無料ブログはココログ

« 2011年12月 | トップページ | 2012年2月 »

2012年1月27日(金)

ポリリズムだけど、グルーヴはひとつなんだ。

2012年1月26日(木)

Acosukizuki120126

遠峰あこ@『居酒屋すきずき』。ひらげは途中参加だったので全曲は聞けなかったけど、今日はのべ32曲も歌ったとのこと。常連も10人以上出席で、にぎやかに盛りあがった。ひらげも久しぶりにビールを飲みながら、あこちゃんの歌を堪能。

2012年1月25日(水)

エドガー・アラン・ポーの小説『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket、1837、『ポオ小説全集2』、大西尹明訳、創元推理文庫、1974)を読む。多くの研究者の指摘しているように、船を乗っ取る黒人水夫の残虐さ、白いものを異常に恐れる「原住民」に全滅させられる白人の船、謎めいた結末には、ナット・ターナーの反乱(1831)で掻き立てられたアメリカの行く末に対する不安が現れている。アメリカの、人間の暗部を見つめたポーは、奴隷制を擁護する人種差別主義者でありながら、危うい社会がカタストロフィを迎えることをどこかで望んでいたのかもしれない。仲間を殺して食べちゃったり、えげつない話だけど、ハラハラドキドキ、読者を飽きさせないエンターテイメントとしても面白い。

2012年1月24日(火)

Africakotaikeisei

二〇世紀<アフリカ>の個体形成 南北アメリカ・カリブ・アフリカからの問い』(真島一郎編、平凡社、2011)を読み終わった。

東京外国語大学アジア・アフリカ文化研究所の共同研究プロジェクト『間大西洋アフリカ系諸社会における二〇世紀「個体形成」の比較研究』の研究成果として、3年にわたって行われた研究会の発表をもとにまとめられた本書は、世界各地のアフリカ系文化を<個体形成>という目新しいタームで切り結ぼうとする試みである。言い換えればそれは、ポール・ギルロイの「ブラック・アトランティック」というヴィジョンを、置きかえ不可能な個人の自己形成という観点から再構築する試みに他ならない。

間大西洋のアフリカ系文化を俯瞰的な視点で見わたすとき、そこから浮びあがる<アフリカ>は現在のディアスポラ的状況を過去の一体性によって清算するべく使用される記号として働く。それは現実のアフリカを置き去りにしたまま、あるいは現実のアフリカを抹消しながら、一人歩きする危険性を孕んでいる。そうした危うさを回避するためには、特定の個人がどのようにして彼/彼女自身のアフリカを発見し、強要された、あるいはすでに内面化したヨーロッパ文化と折り合いをつけながら、<個体形成>を成しとげたかを明らかにすることが有効である。それぞれの<個体形成>のなかで内面化され、ある種記号化された<アフリカ>はいずれ、現実のアフリカと出会い、そこに還流していくだろう。「ブラック・アトランティック」というヴィジョンは、こうした相互交渉のなかに浮びあがるものとして捉え直される。

<個体形成>に焦点を当てることによって、「ブラック・アトランティック」の俯瞰的な視点からは見えない差異やずれを明らかにする ― こうした設定自体、編者もあとがきで述べているように、社会学や歴史学の研究者である執筆者にとって前例のないものであったようである。集団の歴史と個人の形成史を行き来して、落としどころを探し続けている論考も少なくない。しかし、論集の目的が、対象となった個人だけではなく、そうした対象に向かう研究者の<個体形成>を問題にすることにあるのならば、そうした執筆者のとまどいもまた、歓迎されるべきものなのだろう。キューバのアフリカ系文化に魅入られたリディア・カブレーラ(工藤多香子「リディア・カブレーラ ― ネグロに理想を追い求めて」)に見られるように、アフリカ、あるいはアフリカ系の文化を研究するものもまた、現実のアフリカに接しながら、記号としての<アフリカ>を生みだし、それをアフリカに還流していく当事者に他ならないのだから。

アフリカ系ディアスポラにとっての<アフリカ>、あるいはアフリカ人自身にとっての<アフリカ>、さらには研究者にとっての<アフリカ>、こうしたさまざまに記号化された<アフリカ>が乱反射する本書にさらに望むことがあるとすれば、それは記号化された<アフリカ>が現実のアフリカに還流されるプロセスをもっと描いて欲しかったということだろうか。その意味では、合衆国で再構築されたヨルバ文化で培われた<アフリカ>が、ヨルバランドに里帰りすることによって、現実のアフリカと自らをすりあわせ、そのことによってヨルバの司祭が合衆国の<アフリカ>のなかに活動場所を求めるという相互交渉が描かれた小池郁子氏の論考(「合衆国のアフリカ王、オセイジェアマン・アデフンミ ― 大西洋を渡る「ヨルバ人がおりなす社会運動の変容」)は非常に興味深い。ギルロイのブラック・ブリティッシュ偏重を指摘するのであれば、ディアスポラの回路を通った<アフリカ>がアフリカの人びとに与えた影響を明らかにするこうした論考に、もう少し紙幅が割かれてもよかったように思う。例えば、西アフリカやコンゴの音楽におけるキューバ音楽の影響とか、アフリカにおけるブラック・パンサーといったテーマで・・・もっとも、それではただでさえ分厚い力作に、さらに増補を加えなくてはならなくなるが。

ともあれ、これだけ広範囲にわたって、アフリカ、アフリカ系の人々の体験を、たんなる伝記的事実の列挙ではなく取りあげた本書が、画期的な試みであることは疑いようがない。<個体形成>のプロセスはさまざまであり、「民族」の捉え方、<アフリカ>の意味するところも一つではない。時代やそれぞれの資質による限界もある。ウィリアム・モンロー・トロッターのように、<アフリカ>に意味を見いだせなかった人物もいる(大森一輝「駆けずり回ることを運命づけられて ― ウィリアム・モンロー・トロッターという悲劇」)。コンゴの独裁者モブツにとって、<アフリカ>は権力装置に他ならなかっただろうし(武内進一「個人支配の形成と瓦解 ― モブツ・セセ・セコが安全な悪役になるまで」)、ケニア第二代大統領モイにとっては民族のパワーバランスそのものだったかもしれない(津田みわ「あるカレンジン人の男、モイ ― ケニア共和国第二代大統領」)。しかし、そうした差異や欠損、濫用も飲みこんだなかから浮びあがる<アフリカ>に、圧倒されることもしばしばである。それは同時に、研究者としての執筆者諸氏が抱く<アフリカ>の力でもあるのだと思う。

2012年1月22日(日)

Hiragecake
rokucafeでケーキを頼んだら、こんなの作ってくれました。メガネの人はひらげらしいです。ウフ。

2012年1月21日(土)

エタ・ジェイムズが死んだ。悲しい。

2012年1月19日(木)

416rv36r2gl_sl500_aa300_

鈴木いづみハートに火をつけて 誰が消す』(鈴木いづみコレクション<1>長編小説、文遊社、1996、1983)を読み終わった。自伝的長編小説。人気GSグループ=グリーン・グラス(明らかにゴールデン・カップス)や、ロック・バンド=ルシール(たぶんキャロル)のメンバーとやりまくり、享楽的な生活を送ってきた「いづみ」が、一転、偏執狂的なジャズ・ミュージシャン(夫・阿部薫がモデル)と結婚。彼の狂気に振り回される。

鈴木いづみのエッセイなどを読むと、テレビ業界のような「ツクリモノ」の世界の危うさに毒づいていることが多い。それは彼女がツクリモノでないからではない。彼女自身ツクリモノの世界に生きているということを強く意識しているからこそ、ツクリモノをツクリモノと思わずに生きているマヌケな連中に我慢がならなかったのだろう。ミュージシャンとのセックスに明け暮れる前半は、それこそ実体のないツクリモノの世界なのだが、本人がツクリモノであると意識しているがゆえに、逆説的な生々しさを持っている。夫の暴力にさらされ続ける後半は痛みを伴うリアルな体験のはずなのだが、逆に夢のなかの出来事のようだ。でも、どっちがリアルでどっちがツクリモノかなんて誰にもわからない。あえて言うなら、どちらもツクリモノなのだ。

文章も内容も表層的に見えて、読めば読むほど深みにはまる作品。

2012年1月16日(月)

200pxedgar_allan_poe_2明治学院非常勤後期第十四回(最終回)。「アメリカ文学入門」ではエミリー・ディキンソンの詩をいくつか読んだ後、エドガー・アラン・ポー(写真)の短編「黒猫」「アッシャー家の崩壊」について話した。アメリカの新しい自由詩をつくった人物であるという点を除けば、前回取り上げたウォルト・ホイットマンとディキンソンは人生も作品も対照的である。記者として精力的に活動し、政治の世界にも首をつっこんだホイットマンの詩が、多様性を飲み込む饒舌さを持っているのに対し、ほとんど引きこもりのような暮らしをしていたディキンソンの詩は言葉少なに的確な表現を選んでいく静謐さにあふれている。それでも同時代のアメリカ詩人として二人が共有していたのは、トランセンデンタリズムにも通じる「自己信頼」、自己と世界(自然、宇宙、神)が直接結ばれているような感覚ではなかったか。ディキンソンの詩には、自分のなかにある熱いものに表現を与えようとするような誠実さがある。一方、ホイットマンやディキンソンとは全く違う世界観を持っていたのが、ゴシック風の恐怖小説を得意とし、推理小説の先駆としても知られるエドガー・アラン・ポーである。ポーの作品は、<世界が悲劇的な終末を迎えることは最初から決まっている>という運命論的なヴィジョンに支配されている。「黒猫」にしても、「アッシャー家の崩壊」にしても、物語は定められた悲劇に向かって一直線につきすすんでいく。アメリカの、あるいは人間の暗黒面に魅入られた作家ポーは、犯罪者が罪の露見をどこかで望んでいるように(「黒猫」の主人公はなぜわざわざ妻の遺体を隠した壁を叩いたのか)、自分を含めた邪悪な世界が崩壊することを望んでいたのかもしれない。

「アメリカ文化(アフリカ系アメリカ人の歴史と文化)」では、前回に続いてソウル・ミュージックを取りあげた。前回はジェイミー・フォックス主演の映画『レイ』から、レイ・チャールズが妻に「アイ・ガッタ・ウーマン」を聞かせるシーンを見たところで終わったので、今回はレイ・チャールズ本人による「アイ・ガッタ・ウーマン」を聞きながら授業を始めた。

あけましておめでとう。この授業もいよいよ最終回です。最後に公民権運動の時代を象徴する音楽、ソウル・ミュージックについてお話したいと思います。前回話したようにね、ソウルって音楽には二つの重要なポイントがある。一つはゴスペルへの回帰、もう一つは白人との共同作業ね。つまり、アフリカ系アメリカ人としてのルーツを見直すっていう側面と、黒人と白人が手を取り合って一つの音楽を作っていこうとする側面を両方持っていたわけ。すごく、公民権運動っぽいと思わない?まあ、もっとも、勘違いしないように言っておくと、ソウルのミュージシャンが公民権運動に熱心に取り組んでいたとか、そういうことではないよ。少なくとも初期の頃は、公民権運動の活動家たちが聞いていたのはむしろフォークなんかでね。でも、ソウル・ミュージックにはもっと深い部分で、公民権運動と連動する部分があったっていうことなんだ。

ゴスペル回帰については前回少し話したね。一例として、レイ・チャールズをあげた。そのときはジェイミー・フォックスの物まねだったんで、今回は本物のレイ・チャールズをかけてみました。彼の場合、神への愛を歌うゴスペル・ソングの歌詞を恋人への愛を歌ったものに置き換えることによって、ゴスペル・フィーリングあふれるR&B、ソウル・ミュージックをつくりだしていった。神さまのことを歌った歌にのせて、ちょっと(だいぶ)エッチなことも歌ったりするわけだから、反発もあった。前回見た映画のなかでも、「アイ・ガッタ・ウーマン」を歌うレイを、奥さんがあわてて止めてたね。レイは神に対する愛も人間に対する愛も同じだって反論してた。まあ、結果として、ゴスペル・フィーリングを取り入れたレイの音楽は人びとに熱狂的に受け入れられていった。

今日はね、ゴスペルを世俗の歌に取り込んだ重要人物をもう一人紹介しようと思う ― サム・クックだ。この人は最初、ゴスペル・シンガーとして出発する。もう、はじめからゴスペルどっぷりなわけ。ソウル・スターラーズって名門ゴスペル・カルテットがあってね、そのスタイルを受け継ぐようなグループで活動してた。ところがね、スターラーズのリード・シンガーだったR. H. ハリスっていうすごい人がいきなりグループをやめちゃう。あわてた残りのメンバーは、子分的な存在だったサム・クックに声をかけた。「いやーハリスがやめちゃってやばいんだよ、お前なら俺たちのスタイルもバッチリ身についてるし、ハリスの代わりに歌ってみない?」 サムとしたら一も二もないよね。憧れのスターラーズで歌えるわけだから。やがて、サムはその甘いマスクもあって、若い人たちを中心に人気を集めていく。ゴスペルっていう、「神のメッセージを聞く」っていう建前のある世界でもね、やっぱり女の子たちはイケメンに夢中なのね。「こんどスターラーズにはいった男の子、ちょーかわくない?」みたいな感じ。写真を見るとつるんとした顔のいい男だね。これで歌がうまいんだから、モテないわけがない。

そんな男をポップス界が放っておくわけないよね。クックの側ももっと広い世界で成功したいという野心があって、ゴスペルで鍛えあげた歌唱力を武器に、ポップス・シンガーとしてデビューする。もちろん反発もあったけどね。たちまち人気者になっていった。でも、サム・クックの場合、最初からゴスペル・フィーリングまるだしで、泥臭いソウル・ミュージックをつくっていったわけじゃなかった。最初は甘いポップスとかスタンダードがレパートリーの中心だったってこともあるし、若いころのサムの声がなめらかすぎたってこともある。でも、だんだんとスターラーズで培ったゴスペル・フィーリングを前面に出しはじめる。自動車事故で死にかけたり、子どもが幼いうちに亡くなったりっていうつらい経験を経て、少し枯れた声でそういう泥臭い歌を歌うサム・クックはまさに「ミスター・ソウル」と呼ばれるのにふさわしいシンガーになっていった。

ところで、さっきから「ゴスペル・フィーリング」とか、ゴスペルの要素を世俗の音楽に取りこんだとか言ってるけど、じゃあ、何をもって「ゴスペル的」というべきなんだろう。これは難しい問題だね。ゴスペル・ミュージックには思いつくだけでも次のような特徴がある。

(1)同じコードのくり返し
(2)コール&レスポンス
(3)メリスマのきいた歌い方
(4)高揚感

(1)~(3)の音楽的特徴っていうのは、たしかにゴスペルの影響を受けたソウル・ミュージックのなかに多く見られるものだ。でもね、すべてのソウル・ミュージックが(1)~(3)の特徴を持っているかっていうと、必ずしもそうじゃない。一方、(4)の高揚感っていうのは、ゴスペルにもソウル・ミュージックにも欠かせないものだと思う。高揚感ってわかるね?気持ちが高ぶっていくこと、どんどんどんどん、今の言葉でいえば気持ちがアゲアゲになっていく。どこまでもどこまでも、際限なく。もう終わりか、クライマックスかと思うと、そうじゃない、まだまだ上がある。この感覚はね、黒人牧師の説教、あるいはマーチン・ルーサー・キングの演説なんかにも通じるものがあるね。例えば、キング師が暗殺される前の日に行った最後の演説。このなかで、キング師は私は丘のうえにのぼって、約束の地を見てきたっていうんだな。私はみなさんといっしょにそこに行けないかもしれない。でも、それでもいいのです、私は約束の地を見たのですから・・・つまりね、ゴスペルの高揚感っていうのは、もう自由になれるか、今度こそ自由になれるかと思いながら、そのたびに期待を裏切られてきたアフリカ系アメリカ人の経験と関係があると思うんだ。まだ来ないクライマックスを見据えながら、次こそは次こそはと期待する人びとの胸苦しいほどの高揚感・・・ソウル・ミュージックがゴスペルから受け継いだのは、それじゃないかな。

最近はけっこうゴスペルもメジャーになってきて、みんなもゴスペルの高揚感っていうと、ああ、あの感じかって思うものがあると思う。全身を解放して歌うような、おおらかで希望に満ちた明るい歌のイメージを持っている人が多いんじゃないかな。でもね、戦前のゴスペルの録音、特にカルテットっていう少人数のコーラスの録音なんかを聞くと、すごく陰鬱としてて驚くと思う。ちょっとサム・クックが参加する前のソウル・スターラーズの録音を聞いてみよう。さいっきいったR .H. ハリスがリード・ヴォーカルのころだね。

どうだろう?みんなが持っているゴスペルのイメージとだいぶ違ったんじゃないかな?希望に満ちた歌というよりも、絶望のなかで一筋の光を見つけようとしているような、重苦しささえ感じさせる歌じゃなかったかな。ある意味ではね、このゴスペルを変えたのがサム・クックだったとも言えるんだ。サム・クックは戦後、好景気のなか、未来に希望が持てる時代に育った新しい世代だった。もちろん、厳しい人種差別は残っていたけどね、それをなくそうとする運動も次第に形を取りはじめていた。サム・クックが加わったあとのソウル・スターラーズはスタイルはそのままなんだけど、がらっと印象が違う。

サム・クック以外はもとからいたメンバーなんで、以前の重い感じも残っている。でも、サムの若々しい声は今までと違う、希望に満ちた感じでどんどん高揚していく。サムが「希望のシンガー」と呼ばれたゆえんだね。彼はこの希望に満ちた新しいゴスペルの高揚感をR&Bに持ち込んだんだ。そうやって、ソウルと呼ばれる音楽が形作られていった。もう一曲、サムが謎の死を遂げる直前に録音されていた「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」っていう歌を聞いてみよう。映画『マルコムX』のクライマックスに使われていたのを覚えている人も多いと思う。

いつか変わる日が来る、いつが変わる日が来る。これはまさに、自由への期待を裏切られ続けてきたアフリカ系アメリカ人の歌だね。それをサムはどこまでもどこまでものぼっていく高揚感をもって歌う。オバマ大統領選挙の勝利演説で「長い時間がかかったけど、ついに変化が来た!」って言ったとき、ぼくを含むソウル・ミュージックのファンはみんなこの歌のことを思い出していたね。

さて、ゴスペル回帰とサム・クックについてはこれくらいにして、ソウル・ミュージックのもうひとつ重要な側面、白人との共同作業にも触れておかなくちゃ。そして、何といっても、ぼくの大好きなオーティス・レディングに!

人種差別の強いアメリカにあっても、白人の音楽と黒人の音楽の間にまったくコミュニケーションがなかったかわけはない。むしろ、両者はひとつの音楽的母胎を共有していたといってもいいくらいだね。でも、白人と黒人がいっしょに演奏するってことは、なかなか許されることじゃなかった。ところが、50年代位から、黒人のミュージシャンに混ざって黒人音楽を演奏する白人のミュージシャンが現れた。その背景にはね、まず、ラジオがあるね。ラジオ局も黒人用、白人用って分かれていた。でも、電波は人種隔離できないからね。白人の子どもたちが黒人局から流れるブルースやR&Bを聞いて、黒人音楽やべー!ってなる。そこにエルビス・プレスリーの登場だ。親たちは顔をしかめたけど、白人の若者はロックンロールに夢中になった。そういう若者たちのなかから、R&Bを演奏するミュージシャンが現れる。こういう若者はある人の言葉を借りて言えば、「南部の田舎道をナッシュビルに向かう途中で左に曲がってメンフィスにたどり着いたカントリー・ボーイたち」ってことになる。ナッシュビルはカントリーの本場、メンフィスはあとで述べるようにサザン・ソウルの一つの拠点になった街だね。さらに、黒人音楽に理解のある白人のレコード会社経営者が現れた。たとえば、レイ・チャールズが所属していたアトランティック・レコードアーメット・アーティガン。この人は金持ちのトルコ人でね。アメリカの黒人音楽に夢中になって、金に任せてレコードを買いまくっているうちに、自分でもレコードをつくりはじめた。

そんな白人のレコード会社経営者がメンフィスにもいた。エステル・アクストンとジム・スチュワートっていう姉弟。二人はスチュワートのSTとアクストンのAXから「スタックス・レコード」名づけられたレコード会社を設立して、地元の黒人ミュージシャンを発掘・録音していった。最初はね、二人とも黒人音楽にそんな詳しかったわけじゃないんだけどね、古い劇場を買い取ってスタジオに改造して、一角にレコード・ショップをつくってね。レコード・ショップでどんな音楽が売れるのかリサーチしながら、黒人音楽への理解を深めていった。スタックスでつくられたほとんどのレコードの伴奏をしていたのが、ブッカー・T&MGズってグループでね。このグループはギター(スティーヴ・クロッパー)とベース(ドナルド・ダック・ダン)が白人。つまり、スタックスでは黒人と白人が共同作業で音楽を生み出していたんだね。そんななかから、不世出のシンガーが現れる。オーティス・レディングだ。

好き嫌いは別にして、すごいでしょ。機関車のようだね。曲はローリング・ストーンズの「サティスファクション」ね。ぼくは数年前に亡くなった忌野清志郎っていう人が好きでね。キヨシローがオーティス、オーティスって言うもんだから、聞くようになって・・・67年に行われたモンターレ―・ポップ・フェスティバルって音楽祭にオーティスは出演するんだけど、そのとき会場を埋め尽くした白人の若者たちに向かって、「俺たちは愛し合ってるんだよな!?そういうことだろ!?」って言うんだな。ヒッピーの「ラブ&ピース」に対するオーティスなりの回答だったんじゃないかと思うんだけど。キヨシローがこのフェスティバルの映画を見て、「オーティスが『愛しあってるかい』っていうんだ!」って言ってて、またなーにウソばっか・・・って思ってたんだけどね。ホントだった。キヨシローはそれを見て、RCサクセションのステージで「愛しあってるかい?」って言うようになるんだ・・・まあ、話はずれたけれど、オーティスって言う人は人種の壁を感じさせない人だったってことはあるみたいだね。オーティスのマネージャーをしてた人も白人で、古くからの友人だったりね。

残念ながら、オーティスは26歳の若さで飛行機事故で死んでしまう・・・ってことは今の、26歳よりも若いときの映像!?って驚くかもしれないけど。オーティスが死んだあたりから、スタックス、それから黒人音楽を取り巻く状況も急速に変わっていく。公民権運動自体が先鋭化するなか、他ならぬメンフィスでマーティン・ルーサー・キングが殺される。不暴力を訴えていたキング師が無残に殺されたことで、アフリカ系アメリカ人の怒りは頂点に達した。メンフィスはほとんど暴動状態になってね。ダック・ダンが黒人のアイザック・ヘイズ(作曲家で、のちにシンガーとしても成功)とスタジオから出てきたら、いきなり警官がやってきてヘイズを取り押さえた。白人のダック・ダンがヘイズに襲われそうになっていると思ったらしいんだな。もう、ダック・ダンは情けないやら何やらで、悲しくなってしまったらしい。

そんななかで、人種を超えた共同作業で音楽を生み出してきたスタックスも路線変更を余儀なくされる。創業者姉弟は会社を黒人経営者に譲り、白人のミュージシャンもレーベルを去った。スタックスは黒人による黒人のためのレーベルとして再出発することになった。こうした路線のもとで行われたのが、72年の「ワッツタックス」っていうイベント。これはロサンゼルス近くの黒人地区ワッツにおける暴動(1965)を記念して行われた「黒人のウッドストック」ともいわれるフェスティバルでね。会場を埋め尽くしているのは黒い顔ばかりで、白人の姿はない。ワッツタックスの映像から、一時は大統領候補にもなりかけたことのある公民権運動家ジェシー・ジャクソンの演説を見てみましょう。

最後にもう一人だけ紹介しておきましょう。ジェイムズ・ブラウンです。この人はいくつかのリズムが並行して流れていく「ポリリズム」(パフュームの曲じゃないよ)的なグル―ヴを持つ音楽、ファンクを生み出した人です。今のヒップホップなんかにも直接つながっていく音ですね。時間もないので、とにかく聞いてもらいましょう。


※授業で聞いたのはライブ・バージョン。

このあと、戦後のアフリカ系アメリカ人作家を駆け足で紹介して、授業を終えた。時間が足りなかったな・・・アレサ・フランクリンも紹介できなかったし。来年は時間配分にもっと気を使おう。学生諸君、ご清聴ありがとうございました。

2012年1月14日(土)

Hatian_art_2

ハイチ・アート展かなっくホールギャラリーA。ハイチの絵画は、いわいるナイーブ・アートに似た平面的で温かいタッチのものが多いのだが、ときおりシュールレアリスムのような飛躍した発想が顔をのぞかせる。ヴードゥーの世界観か、あるいは屹立した自然がそうさせるのか、わからないが。ギ・ジョセフという人のが気に入り、絵葉書を購入。佐藤文則さんによるハイチ地震の写真も。明日まで。

2012年1月11日(水)

Suzuki_azumi

鈴木いづみプレミアム・コレクション』(文遊社、2006)を読み終わった。

鈴木いづみの文章はある意味とても肉体的だ。ポルノ女優だったということとは全く関係なく。肉体のなかで起こっている(あるいは起こっていない)こと、理性と感情の二項対立を超えたところにある何かが書かれているという意味で。それは言葉では言い表せない。言葉で定義した途端、区切りをつけられて肉体の外に排出(出産?)されてしまうからだ。言葉で表現できないものを言葉にするのだから、矛盾しているのだが。時間も空間もない暗いブラックホールの周りを、言葉がぐるぐるまわっている。行間を読むなどという生半可なものではなく、言葉の裂け目にはまりこむような感じ。

はまっている。

2012年1月9日(月)

Freedomdreams_2

ロビン・D・G・ケリーフリーダム・ドリームス アメリカ黒人文化運動の歴史的想像力』(Freedom Dreams: The Black Radical Imagination、2002、人文書院、2011)を読み終わった。本書は、アフリカ系アメリカ人のラディカルな運動を跡づけ、未来の可能性、<不可思議なもの>を思い描く自由な想像力へと接続する試みである。何のための運動なのか、と著者は問いかける。再構築されるべきなのは単なる経済システムではなく、人間性そのものである。運動を通して、参加者たちは「何か別のものを想像することができるし、物事がいつもこんな風でなくてもいいということに気づくことができる」(28)。こうした想像力によって、貧困や人種差別、性差別のない社会というヴィジョンが、意識のなかに引きずり出されるのである。

そのことをふまえたとき、「ラディカルな芸術」もまた、単なるプロテストではありえない。 なぜなら、それは未来を獲得しようとする人たちを、「犠牲者」に変えてしまうからだ。求められているのは、「わたしたちをほかの場所へと連れて行き、他の見方を、ひょっとしたらほかの感じ方を、想像させてくれるような作品」(32)である。ネグリチュード以降、アフリカ系の芸術家たちが、白人による美学的な運動とみられがちなシュールレアリスムのなかに、既に獲得していたラディカルな表現 ― 意識にのぼらない<不可思議な>夢に形を与えること ― への肯定を見たのはそのためだ。

著者はこうした<夢>が、敵だけではなく、社会運動の指導者によって抑圧される可能性を指摘する(30)。とりわけ、公民権運動ではしばしば下働き的な役割に追いやられ、フェミニズムの運動では郊外の閉塞から脱却しようとする中産階級の白人女性に同化できなかった黒人女性は、二重の意味で疎外された存在だった。しかし、ブラック・フェミニズムはアイデンティティ・ポリティクスによる運動の解体ではない。それは人種問題を「『公的』『私的』領域を双方ともに分析し、そこから語ることにより解決しよう」とする試みである(225)。著者は、黒人フェミニストに学ぶことによって、エメ・セゼールの言う「特殊であるすべてのものに満ちた普遍性」(288)のなかで、運動それ自体を再構築してみせる。

他にも、コミュニズム、アフリカ帰還運動、補償問題など、さまざまな角度から、アフリカ系アメリカ人のラディカルな運動を突き動かす「想像力」が明らかにされる。刺戟的な本だった。

2012年1月7日(土)

渋谷7th Floor桔梗のライブを見た。坊主頭になったスエヒロくんと初対面。髪を切って身軽になったせいか、いつになくパンクっぽい演奏だった。若返ったんじゃない?

2012年1月6日(金)

Mybackpage

川本三郎マイ・バック・ページ ある60年代の物語』(平凡社、2011、1988)を読み終わった。

全共闘世代の若者たちを突き動かしていたのは、ある種の「負い目」ではないか。ベトナム戦争反対を訴えながらも、ベトナムの人びとのように空爆にさらされることもなければ、アメリカ兵のようにキリング・フィールドに駆り出されることもない。日米同盟を通じて戦争に加担しているという自責の念が強ければ強いほど、問題の核心から疎外されているという歯がゆさがつのったのではないかと思う。「自己批判」という言葉が意味を持ちえたのも、こうした文脈にあってのことだろう。

全共闘世代の学生たちが問題にしたのは自らの加害性だった。体制に加担している自分自身を懐疑し続けることだった。自己処罰、自己否定だった。だから、それは当初から政治行動というより思想行動だった。なにか具体的な解決策を探る運動というより「お前は誰だ?」という自己懐疑をし続けることが重要だった(15)。

学生運動が一気にラディカルな方向に向かっていった背景には、「"世界のあらゆるところで戦争が起きているというのに自分たちだけが安全地帯にいて平和に暮らしているのは耐えられない"といううしろめたさにつ衝き上げられた焦燥感」があった(106)。運動のなかで命を落とすものが現れるに至って、死んでいった仲間たちへの負い目がそこに加わる。それは本来、「どんな不正にも身を震わせる」優しさだったはずだが、やがて「なぜお前は自己批判しないのか」という形で暴力として外在化していった。

作者にとって、「自己懐疑」は学生たちに共感しながら、ジャーナリストとして安全な場所から彼らを傍観する自分に対するものでもあった。さらに、80年代というバブル真っ盛りの日本にあって当時を回想する、執筆時の作者の時代に対する負い目がある。何重にも重なる「負い目」が胸に痛い。

朝日ジャーナル』の記者だった作者は、新左翼取材のなかで知り合ったKと交流を重ねるうちに、この怪しげな「活動家」が起こしたテロ事件 ― 朝霞自衛官殺害事件 ― に巻き込まれていく。Kは結局のところ思想犯ではなく、新左翼勢力のなかで自己を顕示したかったただの殺人犯ではないのか・・・と悩みながらも、作者は「情報源の秘匿」という「ジャーナリストのモラル」を貫き、逮捕される。作者が意地を張り通したのも、逮捕や暴力を恐れず闘う同世代の若者に対する「負い目」があったからかもしれない。だとすると、警察ですべてを話してしまったとき、作者はさらに重い自責を背負い込んだことになる。

それはバブル期以降、そうした「負い目」を封印してしまったかに見える日本の、ぼくたちひとりひとりに突きつけられるべき重荷ではないかと思う。

2012年1月3日(火)

元日に思いついた曲をデモ録音にしてみた。歌詞は模索中。


教祖は裁判で醜態をさらした末、死刑判決を受けた。逮捕されたはずのかつての仲間は、何食わぬ顔で新たな教団のトップになっている。名のり出ているのに、いたずらだと思われて逮捕もされない。この16年はなんだったのだろう・・・平田容疑者の孤独を思う。

2012年1月1日(日)

2012

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。


« 2011年12月 | トップページ | 2012年2月 »

最近のトラックバック

2012年5月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31