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2011年10月31日(月)

220pxemerson3_cropped明治学院非常勤後期第六回目。「アメリカ文学入門」はラルフ・ウォルドー・エマソントランセンデンタリズムについて。ベンジャミン・フランクリントーマス・ジェファソンの時代、ピューリタニズムの厳格な神をカッコにくくることによって、人間は理性をもって自ら考えるという自由を手に入れた。それは同時に、自らすべてのことを判断するという重荷を背負い込むことでもあった。神という大きな存在から人間という個々の存在へと180度転換したアメリカの思想は、このあと再び「大きな存在」について考えはじめる。トランセンデンタリズムの語源となった"transcend"という言葉は「超えていく」という意味であり、「トランセンデンタリズム」も日本語では「超絶主義」などと訳される。つまり、人間という個々の存在を超えたものについて考える思想が「トランセンデンタリズム」であるといえる。しかし、それはもはやピューリタンの神とは同じものではありえなかった。

エマソンにとって、神、あるいは自然といった超越的な存在は、人間ひとりひとりのなかに存在するものであり、人間ひとりひとりがすなわちそういった超越的な存在(自然)でもあった。その意味では、厳格な神と人間が対峙するピューリタニズムとは対極にあり、自然と同一である自己に対する信頼は、結果としてベンジャミン・フランクリンやトーマス・ジェファソンのそれと近いものになる。エマソンの影響を受けたソローのラディカルな行動も、こうした自己信頼に由来している。自己と自然の一体性はエマソンの有名な言葉「私はひとつの透明な眼球になる」のなかにパラドクシカルな形で表現されている。人間と自然は同じものなのだから、そのことに気づきさえすれば、両者の境界はなくなる。人間という存在は消え、「透明」になる。ちょうど、水の中の氷が溶ければ、同じH2Oである水と一体になるのと同じことだ。しかし、人間が自然と一体になるためには、理性をもって自然を観察し、自己と自然が一体であることを認識しなくてはならない。だから、眼球だけは残さなくてはならないのである。

自然という大きな存在を想定することによって、自己信頼に到達したエマソンやソローは、人間のつくりだした制度や習慣といったものは百年たったら消えてしまう取るに足らないものであると考えた。一方、トランセンデンタリズムへの共感から出発しながら、そうした些細なものに愛着を抱き、エマソンやソローと袂を分かつことになったのが、この授業のひとつの終着点であるナサニエル・ホーソンである。来週はホーソンに行く前に、ちょっと寄り道して、18世紀アメリカの演劇や芸能について見てみたいと思う。

「アメリカ文化研究(アフリカ系アメリカ人の歴史と文化)」では、先週にやり残したラングストン・ヒューズ、さらに大好きなゾラ・ニール・ハーストンについて話した。

私は川を知っている 世界と同じ太古からの
血管に流れる 人間の血よりも古い いくつかの川を

わたしの魂はそんな川のように深みを増した

夜明けが若々しかった頃 私はユーフラテス川に身を浸した
コンゴ河畔に小屋を建てると 流れは眠りを誘う子守唄を謳ってくれた
ナイル川を見はるかし 河辺に高くピラミッドを築いた
エイブ・リンカンが ニューオリンズにくだったとき
  私は聞いた ミシシッピ川が歌うのを そして見た
その泥水の川面が 夕日に映え 金色に変わるのを

Hughes先週はラングストン・ヒューズの「黒人は多くの川を語る」っていう詩を紹介したところで、時間がきちゃいました。この詩について語るには、ヒューズのお父さんについて説明しなくちゃならない。ヒューズのお父さんは何ていうか、金もうけ命、みたいな人だったのね。金持ちになって白人を見返してやろうという気持ちが強かったんだろうね。やがて、他の黒人はなぜ自分と同じように努力して金を儲けて、自立しようとしないのか・・・って、苛立ちを感じはじめる。黒人でありながら黒人嫌いになっていくんだ。ヒューズのお母さんともうまくいかず、ひとりメキシコに渡って事業を成功させる。ヒューズ自身もお父さんとは折り合いが悪かった。彼がこの詩を書いたのは、お父さんに呼び寄せられてメキシコに行く列車がミシシッピ川を渡ろうとしているときだったんだ。

ここでアフリカ系アメリカ人にとって「川」がどんな意味を持っていたか、考えてみよう。ある評論家がね、アフリカ系アメリカ人の生き方には2つのパターンがあるって言ってるんだ。一つは人種差別的な社会(具体的に言えば、南部)にとどまって、黒人コミュニティのなかで助け合っていく生き方。もう一つは人種差別的な社会を抜け出し、より人種差別が少ないと思われる社会(具体的には、北部。ここにも差別がないわけじゃなかったけど)に移動する生き方。この場合、肩寄せ合って生きてきた黒人コミュニティから離れて生きていかなければならない。こうしたことを考えたときに、「川」っていうのはアフリカ系アメリカ人にとって2つの意味があったと思うんだ。一つは人種差別的な社会とより人種差別の少ない社会の境界線。逃亡奴隷にとってのオハイオ川だね。もう一つはコミュニティの人びとが洗濯したり、食べ物を洗ったり、水浴びをしたりする、生活のための川。コミュニティそのものと言ってもいい。つまり、「川」はコミュニティから離れることと、コミュニティに留まることのどちらの表象にもなりうるってこと。

ヒューズのお父さんはまさに、「川」を渡った人だね。川を渡って、コミュニティの仲間を捨てて、メキシコっていう新天地で成功した。そんなお父さんに会いに行こうとしているとき、ヒューズの頭に浮かんだのが、「黒人は多くの川を語る」だった。この詩でヒューズが語っているのは、アフリカ系アメリカ人が長い歴史のなかで、共に生きてきた川、生活のための川であって、境界線としての川じゃないね。ユーフラテス川に身を浸し、コンゴ川の河畔に小屋を建て、ナイル川を見下ろすようにピラミッドを建てる・・・ってね。そして、その川が自分の血管となり、魂となる。民族の歴史が個人のアイデンティティになっていく。ここではお父さんだけじゃなくて、それまで多くのアフリカ系アメリカ人が背負い込んでいた「民族のための個人」っていう考えがひっくりかえされている。個人は民族の一部であり、だから「黒人の地位向上のために」自分の能力を使わなきゃいけないって言われてたのを、いや、民族が個人のアイデンティティの一部なんだと。「黒人の地位向上」はもちろん大切だけど、個人が先に来るんだと。

こういう「民族のなかの個人」から「個人のなかの民族」へっていうパラダイム・シフトを成し遂げたヒューズは、その後、英雄でも天才でも金持ちでもない、ふつーのアフリカ系アメリカ人個人の視点から社会を見たような詩を書いていく。例えば、南部から北部にやってきた黒人の女の子が、メリーゴーラウンドの「黒人席」はどこなのか尋ねる「メリーゴーラウンド」みたいなね。そこには、上から目線で「アフリカ系アメリカ人とは」「差別とは」って語るようなのとは全然違う世界が開けていたんだ。

さて、今日はもう一人、ぼくの大好きな作家を紹介したいと思います。ゾラ・ニール・ハーストンです。プリントに2枚写真を載せてあります。一つは太鼓を叩いている写真。これはハイチにフィールドワークに行ったときのものかな。ハーストンはフォークロアを集める民俗学者でもあった人でね。アメリカ南部の黒人コミュニティ ― 彼女自身そこから出てきたんだけど ― の調査なんかをやって、そのうち、カリブ海の島国ハイチにも行った。この授業でも何回か取りあげたように、ハイチっていうのは世界初の黒人共和国であり、ヴードゥーっていうアフリカ色の強い宗教が残っているところでもあるね。そんなハイチでヴードゥーの太鼓を聞いて、我慢できなくなっちゃったんだろうね。ハーストン自ら叩いています。それにしても、楽しそうだね。もう一枚は何だろう、これ。カラスかなんかの真似をしているところかな。これもフォークロア ― 子どもの遊びかな ― を披露しているところだと思うんだけど。何か、楽しいお姉さんだね。ハーストンは面白エピソードがつきない人でね。年齢もだいぶさば読んでいたり。最初1901年生まれとか言ってたのが、家族の聖書に書かれたメモで1891年だってばれちゃった。

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代表作の『彼らの目は神を見ていた』が発表されたのは1937年だから、ハーレム・ルネサンスの作家と言っていいのかどうか微妙だけど、1920年代には素晴らしい短編をたくさん書いてるし、ヒューズやウォレス・サーマンって作家といっしょに、アレイン・ロックとかデュボイスみたいな上の世代の神経を逆なでするような内容の『ファイア!!』って雑誌を出したりもしています。作家として活動する一方で、バーナード大学でフランツ・ボアズっていう先生について、文化人類学とか民俗学を学んでいる。で、シャルロット・オスグット・メイソンっていう金持ちの奥さんからお金を出してもらって、南部に調査旅行に行く。前回言った、ファオークロアを真面目に研究しようとする若い黒人芸術家と白人パトロンの関係だね。他のパトロンもそうだろうけど、このメイソン夫人っていう人はお金も出したけど口も出した。ハーストンは集めたフォークロアをメイソン夫人の許可なしには使えなかったんだ。そんな中でも何とかして出したのが、『騾馬とひと』(1935)っていう本。

これは南部の黒人フォークロアを集めた本なんだけど、すごく面白い。ふつう、学者がフォークロアを集めた本っていうとね、テーマ別に分類した民話や民謡がずらっと並べてあるってものを想像するね。あんまり楽しそうじゃない。『騾馬とひと』は一味違っている。フォークロアがどんなふうに語られ、楽しまれているのかってことが描かれているんだ。そこにはハーストン自身の失敗もからんでいる。最初の調査旅行はあまり成功しなかったらしいんだ。というのも、「バーナード大学から来ました、ゾラ・ニール・ハーストンと申します。みなさんのお話になってる民話を収集にきました」とかね、やっちゃったんだな。こんなかしこまったやつに誰も普段話しているバカ話なんて話さない。ようするに、トール・テール(ホラ話)がほとんどだからね。そこで次の調査旅行では、やり方を変えた。「ねえ、みんな。いつものほら話聞かせてよ」「なんだい、やぶからぼうに。そんな話聞いてどうしようってんだい」「あんたらの話をね、学者さんたちが喜ぶのよ」「俺たちのホラを学者先生が喜ぶって?そりゃ、また大ぼら吹いたもんだ」 こんなやりとりがあって、じゃあ、あんたがホラを吹いてくれたから、おれもほら話やるかな・・・と。まあ、こうやって、仲間だと認めてもらって、警戒心を解いたんだな。『騾馬とひと』にはこういうやり取りがそのまま入っている。面白いでしょ?

まあ、そんなハーストンだけど、晩年、幼児虐待の容疑でつかまったりして ― まあ、これははめられたみたいで、釈放されるんだけど、評判は悪くなるね ― だんだん忘れられた存在になっていく。代表作の『彼らの目は神を見ていた』にしても、基本、ラブ・ストーリーだからね。リチャード・ライトって作家が出てきて、黒人少年が白人の女の子を殺して、死体を地下のボイラーで焼くなんて小説を書いた1940年代には、時代遅れになっていたんだ。1970年代後半になって、アリス・ウォーカーとかトニ・モリソンとか新しい黒人女性作家がでてきて、二重に差別された黒人女性の存在を主張し始めたとき、自分たちのルーツとしてハーストンを評価しはじめた。絶版になっていた『彼らの目は神を見ていた』が再版されたのもこのころのことだ。

その『彼らの目は神を見ていた』。ちょっとあらすじを紹介しよう。主人公のジェイニー・クローフォードは黒人の女の子。白人の家で働いているおばあちゃんといっしょに白人の屋敷のなかに建てられた召使用の小屋に住んでいる。ジェイニーは白人の子供たちといっしょに育ったから、自分も白人だと思ってる。写真に写った自分を見て、「えー!私、黒人だったの!?」とか言っている。それにまわりの子供たちがおばあちゃんのことを「ばあや」って呼ぶから、ジェイニーも「ばあや」って呼んでる。そんな子供時代。実は、ジェイニーのお母さんは見ず知らずの男にレイプされて、ジェイニーを産んだ。それをおばちゃんが引き取って育ててるわけ。

そんなジェイニーも年頃になって、蜂が花のなかに入って行くのを見て、恋に目覚める。で、近くを歩いていたジョニー・テイラーっていう若者の誘いにのる。それを見ていたおばあちゃんはジェイニーにお説教するわけね。「ジョニー・テイラーみたいな半端者相手にするんじゃないよ。お前の相手はわたしがきめてあるんだからね」「おばあちゃん、私の相手って誰?」「ローガン・キリクスさ」ローガン・キリクスっていうのは、ぼくみたいなおじさんね。ジェイニーからすると、「えーっ!」だよね。でも、おばあちゃんからすると、土地もある、家もあるキリクスは孫娘の結婚相手として申し分なかった。「お前にはちゃんと結婚して、誰々さんの奥さんって呼ばれるような女性になって欲しいんだよ」って言うんだな。古いって思うかもしれないけど、娘をレイプされたおばあちゃんがそう願うのもわかるね。

結局、ジェイニーはキリクスと結婚するんだけど、ふた回りも上のキリクスとの結婚生活に愛はなかった。それにキリクスは畑で、家で、ジェイニーを小間使いのようにこき使った。ジェイニーが結婚生活に疑問を持ち始めたころ、一人の男が村を訪れる。ジョー・スタークスという自信満々のマッチョなやつ。ジェイニーに、「お嬢さん、そんな汚れた服はあんたみたいにキレイな人には似合わねぇなぁ」なんてね。「おれといっしょに来ないかい?」 ジョーの誘いにのって、ジェイニーは村を出る。

ジョーとジェイニーはイートンビルという黒人だけの町にやってくる。そこで、ジョーは郵便局をつくったり、街灯を建てたり、次々と新しい事業を起こして、町の中心人物になっていく。自分の店も持ったジョーは、町長として一目置かれる存在になった。同時に、彼はジェイニーが他の人びとと気軽につきあうのを嫌がるようになる。ジョーにとってジェイニーという美しい女性は、成功者に与えられたトロフィーのようなもので、他の人に触れさせてはならないものだったんだ。こうしてジェイニーは「町長夫人」として孤独な生活を強いられるようになる。

でもね、強い男もやがて年をとる。みんなもね、女の子は結婚相手が横暴だったら、年とった時が狙い目ね。熟年離婚とかあるでしょ。ある日、ジョーがジェイニーにすっかりババアになっちまってとかなんとか、悪態をついたのね。いつもだったら黙って聞き流すジェイニーだけど、この日は黙ってなかった。「なによ、あんただって、ズボンおろしたら、終わってんじゃないの!」って言い返したんだ。言い返されたことのないジョーは、えらいショックを受けるね。それが原因だったのかどうか、しばらくして病気をこじらせて亡くなってしまう。ジョーの死を見届けて、ジェイニーは顔を隠すためにかぶるように言われていたスカーフをはずす。

しばらくして、野球の応援で町の人たちが出払っていた日のこと、一人でお店をきりもりしているジェイニーのところに三人目の男がやってくる。ティー・ケイクとなのるその男はジェイニーに声をかける。「あんた、チェッカーはできるかい?」ずっと孤独に暮らしてきたジェイニーがゲームのやり方を知っているわけがないよね。「そうかい、おれが教えてやるよ」 こうして、ティー・ケイクはジェイニーを人とのつながりのなかに呼び戻したんだな。やがて二人はいっしょに魚釣りに行ったりして、デートを重ねるようになる。町長の未亡人が若い男と関係を持っている‥‥そんな噂を逃れて、二人はフロリダの湿地帯に移り住む。

そこで二人はしばらく幸せに暮らしてたんだけどね。ある日、ハリケーンが湿地帯を襲う。逃げ遅れた二人。ジェイニーを救おうとして、ティー・ケイクは犬に噛まれてしまう。この犬が狂犬病を持っていたんだな。嵐のあと、狂犬病の発作でジェイニーが自分を裏切るという幻想に取りつかれたティー・ケイクはピストルを彼女に向けて、逆に殺されてしまう。正当防衛で無罪になったものの、湿地帯にいられなくなったジェイニーはイートンビルに帰ってきて、親友に今までのことを話して聞かせる・・・ね、すごい話でしょ。アリス・ウォーカーなんかが、黒人女性作家の先駆者として尊敬したのもわかるよね。

今回はここで、タイムアップ。来週はもう少しハーストンの話をしたあとで、ニューディール政策の話にいきます。


2010年10月29日(土)

Genocide

高野和明ジェノサイド』(角川書店、2011)を読み終わった。

紛争で荒廃したコンゴを舞台のひとつとする作品。アフリカを知るための本としてお奨めできるかどうかはともかく、エンターテイメントとして破格の面白さであることは確か。コンゴ紛争についての情報は豊富だし、ポリティカル・コレクトネスにも気を使っている。

とはいえ、自分たちは向こう側にある危機や荒廃に、善意以外では関わっていないという日本人読者の世界観を覆すような部分はあまりにも少ない。読者を安全な位置に置いたまま、ハッピーエンドで終ってしまうのは、アクション・エンターテイメントの必定なのだろうか。

物語のなかでも、現実でも、コンゴはキリング・フィールドのままで、残虐行為は続けられている。それなのに、ぼくを含む読者は小説の結末によって、こんな幸福感を得ていいものだろうか。あるいは、作者はそんなぼくの罪悪感まで計算に入れて作品を書いたのだろうか。

実際のコンゴ紛争には希少金属の奪い合いという問題が大きく絡んでおり、傭兵でも権力者でもないわれわれ一般市民も科学技術も無関係ではいられない。作者はそのことを指摘しておきながら、物語の焦点を新人類と現生人類の対決、新薬の精製にずらすことで、読者と科学技術を免罪しているように思える。

ぼく自身にも返ってくる話だが、こうした問題は伝え方によっては「日本でよかったねー」(ヒトゴト)ということになって、何にも残らない可能性がある。願わくば、せめて読者が結末へ向かうカタルシスのなかで、紛争の悲惨さを忘れなければいいのだが。

2011年10月27日(木)

遠峰あこライブ@野毛『居酒屋すきずき』。今日はあこちゃんの誕生日が近いということで、バースデーケーキが用意されていた。バースデーソングとクラッカーでわれらがアイドルの誕生を祝う。あこちゃんも飲めないお酒(シャンパン)を飲んでほんのり赤くなっている。風邪をひいていたひらげは早めにドロンしたけど、楽しい夜だった。

2011年10月25日(火)

Ecd

ECD何もしないで生きていらんねぇ』を読み終わった。共感するところが多かった。

例えば、[聴衆の少なさ=閉じている]であるとは限らない・・・ということ。「少ない聴衆にだが開かれた空間がそこにはある。売れるためにつくられる音楽は、売れなかったら誰にも届かない。そして売れたら売れたでまた閉じてゆく回路ができてしまっている」(96)。よく、「たくさんの人に聞いてもらわなければ意味がない」というが、ほんとうにそうなのだろうか?大事なのは、誰に聞いてもらいたいか、ではないのだろうか?

あるいは、「貧乏人が増えて困るのは、そのために税収が減る支配する側の人間だ。『反貧困』は支配者にとってこそ都合のよい言葉なのだ。僕達は貧困を手放すべきではない」(156)という言葉。買い物をしなければ経済がまわっていかない?そのために自由な時間を犠牲にすべきなのだろうか?結局、お金を有意義に使う時間も失くしてしまうのに。

また、「不良=ヤンキーは、いつの時代も多数派であり、世の中の強者である」(209-10)。なぜ、不良は群れたがるのか。ある年齢になると、「先輩」の紹介で社会に溶け込んでいくのか。そういや、ぼくはキチガイではあったかもしれないけど、不良ではなかった。これからも「チョイ悪おやじ」なんかにはなりたくないし、なれそうもない。

書評とレコード評、回顧録、私小説的短編などで構成されている。これを手がかりにまた新たな世界が開けそうだ。

2011年10月24日(月)

明治学院非常勤後期第五回目。「アメリカ文学入門」はヘンリー・デヴィッド・ソローの唱える少数派の不服従について、前回取りあげたトーマス・ジェファソンの素朴な民主主義観と比較しながら概説した。人間が理性をもって話し合えば、必ず正しい結論に到達するはずであると考えたジェファソンは、少数派を病原菌のように排除するべきであるとすら言っている。奴隷制や対メキシコ戦争に反対したソローは、まさにその少数派だった。奴隷制と大義のない戦争に反対して納税を拒否し、拘束されることによって、ソローは少数派が投票だけではなく、あらゆる手段を使って抵抗すべきであることを身をもって示した。少数派が抵抗をやめてしまえば、それは少数派ですらない。多数派は決して少数派を尊重などしてくれないからだ。しかし、少数派が全力をもって抵抗するとき、道は開ける。こうしたソローの主張は、反乱を起こした奴隷制廃止論者ジョン・ブラウンを擁護する演説にも表れている。ソローがジョン・ブラウンに見たのは、すべてを現世的な利益に還元しようとする人びととは対照的な、大義のために命をも惜しまない英雄の姿だった。ソローはラディカルである。しばしば訳語としてあてられる「過激な」という意味ではなく、「根源的な」という意味で。問題を解決のために回り道をしようとする人びとに対し、問題の核心と直接向かいあうことを説く性急さにおいてラディカルなのである。ウォールデン湖畔の森で自給自足の生活を送ったのも、根源を見極めたいという欲求を満たすためだった。それでは、こうしたソローのラディカルな姿勢に影響を与えた思想 ― トランセンデンタリズムとはどんなものだったのだろうか。次回はトランセンデンタリズムの最重要人物であり、ソローの兄貴分にあたるラルフ・ワォルドー・エマソンの思想を、ピューリタリズム→理神論に影響を受けた人間中心主義→・・・という流れのなかに位置づけながら、考えてみたいと思う。


「アメリカ文化研究(アフリカ系アメリカ人の歴史と文化)」では、デューク・エリントンの「ザ・ムーチ」を聞きながら、ハーレム・ルネサンスを動かしていたさまざまなベクトルについて考えた後、ハーレム・ルネサンスの文学についての概説をはじめた。

先週言ったように、ハーレム・ルネサンスっていうのは、ひとつの意図によって動いているような運動じゃなかった。まあ、運動っていうのはそういうものかもしれないけどね。一方に南部のフォークロアの再評価にまじめに取り組もうとする若い芸術家がいて、もう一方により「洗練」された「白人並みの」文化を求める黒人ブルジョワジーがいる。黒人ブルジョワジーの多くは南部のフォークロアを奴隷制時代の遺物としか見ていなくて、それを再評価しようとする動きにも冷ややかだった。そんなものを持ち出して来たら、また白人にバカにされる・・・ってね。じゃあ、その白人はどうかっていうと、未曽有の好景気のなか、だぶついたお金をハーレムの若い黒人芸術家たちに投資した。つまり、パトロンになったわけ。彼らが求めたのは、「原始」「野蛮」といった黒人のステレオタイプに沿った表現だった。

もちろん、こうした説明もまた、図式的すぎるかもしれない。ハーレム・ルネサンスに関わった人たちの多くは、こうした3つの傾向のうちのいくつかに足をつっこんでいたんだ。なかには自分がどの角度からこの運動に関わっているのか、よくわかっていない人もいただろうね。例えば、前回見た映画『ストーミー・ウェザー』で、チック・ベイリーの劇団は「原始」「野蛮」のイメージに忠実なショーをやっていた。でも、ベイリーは楽屋裏でビル・ウィリアムズに「こんなクラッシーなショーに出られただけで、ありがたいと思え!」とか言っている。ベイリーは自分のショーを「クラッシー」、つまり上品で洗練されたものであると考えていたわけ。こういうことをもっと意識的にやったのが、今日最初にかけたデューク・エリントンだったと言えるかもしれない。エリントン楽団は有名なコットンクラブのハコバン(伴奏を受け持つバンド)だった。白人向けのコットンクラブで行われるショーはそれこそ、「原始」「野蛮」を強調したワーオワオワオーなものだった。その一方で、エリントンはクラッシックの楽理を学び、ジャズを構成力のある音楽に洗練させようとしていたし、彼の音楽にはブルースをはじめとする泥臭いフォークロアが内包されている。エリントンはさまざまなベクトルのなかでバランスをとりながら、自分の音楽を作り上げていったと言えるんじゃないかな。

エリントンのようにさまざまなベクトルの間をうまくバランスを取りながら生きたアフリカ系アメリカ人のひとりに、アレイン・ロックがいる。ハーレム・ルネサンスの記念碑的アンソロジー『新しい黒人』を編集した人物だけど、黒人ブルジョワジー出身のロックは、当初フォークロアの再評価には否定的だった。やがて、若い世代に刺激されてフォークロアの価値を認めるようになるんだけど、フォークロアそのままじゃだめだと考えた。粗野な形式のままフォークロアを提示しても、やっぱり白人にバカにされるだけだ。クラシックの交響曲みたいな、「洗練された」ものにしなければならない。なぜかというと、ロックや彼と同世代のアフリカ系知識人が、アフリカ系アメリカ人独自の文化を求めたのは、それによって「黒人は受け身の存在である」という偏見を打ち崩せると思ったからなんだ。だから、それは白人が「おおーっすごい、黒人やるじゃないか」って驚くようなものじゃなきゃいけない。でも、この考えが若い世代には重荷になっていく。若い世代はもっと自由に、第一次世界大戦後に見いだされた新しい自分たちの姿を描き出したかったんだ。

というわけで、文学について見たいんだけど、ハーレム・ルネサンスの作家っていっても、たくさんいる。全部やっていたらいくら時間があっても足りないので、ぼくの好きな3人の作家 ― ジーン・トゥーマーラングストン・ヒューズゾラ・ニール・ハーストン ― に焦点を当てたいと思います。この3人はフォークロアの再評価に関わったという点で共通しています。また、彼らはロックの世代が当然のものとして求めてくる「黒人の地位向上のために書く」というお題目に対する反発も共有しています。まずは、ハーレム・ルネサンスの先駆者とも言えるジーン・トゥーマーから。

Jean_toomerこの人はね、1923年に発表された『砂糖きび』っていう美しい作品で知られています。詩とか短編があわさった形でひとつの全体を形作っている、独特の形式を持った作品です。若いころに放浪生活をして・・・そのころの写真を見ると、のちのいかにも文学者然とした姿からは想像もつかない、ムキムキのマッチョだね。この身体でさまざまな仕事をしたり、あちこちの大学に短期間在籍したりしながら、アメリカ全土を歩きまわった。見てわかるとおりトゥーマーは色も白いし、白人としても通用するような風貌をしている。そのことも放浪して回るのには有利だったろうね。で、あるとき南部の田舎町で教師をしていたときに目にした、黒人たちの生活に心を奪われる。トゥーマーの目にはそれが間もなく姿を消してしまう、前時代的な美しさをとどめたものと写ったみたい。トゥーマーとしては永遠に姿を消してしまう前に、この風景を書き残しておかなければならないと思ったんだな。だから、『砂糖きび』にはどこか、胸を締めつけられるような切なさが漂っている。

『砂糖きび』を出版した後、トゥーマーは作品らしい作品をほとんど書いていません。散発的に発表された評論なんかが残っているくらいで。アルメニア系のグルジェフっていう思想家に心酔したり、クウェーカー教徒の考えに共感したりしながら、トゥーマーは「アメリカ人」としての自分を見つめ直していきます。で、結局、自分は黒人でも白人でもないってところにたどり着く。まして、「黒人作家」なんかではない。これは確かにその通りなんだけど・・・でも、現実の社会にはカラーラインが存在する。「自分は黒人でも白人でもない」って言い方は、人種差別に対する闘いを放棄する無責任な発言になってしまいかねない一面もある。だから、のちのアフリカ系作家たちのトゥーマーに対する評価も微妙なものがあるね。『砂糖きび』で描かれた世界自体は、彼らのルーツとして忘れることのできないものであるはずなんだけれども。

Hughes次に、ラングストン・ヒューズにいこう。ヒューズは1967年に亡くなるまで、アフリカ系アメリカ人を代表する詩人として活躍した人なので、必ずしも「ハーレム・ルネサンスの作家」として取りあげるべきではないのかもしれない。この人は度量の大きい、ユーモアにあふれた人だったみたい。ぼくの大先輩でもうお亡くなりになったある先生がね、当時無許可でヒューズの詩を訳して出版していた。最初にヒューズ本人に会ったときにそのことを告白すると、「かまわないよ。そのかわり、きみが翻訳した本を一冊づつ持ってきなさい」と許してくれたんだって。またあるときには、ヒューズが詩の朗読を録音したテープを送ってくれたんだけど、郵便ポストが小さすぎたのか、日本の郵便屋さんが二つに折り曲げてしまって、テープは無残な姿に・・・(笑)。そのことを報告すると、ヒューズは「日本の郵便屋さんは乱暴だねぇ」と笑いながら同じものをもう一つ送ってくれたとか。彼の詩にもそんな温和な性格が表れている。

でも、まあ、ヒューズにも若いころがあった。みんなは知らないと思うけど、ぼくにも若いころがあったんだよ(笑)。まあ、ぼくの話はともかく、若いころのヒューズは・・・アツイ。「黒人芸術家と人種の山」っていう評論っていうか、若い黒人芸術家のマニュフェストみたいな文章があるんだけど、そのなかで「白人が喜んでくれれば嬉しいけれど、、喜んでくれなくてもかまわない」って書いている。「白人並みの洗練された文化を」という黒人ブルジョワジー的な考えに対する決別だね。さらに、「黒人が喜んでくれれば嬉しいけど、それもまた問題ではない」とも書いている。「黒人の地位向上のために書く」という重荷を下して、醜いことは醜いままに、美しいことは美しいままに、自分たちの姿を描くことを宣言したわけ。アツイでしょ?

そんなヒューズがどんな詩を書いたのか。まずはね、「黒人は多くの川を語る」っていう詩を見てみたいんだけど・・・この詩には書いたときのエピソードがあるんだ。ヒューズのお父さんは、何ていうか・・・金もうけ命、みたいな人だったらしい。もちろん、そこには理由があって、ほら、以前取りあげたブッカー・T・ワシントンみたいにね、まずは金を儲けることで黒人は自立して、白人を見返さなければならないって気持ちがあったんじゃないかな。で、それだけじゃなくて、自分以外の黒人がどうしてそうしないのか、ってイライラするわけね。で、黒人はダメだ、と。黒人でありながら黒人嫌いになっていく。やがて、ヒューズのお母さんとも別れて、メキシコで事業を成功させていた。ヒューズはこのお父さんになじめなかった。この詩が書かれたのは、ヒューズがお父さんに呼び寄せられてメキシコに向かう汽車が川を渡ろうとしているときだったんだ・・・

あ!時間だ!

来週は「黒人は多くの川を語る」の内容、特にアフリカ系アメリカ人の歴史において「川」が持つ意味について考えた後、その後のヒューズ、さらにゾラ・ニール・ハーストンについて見てみたいと思います。

2011年10月21日(金)

独裁者は死ぬまで国民に愛されていると思うのだろうか。それとも​謀略を成功させるための方便としてそう言うのだろうか。あるいは​、心の底では自分が国民に憎まれているという現実をわかっていな​がら、受け入れることができないのだろうか。カダフィの場合はど​うだったのだろう。

独裁者は愛していると言いながら、独占欲から​相手を傷つけるストーカーに似ている。

2011年10月20日(木)

Akunin2

吉田修一悪人』(朝日新聞社、2008、公式サイト)を読み終わった。

母親に捨てられた経験からか、祐一は感情の貸し借りをゼロにしておきたいと思っているようなところがある。母親にお金をせびったのも、子どもを捨てた母親という負い目を相殺させるためだったかもしれない・・・ということがほのめかされている。それでいて、彼は人間との結びつきを喘ぐように求めている。愛する人の気持ちを先回りして考え、黙って行動を起こしてしまう。ヘルス店で出会った風俗嬢と所帯を持とうとしたときがそうだった。石橋佳乃を殺害した夜も、「彼女は自分と一晩すごすつもりではないのか」などと考えている。その思いはずっと裏切られ続けるのだが、殺人を犯したあとに出会った光代によって受け入れられる。しかし、最後の最後、祐一は光代を守るため、「悪人」になることで再び感情の貸し借りをゼロにしようとする。

祐一の祖母・房江と佳乃の両親が、誇りと生きる気力を取り戻すところに希望がある。懸命に生きることの何がおかしい?というメッセージ。顔も名前も出さずに冷たい哂いを投げつけてくる連中への嫌悪。

じーんという切ない読後感の残る作品だった。

2011年10月19日(水)

「ア・・・コレハ、ナンデスカ?」

「ん?ああ。これか。タバスコだよ。タバスコってのは外国のもんだと思ったがなぁ。知らんのか?」

「?」

「タバスコだよ、タ・バ・ス・コ」

「タバスコ・・・タラコ、カズノコ、タバスコ?」

「違う、違う。魚の卵じゃないってば」

「・・・イクラ?」

「違うってば。似てるのは色だけじゃねぇか。何て言えばいいのかなぁ。とにかく、 ノー・フィシュ・チャイルドね、オーケー?」

「ノーチャイルド?・・・オー!イトコ、ハトコ、タバスコ?」

「おいおい、なんでこいつはハトコなんて言葉知ってるんだ?違うよ、 なんつーかな、食べ物だ。フード、フードだよ、わかる?」

「フード・・・」

「ああ、飲まない飲まない!ノー・ドリンク!」

「ノー・ドリンク・・・フード・・・オー!コムギコ、カタクリコ、タバスコ?」

「はぁあ?どう見たってこりゃ、粉じゃないだろう?粉と書いてタバス粉、じゃないんだよ」

「コドモハ、カゼノコ、タバスコ?」

「もう半分"コ"ですらなくなってるじゃないか、違うよ」

「ダルビッシュ、サエコ、タバスコ・・・」

「こらこら。ふたりの関係が辛いみたいになってるじゃないか。そうじゃなくて・・・」

「オオワダサント、ダンサンデ、タバスコ!」

「連想ゲームかっ!お前、ほんとは日本語できるだろう!?」

「~♪(口笛)」

「こらっ、逃げるな」

「タバスコ、ニゲルガカチ」

「意味わからん」

2011年10月17日(月)

ジンバブウェのミュージシャン、トンガイ・モヨが亡くなった。死因は癌だという。90年代に活躍した中堅ミュージシャンがエイズなどで次々と亡くなるなか、アリック・マチェーソなどとともに混乱期(まだ終わったとは言えないが)を生き延び、さあこれからというときだっただけに残念だ。昨年、ジンバブウェ東部の町ムタレで行われたサム・ムツクジ追悼コンサートでは、息子を亡くした父オリヴァー・ムツクジを差し置いてトリをつとめていたが、あれはすでに癌に蝕まれていたモヨにムツクジが花を持たせたということだったのだろうか。かえすがえすも残念。R.I.P.


明治学院非常勤後期第四回目。「アメリカ文学入門」は、合衆国第三代大統領トーマス・ジェファソンについて、理神論に影響を受けた人間中心の考え方と、素朴であるがゆえに危険性をはらんでいる民主主義観を中心に話した。アメリカ国民に尊敬する大統領は誰かというアンケートをとったら、リンカーンケネディワシントンと並んでジェファソンが上位に選ばれるだろう。独立宣言の起草者であり、博学な知識人でもあった彼が、まさにアメリカ建国の父と呼ぶにふさわしい人物であることに異論はない。しかし、だからこそ、彼はアメリカが抱え込むことになる矛盾を体現していた。

独立宣言に奴隷貿易を批判する条文を入れようとしたことで知られるジェファソンは、一方で100人以上に及ぶ奴隷を所有する大農場経営者であり、奴隷の女性サリー・ヘミングスとの間に子供をもうけていたことでも知られている。また、「人間が理性をもって話し合えば、必ず同じ結論に達するはずだ」という素朴な理性信仰から多数決を絶対視するあまり、同意に達することのできないものは病原菌のように排除すべきであるというような恐ろしいことも言っている。ジェイムズ・マディソンが指摘したような集団心理の恐ろしさや、アフリカ系アメリカ人のような少数派が多数派とは相容れない視点を持つ可能性は彼の念頭に入っていなかった。

もちろん、現実の民主主義が多数決によって押し切られることが多いのは事実だ。少数意見の尊重などというのは欺瞞であると感じる人も多いだろう。そこに一石を投じるのが、ヘンリー・デヴィッド・ソローである。彼が考えたのは「少数意見の尊重」ではない。「少数派の抵抗」である。少数派がいくら待っていても、多数派は少数意見を「尊重」などしてくれない。しかし、少数派が全力をもって抵抗するとき、道が開けることがある。来週はガンジーマーティン・ルーサー・キングにも影響を与えたソローの考えについて、詳しく見てみようと思う。

「アメリカ文化研究(アフリカ系アメリカ人の歴史と文化)」では、先週に引き続き映画『ストーミー・ウェザー』(1943)を見た。字幕がないこともあって、退屈そうにしている学生が多いかな・・・と思ったのだが、アンケートを見ると意外にも好評だった。特に最後のニコラス・ブラザーズのタップダンスには度肝を抜かれた学生が多かったようだ。来週はこれを踏まえて、ハーレム・ルネサンス期の文学について話そうと思う。

2011年10月14日(金)

彼女に「あなたってホントにブキヨウね~」と言われても、「うほほ。母性本能くすぐっちゃったかな」などと喜んではいけない。それは「あなたって武器用」という人間兵器へのゴーサインかもしれない。知らない間にきみの身体は、悪の組織によって改造人間にされていたのだ。くわばらくわばら。

2011年10月13日(木)

瓶が出てきたからって、「原発と無関係」なんてことになってるけどさあ、横浜はじめ、各地で異常に高い放射線が報告されてるよ?みんな瓶のせい?あんまり都合が良すぎない?

2011年10月12日(水)

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ドワ?


2011年10月11日(火)

レ・テット・ブリューレ、最高!

2011年10月10日(月)

祝日だけど、明治学院非常勤後期第三回目。

220pxbenfranklinduplessis「アメリカ文学入門」は、ベンジャミン・フランクリンについて。もっとも「ヤンキー」(ウンコ座りしている不良じゃないよ)らしい人物と言われ、100ドル札の肖像画にもなっているベンジャミン・フランクリン。実業家であり、政治家であり、発明家でも科学者でもあったこの多才な人物について、とくに理神論に影響を受けたその人間中心の考え方について、『フランクリン自伝』を中心に概説した。何かが正しいとか間違っているというとき、それは神がそう決めたから正しかったり間違っていたりするのではなく、人間にとって正しいことであったり間違ったことであったりするから神もそう定めたのだ・・・こうした言葉でフランクリンはピューリタンの厳格な神をカッコにくくってしまう。それによって人間は自ら理性をもって考える自由を手にするが、同時にすべてを自ら判断しなければならいという重荷をも抱えこむことになる。フランクリンが十三の徳目を定め、一種偏執的なやり方でそれを実行しようとしたのもそのためだ。そんなフランクリンをD・H・ロレンスはロマン主義的な立場から批判するのだが、フランクリン自身、自ら定めた徳目のうち一番難しい二つ(純潔と謙譲)はなかなか守れなかったと告白していて、なかなかオチャメなところもある。アメリカ史に残るこの大人物がいかにヘンなやつで、それゆえに人間的な魅力があったということが伝わっていればよいのだが。

「アメリカ文化研究(アフリカ系アメリカ人の歴史と文化)」は、ついにハーレム・ルネサンス。まずは、20世紀初頭のアフリカ系アメリカ人をめぐる社会的な動きをまとめた。

19世紀末期から20世紀にかけて、南部の貧困層を背景としたワシントンと、北部の比較的裕福な人たちを背景としたデュボイス ― 二人の指導者が対照的なやり方でアフリカ系アメリカ人の地位向上を目指していた・・・っていうのは先週話したね。このころ南部ではリンチによる死亡者がピークに達する。南部ではあちこちでジム・クロウ法って呼ばれる人種差別法ができて、あらゆる場所で人種隔離が徹底されるようになった・・・っていうのは前期、話した。プレッシー対ファーガソン裁判で「分離すれども平等」ならいいって判決が出て、最高裁が人種隔離は合憲だって認めてしまったっていうことも大きい。そんななか、アメリカ自体の都市化っていう背景もあって、多くのアフリカ系アメリカ人が人種差別の厳しい南部を離れ、北部の都市に向かった。でも、北部も人種差別のないパラダイスじゃなかった。南部からやってきたアフリカ系アメリカ人はそこで、貧しい白人たちと仕事をめぐって競合することになる。貧しい白人労働者たちは自分たちの仕事を奪う存在として、黒人を忌み嫌うようになる。そこには今まで自分たちより下だと思っていた黒人が偉そうに・・・っていう鬱屈した気持ちもあったろうね。その結果、各地で人種暴動が頻発する。人種暴動っていうと、人種差別や貧困に耐えきれなくなった黒人が起こすものって思っている人が多いと思うけど、この時代は違います。この時代の人種暴動は、貧しい白人たちが自分たちより弱い黒人たちに怒りをぶつけるというものです。白人による「人種暴動」で多くの罪のないアフリカ系アメリカ人が殺されました。

転機になったのは、第一次世界大戦。前期にも言ったように、アフリカ系アメリカ人の歴史において、戦争は常に重要なターニング・ポイントになります。白人の側からすれば、黒人をアメリカ軍の兵士として認めるか、認めたとして白人と同じように扱うのか、人種隔離された軍が果たして規律を守れるのかといった問題がついてまわります。アフリカ系アメリカ人にとって、アメリカ軍に入って戦うということは、アメリカ人として認められるということを意味します。そのため、第二次世界大戦中の日系人部隊と同じように、黒人部隊はアメリカ人であることを証明するために勇猛果敢に戦いました。また、ヨーロッパに遠征した場合、そこでは友軍の兵士として、本国よりも人間的に扱われました。もちろん、ヨーロッパに人種差別がないわけじゃないよ。でも、人種が何であれ、自分たちを助けに来てくれたアメリカ軍の兵士だからね。丁重に扱わなくちゃならない。ところが、国に帰ってみると人種差別は残っている。国のために戦い、ヨーロッパでも歓迎されたのに、自分の国ではレストランから追い出される。そういうことを経験して、何かおかしいと思わなかったら嘘だね。

ちょうど第一次世界大戦が終わったころ、アメリカは空前の好景気に突入する。いわいるバブルだね。これは1929年の株式大暴落で終わりを告げるんだけれども、それまではかつての日本のバブルと同じように、金が余ってしょうがないという状態。そこに戦争で意識ががらりと変わった黒人の若者たちが帰ってきて、ニューヨークのハーレムを中心に、新しい自分たちの姿を表現しはじめた。そこに成り上がりの白人たちが目をつける。金が余ってしょうがないんだけど、なんか、ハーレムで黒人たちが変わったことやってるらしいぜ、ちょっくら投資してみっか!ってな感じかな。こうした白人パトロンの後押しによって、いわいる「ハーレム・ルネサンス」といわれるムーヴメントが動きはじめる。1925年には、アレイン・ロックっていう人が編集した『新しい黒人』ってアンソロジーや、グラフィック・サーヴェイ誌のハーレム特集号なんかが出て、いよいよハーレムがゲキアツってことになってくる。

どんなムーヴメントでもそうかもしれないけど、ハーレム・ルネサンスっていうのも一つの思惑で動いていたわけじゃなかった。まじめに新しい黒人文化を考えている若い芸術家たちの頭にあったのは、南部のフォークロア、その向こうにアフリカも見据えた自分たちのルーツを見直すということだった。でも、都市の黒人ブルジョワジーたちは違った。いわいる「洗練された」白人並みの文化を求める彼らは、むしろ南部のフォークロアなんて奴隷制時代の遺物で、そんなものを見せたらまた白人にバカにされるって考えていたんだ。一方、白人のパトロンたちは、黒人の文化に野蛮、原始、ワーオワオーワオー、ギャーオーみたいなものを求めていた。若い芸術家たちが真面目に集めてきたフォークロアを、白人パトロンはステレオタイプ的なイメージを裏打ちするものとして利用したんだ。それを見て、黒人ブルジョワジーはますます、ほら見ろ、また黒人は野蛮だって言われるじゃないかと眉をひそめる。

今日はこれから、『ストーミー・ウェザー』っていう映画を見ます。つくられたのは1943年でだいぶあとなんだけど、ハーレム・ルネサンスのころの華やかなエンターテイメントの世界を再現しています。43年っていうとね、第二次世界大戦だね。第二次世界大戦に黒人兵を徴用しなければならない。そのために、第一次世界大戦のときは華やかだったじゃないか、みんなあの頃のことを思い出して、国のために戦おう・・・って、黒人たちに呼びかけるためにつくられた映画です。でも、その内容は・・・サイコー。ハーレム・ルネサンスのころから活躍していたビル・ボージャングル・ロビンソンっていうタップダンスの名手が素晴らしい。当時60代のロビンソンが20代の女優レナ・ホーン(すごい美人!)と恋人役っていうのは無理はあるけど・・・戦意高揚が目的ってこともあって、第一次世界大戦の戦勝パレードのシーンが出てきます。黒人部隊のパレードを指揮するジム・ヨーロッパって人は、大戦で軍楽隊を指揮したことで戦後も人気を得るんだけど、しばらくしてマネージャーと喧嘩して殺されてしまいます。ダンス・パーティのシーンで出てくるジム・ヨーロッパはもちろんそっくりさんです(すごく似てるけど)。

では、さっそく見てみましょう。さっき言った、ハーレム・ルネサンスのいろんな側面が見られると思います。


ボージャングル・ロビンソンが蒸気船のうえで、ジャイヴ・バンドと踊るシーンまで見たところで、タイムアップ。この日は他に、マーカス・ガーヴェイについても話した。

2011年10月8日(土)

1カ月に一度のチキリハ(チキリカ・リハーサル)。人間のメンバー4人と、融通のきかないメンバー(ベース・トラック)で新曲「山椒魚」を練習した。リズム・ギターをパーカッションに置きかえ、エンディングにジャズっぽいエレピを入れた。うん、だんだん形になってきた。

※チキリカの音源、Ototoyで配信中です。幻のファースト・アルバム『Ojare!』(http://ototoy.jp/_/default/p/21163)、渾身のセカンド・アルバム『Boo Booo...』(http://ototoy.jp/_/default/p/22224)。試聴もできます。思いのほかお安くなっております。どうぞよろしく。

2011年10月7日(金)

休み休みだったら、バカいってもいいんだな!

人は死ぬとき、どんなことを考えているんだろう。まあ、人それぞ​れだろうけど。「ウンコしたいな」と思っていても、つい空気読ん​で言い出せないんだろうな。みんな泣いてたりするし。あ、オレ、​死ぬんだな、って思うじゃん。最後の一言が「ウンコしたい」じゃ​あ、かっこつかないし。

2011年10月6日(木)

Momoluregalia

モモル・マサクワ(Momolu Massaquoi)という人物が気になっている。1870年リベリア生まれ。リベリア/シエラ・レオネ国境周辺の民族ヴァイ​人(Vai もしくは Vei)の二つの王族の血をひく。リベリアのミッション・スクールを卒業後、アメリカに留学したマサクワは、1891年アメリカ教育協会の大会、1892‐3年シカゴの国際博覧会でスピーチをしている。このころのマサクワの様子を、アフリカ系アメリカ人女性で教育者のアナ・ジュリア・クーパーが書き残している(グリムケさんというのは、アフリカ系アメリカ人の地位向上のために尽力したフランシス・ジェイムズ・グリムケのこと)。

あるとき、トロントで、私は若いアフリカの王子モモル・マサクワと会った。見栄えが良くて、すらりとした、教養のある若者だった。アフリカのことや、展示されている陶器、かご細工、現地で織られた織物についてレクチャーしていた。彼の部族は書き言葉を持っており、たしか、彼の母親もお気に入りの妻もアラビア語が書ける、彼自身は父親の王位を引き継ぐことになると言っていた。私たちは彼のコスチューム ― 肩のうえの筒状に巻かれた縞模様の織物や手に握られた巨大な槍 ― についての彼のレクチャーを楽しんだ。私は彼のきれいな英語に驚き、魅了された。グリムケさんも有望な若者だと褒めて、喜んでいた(The Voice of Anna Julia Cooper 315)。

その後、入植したアフリカ系アメリカ人が幅を利かせるリベリアの政界にあって、土着の民族出身者初の外交官となり、1922年から7年間、ドイツのハンブルグで職務に就いた。帰国後の1929年、大統領選に立候補を表明するが、対立候補だったエドウィン・バークレイの妨害にあい、断念している。後のリベリア内戦につながる土着の人びとと入植者の対立がその背景にあった。結局、バークレイは大統領となり、44年までその地位にあったが、マサクワは38年に亡くなるまで公職から追放されていた。

一方で、マサクワはリベリアとヴァイ人の文化の紹介にも尽力している。1926年にThe Republic of Liberiaという本を書いている他、(クーパーの文章にも書かれているように)無文字社会が主流のアフリカでは珍しく文字を持つヴァイ人の書き言葉について記した"The Vai People and Their Syrabic Writing"という小論をAfrican Affair40号(1911)に寄稿している。また、アフリカに広く分布する石遊び「マンカラ」のヴァイ人ヴァージョン(クポ)を、世界のゲームをリサーチしたことで知られる民俗学者スチュワート・カリンに教えたのもマサクワだったという情報がある。

なお、マサクワの孫にあたるハンスはドイツに残り、ナチス体制下で黒人として生きるという特異な体験をした。モモルの評伝は現在品切れ、どこの図書館にも置いていない。ハンスの手記を注文したところ。ルドルフ・フィッシャー『まじない師の死』のフリンボのモデルなのではないかなどと思ったりもするのだが、どうだろう。

2011年10月5日(水)

ノーベル文学賞はスウェーデンの詩人に決まった。アフリカ勢はま​たもお預け。チヌア・アチェべベン・オクリが取っていたら、頼まれ​ていた記事を書かなきゃいけなかったので、ホッとするような、ガ​ックリするような。オクリはともかく、アチェべは80なので早​くしてくれないと。

スティーヴ・ジョブズ氏が亡くなった。マックからウィンドウズにのりかえた経歴を持つぼくにはジョブズ​氏の死について感慨を持って語れることは何もないのだが、デザイ​ンが技術の上に立つべきだという方針には感銘を受けた。例えば、​日本のエネルギー政策に必要なのもそれではないだろうか。技術的​にできることの範囲で考えていると、新しい発想は実現できない。彼が世に送り出したiPodやiPad(重宝してます!)も、デザイン主導の考えがなければ、だいぶ違うものになっていただろう。

世界中の多くの人が2011年10月5日をアップル・コンピュータの創業者が亡くなった日として記憶するだろうが、ぼくはむしろ天才的なギターリストが亡くなった日として心に刻もうと思う。バート・ヤンシュペンタングルの創立メンバーで、ジミー・ペイジポール・サイモンなど多くのミュージシャンに多大な影響を与えた。イギリスのフォーク・ソングにジャズやブルース、さらにはアラブやインドの音楽を取り入れたギター・スタイルは、デイヴィ・グレアムという先達はいるものの、その洗練において他の追随を許さない。鬱々としていながら、時折燃え上がるものを抑えきれないようにしゃくりあげるヴォーカルも好き。フォーク少年だった中学生の時に夢中になってから、ずっと好きだった。ショックだ。

2011年10月4日(火)

ボイトレ。先生が口笛吹けないということが判明(笑)。声を鼻から頭に抜けさせると、トーンが高く、明るくな​る。意識して声を上に(音程というよりも、響きの位置。響きの位​置を変えればフラットしにくくなる。オリジナルだけではなく、カ​ヴァー曲も練習してみましょうということになった。迷わずテンプテーションズ「マイ​・ガール」を選んだ。

2011年10月3日(月)

明治学院非常勤後期第二回目。

「アメリカ文学入門」は、ピューリタンの文学。ニューイングランドの歴史が神の恩寵のもとにあるという考え方、予型論的なものの見方、セイラムの魔女裁判大覚醒運動などについて概説。ピューリタンが言葉で「遊ぶ」ことを好まなかったうえに、出版のための手だてもない植民地では「文学」どころではなかったといっていいだろう。しかし、ピューリタンの指導者コットン・マザーは詩作にふける人びとの堕落を嘆きながらも、宗教的な題材であれば許されると考え、自らもいくつもの宗教詩を残した。そんななか、アン・ブラッドストリートエドワード・テイラーといったこの時代の人びとの詩は宗教的な内容にならざるをえなかったが、ブラッドストリートの詩などは予備知識がなければストレートなラブソングにも聞こえる。彼らが宗教的熱情だけで詩を書いていたのかというと・・・アヤシイ。他にも、メアリー・ローランドソンのものに代表される「インディアン捕囚記」なども、捕囚の体験を神が人びとに与えた試練であると考え、生きて帰れたことを神に感謝するために書かれているが、ワクワクドキドキの冒険物語として読まれた可能性がないとは言えない。また、ホーソンが『緋文字』のなかで描いているように、ピューリタンの社会にも先住民や船乗りといったピューリタンの価値観に染まらない「他者」がいた。彼らの存在も無視することはできないだろう。

「アメリカ文化研究(アフリカ系アメリカ人の歴史と文化)」では、世紀転換期に現れた二人の黒人指導者 ― ブッカー・T・ワシントンW・E・B・デュボイス ― に焦点をあてた。人種差別の激しい南部で奴隷として生まれたワシントンと、北部の比較的裕福な家庭に生まれ、名門ハーバード大学で学んだエリートのデュボイス。アフリカ系アメリカ人の地位向上という同じ目標を掲げながら、二人が対照的なやり方を選び、激しく対立した背景にはこうした環境の違いがある。ワシントンっていう人は、当時、すごく尊敬されていたんだ。でも、公民権運動以降、「裏切り者」的な扱いをうけることが多い。でも、ほんとうのところはどうだったんだろうか。

Washingtonワシントンが「裏切り者」であるという根拠にあげられるものの一つに、1895年、アトランタでの演説がある。難破船が近くを通りがかった船に「水をくれ」とサインを送ると、「バケツをおろせ」という返事が返ってくる。何度、サインを送っても、そのたびに「バケツをおろせ」。そこで、バケツを下してみると、そこはアマゾン川の河口近くなので真水をくみ上げることができた。黒人も自らバケツをおろして、白人と友だちにならなければならない・・・と。これはね、たしかに問題のある演説。だって、差別されている側が差別している側に歩み寄るべきだって言うんだもんね。奴隷として生まれたワシントンはアフリカ系の人びとが置かれている状況を誰よりも理解していたはずだ。なのに、何でこんなことを言ったんだろう。その答えは演説が行われた催しの名前にある ― 綿花国際博覧会。聴衆は、奴隷や、奴隷解放後はシェアクロッパーと言われる小作人をこき使って、綿花をつくってきた白人大農場主だったんだ。

当時、ワシントンはタスキーギ学院っていう黒人学校の校長だった。奴隷解放後、奴隷たちに教育の機会を与えるっていう真面目な取り組みがなされたのは確かだ。ワシントン自身、そうした取り組みのなかから生まれたハンプトン学院で勉強して、学校の先生になった。でも、こういう黒人のための学校はどこも財政難だったんだ。国や州は学校を設立するというと、ああ、やりなさいやりなさいと言うけれど、ほとんど予算は出さない。創設されたばかりのタスキーギは建物を探すところから始めなきゃならなかった。ようやく見つかったのは、放棄された教会の礼拝堂と物置小屋で、雨漏りがひどくて雨の日には学生がひとり、先生の頭のうえに傘を差していなければならないほどだった。学校を整備していくには、白人の寄付がどうしても必要だった。そのためには、白人を喜ばせるような演説だってしなきゃならない。つらいね。

タスキーギでワシントンが目指したのは、職業訓練だった。ほとんどの奴隷は畑を耕す以外のことを知らない。お金を貯めることもできないし、白人にも認めてもらえない。だから、まずは手に職をつけてっていうのがワシントンの考え方。奴隷として生まれて、いろんな職業を転々としながら、苦労して身をたてたワシントンらしい考えだね。そして、黒人が手に職をつけて、いろいろな分野で働くようになれば、あなたたちのためにもなりますよ、仲良くやりましょうよ、と白人たちにアピールしようとしたんだな。

Duboisワシントンの職業訓練をそれじゃだめだと激しく批判したのが、ペンシルヴァニア大学やアトランタ大学で教鞭をとっていたデュボイスだ。さっき言ったように、デュボイスは比較的裕福な家庭で生まれて、たぶん食べるのには困らなかった。大学も名門ハーバードを出て、ベルリン大学に留学までしている。もちろん、大金持ちってわけじゃないけど ― 大学の先生って、みんなが思っているほどもうからないからね(笑) ― まあ、ワシントンとは対極にいるような感じだよね。彼がどんなことを言ったかっていうと、「才能のある10分の1」って言い方をしたんだ。才能のある、頭のいい10パーセントのエリートに、その才能を伸ばすような教育を施すべきだ・・・ってね。なんか、鼻持ちならない?うん、ぼくもそう思う。でも、これもまた、当時のアフリカ系アメリカ人が置かれていた状況から考えて、無視できない意見なんだ。

エリート教育で生まれるのは、医者とか、弁護士とか、学校の先生とか、牧師とか・・・いわいる専門職って言われる人たちだ。そんなのは後回しでいい、まずはもっとすぐにお金になるような仕事を・・・って思うかもしれないけど、いや、ちょっと待った。もし、黒人の医者がいなかったら、だれが黒人の病人を見てくれるんだ?黒人お断りの病院をたらいまわしにされたあげく、助かるはずの病気で死んでしまうなんてことはよくあることだったんだ。弁護士だってそう。もちろん、黒人の権利のために闘う勇気ある白人弁護士もいるけど、数は限られている。学校では黒人が自分自身に誇りを持てるような教育は行われていない。白人の教会も黒人を締め出している。黒人自身がそういった専門職につかなければ、誰がやってくれるというのか・・・これは深刻な問題だよ。だから、デュボイスが言ってるのは理想ではなくて、現実だったんだ。

ワシントンとデュボイス、どっちが正しいだろう?二人は同じ問題を違った方向から見ていただけなんじゃないだろか。

このあと、デュボイスが『黒人のたましい』で取りあげた二重意識の問題、ナイアガラ運動全米黒人地位向上委員会(NAACP)などについて説明した。授業後のアンケートでは、ワシントンのやり方は上手くいかないと思うとか、デュボイスいけすかないとか、わがことのように書いている学生が多くて面白かった。

2011年10月2日(日)

録画しておいた『マイルス・デイビス・イン・トーキョー1973』(NHK総合 2011年10月1日午前1時40分~午前2時40分放送)を見た。マイルス・デイヴィス七重奏団、73年の来日公演。当時、NHK『世界の音楽』で放映されたもの。長い間行方不明になっていたテープがデジタル化の過程で発見され、今回の放送につながった・・・ということらしい(ってか、失くすなよ!NHK!)。エレ​クトリック・マイルスがファンク・ビートも飲みこんで「ブラック・ミュージック」として輝いていたころの演奏。悪か​ろうはずがない。この過剰さ!考えてみれば、このころブラック・ミュージック全体が、すべてにおいて​過剰な方向に走っていった。演奏人数もそうだし、情報量もそう。P​ファンクも、EW&Fも、フェラ・クティも、基本的には同じ方向​を向いていたんだと思う。それはコードのくびきから解放されて、ポリリズミックなグルーヴ​のもとでより自由な演奏ができるようになったことと関係がある。アフリカへの先祖帰りとも言える。でも、60年代以前のアフリカ​音楽はあんなに情報量多くなくて、構造は複雑なんだけど意図する​ところはシンプルな感じがする。そして、70年代後半の過剰さを打ち崩すような動きが、レゲエとかヒッ​プホップとかテクノのなかにあったんだな。情報量の多さに持ちこ​たえられなくなったマイルスが一度隠遁して、復活後ヒップホップ​の連中とかとアルバム作ったのも、なぜだかよくわかる。

まあ、ともあれ、過剰な情報量のエレクトリック・マイルス最高!​ってことで。


午後からは、『野毛大道芸』に遠峰あこさんのパフォーマンスを見に行った。『野毛大道芸』は横浜の野毛で春秋2回行われているイベント。街のあちこちでさまざまなパフォーマンスがくり広げられる。家族連れもいれば、露店で飲んだくれる人もいる。沸き立つような賑わいだ。「遠峰組」に加わったひらげは、あこちゃんのあとをうろうろとついてまわった。黄色い着物が鮮やかなあこちゃんは、アコーディオン片手に観客を笑わせたり、踊らせたり。ぼくとしては、「すっぽんぽん節」で酔客が盛りあがっているのがうれしくてしょうがなかった。おじさん、それ以上脱いじゃダメよ(笑)。この日の写真@facebook


Ango

夜は、青山『月見ル君ヲ想フ』でサカキマンゴーさんのレコ発ライブを見た。ソロも他のミュージシャンとの共演もよいけれど、やっぱりバンドとの演奏を聞いてみたかった。ベースとドラムがつくりだすグルーヴがすさまじい。でも、それはとってつけたようなものではなく、親指ピアノの音楽自体に内在するリズムを顕在化させたものだ。あざとさ・わざとらしさは全くない。結果として生まれたのは、かなりやばい音楽。埴輪の「踊る人」のように白目になって、踊り狂う。

忙しいけど、充実した一日だった。

2011年10月1日(土)

腰骨を骨折して入院中の祖父(88歳)を見舞った。寝たきりでボケが進行するのではないかと心配していたが、病院ではお酒が飲めないせいか、物忘れはあるものの、むしろ以前よりしっかりしていた。少し安心した。

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