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2014年6月2日(月)

国が平成(屁せい)といったので、昭和(しょうが)なく…プッ。

明治学院非常勤、前期第八回目。ビリー・ホリデイ「奇妙な果実」を聞きながら、授業開始。リンチされ、吊るされた黒人の死体について歌われたこの歌が世に出たのは1939年。奴隷解放から70年以上経っている。奴隷制が終わって、アフリカ系アメリカ人は自由になったのではなかったのだろうか。なぜ、こんなことが続いたのだろうか。

南部と北部の対立が高まるなか、1859年、過激な奴隷制反対論者ジョン・ブラウンがヴァージニア州ハーパーズ・フェリーで連邦軍の武器庫を襲撃する。ブラウンは捕えられ、反逆罪で絞首刑になるが、彼の行動は全米に衝撃を与えた。翌年、奴隷制拡大反対派が結集した共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領に当選する。追いつめられた南部諸州は、連邦を離脱、アメリカ連合国として独立を宣言。南部側がサウス・カロライナ州のサムター要塞を攻撃し、南北戦争の火ぶたが切って落とされた。

南北戦争に至る争点のひとつが奴隷制であったのは確かだし、戦争の結果、奴隷が解放されたことは否定できない。しかし、リンカーンが戦争中手紙に書いたように、南北戦争の目的は必ずしも奴隷を解放することではなく、連邦を分裂から救うことであった。奴隷解放宣言も期限までに連邦に戻ってこない州で奴隷制を廃止するとした「予備宣言」によって、南部に揺さぶりをかけることが目的だった。ともあれ、1865年4月3日、戦争は北部の勝利に終わる。そのわずか12日後、リンカーンはフォード劇場で観劇中、銃弾に倒れた。

解放された奴隷たちを待っていたのは厳しい現実だった。奴隷制のもとでは、最低限の衣食住は保証される。しかし、解放された元奴隷たちは自分で生きる糧を探さなければならなかった。解放奴隷に20エーカーの土地とラバ一頭が支給されるという噂があり、そのために奔走した白人もいたが、実現しなかった。そこに以前の奴隷所有者が声をかけてくる。「どうだ、今まで通りうちで働かないか。土地も農具も種も貸そう」「ほんとですか、だんな!」「そのかわり、収穫の三分の二は納めてもらうぞ」 こうして、シェアクロッピングという一種の小作制がはじまる。元奴隷たちは土地に縛りつけられ、厳しい生活を余儀なくされた。

一方で、南部に駐留した連邦軍、解放民局を中心に、奴隷制のない南部の建設を目指した「南部再建」がはじまった。憲法の修正条項や公民権法によって、アフリカ系アメリカ人に公民権や投票権が保証された。黒人初の上院議員や州知事も誕生した。しかし、その一方で、こうした動きを警戒する南部白人のなかから、クー・クラックス・クランのような白人至上主義団体が生まれ、黒人や北部白人に対するテロリズムが横行する。アフリカ系アメリカ人は大挙して北部に移動した。そして、1877年の大統領選で共和党ラザフォード・ヘイズの当選を認める代わりに、連邦軍が南部から引き上げ、南部再建期はわずか14年ほどで終わりを告げる。南部諸州はジム・クロウ法と呼ばれる人種差別法を次々と制定。人種隔離を徹底し、アフリカ系アメリカ人から公民権や投票権を奪った。1890年代には、リンチで殺される黒人の数がピークに達する。

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