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2016年5月30日(月)

神の姿煮。

明治学院非常勤「アメリカ文化」、前期第八回目。ビリー・ホリデイ奇妙な果実」を聞きながら、授業開始。「奇妙な果実」の歌詞は、リンチされ、木に吊るされた黒人の写真を見てショックを受けたユダヤ人教師、エイベル・ミーアポルによって、1930年に書かれた。1930年と言えば、南北戦争終結から65年も後のことである。奴隷解放宣言によって、黒人奴隷は自由になったのではなかったのか。どうして、このような差別と暴力が続いたのだろう。

まず、解放された奴隷たちは、ほとんど何も持っていなかったことを指摘しておかなくてはならない。生活を支える金も、仕事も、教育も、土地もない。与えられたのは自由だけ。それは、飢える自由、野垂れ死にする自由と言ってもよいようなものだった。そんななか、北軍の司令官だったウィリアム・シャーマン将軍が、接収した土地を、一部の解放奴隷に分け与えたことから、解放された奴隷には40エーカーの土地とラバ一頭が与えられるという噂が広まり、実際、その実現のために動いたサディアス・スティーヴンスのような人物もいたが、結局、実現しなかった。

さて、ここに一人の解放奴隷がいる。名前は仮にトムとしておこう。奴隷解放の日、彼のもとに元奴隷主がやってくる。トムが自由の身になったことを知らせるためだ。喜ぶトムに、元奴隷主が話を切り出す。

「ところでトム、これからどうやって生活していくつもりだ?」
「へえ、だんな、そこなんで。あっしは畑しかやったことがないもんで」
「そうだな。どうだ、お前さえ良ければ、今まで通り、おれの土地を耕しちゃくれんか」
「そりゃあ、願ってもない話で!」
「種も、農機具も貸してやる。悪い話じゃないだろう?」
「へえ、だんな、ありがたいこって」
「ただし、ただというわけにはいかん。収穫の3分の2は、わしのところに納めてもわわんとな」
「3分の2・・・そりゃあ、あんまりだ。それじゃあ、あっしの手元には何も残らねえじゃねえですか」
「不満か?いやならいいんだぞ。どこへなりと行けばいい」
「そんな・・・」

こうして始まったのが、一種の小作制度であるシェアクロッピングだ。シェアクロッパーと言われる小作人は、地主の土地や種、農機具を借りる代わりに、収穫の半分から3分の2を地主に納めなくてはならなかった。こうして、解放奴隷たちの多くは、奴隷時代と同じように土地に縛りつけられ、極貧の生活を続けざるをえなかった。

もちろん、奴隷制を廃止し、解放された奴隷をアメリカ社会に溶け込ませようとする動きはあった。いわいる「南部再建期」にその中心となったのが、解放民局である。南北戦争の末期に設立された解放民局は、1872年まで7年間存続し、解放後の奴隷に教育の機会や仕事を与えることをひとつの目的としていた。また、度重なる憲法修正条項の批准や公民権法の制定によって、アフリカ系アメリカ人の公民権を守る法的環境が整えられていった。こうしたなかから、黒人初の上院議員ハイラム・R・レベルズや、黒人初の州知事ピンクニーピンチバックのような政治家も生まれた。とはいえ、初登頂の日、白人議員が彼の議員としての適格性を審議する間、レベルズはロビーで待たされる屈辱を味わった。

このような黒人の社会進出に対して、南部の白人社会は危機感を強めた。クー・クラックス・クラン(KKK)をはじめ、多くの白人至上主義団体が、自警の名目で結成された。もっとも、KKKについては、もともと元南軍の若い兵士たちが、退屈しのぎに始めた悪ふざけだったと言われている(ネットに誹謗中傷をまき散らすことで憂さを晴らす連中に、どこか似ている)。しかし、そこに元奴隷商人で、南軍の名高い兵士でもあったネイサン・ベッドフォード・フォレストが加わることによって政治色を強め、北部出身の白人や黒人を南部の政治から排除するために、暴力的な手段もいとわないようになっていく。ついには、連邦も動かざるを得なくなり、第一次のKKKは大量の逮捕者を出し、壊滅した(ちなみに、壊滅状態にあったKKKを賛美し、復活するきっかけをつくったのが映画史に残る名作と言われるD・W・グリフィス監督『国民の創生』だが、それについては次回)。

さて、曲がりなりにも、解放された黒人奴隷の権利を守る方向で進んできた「南部再建」だが、わずか12年ほどで決定的な終わりを迎える。1876年の大統領選で、民主党の候補サミュエル・J・ティルデンが勝利をおさめるが、共和党は選挙に不正があったと主張。翌年、共和党のラザフォード・B・ヘイズが大統領になる代わりに、連邦軍が南部から撤退することで決着を見る。南部を監視していた連邦軍が引き上げたことで、南部は一気に逆コースを歩み、ジム・クロウ法と通称される人種差別法が次々に制定され、黒人は参政権を奪われ、人種隔離が徹底された。1896年、プレッシー対ファーガソン裁判の「分離すれども平等」の判決が、それを後づける。19世紀終わりには、リンチで殺される黒人の人数がピークに達し、黒人にとって暗い時代が続くことになった。

國學院非常勤、前期第八回目。『ジャズの誕生』をテキストとするリーディング2コマ。6限は、アート・ブレイキーがアフリカ音楽を大胆に取り入れた問題作『ジ・アフリカン・ビート』を聞きながら、授業開始。テキストの内容は、「というのも、西アフリカ人は書かれた音楽(楽譜)を持っていない―彼らは記憶を頼りに、耳で聞いて演奏する―彼らはヨーロッパの採譜法における小節線のような規則的なものには従わない。実際、私たちの基準の一つから見ると、彼らのリズムは途中で変わるように思え、そのことが(そのリズムを)書き記そうとするとき、音楽学者の障害となる」 首都大での授業同様、口承文化の特徴や、アフリカ音楽にいわいる「アタマ」の感覚がないことなどを説明。7限は、ニューオリンズの老舗ブラス・バンド「オリンピア・ブラス・バンド」を聞きながら、授業開始。内容は、「『ガンボ・ヤ・ヤ』の編集者は、1776年、マルティニーク、グアドルーペ、サン・ドミンゴ(のちに一部がハイチとなる)出身の500人の奴隷が、ルイジアナに輸入され、翌年には3000人以上が輸入されたと述べている。これらの島は当時フランス領で、奴隷たちは主にヨルバ人やダオメ人、ヴードゥーの信者だった」 ヨルバの話から、ちょっと『やし酒飲み』に脱線・・・。

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