトロンボーン奏者のビッグ・グリーンジミー・ハリソンだった(1953年のバンド・ボックスでは、カウント・ベイシーデューク・エリントンのバンド全体であった)。ジャズのような自由な音楽では、ミュージシャンは持続性があってスウィングする即興演奏の能力によって評価される」

OGSアコナイトに参加するつもりだったが、体調がすぐれないのと、今日のうちにシンポジウムの報告論文を進めておかないといけなかったので、あえなく不参加。

2018年1月10日(水)

横浜国大非常勤「英米文学」、第十二回目。今回はリチャード・ライトラルフ・エリソンジェイムズ・ボールドウィンという三人の作家を紹介した。

一昔前は、黒人文学と言えば、リチャード・ライトだった。そして、リチャード・ライトと言えば、抗議文学であり、結果、黒人文学というのは、すなわち人種差別に抗議するための文学であると考える人が多かった。たしかに、黒人文学は人種差別と切っても切れない関係にあるし、とりわけ、リチャード・ライトはこの問題に真摯に取り組んだ作家のひとりである。しかし、ライト=抗議作家と決めつけてしまうことで、見えなくなるものも多い。そのひとつが、彼のストーリテラーとしての豊かな才能である。ゾラ・ニール・ハーストンの「恋愛小説」を厳しく批判したライトだが、ストーリーテリングの巧みさという点では、二人の作家は共通するものがある。代表作『アメリカの息子』(1940)は、主人公の黒人青年ビガー・トーマスが、白人女性を殺してしまい、彼女の死体を焼却炉で焼いたうえ、逃亡中に足手まといになった愛人の黒人女性をも殺し、裁判で死刑になるという、衝撃的なストーリーである。ライトはレイプ犯にされることを恐れて、殺人を犯してしまう黒人青年の内面を生々しく描いてる。ビガーのしたことは許されることはないが、保身のために計算づくで動いたわけではなく、人種差別主義社会のなかで培われてきた不条理な恐怖に突き動かされて、残虐な行為に及んでおり、そこに弁護士マックスの言う「アメリカ社会の犠牲者」という見方が入り込む余地が生まれてくる。こうした、殺す側の恐怖を感じてもらうために、『アメリカの息子』の映画をを2バージョン(1951年版と、1986年版)を見た。1951年版は、なんとリチャード・ライト自身が、ビガー・トーマスを演じている。


1951年の映画『アメリカの息子』予告編。


1986年版の映画『アメリカの息子』。

ラルフ・エリソンは、いくつかの評論や短編を別にすると、ほとんど長編小説『見えない人間』(1952)だけで知られている作家である。しかし、『見えない人間』の内容があまりに強い印象を与えたために、アフリカ系アメリカ人を代表する作家として名を残している。名前のない黒人の主人公は、電力会社から盗電した明かりを煌々とつけながら、地下の穴倉で暮らしている。彼は、自分は「見えない人間」であると言い、穴倉に暮らすようになるまでの、半生を語り始める。「見えない人間」とは何か説明するために、主人公が夜道で白人男性とぶつかったエピソードが例に挙げられている。主人公と白人男性は、相手が見えない暗闇で罵りあい、殴りあう。ところが、顔を突き合わせ、街頭の明かりに照らされてみると、主人公は白人男性が自分を見ていないことに気づく。主人公は、空しくなって、相手を殺そうと取り出していたナイフをしまう。黒人であるがゆえに存在すら認められないことの虚しさが、暗闇では見えるのに明かりの下では見えないというパラドクスのなかに、簡潔に表現されている。

このエピソードを読むと、友部正人「ストライキ」の歌詞、「いくら殴っても殴ったことにならない、そんな不安がきみの黒髪を濡らすよ」を思い出すのだが、そのことは黙っておいた。

ジェイムズ・ボールドウィンは、アフリカ系アメリカ人であることと同時に、ゲイであることが、アイデンティティの軸になっている作家である。アフリカ系アメリカ人は、親子兄弟が別々に売られていく奴隷制の時代から、家族を奪われてきた。だからこそ、家族の価値を求める傾向は強いが、そこで求められる「家族」は男は男らしく、女は女らしくという伝統的なジェンダー像に基づくものであることも多い。そうしたなかで、ゲイとして生きることは、容易なことではない。義父との葛藤をもとに描いた『山に登りて告げよ』(1953)でデビューしたボールドウィンは、続けてゲイを主人公にした小説『ジョヴァンニの部屋』(1956)を発表するが、伝統的な家族の価値とゲイという意味で、二つの作品はつながっている。ちなみに、ぼくは大学生のころ、何の予備知識もなく『ジョバンニの部屋』を読み、途中でゲイ小説であることに気づいて驚いた覚えがある。おそらく、出版当時、黒人の新進作家の作品として『ジョヴァンニの部屋』を読んだ人たちも同じように、「黒人は黒人のことを書くもの」という固定観念を揺さぶられたことだろう。さらに、ゲイ・アイデンティティ、人種間の葛藤など、さまざまなテーマを、複雑な人間関係のなかに表現したボールドウィンの代表作として、『もう一つの国』(1962)をあげておく。


ボールドウィンが気鋭のジャズ・ミュージシャンをバックに自作の詩を朗読した録音。

2018年1月9日(火)

日本女子大非常勤、後期第十五回目(最終回)。「米文学随筆論文演習」は、ハリエット・ジェイコブズの奴隷体験記を読む。友人ピーターによって、北部へ逃亡するチャンスをつかんだリンダだったが、リンダの身を案じる祖母の気持ちを察して、逃亡をあきらめ、同じように近所に身を隠している黒人女性ファニーにそのチャンスを譲る。ところが、祖母が扉を閉め忘れたため、隠れ家の下の物置で、話をしていたところを見られてしまう。自分のせいでリンダの身を危険にさらしたことを悔いた祖母は、逃亡するよう勧める。リンダはピーターの漕ぐボートで、ファニーの乗る船に近づいていく。船の船長は、逃亡奴隷の女性はすでに乗っているといい、戸惑いを隠せない様子だったが・・・と、中途半端なところで終わってしまった。というのも、最終回というのに講師が遅刻したため。すみません。「アカデミック・ライティング」はついに後期エッセイの提出・・・だが、書けてない人がたくさんいたので、23日に最終締め切りを設定。みんながんばれ。

2018年1月8日(月)

一昨日に引き続き、昨年7月の第28回多民族研究学会全国大会のシンポジウム「ローカル・トゥ・ローカル:ワールド・ミュージックの新たな展開」の報告論文に取り組む。今日は、個人的なジンバブエ/ムビラ体験について語る第2節。

トーマス・マプーモとムビラ体験

作者がムビラという楽器に出会ったのは、やはり、ワールド・ミュージック・ブームのさなか、ジンバブエを代表するミュージシャンであるトーマス・マプーモの音楽を通じてのことであった。エルヴィス・プレスリーオーティス・レディングといった欧米音楽のコピーから音楽活動を始めたマプーモは、1970年代後半、北部の鉱山労働者のために演奏をするうち、彼らの多くが欧米の音楽には興味がなく、伝統音楽を聴きたがっていることに気づく。首都ソールズベリー(現・ハラレ)などの都市部では、ジャズやロックなどの欧米音楽や隣国・南アフリカのムバカンガなどがもてはやされていた時代である。マプーモはチキン・ラン・バンドと共に、ムビラの音をミュートしたギター、バオバブの実から作ったマラカスのような打楽器「ホショ」の音をドラムのハイハットに置き換えて、伝統音楽をバンド化する。独立戦争が激しさを増すなか、ゲリラの戦いや農村の苦しい暮らしのことを歌い、白人至上主義の政府のもと、投獄されたマプーモは、アフリカ人の間で英雄的な存在となった。こうした経緯から、彼の音楽はショナ語で「闘争」を示す言葉を冠して、「チムレンガ・ミュージック」と呼ばれている。

 ほどなく、マプーモは自らのバンド「ブラックス・アンリミテッド」を引き連れて来日し、1991年、渋谷で二回の来日公演を行った。当時のマプーモは、『チャムノルワ』などのアルバムで、それまでのギターに代わってムビラやホショなどの伝統楽器を大胆に取り込み、より伝統色を強めたスタイルを模索していた時期である。来日メンバーにも、二人のムビラ奏者がいた。作者がムビラ(あるいは親指ピアノ)の生演奏を聞いたのは、おそらくその時が初めてであった。もっとも、肝心のムビラ本体は、大きな共鳴体「デゼ」(後述)に隠れて見えなかったのだが、ぽろぽろと零れ落ちてくるその音色が、びーんと響く倍音で空気を満たしながら、複雑なポリリズムの力で、聞くものに踊るよう促すのだった。すっかりマプーモとムビラのとりこになった作者は、公演後、福島富士男先生のご紹介で、マプーモ本人と面会し、いっしょに写真まで撮らせてもらった。

 ここで、改めてムビラという楽器を紹介しておきたい。ムビラは、「親指ピアノ」と呼ばれる楽器の一種である。板や箱の上に並んだ金属製や竹製の棒をはじいて音を出すこの種の楽器は、東アフリカから南部アフリカを中心にアフリカ各地に存在しているが、地域によって形や演奏法が少しずつ違い、名前もリンバ、サンザなど様々である。「ムビラ」は、ジンバブエの人口の約70パーセントを占めるショナ人がこの楽器を呼ぶときの名称である。ジンバブエで最も一般的なムビラは、ムビラ・ザ・バジムと言われる24鍵のものである。単独で演奏することもできるが、複数のムビラやマラカスのような打楽器「ホショ」などとともに演奏すると、よりポリリズミックな効果を出すことができる。また、ムビラ本体だけでも音は聞こえるが、「デゼ」と言われる元々は瓢箪でつくられた大きな共鳴体(最近はグラスファイバー製が多い)のなかに入れて演奏すると、ムビラの特徴である倍音の響きが増幅される。さらに、三味線でいうところの「さわり」のような、びーんびーんといった音を生み出すために、デゼにはジュースの瓶の蓋(王冠)などが取り付けられている。そして、最も大事なことは、この楽器がホショと共に先祖の霊を呼び出す儀式で使われる神聖な楽器であるということだ。

 作者はこの不思議な楽器と、その後も伝統色を強めていくトーマス・マプーモの音楽に魅せられ、1999年には、自らヴォーカルとギターを演奏するバンド「チキリカ」のメンバーと共に、ジンバブエを訪問した。そして、その3年後の2002年、今度は一人で訪れたジンバブエで運命的な出会いが待っていた。

レジナルド・チウンディザとの出会い

 2002年のジンバブエ訪問は、首都ハラレにある公園ハラレ・ガーデンで行われる出版社の見本市「ジンバブエ・ブックフェア」に参加することが、第一の目的だった。ブックフェアにはジンバブエ内外の出版社がブースを出しており、日本では入手が困難なアフリカ文学関係の資料を手に入れることができた。同時に会場の複数個所に設けられたステージでは、音楽、ダンス、演劇といったパフォーマンがくり広げられており、もちろん、ムビラの演奏もあった。作者は同時期にジンバブエに来ていた旧知の女性研究者Mさんと行動をともにしながら、そうしたパフォーマンスを楽しんだ。ハラレ・ガーデンは、作者のようなパフォーマンスを求める外国人観光客と、そうした観光客を目当てに何とか小銭を稼ごうとする現地の男女であふれかえっていた。とりわけ、「ムビラの弾き方を教える」といって近づいてくるものは多い。そのなかの一人が、のちに深いかかわりを持つことになる「レジ」こと、レジナルド・チウンディザ(以下、レジ)であった。

 観光客に群がる自称ムビラ指南者の多くが、演奏もろくにできないニセモノだったのに対し、レジは本当にムビラが弾けた。ところが、彼がムビラの弾き方を教えると言って近づいてきたとき、作者もMさんもたまたま手持ちの金がなかった。その旨を伝えると、無料でもいいから教えさせろという。何と気前のいいこと、と思いつつ、ハラレ・ガーデンの片隅で、しばらく無料のレッスンを受けた。きちんとムビラが弾けるうえに、教え方も丁寧でわかりやすい。これなら、間違いないと、夕方にホテルで本格的なレッスンを受けることになった。ところが、このレッスンは実現しなかった。Mさんが通りで強盗に遭い、バッグを奪われまいとして、手首に怪我を負ったのだ。事情を知ったレジは出会ったばかりの日本人観光客の話を親身になって聞き、何かと力になってくれた。そして、Mさんの帰国後も、作者と行動を共にし、タウンシップのビアガーデンでのライブ演奏や、夜のハラレのライブハウスなど、観光客が一人ではいけないような場所に案内してくれた。

 ローカルなコンテキストの重要性について、レジから教えられたのは、行きたかった場所に一通り案内してもらった後のことだった。「他に何が見てみたい」と訊くレジに、作者は「お前が見せたいところを見たい」と答えた。謎かけのような回答に対して、レジの反応は早かった。「よし、ついてこい」。埃まみれの乗り合いタクシーに押し込まれ、埃だらけの道を行くうちに、数日前に知り合ったばかりの男の言われるままになっている自分の危うさに気づいたが、今さら遅い。車は都心を離れ、住む人もまばらなサバンナを抜け、郊外へ。赤茶けた土に、バランシング・ロックといわれる微妙な均衡を保って積み重なった岩や、わずかな灌木が点在する乾いた光景が続いた後、車は2世帯が一組になった平屋の長屋が立ち並ぶ一角に滑り込んでいった。タウンシップ ― かつてのアフリカ人居住区である。ローデシア時代、隣国・南アフリカのアパルトヘイトに比すべき隔離政策によって、都心に住むことを許されなかったアフリカ人労働者は、都心から離れた郊外の地域に住むことを余儀なくされた。アフリカ人を大統領とするジンバブエとして再スタートを切ってからも、貧しいアフリカ人労働者は、この地域に住み続け、都心までバスや乗り合いタクシーで都心へ通勤している。連れていかれたのは、タファラというレジの住むタウンシップであり、彼が見せたかったのは、そこでの暮らしだった。

 一角に肉屋のある小さなバス・ターミナルを抜けると、正面にビア・ホールがあり、男たちが昼間からビールを飲んでいる。酔って声を荒らげたりするものはなく、近づいてきた黄色い男に、親しげに笑いかける。缶ビールを片手に町なかを歩いていくと、住民たちがレジに話しかける。「そのチャイナはだれだい?」作者が中国人だと思った子供たちが、ジャッキー、ジャッキーと声をかけてくる。ジャッキー・チェンはジンバブエでも人気なのだ。甲高い声をあげて空手の真似ごとをして見せると、喚声をあげて喜ぶ。すらりとした体躯で正面から近づいてきたダンサーの女の子は、「ハーイ」とレジに声をかけて、キラキラとした笑顔を残して去っていった。最後に行きついたのが、レジの親友で彼のバンド「シュンバ・ザ・パシ」のベーシストだったジュリアスの家の中庭だった。そこでは、弦が4本しかないガット・ギターをベースに見立てたジュリアスと、数人のムビラ奏者が演奏を始めていた。そこにレジも加わり、ムビラを弾きながら、歌い始める。小さな子供が、演奏に合わせてリズミカルに体を揺する。それは平和で、心穏やかな、美しい光景だった。

 そのあと、コミュニティ・センターなどを案内したあと、レジはこう言った。「タウンシップはスラムで、犯罪の巣窟だと思っていただろう。でも、どうだい。みんな平和に暮らしている。これをお前に見せたかったんだ」作者は、乗り合いタクシーに乗るとき、身の危険を感じた自分を恥じた。そして、ローカルなコミュニティが提供するコンテキストの重要性に目を開かれることになった。

レジの糖尿病発病と来日

日本に帰ってくると、旅行中に撮影した写真を同封して、感謝の手紙を送った。ところが、いつまで待っても返事は来ない。旅先での出会というのはこんなものだろうか、と思っていると、数か月経ったころ、突然、レジから手紙が届いた。そこには意外なことが書かれていた。「重い病気にかかり、入院している。助けて欲しい」正直に言うと、この手紙を読んで、作者は迷った。いくら親切にしてくれたとはいえ、旅先で出会っただけにすぎない男の話が、嘘ではないという保証はどこにもない。だが、病気の話が本当であれば、国民皆保険制度などないジンバブエで、レジが生き延びるチャンスは、ないように思われた。援助を断って、彼が死んだら、一生後悔するだろう。タファラに向かう乗り合いタクシーのなかで、レジの素性を疑ったことへの負い目が頭をもたげた。結局、診断書を送ってもらい(どこまで証明できるものかわからないが)援助金を送ることにした。やがて、危険な状態を脱したとの旨を伝える礼状が届き、作者は胸をなでおろした。

 このとき、レジが罹った病名を聞いて、作者は驚いた。「I 型糖尿病」 ― 医者である作者の父が、長年、専門としてきた病気である。糖尿病というと、食事や運動不足などに由来する生活習慣病というイメージを持つ方が多いかもしれない。そうした生活習慣に由来する糖尿病は、Ⅱ型と呼ばれる。対して、Ⅰ型は何らかの原因(ウィルス、ストレスなど)で膵臓のランゲルハンス島から出るはずのインスリンという酵素が出なくなり、糖をエネルギーに変えることができなくなる病気である。摂取した糖は使われることなく排出され、何も処置が講じられなければ、患者は短期間にやせ衰えて死んでいく。しかし、インスリンを注射すれば、症状は劇的に改善し、健康な人と同じように生活することができる。Ⅰ型糖尿病は生活習慣とは関係がないので、ジンバブエのような貧しい国でも必ず罹る人が出てくる。そして、そうした貧しく、国民皆保険制度もない国では、インスリンを買う余裕がないために、多くの人々が命を落としている。

 翌2003年7月、日本からの援助 ― 財政的援助に加えて、父の病院から期限切れのインスリンが送られた ― によって、命を取り留めたレジとハラレで再会した。そして、ジンバブエの糖尿病患者が置かれた状況について話し合った。彼はハラレを中心に全国の糖尿病患者をまとめる組織を作ることを望んでいた。そのために、日本に行って、自分の体験を話し、寄付金を募りたいと考えていた。また、日本の側でも、いわいる「発展途上国」に期限切れのインスリンを送る運動を軌道にのせたいという思惑があった。そして、もちろんミュージシャンでもある彼の特性も生かして、2004年3月、日本各地で講演とムビラの演奏を企画し、東京、横浜、大阪、京都で、講演と演奏会を開いた。自分たちと同じ体験を共有しているアフリカの青年は、若いⅠ型糖尿病患者さんに熱狂的に迎えられた。また、レジが演奏を披露する際にとった手法は、作者がローカル・トゥ・ローカルな音楽の出会いを考えるうえで、たいへん示唆的だった。彼は日本のⅠ型糖尿病患者の女性2名にコーラスを教え、日本のジェンベ奏者、ムビラ奏者とともに、即席のバンドを作り上げたのである。

 このように、レジとの出会いは、作者に二つの点で、ワールド・ミュージックの未来を再検討する機会を提供してくれた。ひとつは、ローカルなコミュニティというコンテキストの重要性。加えて、そうしたコンテキストをバックボーンとしながらも、演奏の場を共有することによって、ローカルが他のローカルと直接出会う、「ローカル・トゥ・ローカル」の可能性。バックボーンとしてのローカル・コミュニティにしても、演奏の場の共有にしても、ワールド・ミュージック・ブームのころからあった。しかし、レジが見せたやり方はより小回りの利く草の根的なもので、グローバルな市場における中心と周縁のヒエラルキーに絡めとられることを避ける巧妙さを持っているように思われた。そして、レジの日本における活動をバックアップするうちに、日本のなかにも、同じような草の根的な手法で、ムビラというローカルを、日本のローカルに接続しようとしている人たちがいることに気づいた。 
 
 次節では、「ムビラ・ジャカナカ」として、長年、ムビラのワークショップや演奏活動を行ってこられた櫻井雅之さんとハヤシエリカさんにメールで伺ったお話を中心に、日本にムビラ普及に尽力された方々の活動を振り返る。加えて、そこにもまた、現地ローカルの原点を大切にしながら、実際の演奏を通じて日本のローカルに接続する「ローカル・トゥ・ローカル」な方向性が見られることを示したい。

論文というよりも、エッセイ的な内容になってしまったが、シンポジウムでの報告もこんな内容だったので、しかたあるまい。さて、ここからが本題。マサさんとエリカさんへのインタビューをもとに、日本でのムビラ普及に努めてきた人たちの、初期の活動をまとめる。

2017年1月7日(日)

ひらげエレキテル、2018年最初のライブは、「イベント対抗歌合戦」@西荻窪Zizi Annabelle。「わんにゃんレスキュー」代表の一人として、「焼酎」と「かわいい子猫ちゃん」の2曲を歌った。「焼酎」には、ブルース・ハープのウディさんに参加してもらって、最高にブルージーな演奏になったが、ビデオが撮れていなかった!残念。

2017年1月6日(土)

ふと思いついてつくったインスト。「断片#2」

細かい仕事が大方片付いたので、昨年7月の第28回多民族研究学会で全国大会のシンポジウム「ローカル・トゥ・ローカル:ワールド・ミュージックの新たな展開」の報告論文に取り組む。しめ切りは15日。しめ切りが差し迫っているときによくやるのは、論文を連載形式にして、ブログに掲載してしまうこと。自意識過剰な性格なので、誰かに見られていると思うと、タイプが進むのだ。今回もその手を使おう。まずは、イントロダクション。

1980年代中盤から1990年代前半にかけての、ワールド・ミュージック・ブームは、画期的な出来事だった。パリやロンドン、東京といった巨大都市に、さまざまな文化的背景を持ったミュージシャンが集い、伝統的な文脈を離れた混淆の実験が繰り返された。いわいる先進国の人々が、アジアやアフリカの音楽を西洋のポピュラー音楽と分け隔てなく聞くことが、日常的に行われるようになった。日本でも、東京などの大都市周辺であれば、多くの来日・在日ミュージシャンによる生演奏を体験することも、それほど難しいことではなかった。常時、アフリカ人のミュージシャンによる演奏で踊ることのできる店すらあった。この時代が、多くの人たちにとって、閉ざされていた音楽体験への扉を開くものであったことは、間違いない。

一方で、「ワールド・ミュージック」そのものが、日本を含む「先進国」を中心に置き、それ以外の地域を周縁に置く発想と無縁ではないことを、忘れてはならない。それは、すべての音楽を包括するはずの「ワールド・ミュージック」から、欧米先進国や日本のポピュラー音楽が抜け落ちていたことを考えれば、明らかだ。その言葉が意味するのは、「世界の音楽」ではなく、「あちら側の音楽」だった。「ワールド・ミュージック」というラベルを貼られてパッケージ化され、コンテキストから引き離された「あちら側」の音楽は、グローバルな市場という文脈において、エキゾチックな臭いを残した「商品」として新たなアイデンティティを与えられる。ローカル・コミュニティの音楽が、「地球上に広く普及するためには、多国籍企業であるレコード会社の搾取に身を委ねなければな」らなかったのである(フリップ・V・ボールマン『世界音楽入門』 14)。ワールド・ミュージックは、結局、かつて植民地だった地域の音楽の、元宗主国によるパッケージ化と大量消費であったと結論づけることも可能だ。

中心と周縁の格差とコンテキストの問題に、当初から自覚的だった人たちも少なくない。音楽評論家の松村洋は、『ワールド・ミュージック宣言』(1990年)のなかで、アフリカの伝統的な社会の多くには、「音楽」というカテゴリーがないという西江雅之の卓見(「"さあ、一緒に踊ろう"」、『ユリイカ』、Vol.22-5、1990年)を受けて、さまざまなコンテキストのなかで他の要素と結びつき、個別に認識されていた「音」を取り出して、「音楽」という一つのカテゴリーのなかにくくること自体が、近代西洋的な発想であることを示し、こうした、いわば、カテゴリーの捏造によって、それぞれの「音」が本来持っていたコンテキストが見失われることの危うさを指摘している。もっとも、松村はコンテキストを離れることそれ自体が絶対に許しがたい過誤であると言っているわけではない。コンテキスト(あるいは、昼間賢のいう「ローカル・ミュージック」の「場」)が失われる危険性を感じながらも、コンテキストを超えた出会いのなかに新たな可能性を見出しているのである。

この論文もまた、『ワールド・ミュージック宣言』と問題意識と希望を共有するものである。しかし、1990年代後半、バブル経済の破綻と共にワールド・ミュージックのブームは終わった。それ以後、来日するミュージシャンの数や、CDなどの販売数も目に見えて減っている。ワールド・ミュージックが始めた危うい実験は、手つかずのまま残されているように見える。しかし、そうではなかった。ブームとは関わりのないところで、あるいは、ブームの熱さが熾火のように残っていたここかしこで、出会いの実験は形を変えて続けられていたのだ。それは、巨大都市を仲介しない、ローカルとローカルが直接出会うことによって、グローバルな市場で中心と周縁の力関係にからめとられることを極力避けようとする。今回のシンポジウムにお招きしたニコラ・リバレ氏がプロデューサーを務める富山県南砺市のイベント「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド」は、そうした試みのひとつである。もう一人の登壇者、昼間賢氏は著書『ローカル・ミュージック』を通じて、ローカル・トゥ・ローカルな音楽の出会いに明確なイメージを与えている。この論文では、ムビラ(親指ピアノ)という小さな楽器を通じて、音楽との出会いを深めてきた方々を紹介するとともに、ムビラ音楽の日本における新たな可能性についても言及する。しかし、その前に、作者自身の個人的体験を話すことから物語を始めなければならない。仮にもアカデミックな論文を自任するのであれば、個人的な視点は極力排除するのがルールであることはわかっている。しかし、ローカル・トゥ・ローカルな出会いをテーマとするシンポジウムにおいて、個人という最小単位のローカルを抜きに話を進めることはできないと考え、あえてその禁を破りたいと思う。

まだ体裁は整っていないのだけれど、こんな感じで次に、ぼくのジンバブエ//ムビラ体験、さらにマサさんとハヤシエリカさんの証言をもとに、お二人のムビラジャカナカとしての活動を中心に、日本におけるムビラ普及の動きを跡付けていく予定。

2017年1月3日(水)

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今日のお絵描き。あるおしゃれマスター。

2018年1月2日(火)

成田山横浜別院に初詣。おみくじは末吉。「他人(ひと)と心通ぜずあらそいが起こります なるべく自分の心を柔らかにして交際(つきあい)なさい 次第に遠くに運がひらけて幸が増します あせってはいけません」 おお、つ・き・あ・い・た・い。みなさん、仲良くしてください。「恋愛」は、「あきらめなさい」とバッサリ。「病気(やまい)」は「早めに治る 信心」願望(ねがいごと)」は「積極的な考え方をすれば叶う」。ぼくのは、治る病気ではないのだが・・・いつもの調子で、次は何が来るか楽しんでいれば、道が開けるということか。

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今日のお絵描き①。イランの不思議な町、Sar Agh Seyyed

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今日のお絵描き②。1968年、メキシコ・オリンピック。

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今日のお絵描き③。ピカソ老いたギター弾き」。

2018年1月1日(月)

あけました。喪中なので、お祝いの言葉はナシです。昨年中はお世話になりました。今年もよろしくお願いします。

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今日のお絵描き①。ピカソラ・セレスティーナ」。

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今日のお絵描き②。ゴッホ糸杉と星の見える道」。

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