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2014年6月30日(月)

イルカにのった中年。

明治学院非常勤、前期第十二回目。スペンサー・ウィリアムズ監督の映画『ブラッド・オヴ・ジーザス』を見たあと、音楽の話に入る。

アフリカ系アメリカ人の文化における「聖」と「俗」の関係。悪魔の道に入りかけた女性がキリストの血によって購われる『ブラッド・オヴ・ジーザス』は、ひとまず「聖」の側から描かれた作品といっていいだろう。しかし、それにしては悪魔の巣窟であるナイトクラブや、十字路における悪魔たちの浮かれ騒ぎが、必要以上に生き生きと魅力的に描かれている気がする。実際、スペンサー・ウィリアムズはのちにナイトクラブを舞台にした商業的作品も撮っている。

土曜日にナイトクラブでどんちゃん騒ぎをし、日曜には盛装して教会に出かけるアフリカ系アメリカ人にとって、「聖」と「俗」はどちらもなくてはならない要素なのだろう。しかも、十字路で出会った悪魔がアフリカの神レグバだったとすると、話がややこしくなる。レグバはトリックスター的性格を持ち、現世と神の世界をつなぐ十字路の神である。しかし、キリスト教の立場からすれば、それは異教の悪魔に他ならない。アフリカ系アメリカ人にとっての、「聖」と「俗」の関係は錯綜している。

アフリカ系アメリカ人の音楽における「聖」といえば、スピリチュアル(霊歌)である。そのスピリチュアルも、逃亡奴隷を北部へ導く暗号といった現世的な意味を持っていた。スピリチュアルが広く知られるようになるのは、黒人大学であるフィスク大学の学生によって結成されたフィスク・ジュビリー・シンガーズが、資金難に喘ぐ大学を救うために開いたコンサートで取り上げてからである(ここにも現世的な意味がある)。

しかし、フィスク・ジュビリー・シンガーズのような、編曲されたスピリチュアルは本来のスピリチュアルではないという声もある。ゾラ・ニール・ハーストンは「不揃いなハーモニーこそ、スピリチュアルを形作っているものであり、これがなければスピリチュアルとは言えない」として、編曲されステージの上にあげられた「ネオ・スピリチュアル」を、奴隷たちが本来歌っていたスピリチュアルと区別した。編曲されることによって、自由な参加が妨げられ、一回一回が新たな創造であるべきスピリチュアルの即興性が失われるからである。

そういった話をして、フィスク・ジュビリー・シンガーズの録音と、アラン・ロマックスによるジョージア州シー・アイランドでのフィールド・レコーディングを聞き比べた。さらに、ジョージア・シーアイランド・シンガーズの動画を見たあと、昨日のタマラ・ロバーツ氏のプレゼンテーションをパクって、学生を3グループに分けて手拍子のパフォーマンスをした。

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