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2014年12月1日(月)

とうとう12月になってしまった。いつかこんな日が来るんじゃないかとは思っていたが、ついに来てしまった。もう少し早く気づいていればと悔やまれるが、手遅れらしい。

明治学院非常勤、後期第八回目。最初に、ミズーリ州ファーガソンの黒人少年射殺事件についてコメント。白人警官によって、丸腰の黒人少年に6発もの銃弾が撃ち込まれたことで、人種差別に対する抗議が全米に広まり、なかには略奪行為などを含む「暴動」に発展したケースもある。この件について、白人警官が裁判で無罪になったことをもって事件の幕引きを図ろうとする声もある。しかし、覚えておかなくてはならないのは、アフリカ系アメリカ人が日頃から、「黒人」であるがゆえに「犯罪者」であると決めつけられる体験をしているということだ。

もちろん、当該の警官をはじめ、白人の警察官たちは人種差別ではない、職務を遂行しただけだと言うだろう。しかし、ある人物をアヤシイと思ったのが、警察官としての嗅覚ゆえなのか、すり込まれた人種偏見の結果なのかは、本人にも分からない。問題は警官の意図ではなく、アフリカ系の人たちが自分たちは人種ゆえに犯罪者扱いされる確率が高いと感じているという事実である。

加えて、銃社会アメリカ(その背景には、人種対立もある)では、恐怖が殺人に結びつきやすい。すり込まれた人種偏見からくる恐怖が白人警官に引き金を引かせたのだとすると、彼もまた人種差別の犠牲者と言えるかもしれない(イラクやアフガニスタンに派遣された米兵がゲリラに対する恐怖から、市民を殺戮するのと似ている)。オバマ大統領は立場上、無罪判決を受け入れ、略奪行為をやめるよう呼びかけるしかない。しかし、「黒人大統領」が事態の沈静化を求めているからといって、黒人少年の射殺に問題がなかったということにはならないのだ。

今回は、そうした現状も踏まえながら、マーティン・ルーサー・キングと公民権運動について。キング師というと、必ず「非暴力」という言葉と結びつけられる。もちろん、それはある意味正しい。キング師は生涯を通じて、暴力に依拠しない運動を模索していた。しかし、キング師やガンジーの「非暴力」は、「不服従」とセットで考えなければならない。暴力は使わない、しかし、決して服従しない。そして、そこに運動の手法としての大衆動員、直接行動が加わる。具体的には、デモや座り込みである。

キング師やその周辺の人たちは、裁判闘争が中心だったそれまでの公民権運動に、大衆を巻き込んだ直接的な抗議行動を導入した。裁判闘争はもちろん、重要である。しかし、人種差別社会アメリカの司法が、何の圧力もなしに人種差別を違憲とする判決を下す確率はむしろ少ない。そして、一度人種差別を合憲とする判決が下されれば、それは「判例」となってその後の運動を停滞させることになる(プレッシー対ファーガソン裁判の「分離すれども平等」がいい例である)。司法を動かすためには、問題が緊急のものであることを示し、世論を動かさなければならない。とりわけ、黒人が少数派のアメリカでは、「人種差別は良くないけど、今すぐなくさなくても」と思っている白人の良心に働きかけることが必要である。

大衆動員による非暴力直接行動が導入される契機となったのが、有名なモントゴメリーのバスボイコット運動である。モントゴメリーのバスにおける人種隔離は、黒人は後ろから、白人は前から席を占めていき、満員になったところに白人が乗ってきたら、黒人は前から順に席を譲らなければならないという酷いものだった。1955年、当時42歳の黒人女性ローザ・パークスはこれに抵抗し、逮捕される。パークスの逮捕にNAACPが動き、モントゴメリーの黒人コミュニティ全体を巻き込んだボイコット運動が展開される。このとき、地元のデクスター教会に赴任したばかりの主任牧師として、運動を指揮することになったのが26歳のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアだった。運動は1年以上にわたり続き、経営不振に陥ったバス会社は人種隔離を撤廃する。

非暴力直接行動の運動はその後もさまざまな形で受け継がれていく。1963年にキング師がバーミングハムで展開した運動では、地元の保安局長ユージン・”ブル”・コナー率いる警官隊が、警察犬や高圧ホースで丸腰のデモ隊に襲いかかる様子がテレビで全米に放映された。キング氏自身も逮捕され、獄中から直接行動の意義を訴えた。

あなたがたが次のように問いかけているのはもっともです。「なぜ直接行動をするのか。なぜシットインやデモ行進をするのか。もっとよい交渉という手段があるではないか」と。あなたがたが交渉を呼びかけているのは全く正しいのです。実際、これこそがまさに直接行動の目的なのですから。非暴力直接行動が求めているのは、交渉をたえず拒否してきた共同体が提起されている問題に直面せざるを得ないような危機を作り出し、緊張を生み出すことなのです。つまりもはや問題を無視できないように劇的に提示しようと求めているのです。私が非暴力的抵抗の一つとして緊張を作り出すなどと言うと、驚かれるかもしれません。しかし、私は『緊張』という言葉を使うのを恐れないと申し上げなければなりません。もちろん、私は暴力的な緊張には断固反対です。しかし成長のために必要な建設的な非暴力的緊張というものもあるのです。

キング師らの運動は若い世代にも影響を与えた。1960年、ノースカロライナ農工大学の学生が、白人専用のバーカウンターに居座る「シット・イン(座り込み)」の運動をはじめた。運動は全米に広まり、各地でバーカウンターにおける人種隔離撤廃を勝ち取る。さらに、この運動をきっかけに、学生非暴力調整委員会(SNCC)が結成されている。また、黒人と白人の公民権運動家が2台のバスで首都ワシントンからニュ―オリンズを目指し、バスターミナルにおける人種統合の状況を調査する「フリーダムライダーズ」の運動は、各地で暴徒による妨害を受け、中断を余儀なくされながらも、新たな「乗客たち」によって引き継がれ、ミシシッピ州ジャクソンまで続けられた。

こうした公民権運動の新たな展開に対し、人種差別主義者たちの反動も激しかった。1955年、南部に住む伯父の家を訪ねていた北部の黒人少年エメット・ティルが、雑貨商の白人女性に声をかけただけで、白人男性に連れ去られ、無残な死体となって発見された事件は全米を震撼させたが、容疑者はいずれも白人の陪審員ばかりの裁判で無罪になった。1963年には、車で帰宅したNAACPノミシシッピ支部ディレクター、メドガー・エヴァーズが後ろから銃で撃たれ死亡。やはり、容疑者は無罪となった。1964年にはミシシッピでSNCCノ若い公民権運動家3人がKKKのリンチによって殺害された。この事件の容疑者もほとんどが無罪に。いずれの事件も裁判のやり直しが行われたのは、30年以上たってからのことだった。

J・B・ルノアーのブルース「ダウン・イン・ミシシッピ」は、黒人や公民権運動家を殺しても罪を問われないミシシッピの闇を、皮肉を込めて描いている。

ウサギの禁猟期ってのがある
ウサギを撃ったら、あんた、刑務所行きだ
ところが人には禁猟期なんてない
誰も保釈金を払う必要はないのさ
ミシシッピじゃ
俺が生まれたミシシッピじゃ・・・

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