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2011年9月25日(日)

論文「ルドルフ・フィッシャーとまじない師のシグニファイン」、下書きをブログで書いてしまおうという無茶な連載企画。第5回目(1 2 3 4)。今日はちょっとだけ。ちょっとだけよん。あんたも好きねぇ。

一方、アーチャーはフリンボとは違い、エシュ的な仲介者としては未熟 ― ほとんど無能に近い ― である。彼は自分の言語と相手の言語を相互に解釈させることで、理解を超える相手を包摂するといった能力に乏しい。いくつもの言語を自在に使い分けるフリンボとは対称的に、自分の言語である医学用語に固執するあまり、コミュニケーションに齟齬をきたすこともしばしばである。アーチャー自身もそのことをわかっており、何とか周囲に伝わる言語に翻訳しようとするのだが、「斜視」を表す言葉についての発言に見られるように、医学用語に対するファナティックな愛着を隠すことができない。                                     
証言した人たちはみな使用人を見ており、みな彼がやぶにらみ(cock-eyed)であるということで意見が一致している。どういうわけか、ダート、ぼくはこの言葉が嫌いだ ― きわめて誤解を招きやすくはないかね。しかし、斜視(strabismus)ならどうだ ― いい言葉があった!外斜視 ― 内斜視 ― これらの言葉がどんなふうに舌を転がるか見てみたまえ(288)。

こうした医学用語に対する偏愛は、アーチャーがエシュあるいはイフェとして事件を解釈する際の足枷になる。彼はフリンボに抗いがたい魅力を感じながらも、「偏執狂」(paranoia)という言葉を当てはめることによって、まじない師の人物像から理解できない要素を捨象してしまう。アーチャーが推理を誤り、探偵として敗北する一因は、こうした柔軟さに欠ける言語使用にあると言えるだろう。

特定の言語に固執するアーチャーに対し、むしろ自由なやりとりのなかで、エシュ的な相互解釈をくり広げているのは、狂言回し的な役割を演じる二人、ジンクス・ジェンキンスとババー・ブラウンである。彼らの軽妙なやり取りは、決して「白人(密かに黒人も)読者に向けて演じられるエイモス・ン・アンディ的な会話」(David Levering Lewis, When Harlem Was In Vogue 275)というだけでは片づけられない。彼らが罵りあいのなかで互いの関係を確認し合っていることを、フイッシャーは理解している。

こうしていつものように、彼らの賛辞の応酬は家族の歴史、他のハーレムの人間だったらたった一言でたちまち暴力沙汰になりかねない危険な爆発物のレベルにまで流れこむ。というのも、二人の敵意は入念に作られた仮面劇であり、彼らはその仮面の下に互いに対する心からの愛情を隠していた。だからこそ、決して行われることのない殴り合いすれすれまで行くことができたのである(33)。

ここでは相手の欠点をあげつらう罵詈雑言は本来の文脈から引き剥がされ、「ダズンズ」と呼ばれる遊びとしての口喧嘩という新たな文脈で解釈し直される。もしろん、解釈は双方向的であり、遊びが本当の喧嘩になだれ込むこともある。黒い肌を嘲る言葉すらも、白人の口から発せられたときの人種差別的な文脈から引き剥がされ、同じ差別、同じ境遇を生き抜くものの符牒として再解釈される。

このように、ジェンキンスとブラウンは日常的なレベルでエシュ的相互解釈を実践している。思いもしなかった結末に言葉を失ったダートとアーチャーに代わって、事件を総括する役割はこの二人にこそふさわしい。

むー。さあ、あとは結論だ。

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