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2011年10月31日(月)

220pxemerson3_cropped明治学院非常勤後期第六回目。「アメリカ文学入門」はラルフ・ウォルドー・エマソントランセンデンタリズムについて。ベンジャミン・フランクリントーマス・ジェファソンの時代、ピューリタニズムの厳格な神をカッコにくくることによって、人間は理性をもって自ら考えるという自由を手に入れた。それは同時に、自らすべてのことを判断するという重荷を背負い込むことでもあった。神という大きな存在から人間という個々の存在へと180度転換したアメリカの思想は、このあと再び「大きな存在」について考えはじめる。トランセンデンタリズムの語源となった"transcend"という言葉は「超えていく」という意味であり、「トランセンデンタリズム」も日本語では「超絶主義」などと訳される。つまり、人間という個々の存在を超えたものについて考える思想が「トランセンデンタリズム」であるといえる。しかし、それはもはやピューリタンの神とは同じものではありえなかった。

エマソンにとって、神、あるいは自然といった超越的な存在は、人間ひとりひとりのなかに存在するものであり、人間ひとりひとりがすなわちそういった超越的な存在(自然)でもあった。その意味では、厳格な神と人間が対峙するピューリタニズムとは対極にあり、自然と同一である自己に対する信頼は、結果としてベンジャミン・フランクリンやトーマス・ジェファソンのそれと近いものになる。エマソンの影響を受けたソローのラディカルな行動も、こうした自己信頼に由来している。自己と自然の一体性はエマソンの有名な言葉「私はひとつの透明な眼球になる」のなかにパラドクシカルな形で表現されている。人間と自然は同じものなのだから、そのことに気づきさえすれば、両者の境界はなくなる。人間という存在は消え、「透明」になる。ちょうど、水の中の氷が溶ければ、同じH2Oである水と一体になるのと同じことだ。しかし、人間が自然と一体になるためには、理性をもって自然を観察し、自己と自然が一体であることを認識しなくてはならない。だから、眼球だけは残さなくてはならないのである。

自然という大きな存在を想定することによって、自己信頼に到達したエマソンやソローは、人間のつくりだした制度や習慣といったものは百年たったら消えてしまう取るに足らないものであると考えた。一方、トランセンデンタリズムへの共感から出発しながら、そうした些細なものに愛着を抱き、エマソンやソローと袂を分かつことになったのが、この授業のひとつの終着点であるナサニエル・ホーソンである。来週はホーソンに行く前に、ちょっと寄り道して、18世紀アメリカの演劇や芸能について見てみたいと思う。

「アメリカ文化研究(アフリカ系アメリカ人の歴史と文化)」では、先週にやり残したラングストン・ヒューズ、さらに大好きなゾラ・ニール・ハーストンについて話した。

私は川を知っている 世界と同じ太古からの
血管に流れる 人間の血よりも古い いくつかの川を

わたしの魂はそんな川のように深みを増した

夜明けが若々しかった頃 私はユーフラテス川に身を浸した
コンゴ河畔に小屋を建てると 流れは眠りを誘う子守唄を謳ってくれた
ナイル川を見はるかし 河辺に高くピラミッドを築いた
エイブ・リンカンが ニューオリンズにくだったとき
  私は聞いた ミシシッピ川が歌うのを そして見た
その泥水の川面が 夕日に映え 金色に変わるのを

Hughes先週はラングストン・ヒューズの「黒人は多くの川を語る」っていう詩を紹介したところで、時間がきちゃいました。この詩について語るには、ヒューズのお父さんについて説明しなくちゃならない。ヒューズのお父さんは何ていうか、金もうけ命、みたいな人だったのね。金持ちになって白人を見返してやろうという気持ちが強かったんだろうね。やがて、他の黒人はなぜ自分と同じように努力して金を儲けて、自立しようとしないのか・・・って、苛立ちを感じはじめる。黒人でありながら黒人嫌いになっていくんだ。ヒューズのお母さんともうまくいかず、ひとりメキシコに渡って事業を成功させる。ヒューズ自身もお父さんとは折り合いが悪かった。彼がこの詩を書いたのは、お父さんに呼び寄せられてメキシコに行く列車がミシシッピ川を渡ろうとしているときだったんだ。

ここでアフリカ系アメリカ人にとって「川」がどんな意味を持っていたか、考えてみよう。ある評論家がね、アフリカ系アメリカ人の生き方には2つのパターンがあるって言ってるんだ。一つは人種差別的な社会(具体的に言えば、南部)にとどまって、黒人コミュニティのなかで助け合っていく生き方。もう一つは人種差別的な社会を抜け出し、より人種差別が少ないと思われる社会(具体的には、北部。ここにも差別がないわけじゃなかったけど)に移動する生き方。この場合、肩寄せ合って生きてきた黒人コミュニティから離れて生きていかなければならない。こうしたことを考えたときに、「川」っていうのはアフリカ系アメリカ人にとって2つの意味があったと思うんだ。一つは人種差別的な社会とより人種差別の少ない社会の境界線。逃亡奴隷にとってのオハイオ川だね。もう一つはコミュニティの人びとが洗濯したり、食べ物を洗ったり、水浴びをしたりする、生活のための川。コミュニティそのものと言ってもいい。つまり、「川」はコミュニティから離れることと、コミュニティに留まることのどちらの表象にもなりうるってこと。

ヒューズのお父さんはまさに、「川」を渡った人だね。川を渡って、コミュニティの仲間を捨てて、メキシコっていう新天地で成功した。そんなお父さんに会いに行こうとしているとき、ヒューズの頭に浮かんだのが、「黒人は多くの川を語る」だった。この詩でヒューズが語っているのは、アフリカ系アメリカ人が長い歴史のなかで、共に生きてきた川、生活のための川であって、境界線としての川じゃないね。ユーフラテス川に身を浸し、コンゴ川の河畔に小屋を建て、ナイル川を見下ろすようにピラミッドを建てる・・・ってね。そして、その川が自分の血管となり、魂となる。民族の歴史が個人のアイデンティティになっていく。ここではお父さんだけじゃなくて、それまで多くのアフリカ系アメリカ人が背負い込んでいた「民族のための個人」っていう考えがひっくりかえされている。個人は民族の一部であり、だから「黒人の地位向上のために」自分の能力を使わなきゃいけないって言われてたのを、いや、民族が個人のアイデンティティの一部なんだと。「黒人の地位向上」はもちろん大切だけど、個人が先に来るんだと。

こういう「民族のなかの個人」から「個人のなかの民族」へっていうパラダイム・シフトを成し遂げたヒューズは、その後、英雄でも天才でも金持ちでもない、ふつーのアフリカ系アメリカ人個人の視点から社会を見たような詩を書いていく。例えば、南部から北部にやってきた黒人の女の子が、メリーゴーラウンドの「黒人席」はどこなのか尋ねる「メリーゴーラウンド」みたいなね。そこには、上から目線で「アフリカ系アメリカ人とは」「差別とは」って語るようなのとは全然違う世界が開けていたんだ。

さて、今日はもう一人、ぼくの大好きな作家を紹介したいと思います。ゾラ・ニール・ハーストンです。プリントに2枚写真を載せてあります。一つは太鼓を叩いている写真。これはハイチにフィールドワークに行ったときのものかな。ハーストンはフォークロアを集める民俗学者でもあった人でね。アメリカ南部の黒人コミュニティ ― 彼女自身そこから出てきたんだけど ― の調査なんかをやって、そのうち、カリブ海の島国ハイチにも行った。この授業でも何回か取りあげたように、ハイチっていうのは世界初の黒人共和国であり、ヴードゥーっていうアフリカ色の強い宗教が残っているところでもあるね。そんなハイチでヴードゥーの太鼓を聞いて、我慢できなくなっちゃったんだろうね。ハーストン自ら叩いています。それにしても、楽しそうだね。もう一枚は何だろう、これ。カラスかなんかの真似をしているところかな。これもフォークロア ― 子どもの遊びかな ― を披露しているところだと思うんだけど。何か、楽しいお姉さんだね。ハーストンは面白エピソードがつきない人でね。年齢もだいぶさば読んでいたり。最初1901年生まれとか言ってたのが、家族の聖書に書かれたメモで1891年だってばれちゃった。

Zora_neale_hurston_nywtsZ4169405_3

代表作の『彼らの目は神を見ていた』が発表されたのは1937年だから、ハーレム・ルネサンスの作家と言っていいのかどうか微妙だけど、1920年代には素晴らしい短編をたくさん書いてるし、ヒューズやウォレス・サーマンって作家といっしょに、アレイン・ロックとかデュボイスみたいな上の世代の神経を逆なでするような内容の『ファイア!!』って雑誌を出したりもしています。作家として活動する一方で、バーナード大学でフランツ・ボアズっていう先生について、文化人類学とか民俗学を学んでいる。で、シャルロット・オスグット・メイソンっていう金持ちの奥さんからお金を出してもらって、南部に調査旅行に行く。前回言った、ファオークロアを真面目に研究しようとする若い黒人芸術家と白人パトロンの関係だね。他のパトロンもそうだろうけど、このメイソン夫人っていう人はお金も出したけど口も出した。ハーストンは集めたフォークロアをメイソン夫人の許可なしには使えなかったんだ。そんな中でも何とかして出したのが、『騾馬とひと』(1935)っていう本。

これは南部の黒人フォークロアを集めた本なんだけど、すごく面白い。ふつう、学者がフォークロアを集めた本っていうとね、テーマ別に分類した民話や民謡がずらっと並べてあるってものを想像するね。あんまり楽しそうじゃない。『騾馬とひと』は一味違っている。フォークロアがどんなふうに語られ、楽しまれているのかってことが描かれているんだ。そこにはハーストン自身の失敗もからんでいる。最初の調査旅行はあまり成功しなかったらしいんだ。というのも、「バーナード大学から来ました、ゾラ・ニール・ハーストンと申します。みなさんのお話になってる民話を収集にきました」とかね、やっちゃったんだな。こんなかしこまったやつに誰も普段話しているバカ話なんて話さない。ようするに、トール・テール(ホラ話)がほとんどだからね。そこで次の調査旅行では、やり方を変えた。「ねえ、みんな。いつものほら話聞かせてよ」「なんだい、やぶからぼうに。そんな話聞いてどうしようってんだい」「あんたらの話をね、学者さんたちが喜ぶのよ」「俺たちのホラを学者先生が喜ぶって?そりゃ、また大ぼら吹いたもんだ」 こんなやりとりがあって、じゃあ、あんたがホラを吹いてくれたから、おれもほら話やるかな・・・と。まあ、こうやって、仲間だと認めてもらって、警戒心を解いたんだな。『騾馬とひと』にはこういうやり取りがそのまま入っている。面白いでしょ?

まあ、そんなハーストンだけど、晩年、幼児虐待の容疑でつかまったりして ― まあ、これははめられたみたいで、釈放されるんだけど、評判は悪くなるね ― だんだん忘れられた存在になっていく。代表作の『彼らの目は神を見ていた』にしても、基本、ラブ・ストーリーだからね。リチャード・ライトって作家が出てきて、黒人少年が白人の女の子を殺して、死体を地下のボイラーで焼くなんて小説を書いた1940年代には、時代遅れになっていたんだ。1970年代後半になって、アリス・ウォーカーとかトニ・モリソンとか新しい黒人女性作家がでてきて、二重に差別された黒人女性の存在を主張し始めたとき、自分たちのルーツとしてハーストンを評価しはじめた。絶版になっていた『彼らの目は神を見ていた』が再版されたのもこのころのことだ。

その『彼らの目は神を見ていた』。ちょっとあらすじを紹介しよう。主人公のジェイニー・クローフォードは黒人の女の子。白人の家で働いているおばあちゃんといっしょに白人の屋敷のなかに建てられた召使用の小屋に住んでいる。ジェイニーは白人の子供たちといっしょに育ったから、自分も白人だと思ってる。写真に写った自分を見て、「えー!私、黒人だったの!?」とか言っている。それにまわりの子供たちがおばあちゃんのことを「ばあや」って呼ぶから、ジェイニーも「ばあや」って呼んでる。そんな子供時代。実は、ジェイニーのお母さんは見ず知らずの男にレイプされて、ジェイニーを産んだ。それをおばちゃんが引き取って育ててるわけ。

そんなジェイニーも年頃になって、蜂が花のなかに入って行くのを見て、恋に目覚める。で、近くを歩いていたジョニー・テイラーっていう若者の誘いにのる。それを見ていたおばあちゃんはジェイニーにお説教するわけね。「ジョニー・テイラーみたいな半端者相手にするんじゃないよ。お前の相手はわたしがきめてあるんだからね」「おばあちゃん、私の相手って誰?」「ローガン・キリクスさ」ローガン・キリクスっていうのは、ぼくみたいなおじさんね。ジェイニーからすると、「えーっ!」だよね。でも、おばあちゃんからすると、土地もある、家もあるキリクスは孫娘の結婚相手として申し分なかった。「お前にはちゃんと結婚して、誰々さんの奥さんって呼ばれるような女性になって欲しいんだよ」って言うんだな。古いって思うかもしれないけど、娘をレイプされたおばあちゃんがそう願うのもわかるね。

結局、ジェイニーはキリクスと結婚するんだけど、ふた回りも上のキリクスとの結婚生活に愛はなかった。それにキリクスは畑で、家で、ジェイニーを小間使いのようにこき使った。ジェイニーが結婚生活に疑問を持ち始めたころ、一人の男が村を訪れる。ジョー・スタークスという自信満々のマッチョなやつ。ジェイニーに、「お嬢さん、そんな汚れた服はあんたみたいにキレイな人には似合わねぇなぁ」なんてね。「おれといっしょに来ないかい?」 ジョーの誘いにのって、ジェイニーは村を出る。

ジョーとジェイニーはイートンビルという黒人だけの町にやってくる。そこで、ジョーは郵便局をつくったり、街灯を建てたり、次々と新しい事業を起こして、町の中心人物になっていく。自分の店も持ったジョーは、町長として一目置かれる存在になった。同時に、彼はジェイニーが他の人びとと気軽につきあうのを嫌がるようになる。ジョーにとってジェイニーという美しい女性は、成功者に与えられたトロフィーのようなもので、他の人に触れさせてはならないものだったんだ。こうしてジェイニーは「町長夫人」として孤独な生活を強いられるようになる。

でもね、強い男もやがて年をとる。みんなもね、女の子は結婚相手が横暴だったら、年とった時が狙い目ね。熟年離婚とかあるでしょ。ある日、ジョーがジェイニーにすっかりババアになっちまってとかなんとか、悪態をついたのね。いつもだったら黙って聞き流すジェイニーだけど、この日は黙ってなかった。「なによ、あんただって、ズボンおろしたら、終わってんじゃないの!」って言い返したんだ。言い返されたことのないジョーは、えらいショックを受けるね。それが原因だったのかどうか、しばらくして病気をこじらせて亡くなってしまう。ジョーの死を見届けて、ジェイニーは顔を隠すためにかぶるように言われていたスカーフをはずす。

しばらくして、野球の応援で町の人たちが出払っていた日のこと、一人でお店をきりもりしているジェイニーのところに三人目の男がやってくる。ティー・ケイクとなのるその男はジェイニーに声をかける。「あんた、チェッカーはできるかい?」ずっと孤独に暮らしてきたジェイニーがゲームのやり方を知っているわけがないよね。「そうかい、おれが教えてやるよ」 こうして、ティー・ケイクはジェイニーを人とのつながりのなかに呼び戻したんだな。やがて二人はいっしょに魚釣りに行ったりして、デートを重ねるようになる。町長の未亡人が若い男と関係を持っている‥‥そんな噂を逃れて、二人はフロリダの湿地帯に移り住む。

そこで二人はしばらく幸せに暮らしてたんだけどね。ある日、ハリケーンが湿地帯を襲う。逃げ遅れた二人。ジェイニーを救おうとして、ティー・ケイクは犬に噛まれてしまう。この犬が狂犬病を持っていたんだな。嵐のあと、狂犬病の発作でジェイニーが自分を裏切るという幻想に取りつかれたティー・ケイクはピストルを彼女に向けて、逆に殺されてしまう。正当防衛で無罪になったものの、湿地帯にいられなくなったジェイニーはイートンビルに帰ってきて、親友に今までのことを話して聞かせる・・・ね、すごい話でしょ。アリス・ウォーカーなんかが、黒人女性作家の先駆者として尊敬したのもわかるよね。

今回はここで、タイムアップ。来週はもう少しハーストンの話をしたあとで、ニューディール政策の話にいきます。


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