無料ブログはココログ

« 2016年7月3日(日) | トップページ | 2016年7月5日(火) »

2016年7月4日(月)

お代官さま、お自費を。

明治学院非常勤「アメリカ研究」、前期第十三回目。今回から、19世紀までのアフリカ系アメリカ人の音楽・芸能について。まずは、スピリチュアル。宗教家として、ブラック・ゴスペルのルーツともなったスピリチュアルだが、ゴスペルとの間には大きな違いがある。ゴスペルが音楽家によってアレンジされた作者のわかる音楽なのに対して、奴隷たちのなかから自然発生的に生まれた作者不詳の「民謡」である。もちろん、スピリチュアルをアレンジしてゴスペルとして歌うということはありうるし、両者は必ずしもはっきり分けられるものではない。また、南北戦争の時代に収集された「奴隷の歌」には、さまざまなテーマの歌が含まれており、宗教的な歌も世俗的な歌も区別されることなく歌われていたことがわかる。スピリチュアル自体、現世での希望や逃亡の手引きが暗示されていたとも言われており、宗教的な歌であると決めつけることはできない。

スピリチュアルが注目を集めたのは、フィスク・ジュビリー・シンガーズの功績が大きい。南北戦争後に多数設立された黒人大学のひとつであるフィスク大学は、財政難に苦しんでいた。学生によるコーラス部は演奏旅行を通じて寄付金を集めることを思い立ち、スピリチュアルをレパートリーに加えるようになる。大学当局は当初、学生が「奴隷の歌」を歌うことに難色を示したが、結局、白人顧問の後押しでレパートリーでに加えられたスピリチュアルが、多くの観客の心を動かし、寄付金を引き出すこととなる。フィスク・ジュビリー・シンガーズの活躍に刺激されて、各地の黒人大学でも、スピリチュアルをレパートリーとしたコーラス部の活動が盛んになり、それはやがてミンストレル・ショーをはじめとするショービズの世界にも取り入れられていった。

611tfwhsehl__sx425_

しかし、こうしたステージ上のスピリチュアルは、本来のスピリチュアルではないという声もある。民族学者でもあった作家ゾラ・ニール・ハーストンは、スピリチュアルの真実は「訓練のもとでは熱湯をかけられた花のようにしおれてしまう」と言っている。スピリチュアルはステージの上から、観客に聞かせる音楽ではない。それはコミュニティの人びとが参加し、体験するための歌なのだ。そうした体験を通じて、人びとは自分たちがコミュニティの一部であることを確認する。綿密なアレンジを施されたスピリチュアルには、人びとが自由に参加することができない。民俗学者のアラン・ロマックスが、かつてハーストンとフィールドワークしたジョージア州シー・アイランドのスピリチュアルを録音したCDを聞くと、フィスク・ジュビリー・シンガーズとの違いに驚かされる。

「奴隷の歌」のなかには、宗教歌以外の歌も多く含まれていると述べたが、そのひとつがワークソング労働歌である。主唱者の先導に答える形でコール&レスポンスをくり返すワークソングは、仕事の効率を高めるために有効だった。コール&レスポンスのスタイルはアフリカの伝統を受け継いだともいえるし、世界の労働歌に普遍的なスタイルであるともいえる。こうしたワークソングのスタイルが、かなり後まで残っていたのが、刑務所である。奴隷解放後も、黒人は微罪や冤罪、あるいは放浪罪などで逮捕されることが多く、受刑者はしばしば労働力として近隣の農場や鉄道建設などに駆り出された。奴隷同然の生活のなかで、ワークソングが生き続けたのである。

19世紀、南部の奴隷たちのなかから生まれたダンスがケイクウォークである。日曜日などに農場主が奴隷たちを集めて躍らせ、いちばん踊りの上手かったものにケーキを与えたことからその名がついたと言われる。コミカルな動きは、白人たちの気取ったダンスの動きをパロディ化したものとも言われるが、白人たちはそれを逆に「黒人由来の奇妙な動き」として楽しむようになった。皮肉な話だが、他者をパロディ化し、真似することをくり返すことによって発展してきたアメリカ文化の典型的なパターンであるとも言える。やがて、ケイクウォークはアメリカを代表する芸能の一つとして、ミンストレル・ショーなどにも取り入れられ、ヨーロッパをはじめ世界に広がっていく。

白人が顔を黒く塗り、唇を分厚く描いて、マヌケな黒人を演じるミンストレル・ショーは、まさに他者のパロディ化そのものである。北部の白人芸人トーマス・D・ライスの「ジム・クロウ踊り」に端を発するミンストレルは、やがてヴァージニア・ミンストレルズクリスティーズ・ミンストレルズなどのフォロワーを産み、半円状に並んだ黒塗りの劇団員が、打楽器やバンジョーなどを演奏しながら、素っ頓狂なやりとりをくり広げるスタイルを確立していった。南北戦争後になると、そこに黒人芸人が参入する。黒人芸人は磨き抜かれた演技力によって白人のステレオタイプに答えながら、それが演技であり、実像ではないことを証明していたのではないだろうか。

ミンストレル衰退後、19世紀末から20世紀初頭のヴォードビルで、黒塗り芸によって大成功した黒人芸人バート・ウィリアムズは、顔の色は薄く、西インド諸島の生まれで南部の黒人英語も話せなかった。黒塗りで披露したマヌケな黒人は、彼の卓越した演技によるものだったのである。主演したコメディ映画『ナチュラル・ボーン・ギャンブラー』では、いかさま賭博で入れられた監獄で、カードも相手もなしでトランプ賭博をする、見事なパントマイムを披露している。

さて、いよいよ、ブルース・・・と、ロバート・ジョンソン「カム・オン・イン・マイ・キチン」を聞いて、ブルーノート・スケールの話をし始めたところで、タイム・アップ。次回は、ブルースと初期のジャズについて。

國學院非常勤、前期第十三回目。『ジャズの誕生』をテキストとするリーディング2コマ。6限はジーン・クルーパのドラム・ソロを見ながら授業開始。「それら(ヨーロッパ音楽と西アフリカ音楽)は、メロディーの点では、ほとんど同じくらい(の複雑さ)である。極端な話をすると、調から調への移行(転調)はアフリカでは知られておらず、複合拍子はヨーロッパでは知られていない。しかし、アフリカ人が新世界に到着したとき、彼を出迎えた民衆音楽は、十分親しみのあるものに聞こえたことだろう。リズムの欠如を除けば」 7限は、ダオメーの太鼓アンサンブルを聞きながら、授業開始。「彼ら(黒人クレオール)は、より色の黒い兄弟に加わることを強いられ ― (のちに)詳しく見ることになるが ― 彼らにはジャズの誕生に、おそらくもっとも明らかなのはテクニックの点で、貢献するものがあった」「もう一方では、ニューオリンズ近隣の大農場にいる奴隷たちは、ヨーロッパの音楽をほとんど、もしくは全く聞いたことがなかった。ほとんど自分たちだけで取り残されて、これらの農場労働者たちは音楽的伝統の多くを持ち続けることができたので、農場はアフリカ音楽の宝庫となった」

« 2016年7月3日(日) | トップページ | 2016年7月5日(火) »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/73760/63876915

この記事へのトラックバック一覧です: 2016年7月4日(月):

« 2016年7月3日(日) | トップページ | 2016年7月5日(火) »

最近のトラックバック

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30