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2011年10月6日(木)

Momoluregalia

モモル・マサクワ(Momolu Massaquoi)という人物が気になっている。1870年リベリア生まれ。リベリア/シエラ・レオネ国境周辺の民族ヴァイ​人(Vai もしくは Vei)の二つの王族の血をひく。リベリアのミッション・スクールを卒業後、アメリカに留学したマサクワは、1891年アメリカ教育協会の大会、1892‐3年シカゴの国際博覧会でスピーチをしている。このころのマサクワの様子を、アフリカ系アメリカ人女性で教育者のアナ・ジュリア・クーパーが書き残している(グリムケさんというのは、アフリカ系アメリカ人の地位向上のために尽力したフランシス・ジェイムズ・グリムケのこと)。

あるとき、トロントで、私は若いアフリカの王子モモル・マサクワと会った。見栄えが良くて、すらりとした、教養のある若者だった。アフリカのことや、展示されている陶器、かご細工、現地で織られた織物についてレクチャーしていた。彼の部族は書き言葉を持っており、たしか、彼の母親もお気に入りの妻もアラビア語が書ける、彼自身は父親の王位を引き継ぐことになると言っていた。私たちは彼のコスチューム ― 肩のうえの筒状に巻かれた縞模様の織物や手に握られた巨大な槍 ― についての彼のレクチャーを楽しんだ。私は彼のきれいな英語に驚き、魅了された。グリムケさんも有望な若者だと褒めて、喜んでいた(The Voice of Anna Julia Cooper 315)。

その後、入植したアフリカ系アメリカ人が幅を利かせるリベリアの政界にあって、土着の民族出身者初の外交官となり、1922年から7年間、ドイツのハンブルグで職務に就いた。帰国後の1929年、大統領選に立候補を表明するが、対立候補だったエドウィン・バークレイの妨害にあい、断念している。後のリベリア内戦につながる土着の人びとと入植者の対立がその背景にあった。結局、バークレイは大統領となり、44年までその地位にあったが、マサクワは38年に亡くなるまで公職から追放されていた。

一方で、マサクワはリベリアとヴァイ人の文化の紹介にも尽力している。1926年にThe Republic of Liberiaという本を書いている他、(クーパーの文章にも書かれているように)無文字社会が主流のアフリカでは珍しく文字を持つヴァイ人の書き言葉について記した"The Vai People and Their Syrabic Writing"という小論をAfrican Affair40号(1911)に寄稿している。また、アフリカに広く分布する石遊び「マンカラ」のヴァイ人ヴァージョン(クポ)を、世界のゲームをリサーチしたことで知られる民俗学者スチュワート・カリンに教えたのもマサクワだったという情報がある。

なお、マサクワの孫にあたるハンスはドイツに残り、ナチス体制下で黒人として生きるという特異な体験をした。モモルの評伝は現在品切れ、どこの図書館にも置いていない。ハンスの手記を注文したところ。ルドルフ・フィッシャー『まじない師の死』のフリンボのモデルなのではないかなどと思ったりもするのだが、どうだろう。

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