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2016年12月20日(火)

千とルイスの神隠し。

日本女子大非常勤、後期第十四回目。3限、「米文学随筆評論演習」は、ハリエット・アン・ジェイコブズの奴隷体験記を読む。ついに、北部フィラデルフィアに到着したリンダ(ジェイコブズの仮名)は、娘が暮らすニューヨークへの案内人が見つかるまで、黒人牧師ジェレミア・ダーラム師の家に身を寄せることになり、子供たちの父親のことも含め、すべてをダーラム師に告白する。ダーラム夫人は詳しい事情は聞かず、リンダを歓待する。はじめての大都会に圧倒されながらも、自由の身になった喜びを噛みしめるリンダ。5日間の滞在ののち、ダーラム夫人の友人に伴われ、ニューヨークに向かうが、途中、北部にも黒人専用車があることを知る。

4限、「アフリカ研究」は、ジンバブエ、南アフリカについて。ドキュメンタリー映画『ムビラミュージック:スピリット・オブ・ピープル』(1992 )から、トーマス・マプーモの演奏シーン(8分45秒あたりから)を流しながら授業開始。続けて、BBCのドキュメンタリーから、オリバー・ムトゥクジの演奏シーン。前々回紹介しながら、DVDがかからなかったために動画が見られなかった、ジンバブエの大御所ミュージシャン2人の姿をようやく見せることができた。

トーマス・マプーモは、ジンバブエ独立前夜に反政府ゲリラの側に立った歌を歌って、投獄されたこともあって、国民的な英雄になったが、実際に独立戦争に参加して、歌でゲリラ兵を鼓舞したのが、コムレイド(同志)・チンクスである。『ムビラ・ミュージック』のなかから、チンクスが兵士を鼓舞する歌を歌うシーン(17分30秒あたりから)を見る。戦後のチンクスが仲間たちと当時の歌を歌いはじめる。そこに、戦時中、兵士のなかで歌うチンクスの実際の映像が重なる。チンクスには、何年か前に会いに行った。医者になりたかった彼は、成績優秀で、イギリス留学を希望していたが、「アフリカ人」であるという理由で叶わなかった。その後も、ボーア人(アフリカーナ―)の上司のもとで、さんざん人種差別を体験したことが、独立戦争に身を投じるきっかけになった。つらい体験をしているはずの兵士たちが、チンクスの歌を聞いて笑っている姿が気になったので、そのことを尋ねると、「その日の戦果をユーモアを込めて歌にするんだ。笑うことによって、士気がぐっとあがる」と言っていた。

チンクスとの会見中、ふと思いついて、『ムビラ・ミュージック』で彼が歌っていた歌のコーラスを歌ってみた。まるざいにーまるざーかー。チンクスは「なぜ、その歌を知っているんだ!?」と、目を丸くしていた。そのあとは、すっかり気に入られ、「ジンバブエに住め」とまで言われたが、「日本にガールフレンドがいるから」(ほんとうはいなかったが、見栄をはった)と断った。「彼女もつれてくればいい、世界を見せてやると言ってな!」と笑っていたチンクスだが、自宅まで送っていった別れ際に、「やっぱり、ジンバブエには住むな」と言い出した。何を突然と思っていると、「お前が死ぬのを見たくないからな」と言う。「お前が死んだら、お前の頭蓋骨をこうして砕いてやる。何で死んだ、何で死んだ、ってな」 ぼくは「うわあ、天国でも頭蓋骨は必要だから、やめてくれよ」とおどけながら、この人は何人の死を見てきたのだろう ― 敵も味方も ― と思った。自由のための戦争であっても、戦争はやっぱりつらいものだ。

もう一人、これからのジンバブエ音楽を担う存在として期待されながら、37歳の若さで亡くなった女性ムビラ奏者/シンガー=チウォニソ・マライレを、来日公演の動画とともに紹介。ムビラの巨匠ドゥミサニ・マライレの娘として、父がジンバブエ音楽を普及中のアメリカに生まれ、ショナ語と英語で、R&Bなどの影響も受けたハイブリッドな音楽を展開したチウォニソについては、いろいろ思い出がある。最初にジンバブエのライブハウスで見たときには、ステージ終了後、お酒に溺れ、とても近づけるような雰囲気ではなかったこと(当時は、やはり急逝したミュージシャン=アンディ・ブラウンとの離婚、友人の死など辛いことばかりだったらしい)。富山のイベント「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド」に招かれて来日したときには、娘ができたことで、体型もふっくらし、すっかり幸せな母親になっていたこと。そして、亡くなったあと、ジンバブエで墓参りに行き、そこでチウォニソに導かれるように、奇妙な出会いがあったこと(詳しくは、2013年9月10日の日記)。

後半は、隣国=南アフリカに移って、同国の歴史とアパルトヘイトについて解説。徹底した人種隔離政策であるアパルトヘイトのもとで、南ア国内のほとんどの土地は白人に占有され、アフリカ人の居留地は、原住民土地法によって、「ホームランド」といわれる痩せた狭い土地に限定された。一方で、アフリカ人労働力を確保するため、都市部周辺にはアフリカ人居住区(タウンシップ)が設けられ、アフリカ人はパスの携帯を義務付けられた。また、背徳法によって、白人とアフリカ人の性的関係が禁じられた。1976年、ジョハネスバーグ近郊のタウンシップ=ソウェトでは、アフリカーンス語(アパルトヘイト体制の支配者であるボーア人の言語)による教育に反対する中高生らによるデモに警官隊が発砲し、死者を含む犠牲者を出した(ソウェト蜂起)。この事件もひとつの契機となって、アパルトヘイト反対運動は、世界的な広がりを見せていくことになる。

そうした運動のなかで、中心的な役割を果たしたのが、27年間獄中にあり、のちに南アフリカ共和国大統領になったネルソン・マンデラである。マンデラについては、ノーベル平和賞を受賞したこともあって、「非暴力の人」と思っている人も少なくないが、アフリカ民族会議(ANC)内に、武装組織「民族の槍(ウムコント・シズウェ)」を組織した人物であり、そうした活動の結果、逮捕に至ったことも指摘しておかなければならない。もっとも、「民族の槍」の活動は、戦略拠点を破壊するサボタージュであり、決して無差別テロのようなものではなかったが。1990年、マンデラが釈放され、紆余曲折を経て、アパルトヘイトは廃止されることになる。1994年の全人種参加の選挙でANCが勝利し、マンデラが大統領に就任、南アフリカは「虹の国」として新たなスタートを切った。

最後に、南アフリカの音楽を紹介。伝統的にコーラスが盛んな南アフリカには、ムブーベと言われる男声合唱の音楽がある。ムブーベという名前は「ライオン」を意味するが、ソロモン・リンダのつくった同名の曲に由来している。「ムブーベ」は、のちに「ライオンは寝ている」として、世界的にヒットすることになるが、原作者であるリンダには著作権料は一切払われていない(この問題を追った映画に、2002年公開の『ライオンの歌はどこに行ったか』がある)。一方、力強い女性コーラスで知られるマホテラ・クイーンズの音楽は、ムパカンガと呼ばれている。こちらは、よりリズムが強調されたバンドの演奏をバックにしたズールー人由来の音楽で、名前は「トウモロコシの粥」を意味する。

6限、「アカデミック・ライティング」では、冬休みを前に、半数の学生がエッセイを仕上げた。心配なのは残りの半数。

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