無料ブログはココログ

« 2012年6月23日(土) | トップページ | 2012年6月25日(月) »

2012年6月24日(日)

黒人研究の会・第58回全国大会(2日目)@国士舘大学。城西国際大学の柴崎小百合先生は、メルヴィン・ヴァン・ピーブルズ監督の映画『ウォーターメロン・マン』について。ハーマン・ローチャーの原作を読む限り、ある日目が覚めたら黒人になっていた白人青年ガーヴァーの恐怖は陳腐でしかないが、ピーブルズはガーヴァーの焦燥を誇張して描くことで、白人社会が長年抱いてきた黒い肌に対する病的なまでの恐怖心を前景化する。すべてはガーヴァーの見た悪夢だった・・・というオチがつく原作、またパッシングを描いた多くの作品とは違い、ピーブルズはガーヴァーを本来の人種に戻さなかった。それどころか、ガーヴァーは白人の妻と離婚し、黒人向けの保険会社を起ち上げ、ブラック・パワーの活動を始め、「黒人性」を獲得し、内も外も黒人として生きていく。そのことによって、傍観者としての観客の位置が侵害され、人種分離的なイデオロギーは転覆させられている。一方で、あらゆる手段を講じて肌を白くしようとするガーヴァーを面白おかしく描くことで、自己否定に陥り、白い肌にある種の憧憬を抱くような黒人への「目を覚ませ」という痛烈なメッセージでもある。ガーヴァーが黒人アイデンティティを構築したあたりから、映画のトーンもユーモラスなものから一転、ブラックパワーを強調した反逆的なものになる(そうした後半部分は映画の予告編では恣意的に除外されている)。もちろん、ピーブルズが黒人の自尊心の再生を男性性と男性的なセクシュアリティのみに依拠させている点はジェンダーの観点から見て問題を孕んでいる。とはいえ、ガーヴァーの表象にステレオタイプ的な部分があるとしても、それはうっかりステレオタイプに陥ってしまったわけではなく、むしろアンクルトムを仮面として利用しながら、白人ハリウッドに侵入し、内側から発言し体制を揺さぶるためのピーブルズの戦略だった。

大阪府立枚方高等学校の山野茂先生は、トニ・モリソン『ラブ』の舞台となるコージーズ・ホテルの呪縛性に焦点を置くことによって、『ラブ』がアフリカ系アメリカ人社会における階級の問題を前景化した作品であることを明らかにしようとするもの。コージーズ・ホテルの創設者ビル・コージーの父親ダークは裁判所のタレこみ屋として、黒人社会を裏切ることによって金をため込んだ。金と権力を維持するために人種差別を利用したダークに、父親の残した金を元手にホテル経営をはじめた黒人企業家ビル・コージーの原形を見ることができる。ブルジョワ黒人の情事の場であるコージーズ・ホテルが提供する享楽は一時的、幻想的、浪費的なものだ。コージーは、もともと白人用だったホテルを買い取り、黒人専用のホテルに「上書きした」。そこには下層の黒人は従業員としては入れても、客としてはいることはできない。とはいえ、ホテルは貧しい人たちにとっても誇りの対象であり、資本主義的成功の幻想を与えるものになっている。父親とは対極の人生を送ろうとしたコージーだったが、結局は資本主義的な価値観を持ち、人種差別を正当化するようになっていった。しかし、黒人社会では王様であっても、白人優越主義の社会にあっては卑屈な弱い存在にすぎないことをコージーは自覚せざるをえない。コージーは家父長としての権力を確認するために、孫娘クリスティンの友人である未成年の少女ヒードと結婚し、虐待する。ヒードとクリスティンはコージーの遺産をめぐって、死の間際まで争い続ける。コージーの義娘メイは義父が残したホテルを、精神を病みながらも守ろうとする。『ラブ』はホテル経営に象徴される、資本主義に内在する階級差別を告発する作品である。

日本女子大学・非常勤講師の小泉泉先生は、モリソンの『マーシイ』を"home"という領域概念に関連して読み解こうとするもの。ベル・フックスが指摘しているように、アフリカ系アメリカ人女性は、人が主体として外の世界で否定された尊厳を回復できる場所としての"home”を構築することによって、二重の差別に抵抗してきた。モリソンもエッセイ"home"のなかで、公的な領域における精神的・身体的に安全な社会的空間を模索している。2006年に開催されたモリソンのルーブル美術館特別展「外国人の家」"Forigner's Home"は、歴史的にアメリカ人自身が「外国人」であるアメリカにおいて、アメリカの作家たちがどのように他者/外国人をとらえてきたのかということがテーマになっている。この特別展にインスピレーションを与えたジェリコの絵画「メデュース号の筏」を、絶望と希望、生と死の間を彷徨うものと捉えるモリソンの言葉のなかに、これまで描いてきた"home"を求める人びとに対するモリソンの視線を見ることができる。フロイトは、ドイツ語"unheimlich"が全く逆の二つの意味(不気味/親しみやすい)を持つことに着目し、「不気味なもの」とはもともと新しいものでも異質なものでもなく、精神生活にとって古くから馴染みのもので、抑圧プロセスのために疎遠なものになっていた「隠されているべきもの」が外に現れたものであり、それは母体のなかに暮らしていたころの幻想、すなわち原始的な意味での"home"であると考えた。ホミ・バーバは"unheimlich"の直訳である"unhomely"という言葉を使って、モリソンの『ビラヴィッド』を故郷喪失の小説("unhomely fiction")、作品の舞台となる「ブルーストーン通り124番地」を解読不可能な言葉につきまとわれつつ、完全に実在化された"unhomely"な "home"と捉えている。『ビラヴィッド』の続編と言われる『マーシイ』の舞台であるバーク農園もまた、故郷を失った孤児たちが暮らす場所であり、"home"と "unhomely"がぶつかりあうなかで、見えなくされていた歴史の領域が「不気味に」現れる場である。

最後に前会代表にして、四日市大学名誉教授、浄土真宗の僧侶でもある北島義信先生の特別トーク。ヒンディー語を学び、ヒンディー文学に触れるうちに、近代西洋に「やられた」側の視点を身につける。学生運動の時代にロシア語を学ぶ。ヨーロッパの思考も学ばなければいけないということで西洋哲学に興味を持ち、ロシア語ができたことからロシアの文芸批評を研究。大学講師として英語を教えるうちに、リチャード・ライトラングストン・ヒューズなどに出会う。門土社のテキストでアレックス・ラグーマ『夜の彷徨』を知り、アフリカ文学に開眼。ケニアのグギ・ワ・ジオンゴの作品などを翻訳・・・興味・関心の赴くままに、研究を続けてきた自由で深い軌跡に圧倒されるばかり。グギと会ったときの話 ― グギが仏教について尋ねてきたことなど ― も面白かった。そのときに本人から勧められたグギの著書『サムシング・トーン・アンド・ニュー』の内容。ヨーロッパによって解体されたアフリカの全体性(wholeness)の回復(アイ・クウェイ・アーマー『オリシャ・ライジング』)。過去のなかに現在の問題解決の糸口を見ること。文化の金庫としての言語(現地語による創作)。全体性を回復するためのベースとしての口承文学(民衆演劇の試み)。話はさらに、グギ『十字架のうえの悪魔』から親鸞目取真俊まで。柔らかい口調のお話は、ほとんど法話に近い。深い学識もさることながら、文学を「研究」するという外在的な視点ではなく、「いかに生きるべきか」という内在的な視点から、問題に切り込んでいくところに感銘を受けた。たいへん、勉強になりました。

« 2012年6月23日(土) | トップページ | 2012年6月25日(月) »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/73760/55150031

この記事へのトラックバック一覧です: 2012年6月24日(日):

« 2012年6月23日(土) | トップページ | 2012年6月25日(月) »

最近のトラックバック

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31