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2011年11月7日(月)

明治学院非常勤後期第七回目。「アメリカ文学入門」は、19世紀アメリカの演劇・芸能について。1849年、アスター・プレイス・オペラハウスで起こった暴動は、死者22名、負傷者100名以上を出す大惨事となった。きっかけは、庶民に人気のある生粋のアメリカ人エドウィン・フォレストと、イギリス出身で上流階級に評価の高いチャールズ・マクリーディという二人の俳優が、同じ日に同じ演目(シェークスピアの『マクベス』)を演じると発表されたことだった。このことに怒ったファレスト側の観客は、マクリーディの公演を妨害しようと会場であるアスター・プレイスに押しかけた。背景には、第二次米英戦争(1812)をきっかけとしてイギリスからの経済的独立を成しとげたアメリカにおいて、経済的発展の恩恵を受けた富裕層とそこから取り残された貧困層の対立があった。両者は国民文化のあるべき姿についても意見を異にしていた。

一方、ヨーロッパに残してきたフォークロアに代わるものとして、デヴィッド・クロケットマイク・フィンクといった西部開拓者をもとにしたキャラクターが人気を博していく。また、1840年代にはユダヤ人、1850年代にはアイルランド人が新たに新天地を求めてアメリカに渡ってくる。それとともに、彼らを含めたさまざまな民族のステレオタイプが他者を「理解」する手段として流通しはじめる。なかでも、ミンストレル・ショーに見られるアフリカ系アメリカ人のステレオタイプは、新移民が「白人」として認められるための試金石となった。顔を黒く塗って黒人を笑う演者は、黒人ではない=白人であるという論理である。実際、ミンストレル・ショーにはアイルランド人、その後のブラック・フェイス芸能にはユダヤ人が多く関わっている。

Minstrelclown_byralord

「アメリカ文化研究(アフリカ系アメリカ人の歴史と文化)」では、ゾラ・ニール・ハーストンについて前回やり残したことをちょっと話したあと、ニューディール政策、スポーツ界におけるアフリカ系アメリカ人の参入の例としてジョー・ルイスジャッキー・ロビンソンを取りあげた。

Zora Neale Hurston, "You May Go But This Will Bring You Back"

今日、最初に聞いてもらったのは、前回紹介したゾラ・ニール・ハーストンが歌を歌っている録音です。ハーストンが民俗学者としてアメリカ南部を調査してまわっていたことは、話したよね?南部でアフリカ系アメリカ人のフォークロアを集めながら、ハーストンは思った。わたしだって、南部のアフリカ系コミュニティに生まれたんだ。私が歌うものだって、フォークロアじゃないの・・・ってね。まあ、その通りなんだけど、調査する側の学者が調査結果として自分の歌を提出するなんて、ありえないでしょ。ちょっと面白いね。

民俗学者としての彼女は、南部の黒人文化についていろいろと面白いことを言っている。例えば、モービルっていうフロリダ州の町で見た部屋の話。「モヘア織の応接セット」「模倣マホガニー製のベッドと箪笥」「カレンダーが7つにウォール・ポケットが3つ」「ベルサイユ条約に署名しているところを描いたリトグラフ」 ― いろいろなものが所狭しと飾られていて、全体としては雑然としている。まあ、こんな部屋は日本にもあるね。ぼくの部屋もそうかもしれない(笑)。この部屋、たしかに結果として美的に完成しているとは言い難いんだけど、そもそも美しい部屋を完成させることが住人の目的じゃないってハーストンは言うんだ。住人は「飾りたい」という抑えがたい欲望を満たすために、部屋を飾った。だから、結果として、部屋の様子が雑然としていようがかまわない。結果よりも、過程が大切だってことだね。

こういう結果よりも過程を重んじる文化っていうのは、コミュニケーションの手段として機能することもある。例えば、みんなで飲みに行って騒いだりするときがそうでしょ。そこでは何かの結果を求めているわけじゃない。それよりも、みんなで同じ「場」を共有することが大事なわけだよね。あるいは、スポーツとかね。まあ、プロのスポーツの場合、観客に見せるために「完成」したものを求められるだろうけど・・・アマチュアで楽しんでやっている場合ね。勝ち負けっていうのもあるけど、一番大事なのはみんなでボールを追いかけたりして同じ「場」を共有することでしょ。黒人はこういう「場」を共有するってことをすごく大切にするって、ハーストンは考えた。だから、黒人のダンサーはすごく激しく動いているように見えるときでも、すべてやりきってしまうというようなことをしない。必ず動きに観客が入り込む余地を残しておく。そうやって、ダンスに参加するように促すんだな。そして、誘いにのって踊りはじめた観客は自分がパフォーマーになって、また別の人を巻きこんでいく。

前期に話したけど、ハーストンはスピリチュアルは不揃いなハーモニーじゃなきゃだめだ、教育を受けた音楽家によって整えられたスピリチュアルは本来のスピリチュアルじゃないと考えていた。これも同じことで、訓練された歌い手たちによって歌われる編曲されたスピリチュアルには、人びとに参加を促す自由さがない。それは参加するものではなくて聞くものになってしまう。ステージのうえで歌う側と客席で聞く側に人びとを分断して、同じ場を共有するっていう機能を果たさなくなってしまう・・・でも、ハーストンも、自分が集めたフォークロアをもとにミュージカルなんかをつくっていてね。今は写真しか残っていないけど、けっこう評判になったみたい。だから、彼女の中にも葛藤があったと思うんだけどね。でも、フォークロアのこういう大事な機能に気づいていたっていうのは、他のハーレム・ルネサンスの作家とはちょっと違うところかもしれない。

それから、もう一つ。「黒人であるとはどういう感じか」というエッセイのなかで、ハーストンは白人の友人といっしょにジャズ・バンドの演奏を聞きに行ったときのことを書いている。ちょっと読んでみよう。

楽団はしだいに荒々しく暴走をはじめ、後足で立ちあがり、原始の怒りもあらわに音のヴェールに襲いかかり、それを掻きむしり、引っ掻き、そしてしまいには向こう側のジャングルへと越えていってしまう。わたしもこの未開人たちにつづく―喚起に狂わんばかりになって。わたしの内部は野蛮に踊り、叫び、猛りたつ。頭上の槍で狙いをつけ、的のど真ん中へと投げつける。イアーオー!ここはジャングル、風習もジャングル流だ。私の顔は赤と黄に塗られ、身体は青く塗られている。脈は戦いのドラムのように打っている。何かを虐殺したくなる。何だかわからないけれど、痛めつけ、殺してやりたくなる。けれどもそこで曲ははてる。楽団の人たちは唇をぬぐい、指を休める。最後の音色とともに、文明と呼ばれる虚飾の世界へと私はそっと帰っていく。そして白人の友人がじっと席に座ったまま、静かにタバコをくゆらせているのに気づく。「いい音楽だね」と彼は指先でテーブルを叩きながらいう。

ここに描かれているのは、ハーレム・ルネサンスの白人パトロンたちが求めた「原始」「野蛮」といったステレオタイプそのままのように見えるね。でも、ある評論家が言っていることだけど、よく読むと「野蛮」は顔に塗られたペイントにすぎない。一方で、演奏の終焉とともにハーストンが帰っていく「文明」も、「虚飾の世界」として描かれている。ハーストンにとっては、「野蛮」も「文明」も本来の自分ではなくて、「仮面」にすぎないってことかな。で、「野蛮」と「文明」の間を忙しく行き来しているハーストンに対して、白人の友人は演奏を聞いても何も変わることなく、「いい音楽だね♪」とか言ってしらーっとしている。つまりね、こうやって仮面をつけかえて、自由にいろんな世界を行き来する能力こそが、白人には真似できない、「黒人であること」の特質である・・・ってハーストンは言いたかったんじゃないかな。

さて、ハーレム・ルネサンスの話はこれくらいにして、今日はニュー・ディール政策の話に移りたいと思います。1929年に株が大暴落して、ローリング・トウェンティーズと呼ばれた未曽有の好景気は終わります。財政的な後ろ盾(白人パトロン)を失ったハーレム・ルネサンスも頓挫を余儀なくされる。そして、町に失業者があふれる不景気の時代がやってきます。こうした危機を大規模な財政出動、金融・証券制度の規制強化、労働者の権利を守る法整備、社会保障制度の充実などで乗り切ろうとしたのが、33年に大統領の職に就いたフランクリン・デラノ・ルーズベルトであり、その政策を総称して、ニュー・ディール政策と言います。ニュー・ディール政策はある程度の成果をあげます。まあ、最終的にアメリカを不景気のどん底から立ち直らせたのは、第2次世界大戦だって意見もあるんだけどね。とにかく、アフリカ系アメリカ人をはじめとする貧しい人たちが、恩恵にあずかれる政策であったことは確かだと思う。それに加えて、大統領夫人のエレノア・ルーズベルトっていう人が、社会改革、とくに人種差別の撤廃に熱心だったこともあって、社会全体に改革の機運が浸透したってことも大きい。かつてないほど多くのアフリカ系アメリカ人が政策顧問としてホワイトハウスに招かれるなんてこともあった。

ちなみに、ルーズベルトは民主党の大統領ね。オバマはどっちだか知ってる?民主党だね。でも、リンカーンは共和党だよ。共和党はね、もともと、民主党から奴隷制拡大反対派が分裂して作った党なんだ。ということは、奴隷制を維持しようとする人たちは、民主党に残ったはず。あれれ?オバマは黒人なのに、奴隷制賛成だった党から出たのかな?おかしい?うん、でも、そうなんだよ。黒人の人たちは、最初、リンカーンの党である共和党を支持していた。それが大きく変わったのがこのニュー・ディール政策だったんだ。でもまあ、民主党がニュー・ディール政策のような弱者救済的な政策をとったのも理由がないことではなかった。共和党は奴隷制反対の党であると同時に、自由経済を支持する北部資本家の党だったのね。奴隷制に反対したのも、そんな前近代的なシステムはやめて、いつでも首が斬れる契約労働にしようぜっていう意味もあったんだ。だから、そういう資本家を押さえるためには共和党じゃダメで、民主党しかなかった。ニュー・ディール政策をきっかけとして、アフリカ系アメリカ人のほとんどが民主党支持に変わった。それでも民主党には70年代ぐらいまで、人種隔離を支持するような南部の保守的な政治家がたくさん残っていたんだけどね。民主党がリベラルの方向にかじを取るとともに、南部の保守派は共和党支持に移っていった。そういう意味でも、ニュー・ディールはアメリカ史のターニング・ポイントとなる出来事だね。

さて、ルーズベルト時代のリベラルな雰囲気のなか、アフリカ系アメリカ人の地位向上を目指す動きが見られるようになる。そのなかでも、今日はスポーツについて見てみよう。現在では、アメリカのスポーツ界はアフリカ系アメリカ人なしでは考えられないね。野球でも、バスケットボールでも、陸上競技でも、アフリカ系アメリカ人の選手が活躍している。でも、ほんの数十年前までは、アフリカ系アメリカ人はあらゆるプロ・スポーツ競技から排除されていたんだ。例えば、ボクシング。黒人のボクサーっていうのは昔からいたんだけど、白人の選手は試合をしたがらなかった。なぜって、もし負けてしまったら、「黒人に負けた」って馬鹿にされるからね。白人と試合ができなければ、白人の持つチャンピオン・ベルトを奪うことができない。そんななかでなんとかチャンスをつかんで、ヘヴィ級のチャンピオンになったのが、ジャック・ジョンソンという人。ところが、この人はチャンピオンになると、白人の女性と結婚したり、ファイトマネーで豪遊したりして、白人の反感を買った。白人の女性と結婚して何が悪い、ファイトマネーぐらい自由に使わせろ・・・なんて言える時代じゃなかったんだね。

Images_2それ以降、アフリカ系アメリカ人がチャンピオンになる道は閉ざされてしまうんだけど、1930年代になって、その壁を打ち破る男が登場する。褐色の爆撃機と呼ばれたジョー・ルイスだ。ヘヴィ級チャンピオンを25回連続防衛したすごい男(この記録はいまだに破られていない)。ルイスは白人の反感を買わないように、対戦相手には敬意を払い、白人女性とはいっしょに写真も撮らなかった。今の亀田兄弟みたいに相手を挑発したジャック・ジョンソン(あるいは、のちのモハメッド・アリ)とは対照的だね(亀田兄弟はだいぶおとなしくなっちゃったけど)。でも、それだけでルイスがアメリカの国民的ヒーローにまでなれたわけじゃない。1938年、ルイスはドイツ人のボクサー=マックス・シュメリンクと対決する。これがアメリカの民主主義とドイツのファシズムの闘いとして全米の注目を集めたんだ。アメリカ社会で抑圧されてきた黒人のジョー・ルイスが、「自由の国」アメリカの代表として闘うのだから皮肉だね。ジョー・ルイスも、シュメリンクも、国の代表ではなく、ただ強い男同士として闘いたかったとのちに語っています。

150pxjackierobinson1945もう一人、紹介しておきたいのは、黒人初の大リーガー、ジャッキー・ロビンソンです。1945年、この人が当時のブルックリン・ドジャーズと契約するまで、黒人は大リーグからも排除されていたんだ。黒人のプロ野球選手は「ニグロ・リーグ」と呼ばれる黒人だけの小リーグで、厳しい環境のなか、プレイし続けるしかなかった。それでも、「ニグロ・リーグ」から素晴らしい選手がたくさん生まれた。史上最高の投手と謳われる剛腕サッチェル・ペイジ。「黒いベーブ・ルース」と呼ばれた強打者ジョシュ・ギブソン。それらの選手と比べると、ジャッキー・ロビンソンは若くて、実績もまだこれからというところだった。ドジャーズのオーナーは心無いファンや選手にどんな汚いヤジをとばされても、どんな卑劣な嫌がらせを受けても、何も言い返さずに、ただ結果だけを残す我慢強さを持った選手を探していた。そうしないと、黒人選手の大リーグへの参入という試みは失敗に終わるって考えたんだ。ペイジは喧嘩早かったし、ギブソンは酒癖が悪かったから、この大役を任せられないと判断されたんだな。47年、ドジャーズの一員としてデビューしたロビンソンはオーナーの期待に応え、バッシングに耐えて盗塁王と新人王のタイトルを獲得、49年にはMVPと首位打者を獲得している。引退後はアフリカ系アメリカ人の地位向上のために活動したんだけど、1972年、53歳の若さで亡くなってしまった。

今日はここまで。来週は公民権運動の話に踏み込みます。

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