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表舞台に立つ機会がないときは、腐らず、ゆっくり実力をつけるために使える時間をもらったと思って努力しよう…というわけで、今日も自主ボイトレ。
体重が68キロをきりました(67.7キロ、朝食前Wii Fit調べ)。
明治学院非常勤第十二回目(前期最終回)。今日はロバート・ジョンソン「クロスロード・ブルース」でスタート。前回の後半に引き続き、音楽・芸能の話。
前回、ミンストレル・ショーの話をして、こういう例は日本にもある、方言をからかったりするのもそのひとつだって話をしたら、アンケートにU字工事のことを書いてくれた人がいたね。「私は彼らのお笑いが好きだけど、方言を使った笑いっていうのはいろいろ問題があるのかもしれない」ってね。そうだね・・・U字工事の場合は、栃木だっけ?栃木出身で栃木弁をしゃべるわけだから、またちょっと違うかもしれないけど・・・難しい問題だね。笑いっていうのは多かれ少なかれ、カリカチュアっていうものがついてまわる。特定の人たちの特徴を大げさに表現してからかうというようなことがね。それがいいのか悪いのかっていうと、笑われている人たちがどこまでそれをいやだと思うかっていうことも関係してくると思うけど・・・ムズカシイ。
アフリカ系アメリカ人の場合で言うと、インテリの人たち・・・つまり、ぼくのような人・・・あれ?何でここで笑う?(笑)。知識人、インテリ、あるいは中産階級の人たちはミンストレルを嫌った。あんな差別的なものはけしからん、われわれに対する侮辱である・・・ってね。ところが、貧困層の人たちは意外と楽しんで見ていたっていう話もあるんだ。どういうことかというと、白人にとって、ミンストレルで描かれている「黒人」は、黒人っていう人種全体のイメージだ。ところが、貧しいアフリカ系アメリカ人にとって、それはとなりのトムだったり、裏町のマリーだったりする。「アハハハ、ありゃ、トムにそっくりだ」ってわけ。決して、見ている自分自身のことではない。ミンストレルが人種全体を揶揄する芸能だという点では、白人とインテリ・中産階級のアフリカ系アメリカ人は意見が一致していたと言えるかもしれない。
南北戦争後、そんなミンストレルに何とアフリカ系のパフォーマーが登場する。奴隷も解放されて、北部の白人の間で、「ホンモノの黒人ってどんなだろう」っていう好奇心が高まっていた。ひとたび黒人のパフォーマーが登場すると、こっちのほうがホンモノじゃんっていうことになって、黒塗りの白人パフォーマーはたちまち駆逐されていった。黒人を馬鹿にした芸能に黒人が出るんだよ。だいぶ屈辱的なことじゃないかと思う。このころには混血も相当すすんでるから、黒人パフォーマーのなかには顔の色の薄い人もいる。そういう人は、「あれ、ほんとうに黒人なの?メキシコ系じゃない?」といった疑いを晴らすために、黒人なのに顔を黒く塗る・・・って、わけのわからないことになっていく。
なぜこんなことが起きたんだろう。ひとつにはそこしか活躍の場がなかったということがあるね。ミンストレルは今でいうとヒップホップやロックと同じぐらい影響力のあるエンターテイメントの中心だった。ただでさえ活動の場が限られているアフリカ系アメリカ人がミンストレルに出たくないなんて言える状況じゃなかった。でも、それだけじゃないと思うんだ。顔を黒く塗ったミンストレルのパフォーマンスは、ステージにいるのが白人だけだという証明だったという説がある。顔を黒く塗らなきゃいけないってことは、逆に言えば、その人の顔は黒くないってことだよね。でも、だとすると、顔を黒く塗ったアフリカ系のパフォーマーはどうなるんだろう。それもやっぱり、普段のパフォーマーは黒塗りした顔にみられるようなステレオタイプ化された「黒人」ではないってことにならないだろうか。
ミンストレルに登場したアフリカ系パフォーマーは、やがて、白人の要求に過剰に答えることで、もはや黒人のステレオタイプだかなんだかわからないパフォーマンスを生み出していく。例えば、ビリー・カーサンズという人は、口が大きい ― これも黒人のステレオタイプのひとつ ― ことを誇示するために、口にコーヒーカップとソーサーを入れたり、ビリヤードの玉を入るだけつめこんだりした。もうこうなると、普段のビリー・カーサンズがそんなものを口に入れていると思う人はいなくなる。それは彼の「芸」なんだ。19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した黒人の黒塗り芸人バート・ウィリアムズは、白人の血をひいていたので色が薄かったし、カリブ海出身なので南部の黒人英語もしゃべれなかった。黒塗りで黒人英語を話すステージのうえの彼は普段の彼ではなく、彼が努力して身につけた「芸」、演技だったんだ。
さて、ミンストレルの話はこれくらいにして、いよいよ、ブルースの話をしよう。おそらく19世紀の終わりごろ、アフリカ系アメリカ人のなかから耳慣れない音楽が生まれてくる。ブルースだ。今日最初にかけていたのは、知っている人もいるかな?ロバート・ジョンソンの「クロスロード・ブルース」っていう曲なんだけど・・・もう一度聞いてみよう。
Robert Johnson, Crossroad Blues
いいね~。歌詞は「十字路に行って膝まづき、神様に祈った。哀れなボブをお救いくださいと」みたいな内容なんだけど、それ以上にこの歌は「十字路で悪魔に魂を売った」って伝説と結びつけて語られることが多い。ジョンソンの先輩にあたるサンハウスってブルースマンなんかが話していることだけど、へたっぴなギターしか弾けなかったジョンソンがしばらく姿を消して戻ってきてみると、ものすごく上手くなっていた。で、きっと十字路で悪魔に魂を売ったに違いない・・・って噂になった。まあ、十字路で魂を売ったって話があるのは、ロバート・ジョンソンだけじゃないんだけどね。当時、ギターが急にうまくなったりすると、やっかみ半分でそんなことを言ったのかもしれない。で、ステージで「クロスロード・ブルース」を弾きはじめると、観客は盛りあがったんだろうな。でも、それだけじゃなくて、アフリカにはエシュとかレグバって呼ばれる神様がいてね。こいつが十字路の神様なんだ。エシュ=レグバは人間と神の間を取り持つ重要な役割を持った存在で、一種のトリックスター的な性格を持っている。十字路で会った悪魔っていうのは、ヴードゥーなんかのなかに生き残っていたこのエシュ=レグバじゃないか・・・っていうんだな。
さて、クロスロード伝説はさておき、ブルースがどんな音楽なのかってことを話しておこう。まず、ブルースがそれまでのスピリチュアルとかワークソングと違うのは、それが個人の歌だってことだ。スピリチュアルにせよ、ワークソングにせよ、奴隷解放前の音楽はコミュニティのためのものだ。常に集団で行動することが求められた奴隷たちにとって、歌は個人の思いをこめるためのものではなかった。「自由」の身になってはじめて、生活が苦しいとか、恋人がいなくなって悲しいとか、個人的な問題を歌うことができるようになった。もちろん、だからといって、ブルースにコミュニティとのつながりがないわけじゃない。ブルースという形式も歌詞のフレーズも、コミュニティのなかで培われたものを使っているし、生まれた歌は同じような経験をしている人々の共感を呼ぶわけだからね。
音楽的に言うと、ブルースをブルースたらしめている特徴はまず、ブルー・ノート・スケールっていう音階。それはこんな感じ。
ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドでいうとミとソとシの音がちょっと下がる。ちょっとというのは半音までいかない。じゃあ、どれくらいかというとフレーズによっても変わってくるんで、一言では言えないんだけど。悩ましいのは西洋楽器ではなかなかこの微妙に下げた音っていうのが出せないんだ。ギターとか弦楽器だとね、スライド・ギターって言ってビンのネックやナイフを滑らせたり、チョーキングって言って弦をちょいとあげたりして、半端な音を出すんだけど、ピアノなんかはしょうがないから、前後の音をテロテロレロレロって連続してい弾いたり、不協和音覚悟でガーンっていっしょに弾いたりすることもあるね。コード進行・・・音楽知らない人は、書いてもあんまり意味ないかもしれないけど、ブルースの典型的なコード進行っていうのがあって・・・
こんな感じ。全部7っていうのがついてるでしょ。これは音楽理論的にいうとすごく不安定な和音らしいよ。だから、普通は「さあ、早く、この不安定な状態を脱して落ち着きたい」って、安定したコードに移って終わるためのものらしい。でも、ブルースだと、これがついてまわる。常に動いている音楽ともいえるかもしれない。で、一行目と二行目ではたいてい同じ歌詞を歌う。一行目「今日は明治学院でブルースの授業~♪」、二行目「今日は明治学院でブルースの授業~♪」で、三行目にオチが来る。「調子に乗って歌ってみた~♪」(笑)。こういうのが、まあ、ブルースの典型的な形式なんだけど・・・とりあえず、もう一曲、ロバート・ジョンソンを聞いてみましょう。
すごいね~。ずっと聞いていたいね。歌詞はね、ちょっと脈略ないようにも思えるんだけど、友だちから奪った女を他の男に奪われちまったとか、結婚せずに子供を産んだ女がいると世間は冷たいとか、そんな歌詞の後に「ぼくの台所に入っておいでよ、もうすぐ外は雨になる」っていうんだ。ずっと旅をしていたロバート・ジョンソンのことだから、この「台所」っていうのは、自分の家じゃなくて雨宿りしに入った人の家なんじゃないかな。そこに悲しい目をした美しい女が現れる・・・
ぼくの妄想はともかくとして、もう一曲聞いてもらいましょう。
気づいた人いるかな。さっきと同じ曲ね。ガレ・デュ・ノールってグループがロバート・ジョンソンの「カモン・イン・マイ・キッチン」に演奏をかぶせて、「パブロズ・ブルース」として発表してしまったというほとんど反則ものの録音です。でも、いいね~。これ、歌はそのまんまなんだけど、コード進行も変わってて、ちょっと違う曲になってる。でも、すごくブルースな感じするでしょ。ジャズなんかだともっと複雑なコード進行で、ブルージーな演奏っていっぱいある。逆にこういう例もある。
ジョン・リー・フッカーっていう人だけど、こんどは逆によりシンプルで、コードはほとんどひとつとかふたつで、ずっと同じことをやってる。つまり、何がいいたいかっていうと、ブルースにとって、さっきのコード進行っていうのは必須じゃないってこと。ブルースをブルースたらしめてるのはやっぱりブルー・ノート・スケールなんだと思う。
ブルースっていうと、よく憂鬱な歌、悲しい歌って言われるけど、ただ憂鬱なだけ、悲しいだけじゃ、ブルースにはならない。詩人のラングストン・ヒューズが『ジャズの本』っていう子供向けにジャズを説明した本のなかで紹介しているのは、自殺しようと思って線路に頭を乗っけるんだけど、汽車が来るとこわくなって頭をひっこめるっていうブルース。ここには憂鬱、悲しみといったものを笑いとばそうというものが感じられるね。で、ブルースの話の最後に、これは今授業で扱っている時代よりもはるかに後の映像(1967)なんだけど、ライトニン・ホプキンスっていうブルースマンが故郷テキサスで演奏している映像を見てもらいましょう。ダンス・パーティみたいな感じでね。個人の思いを歌うブルースが、こういう形でコミュニティの音楽としても機能していたというところを見てください。
さて、もう一つ。ブルースと前後して、ジャズという音楽が誕生します。ジャズは、ブルースやラグタイム、ブラスバンド、クラッシック音楽、ミンストレル、アフリカ起源の音楽などが融合した混血度の高い音楽です。ブルースもそうだけど、ジャズも、いつ、どこで生まれたのか、はっきりしたことはわからない。ただ、ニューオリンズって町が重要な役割を果たしたことは、間違いないだろうと思う。なぜニューオリンズだったのかっていうと、いくつか理由があって、まずひとつは南部に攻めこんできた北軍がニューオリンズの港から船に乗って北部に帰った、そのときに軍楽隊がラッパを安く売っていったというのがある。それから、以前はフランス領、スペイン領だったということも大きい。フランス~スペイン統治時代は、白人と黒人の間に生まれた子供は白人として扱われていた。だから、高い(音楽)教育を受けた混血の人たちがたくさんいたわけ。その人たちが、アメリカ領になった途端、「黒人」として差別される。生きていくために、音楽の才能を生かした人もいただろうね。それに、フランス~スペイン統治時代のなごりか、ニューオリンズの「コンゴ広場」ではアフリカ直系の音楽を演奏することが許されていた。最後に悪名高き売春街、ストーリーヴィルの存在がある。売春宿では併設されたバーで女の子を品定めする。そこでムードを盛り上げるために演奏をする人たちのなかから、ジェリー・ロール・モートンのような、のちにジャズを作り出す人たちが現れた。今日は有名なルイ・アームストロングの若いころの演奏を聞いてみましょう。
ルイ・アームストロングもね、大きな口をあけてガハハハって笑うみたいなところが、すごくミンストレル的だとして敬遠された時もあったみたいだね。でも、そんななかで、彼の演奏のすごさ、かっこよさっていうのはあんまり語られなくなっちゃったところがある。
さて、ぐるっと回ってミンストレルに話が戻ったところで、ミンストレルで白人の期待に過剰に答えていたアフリカ系アメリカ人のパフォーマーたちが行き着く先というのを見てみたいと思います。ミンストレルには実は何もわかっていないのに知ったかぶりをする洒落ものと、愚鈍だがときどき真実をついたような発言をするマヌケというキャラクターがあります。前者のキャラを過剰に発展させて、もはや白人には理解できないところまでデフォルメさせるとどうなるか。キャブ・キャロウェイという、アフリカ系のミュージシャンのなかでもぼくが特別に好きな人のパフォーマンスです。
さて、今日はここまで。ほんとうは文学の話までやりたかったんだけど、できませんでした。後期の最初にやりたいと思います。
ボイトレ。「~しよう」は「しよを」と発音すると、うまくいくことが多い。声を奥歯にぶつけるように。上を向いて酸欠の犬のようなしぐさをして、軟口蓋をあげる。
西加奈子『円卓』(文藝春秋、2011)を読み終わった。今回の主人公は平凡なしあわせに反発する小学三年生の琴子(こっこ)。「うるさいぼけ!なにがおもろいねん」と毒づき、周囲に対するいら立ちを隠せない。その姿は微笑ましく、かわいらしい(なんていったら、また「うるさいぼけ!」とかみつかれるだろう)。眼帯や吃音や不整脈やボートピープルは、こっこにとって羨望の対象である。「平凡でない」ことが本人たちにとってどんな意味を持つのか、なかなか理解できないのだ。
そんな夏のある日、こっこは衝撃的な体験をする。
痛いって何だろう。孤独って何だろう。
孤独の先には「死」がある。夕陽が悲しいのは、それがはるか昔から未来までずっとそこにあるからだ。そして、ずっと先を見据えると、そこに自分自身の姿はない。「平凡であること」の愛しさとはそういうことなのかもしれない。折りたたまれた白い紙に書き込まれたたくさんの言葉は、ごくごくありふれたもの、ありふれているけれど、明日にはなくなってしまうかもしれないもの。「しね」という呪いの言葉を打ち消すのは、そんな「平凡さ」だったのかもしれない。
音楽評論家の中村とうようさんが亡くなった。とうようさんがいなかったら、アフリカ音楽も、書生節も、インドネシア音楽も、カントリー・ブルースですら、聞かずに通りすぎていたかもしれない。オーティス・レディングはあの時死んでよかったんだとか、許しがたい発言も多々あった。小泉純一郎を応援しはじめたときには、どうしちゃったんだろうと思ったし。でも、著書『アフリカの音が聞こえてくる』でアフリカ音楽の深い世界に誘(いざな)っていただいたことに深く感謝しています。一度しかお会いしたことはありませんでしたが、お世話になりました。
ハイチのパーカッショニスト、アゾールさんが亡くなった。去年の5月、ハイチ地震復興支援コンサートで来日された時には素晴らしい演奏を聞かせてくださったのだが、オフステージでは足を引きずっていてかなり体調が悪そうだった。まさか、こんなに早く逝かれてしまうとは・・・ヴードゥーの神々のもとで安らかにお休みください。
森孝一『宗教から読む「アメリカ」』(1996、講談社)を読み終わった。旧世界における苛烈な宗派争いと宗教弾圧への反省から、アメリカは憲法で国教制度を否定し信教の自由を保障した。しかし、アメリカには「見えざる国教」、ロバート・N・ベラのいう「市民宗教」があり、その傘の下でさまざまな宗派がしのぎを削っている。「見えざる国教」はキリスト教にきわめて近いものだが、キリスト教そのものではない。それは聖地としてのワシントンDCに見られるように、予型論的な聖書解釈に基づいて、ワシントン(モーセ)、ジェファソン(聖典製作者パウロ)、リンカーン(殉教者)ら建国の父祖たちを聖人になぞらえる。アメリカはイスラエルと同じ「約束の地」、アメリカ人は選ばれた民である。
アメリカでは、「見えざる国教」が国をまとめるイデオロギーであることを認める限りにおいて、信教の自由が認められている。逆に言えば、かつてのモルモン教のように、「見えない国教」にとって代わろうとした宗派は徹底的に弾圧される。そうでない宗派はアーミッシュのように一見奇異に見える宗派であっても許容される。結果、「見えざる国教」のもとで各宗派は特定の社会集団が自分たちの価値観を守る砦となっており、それが人種、エスニシティや社会階層を超えた同意形成という役割を宗教から奪っているという懸念もある。一方で、そうした閉塞を打ち破ろうとするサンフランシスコのグライド・メモリアル協会のような試みも紹介されている。
もう一つの問題は、「見えざる国教」を奉じたアメリカが世界に与える影響である。著者は日本の国家神道と違い、アメリカの「国教」には「自己絶対化をチェックし、みずからを謙虚にするような、超越的側面」があったと言うのだが(98)、果たしてどうだろうか。自由を「普遍的価値」として、世界に輸出しようとするアメリカ。そのなかで、「全ての価値は相対的である」という価値すら絶対的ではないことを見失うからこそ、アメリカは危うい ― 自分たちの価値が絶対的であると考える集団以上に ― と思うのだが。
明治学院非常勤第十一回目。前半はD・W・グリフィス監督の映画『國民の創生』(1915)の続きと、それに対するアフリカ系アメリカ人からの回答ともいうべきオスカー・ミショー監督の『ウィズイン・アワー・ゲイツ』(1919)を見た。後半は音楽の話。スピリチュアル、ワークソング、ケイクウォーク、ミンストレルなどについてビデオ、音源を交えて説明した。
D・W・グリフィス監督の『國民の創生』、前回はキャメロン家の娘フローラが元奴隷のガスに言い寄られ、崖から落ちて死んでしまうシーンまで見ました。サイレントなのでちょっとわかりにくかったかな。アンケートには、ガスがフローラを追いかけるシーンが怖かったという声がけっこうあった。一方で、ガスは結婚してくれといっただけで何も悪いことしていないのにかわいそうという人もいたね。どちらの意見も一理あると思う。確かにこのシーンは怖い。怖いように描かれているからだ。逃げるフローラと追いかけるガスが交互に、クロスカッティングで描かれ、緊迫感を高めている。そこに狙われた獲物を象徴するリスのカットが挿入されていたのに気づいた人いるかな?実際にはガスは何も悪いことしていない。でも、このシーンは何か恐ろしいことが起きている ― 黒人が俺たちの女を狙っているぞ! ― という印象を観客に与えただろう。
今日はその続き。時間の関係でちょっととばします。キャメロン家の長男ベンが結成したクー・クラックス・クランはフローラを追いつめたガスをリンチにかけ、その結果、キャメロン家のお父さんがリンチの黒幕として逮捕される。そこに現れたのがストーンマン家の長男フィル。キャメロン家の娘マーガレットの心を取り戻したいフィルはキャメロン家の人びとを救いだし、森の丸太小屋に逃げ込む・・・が、そこにも黒人の軍隊が迫ってくる。一方、混血の野心家サイラス・リンチはずっと狙っていたストーンマン家の娘エルジーに襲いかかり・・・それでは、見てみましょう。
サイラス・リンチに襲われるエルジーや丸太小屋で抵抗するキャメロン家の人びとと、駆けつけるKKKがクロスカッティングで描かれているのがわかったと思います。緊迫感を高め、観客が「正義の味方」KKKの到着を待ち望むようにつくられているわけです。
さて、これが真実だと思われてしまっても困るので、アフリカ系アメリカ人の側から描かれた映画を見てみましょう。オスカー・ミショーという人の映画です。オスカー・ミショーは最も早い時期に映画を監督したアフリカ系アメリカ人の一人です。彼は最初、開拓した土地を自分のものにできるホームステッド法という法律ができたのをきっかけとして、自作農として自立するために西部に行きました。しかし、夢かなわず、そこでの体験をもとに小説を自費出版して、自ら売り歩くようになります。やがて、自分の作品を多くの人に知ってもらうには、映画という新しいメディアがうってつけであることに気づき、映画の制作をはじめます。もちろん、どこの馬の骨ともしれない黒人の「映画監督」にすすんで金を出そうとするものはなく、ミショーは資金繰りから、脚本、撮影、制作、宣伝まで一人で手がけて、自主制作で映画を完成させます。当時公開されたばかりの『國民の創生』に違和感を抱いていた彼は、黒人の側から見た南部を描いた映画をつくろうと思い立ちます。それがこれからお見せする『ウィズイン・アワー・ゲイツ』です。
この映画には『國民の創生』のクライマックスと同じようなシーンが、立場を変えて描かれています。主人公のシルヴィアは幼い頃に両親と別れ、黒人小作人のランドリー夫妻に育てられました。育ての親、弟と貧しいながらも幸せに暮らしていたのですが、ある日、大変なことが起こります。ランドリー氏が小作料の交渉に行ったとき、地主が恨みを持つ貧しい白人に殺されてしまうのです。地主の死体のそばに佇むランドリーを目撃した男が、彼が犯人だと言いふらしてしまいます。町の白人は沼地に逃げようとした夫妻と息子をリンチにかけます。一方、荷物を取りに家に帰ったシルヴィアは、以前から彼女を狙っていた地主の弟にレイプされそうになります。いよいよ、危うしというところで、シルヴィアの身体に見覚えのある傷を見つけた男は彼女が自分の娘であることに気づきます。犯行を思いとどまった男は、罪滅ぼしにシルヴィアの学費を出すことを約束します。
『國民の創生』と同じように、ここではレイプと家族の危機がクロスカッティングで描かれています。しかし、ここでひどい目にあっているのは白人ではなく黒人のほうです。そして、KKKは正義の味方などではなく、首を吊られた黒人家族の死体を焼く悪魔のような人たちです。潤沢な資金をもとにつくられた『國民の創生』に対し、ミショーの映画は最低限の予算で作らざるをえませんでした。しかし、グリフィスと同じ最新の技法を使って、『國民の創生』とは全く違う南部を描いたのです。
さて、今日は盛りだくさん。後半は音楽の話をします。
まずは以前、地下鉄道のところでも取りあげたスピリチュアルの話から。スピリチュアルが奴隷たちの宗教歌であると同時に、逃亡奴隷を導く暗号であったかもしれないという可能性については、以前話しました。この説に異論を唱える人もいるんだけど、歌詞なんかを見ると、どうもそう考えないと説明がつかないものなんかもあるね。キング師も『良心のトランペット』のなかで、スピリチュアルが地下鉄道の暗号に使われていたと述べています。
スピリチュアルは南北戦争後、黒人大学の学生たちによって全国に広められます。南部再建期に、元奴隷たちを教育するため、南部各地に黒人のための学校がつくられた。そのなかには黒人大学もいくつかあったんだけど、どこも経営難。そんななか、テネシー州ナッシュビルのフィスク大学では、学生のコーラス・グループの演奏を聞かせて、寄付金を集めることになった。もっとも、最初はスピリチュアルなどの「奴隷の歌」を歌うことに抵抗があったんだけどね。せっかく自由の身になって、これから教養を身につけようというのに、奴隷の歌なんて!ってね。でも、実際に歌ってみるとこれが受けた。「フィスク・ジュビリー・シンガーズ」の名声は高まり、1886年にはヨーロッパ公演を行うまでになった。これをきっかけとして、スピリチュアルをステージ用に編曲しなおすといったことが盛んに行われるようになった。後で話すミンストレル・ショーなんかでも、スピリチュアルは重要なレパートリーになっていきます。
Fisk Jubilee Singers, "Roll Jordan Roll"
でも、ね。スピリチュアルっていうのは、本来、そういうものじゃない。ステージから観客に聞かせるために歌うようなもんじゃなくて、普段の生活のなかでみんながいっしょに歌う様なものなんだ。例えばさ、せっせっせーのよいよいよい、なんてわらべ歌があるでしょ?あれ、別にステージのうえで歌ってもいいけど、本来はみんなでいっしょに遊ぶためのものでしょ?誰かに聞かせるものじゃなく。スピリチュアルをステージ用にアレンジしてしまうと、重要なものが失われてしまう。そのことを指摘したのが、ぼくが特別に好きな作家で、民俗学者でもあったゾラ・ニール・ハーストン。彼女は「ふぞろいなハーモニーこそが、スピリチュアルを形作っている」と言う。それはひとつにはかっちりとした編曲によって、人びとが自由に歌に参加するスピリチュアル本来の姿が失われてしまうと考えたからじゃないかと思う。
今聞かせたのは、ハーストンといっしょにフィールドワークをしていたアラン・ロマックスという人が、ハーストンと行った場所(ジョージア州シーアイランド)を数十年後にもう一度訪ねてみたら、同じような音楽をやっていたので録音してみた・・・というものです。さっきのフィスク・ジュビリー・シンガーズと全然違うでしょう?低い声やら甲高い声やら声の質もバラバラだし。でも、それでいて、みんなで歌っている一体感がある。本来のスピリチュアルって、こういうもんだったと思う。
さて、スピリチュアルと同じく、奴隷制時代のアフリカ系アメリカ人に歌われていた歌にワークソング、つまり労働歌があります。これは働くリズムを合わせるために、主唱者の歌に他の人が答えるコール・アンド・レスポンスの形で歌われることが多かった。コール・アンド・レスポンスっていうのは、例えば・・・みんなはもう分からないかもしれないけど、『8時だョ!全員集合』っていう番組があってね。ドリフの。そこで、いかりや長介が出てきて言うわけ。「おいっすー!」。すると客席の子供たちが「おいっすー!」「声が小さい!おいっすー!」「おいっすー!」 まさにこれだね。ぼくなんかも、テレビの前で「おいっすー!」とレスポンスしていた。まあ、それとか、黒人教会の説教だと牧師が何か言った後に必ず「オーイェー」とか合いの手が入るね。キング師の演説なんかでもそう。もちろん、こういうのはアフリカ系だけじゃないんだけど、アフリカ系の音楽には顕著で、彼らがアフリカから受け継いだものだと言える。
それから、面白いのはケイクウォークっていうダンス。これ主人が奴隷たちに「お前らのなかでいちばんダンスの上手いやつにケーキをやろう」とダンスコンテストをやったことから名前がついた。もともとは奴隷たちが白人の気取ったダンスを面白がってパロディ化したところから生まれたんだけど、それを見た白人が「黒人は妙なダンスをしよる」と真似して大流行した。自分たちがパロディされているとは気づいていなかったのだから、皮肉な話。動画は1、2番目が黒人によるケイクウォーク、3番目がそれをまねた白人たちが海岸で大はしゃぎ・・・というもの。これもミンストレル・ショーの重要な出し物になっていきます。
そして、さっきから話に出ているそのミンストレル。正確にはブラックフェイス・ミンストレルといって白人が顔を黒く塗って、黒人をバカにした演技をするものです。1828年、北部の白人芸人トーマス・D・ライスが黒人馬丁のダンスをヒントに考え出した「ジム・クロウ踊り」が元祖だと言われています。「ジム・クロウ」が黒人差別の代名詞となったことからもわかるように、ミンストレルは明らかに差別的な意図を含んだ芸能です。でも、このミンストレルが19世紀のアメリカでは、今のロックやヒップホップぐらい影響力のある、芸能の主流だった。やがてダン・エメット率いるヴァージニア・ミンストレルズとか、E・P・クリスティのクリスティズ・ミンストレルズとか人気のミンストレル劇団が次々と生まれていきます。
と、ここでタイムアウト。今日はミンストレルの流れを汲む黒塗り芸人チェス・デイヴィスとエメット・ミラーのステージを見ながらお別れします。来週はもう少し、ミンストレルについて話をしてから、いよいよブルース。そしてジャズの誕生です。
TOHOシネマズ ららぽーと横浜で、松本人志監督の映画『さや侍』(2011)を見た。よかった。死を意識して生きていく覚悟のようなものを突きつけられた。去年までのぼくだったら、「いつまで逃げてるおつもりですか」「刀を持って戦わない侍など死んだも同然です」という言葉が痛くて、見ていられなかったかもしれない。今、この映画が見られてよかった。もっとも、潔く死ぬことだけが「覚悟」ではない、生き恥をさらすこともまた「覚悟」である・・・とも思うけど。
松ちゃんの映画ということで言えば、結婚して子供ができたことがこんなにストレートに反映されているとは思わなかった。能見勘十郎の遺言は、そのまんま松ちゃんから娘へのメッセージなんじゃないかと思える。それだけに、監督のなかですでに結論が出ていることを描いたというつまらなさはある。松ちゃんならこういう風に描くだろうという予想から、まったくはみ出さない。結末も衝撃的には違いないんだけど、まったく意外ではなかった。ただ、家族という身近な他者を得た松ちゃんは、これからもっと結論の出ないことを描きはじめるんじゃないかと思う。娘が「お父さんなんか、サイッテー!」とか言い出した時に。
あと、ほんとうはもっと無言のシーンが多い映画を作りたかったんじゃないか。観客がどこまでついてきてくれるか、探りながら作っている感じはあった。ほんとうは説明とかツッコミがなくても受け入れてもらえたら、それがいちばんだと思っているに違いない。それは映画の作り方として間違っていないと思う。どんどん、そぎ落として、馬鹿な観客を置き去りにしてほしい。観客は煙に巻かれることを楽しめばいいし、製作者側も観客の誤解・曲解・無理解を楽しめばいい。
何はともあれ、見られてよかった。主演の能見さんは素人とは思えない存在感(「働くおっさん劇場」とは違う意味で)。たえ役の熊田聖亜ちゃんもキュート。ぼくもたえちゃんに叱られたい。今ならM男として、正面から受け止められる(←結論はそれか!)。
多民族研究学会第16回全国大会@国士舘大学。まずは研究発表が二つ。日本女子大の馬場聡先生は、アフリカ系アメリカ人の女性作家グロリア・ネイラーの代表作『ママ・デイ』における亡霊を記憶や歴史を伝えていく存在として捉え、亡霊の声が多層的な語りのなかで共同体の語りとしての役割を果たしていることを示した。作品の背景にはガラ文化(ジョージア州~サウスカロライナ州海岸部のシー・アイランドに見られるアフリカ色の濃い文化)があり、そうした神秘主義的ローカリズムと合理主義的グローバリズムの間で揺れる人びとが、二つの要素を融解させるマジック・リアリズム的な手法を用いて描かれている。主人公オフィーリアは結局、そうした二項対立のどちらにも手が届く位置に身を置くことになる。
愛知県立大学・村山瑞穂先生の「S. I. ハヤカワと『シカゴ・ディフェンダー』―第二次世界大戦下の異人種間共闘」は、日系の言語学者S. I. ハヤカワが、第二次世界大戦中にアフリカ系アメリカ人向けの新聞に書いていたコラムを取りあげたもの。ハヤカワは強制収容所の問題を取りあげようとする日系人を「恥」と呼ぶなどの言動で、アジア系アメリカ人文学を研究する人たちからは「裏切り者」扱いされることも多い保守派の論客。そのハヤカワがアフリカ系の新聞にコラムを書いていたというのは意外であり、興味深いことでもある。ただし、同じくアフリカ系の新聞『ロサンゼルス・トリビューン』にコラムを書いていた日系人作家ヒサエ・ヤマモトと違い、ハヤカワは抑圧された民族同士の連帯を訴えながらも、どこか当事者意識に欠ける反動的な一面を見せているという。個人的には、ハヤカワよりもヒサエ・ヤマモトのほうに強く興味を惹かれた。
後半はハリウッド映画における異人種間結婚をテーマにしたシンポジアム。茨城大学の君塚淳一先生が先導役となって、大東文化大学の中垣恒太郎先生がアフリカ系、国士舘大学の土屋智子先生がアジア系(日本人)、磯原郷英高校の関根健雄先生がネイティヴ・アメリカン、明星大学の河内裕二先生がユダヤ系を担当して、「人種間結婚」を扱った映画を紹介・分析した。質問にもあったように、「人種」という概念自体が人為的なもの、根拠のないものであり(「人種」という虚構がいまだに力を持っていることも事実だが)、「人種間結婚」とは何かという定義は難しい。まして、アフリカ系とユダヤ系では「人種」が意味するものも違う。ユダヤ系は「白人」に分類されることも多く、「ユダヤ系」としてのアイデンティティはむしろ宗教的なものであるともいえる。ここでは広く「違うグループに属すると考えられているものの結婚(ゆえにタブー視されている)」と捉えて、比較対象できればよかったと思う。それにはもう少し時間がほしかった(シンポジアムには常についてまわる問題)。愛情、セックス、世間体などが絡み、差別や偏見がもっとも生々しく露呈する問題なので、興味深い内容ではあった。その生々しい現実を白日のもとにさらそうとするという点では、今のところ、スパイク・リーの『ジャングル・フィーバー』がいちばんなのかな。
朝、お粥をつくっていたら、台所のすみを大きなゴキブリが「見えてない見えてない」と抜き足差し足で通り過ぎて行った。しっかり見えてますけど?
ボイトレ。軟口蓋を上げる練習。
西加奈子『こうふく あかの』(小学館、2008)を読み終わった。
『こうふく みどりの』を読んで、女たちがふりまく血のニオイを嗅ぎとったぼくは、「女で血ということは、ふふーん、やっぱりあれでしょ」などとわかったつもりになり(いやらしい!)、血のように赤い姉妹編を読みはじめた。のっけから女が妊娠してしまうので、「やっぱりね」と思ったのもつかの間、物語の焦点は妻の妊娠に腰をぬかすチッポケな男のほうに移っていく。
『みどりの』が「なんだかわからんが、女ってすごい」という話だとすると、『あかの』はその女の子宮からよたよたと這い出した男たちの話だ。男がどんなにいきり立ったって、しょせん女の身体のなかで起きていることじゃないの、と言われているような。女は生命そのもの。男は戦い、自分を傷めつけないと自分の生命を感じられない。そう、閉じ込められているのは男の方。
でも、それでいいんだと思う。
明治学院非常勤第十回目。今回は南北戦争を背景にKKKを肯定的に描いたG・W・グリフィス監督の映画『國民の創生』(1915)を見て、南部白人にとって再建期とはどういう時代だったのか、彼らがどれほど鬱屈した感情を抱いていたかということを考えてみたい。その前に、先週の復習と続き。
奴隷解放宣言が出て、黒人奴隷は解放された。でも、元奴隷たちにとって、解放後の世界っていうのはバラ色のパラダイスじゃなかった。奴隷制のもとでは衣食住に困ることはない。主人にとって奴隷は財産だから、死んだり病気になったりしたら困るからだ。解放後はそうはいかない。自分で仕事を見つけて生きていかなければならない。自由であるってことは、飢える自由もあるってことだったんだ。
ある意味では、それが共和党を支持する北部資本家の思惑だったとも言える。奴隷制なんて効率の悪いことはやめて、いつでも好きなときに雇ったり首を斬ったりできるようにしましょうよ、というわけ。やがて、奴隷たちは元主人から土地や種や農機具を借りて、収穫の半分から3分の2を返すシェアクロッピングっていう制度に縛られることになる。そんななか、戦争に負けて鬱屈した南部白人のなかから、KKKのような白人至上主義団体が生まれる。
もちろん、悪いことばかりじゃなかった。リンカーンは暗殺されちゃったけど、解放民局が設置されて、公民権法や憲法の修正といった黒人の権利を認める法律が次々と成立した。アフリカ系の国会議員や知事も生まれた。いわいる「南部再建期」ってやつだ。ところが、奴隷制のない南部をつくろうとした「再建期」は、あっけなく終わってしまう。1877年、南部に駐留していた連邦軍が引きあげたからだ。南北戦争の勝者である連邦軍が駐留している限り、南部はそうそう勝手なことはできなかった。それがあっさり手を引いてしまった。なぜだろう。
ここにも汚い大人の事情がある。この前の年、大統領選挙があって、共和党はラザフォード・ヘイズ、民主党はサミュエル・ティルデンって候補を立てて闘った。結果はティルデンの勝利だったんだけど、共和党側は選挙に不正があったと主張して譲らず、もめにもめた。そこで、ごにょごにょ・・・なにやら裏取引があって、「共和党のヘイズを大統領にする代わりに、連邦軍は南部から撤退する」ということになった・・・といわれている。
こうして連邦軍による監視がなくなった南部は好き勝手なことをやりだした。まず、ジム・クロウ法って呼ばれる人種隔離法が南部各地で次々に制定される。これは公共施設における人種隔離や人種間結婚の禁止など、生活のありとあらゆる面で黒人を隔離し、公民権法や憲法修正条項で認められた彼らの権利を奪うものだった。とりわけ、投票税や資格テスト、父祖条項などあらゆる手段を使って黒人から選挙権・被選挙権が奪われたことは大きかった。プリントにのせた写真。これはもっと後のものだけど、人種隔離の現実を写しだしている。水飲み場の下に書いてあるのは「Colored」。アメリカで「カラード」っていうと、黒人のことだね。以前のアメリカ南部では水飲み場すら人種ごとに分けられていたんだ。
1896年には、プレッシー対ファガーソン判決っていうのが出た。8分の1黒人の血を引くホーマー・プレッシーっていう人が、わざと白人専用車に乗って逮捕される。そうやって、人種隔離の是非を裁判に持ちこもうとしたわけ。ところが、この裁判で最高裁は「分離すれども平等(separate but equal)」なら憲法に違反しないっていう判決を出してしまう。実際はね、「平等」なんてことはありえないよ。町の中心の使いやすいところによく整備された白人用の水飲み場があり、町はずれに壊れかけた黒人用がある。これが現実だ。でも、それを誰が証明する?この判決はこのあと、ずっと足かせとなって残ることになる。
1890年代にはリンチで殺される黒人の数がピークに達する。南部の白人は鬱屈した気持ちを「生意気な」黒人たちにぶつけた。それは彼らにとって、憂さ晴らしのエンターテイメントだったんだ。リンチで焼かれた黒人の死体が写真に撮られ、絵葉書にすらなっているという事実が、そのことを物語っている。なかには「昨日のバーベキューの様子です」と書き添えて、母親にリンチの絵葉書を送った若者もいたという。
さて、今日はこうした南北戦争後の状況を、南部の白人たちがどうとらえていたのかを考えるために、グリフィスの『國民の創生』という映画を見たいと思う(時間の関係で後半だけ)。この映画は映画史に残る傑作であると同時に、KKKが再建されるきっかけともなった、たいへん人種差別的な内容を含む問題作でもある。
この映画の「すごさ」の部分を説明するために、映画に詳しい人にはちゃんちゃらおかしいかもしれないけど、初期の映画の歴史についてちょっと話しておきます。映画をこういうふうに一つのところにみんなで集まって見るってことを初めてやったのはフランスのリュミエール兄弟っていう人たち。まあ、発明王エジソンも映画のしくみを発明していたんだけど、みんなで見るような形では考えてなかった。1895年、そのリュミエール兄弟がパリで流したフィルムは、日常の風景をそのまま映したものだった。有名なのは、駅に入ってくる列車の映像とかね。みんな「うわーひかれるぅ!」とかいって楽しんでた(笑)。
でも、そのうち、「あ!これは物語を伝えるのに使える!」って思う人が出てくるね。いわいる劇映画。でも、最初のうちはどうしたらいいのかわからなくて、舞台でやっている演劇をそのまま映すだけ。カメラも一ヶ所に固定したまま。それがある日、「あ、カメラ動かせばいいんじゃん」って気づく。アップにしたり、アングルを変えたり。あと、クロスカッティングっていって、複数の場面を素早く交互に描くことで緊迫感を出したり。つまり、ぼくが急に発狂して学生を襲ったとする。すごい形相でつかみかかるぼくの顔、「何をするんですか」という学生の顔、ますますいきり立つぼくの顔、ぎゃ~と怯える学生の顔・・・ってこういう風に撮ったらドキドキするでしょ。まあ、こんな手法を使って、例えば『大列車強盗』なんて傑作がつくられる。これなんかは、最後に強盗が客席のほうを向いて、バーンとピストルを撃ったりして、すごく面白い。
こうやって発展してきた映画の手法を駆使してつくられた、2時間40分にも及ぶ長編スペクタクルが、これから見る『國民の創生』なんです。監督のグリフィスはこの映画と翌年の『イントレランス』で、サイレント映画の可能性を限界まで高めたと言われています。それと同時にこの映画が、KKKを美化し黒人や混血を醜く描いた人種差別的な内容であることも忘れることはできません。ちなみに、アメリカ映画史のターニングポイントとなった作品には、必ずと言っていいほど黒人が絡んでいる。最初のトーキー『ジャズ・シンガー』(1929)は黒塗りの芸人アル・ジョルソンが主役だったし、初のカラー長編『風と共に去りぬ』(1939)は南北戦争がテーマだった。また、『質屋』(1964)という映画で、それまでの厳しい基準(ヘイズ・コード)を破って女性のヌードが登場したとき、裸になったのは黒人女性だった。
登場人物と前半のストーリーをちょっとだけ説明しておきます。物語はふたつの白人家族を中心にすすんでいきます。ひとつは北部ペンシルヴェニアのストーンマン家。もうひとつは南部サウスカロライナのキャメロン家。ストーンマン家の息子たちフィルとタッドが、学生時代の友人キャメロン家の長男ベンを訪ねる。そこで、フィルはベンの妹マーガレットと恋に落ちます。一方、ベンはフィルのペンダントのなかの写真を見て、会ったこともないフィルの妹エルジーに恋をします。おお、これぞ、わたしの探し求めていた人・・・とか言ってね。きもいね(笑)。
その後、南北戦争が起こり、タッドとベンの二人の弟が戦死します。ベンは負傷して捕虜となり、そこで偶然にも看護をしていたエルジーに出会います。一度もお会いしたことはないですが、ずっとお慕いしていました・・・ますます、きもい(笑)。で、ストーンマン家のお父さん、オースティンが北部からやってきて、町を支配するという野望を抱く混血のサイラス・リンチと手を結び、南部の政治に介入する(←南部の白人から見た見方ね)。リンチは密かに、エルジーを自分のものにしようと企んでいる。もうひとり、キャメロン家の元奴隷ガスはキャメロン家のもう一人の娘フローラに思いを寄せいている。このフローラっていうのは「こんなやつおらんやろ」ってくらい天真爛漫に描かれている。うふふふふふっ~(両手を広げてくるくる回る)って、アルプスの少女ハイジみたい。これから見るところで、フローラはガスに言い寄られて逃げる途中、崖から落ちて死んでしまいます。
さて、それでは見てみましょう。
今日はフローラが崖から落ちたところまで。続きは来週。
西加奈子『こうふく みどりの』(小学館、2008)を読み終わった。
UAの緑色のを聞きながら、西加奈子の緑色のを読む。オリジナル・サウンドトラックかと思うほど、しっくりきた。二人とも大阪の女(西さんはテヘラン出身だけど)。見たところ、ちょっと痩せすぎの。
おばあちゃん、お母さん、いとこの藍ちゃんと娘の桃ちゃん、雌猫2匹に雌犬・・・という女系家族と暮らす女子中学生・緑の日常に、時間的にも空間的にも遠く離れた物語が複数、挿入される。物語の関係が明らかになるにつれ、残酷な事実が浮びあがってくるのだが、不思議と暗い気持ちにはならない。むしろ、そういう残酷さ ― 死や、エゴや、嫉妬、欲望 ― を通じて人間がつながっていることに、救われた気持ちになる。
西加奈子とUAの共通点、もうひとつ。二人とも血のニオイがする。女性で「血」というと、どうしてもそういうことになってしまうのだが、たぶん、そういうことなのだろう(←?)。そして、それは彼女たちのなかにある残酷さともつながっているし、生命という「こうふく」ともつながっている(たぶん)。
と、ここで、この作品の姉妹編『こうふく あかの』にすすめそうだ。はたして・・・
三軒茶屋Heaven's Doorで桔梗のライブを見た。理由あってベースがヘルプだったけど、入念なヤケクソさとでもいうべき腰の据わった爆発力があって、いつになくぐっときた。動画はハード&メロウな名曲「耳鳴り」。この曲のギターソロとか、いかにもらしくて好きだなぁ。切なすぎて、空を飛びそうだ。
ロバート・ジョンソンの生誕百年を記念して発売された新しい完全盤『コンプリート・レコーディングス~センテニアル・コレクション』がすごい。これまでの『コンプリート・レコ-ディングス』には入っていなかった「トラヴェリング・リヴァーサイド・ブルース」の別テイクが入っているのもさることながら、リマスターで音が驚くほどクリアになった。歴史の彼方の人が目の前で歌いだした感じ。曲順もセッションごとに整理したうえ、別テイクは最後にまとめてある(これで同じ曲を二回聞かなくてよくなった)。
お酒を飲んでいたころのぼくは、ぼやっとした頭でろばじょんの声に溶け込んでいく自分を楽しんでいたものだが(「ろばじょん」)、ここにあるのはそんな甘えを許さない屹立した音楽だ。「おっちゃん、しっかりせえよ」と肩をたたく。十字路で悪魔とごにょごにょ・・・とかいった話はあまり関係ない。すごく人間臭い。演奏後、「じゃあな!」と行きかけてから戻ってきて、「ところで、小銭持ってない?」と耳元でささやくような、油断できない感じ。
ブルースだ。
ひらげも執筆に参加させていただいた『オルタナティヴ・ヴォイスを聴く ―エスニシティとジェンダーで読む現代環境文学103選』(エコクリティシズム研究会・企画、伊藤詔子・監修、音羽書房・鶴見書店、2011)が出版されました。ひらげはナイジェリアのケン・サロ=ウィワと、ジンバブウェのシマー・チノジカという二人の作家について書いています。興味のある方は、お買い求めください。
ひらげの書いた記事がのった6月30日の東京新聞/中日新聞夕刊を送っていただいた。今回はケン・サロ=ウィワについて書いてみた。サロ=ウィワはナイジェリア東部の少数民族オゴニ人の作家。ナイジェリア政府と国際石油資本によるオゴニランドからの石油資源略奪と環境汚染に抗議し、1995年、当時のアバチャ政権によって処刑された。「自治を認められた諸民族からなる民主的なナイジェリア連邦」という彼の理想は、少数民族の抑圧という形で裏切られたのである。311以降の日本の状況を意識して、こんな風に記事をしめくくった。
私はアフリカ研究に携わる身でありながら、こうしたナイジェリアの歴史をどこか遠い世界で起こった出来事のように感じていた。しかし、日本で地元に電力を供給していたわけではない発電所が事故を起こし、水や空気や大地が汚染され続けている今、オゴニランドの環境汚染が他人事とは思えない。「ひとつになろう」のかけ声のもと、日本はどこに向かうのだろうか。
ゴーヤがネットにからみつき始めた!
明治学院非常勤第九回目。今回はビリー・ホリデイの歌う「奇妙な果実」を聞きながら、授業をはじめた。リンチにかけられ、木に吊るされた黒人の死体を、腐っていく果実に譬えて歌う。ビリー・ホリデイの自伝に、はじめてこの歌を人前で歌ったときのことが書かれている。ビリーが歌うのは一杯ひっかけてお姉ちゃんのお尻触ることしか考えていないような(笑)男たちが集まる酒場。いつもは「あなたがいないと生きていけないの」みたいな歌を歌っている彼女が、こんなシリアスな歌を歌ったら、客はドン引きするんじゃないかって不安もあった。でも、いざ歌ってみると、聴衆は静かに歌に聞き入り、割れんばかりの拍手でビリーを称えた。それだけ、リンチの残酷さを身にしみて感じていたってことだね。この歌が作られたのは1930年代。奴隷制はとっくに終わっている。アフリカ系アメリカ人は奴隷制から解放されて自由になったはずなのに、どうしてこんなことがくり返されたんだろう・・・今日はそういう話をしたいと思う。
その前に、先週の復習。先週は南北戦争がはじまるところまでだったね。アンケートを見ると、歴史的な事実について思い違いをしている人も多かったみたいだけど・・・少なくとも、次の点は押さえてください。アメリカが領土を拡大していくにつれ、新しく獲得した領土を奴隷州にするか自由州にするかということが大問題になったということ。奴隷州が増えれば南部の勢力が増し、自由州が増えれば北部が勢力を伸ばす。勢力の均衡を保つため、新しい領土が州に昇格するたび、南部と北部は妥協を重ねます。その間で翻弄されてきたのが、奴隷を含むアフリカ系アメリカ人だったと言っていい。こうした数合わせはついに限界に達し、自由州か奴隷州かの選択が住民に委ねられたカンザス・ネブラスカは流血の惨事になります。そこから頭角を現したジョン・ブラウンや、ウィリアム・ロイド・ギャリソンといった白人アボリッショニスト、フレデリック・ダグラスをはじめとするアフリカ系アメリカ人の活動家によって、反奴隷制の運動がすすめられていくなか、南北戦争は起こった。
さて、この南北戦争。一般には奴隷制をなくすための戦争と思われているけど、果たしてそれは正しいだろうか。南北戦争の原因が奴隷制にあったことは間違いない。また、南北戦争の結果として、奴隷解放宣言が出されて、奴隷制に終止符が打たれたのも事実だ。でも、南北戦争の目的は本当に奴隷制をなくすことにあったのだろうか。リンカーンは南北戦争中の手紙にこう書いている。
この戦争における私の至上の目的は、連邦を救うことにあります。奴隷制度を救うことにも、滅ぼすことにもありません。もし奴隷はひとりも自由にせずに連邦を救うことができるものならば、私はそうするでしょう。そしてもしすべての奴隷を自由にすることによって連邦が救えるのならば、私はそうするでしょう。またもし一部の奴隷を自由にし、他はそのままにしておくことによって連邦が救えるものならば、そうもするでしょう。
リンカーンの関心は国の分裂を防ぐことにあった。同じころ、日本で坂本龍馬がそうだったようにね。去年の大河ドラマとか、『JIN -仁-』とかで、薩摩だ長州だ、統幕だ幕臣だと争っている国内をまとめようと奔走している龍馬を見た人もいるでしょう。茶碗をひっくり返して、「そんなものはこん茶碗のなかの争いぜよ!外から手をかければこうしてひっくり返されてしまうぜよ!」とかね。国が分裂しているすきに、外国から攻められてしまうかもしれない。それはアメリカもいっしょ。だから、リンカーンの判断はある意味間違っていない。でも、彼が奴隷制をなくすために頑張っていたかというと、これはアヤシイ。奴隷解放宣言にしたって、まず予備宣言っていうのを出すのね。「連邦に戻らないと奴隷制廃止しちゃうぞ」っていう。だから、これも南部に対する脅しっていう側面が強い。
ともあれ、戦争は連邦側の勝利に終わり、奴隷解放宣言が出されて、奴隷は自由の身になった。リンカーンは南北戦争終結直後に暗殺されちゃうけど、連邦軍が南部に駐留して、新しく奴隷制のない南部をつくっていこうとする「南部再建期」がはじまる。解放された元奴隷たちの問題を扱う「解放民局」が設立され、元奴隷たちにさまざまな権利を認める憲法修正条項や公民権法が成立。選挙権・被選挙権を得たアフリカ系アメリカ人のなかから、初の国会議員や知事が生まれる。解放された奴隷たちは喜んだ。「いい待遇をしてやり、十分食べさせてやり、欲しがっているものは何なりと与えてやったとしても、それだけじゃだめなんで、―檻を開けてやってはじめて―そいつは、幸せなんですね」(ジュリアス・レスター『奴隷とは』175-6)っていう元奴隷の言葉がそれをよく表している。でも、解放後の世界が天国だったかというと、残念ながらそうじゃなかった。
自由になるということは、飢える自由もあるということだ。奴隷制のもとでは、朝から晩までこき使われるけど、十分じゃないにせよ衣食住は保障される。でも、自由の身になったらそうはいかない。自分で仕事を探して食べていかなければならない。共和党は奴隷制拡大反対の党であると同時に、自由経済を支持する北部資本家の党でもあった。奴隷制なんて効率の悪い制度はやめて、好きなときに雇って好きなときに首を切れる自由契約でいこうよ、っていうわけ。元奴隷たちはそういう弱肉強食の世界にいきなり放り込まれた。最初は解放民ひとりあたり40エーカーの土地とラバを与えるって噂もあったし、その実現のために奔走したサディアス・スティーヴンスのような人もいたんだけど、結局空手形に終わった。そんななかで発展したのが、シェアークロッピングっていう、一種の小作人制度だ。
「これでお前も自由の身だな」
「ええ、だんな、奴隷の身分はもうこりごりです」
「けど、これからどうする?働こうったって、仕事もないだろ」
「ええ、だんな、そこなんで・・・」
「どうだ、お前さえよければ、おれの土地を貸してやってもいいぞ」
「ほんとですか、だんな!」
「そのかわり、収穫の3分の2は俺によこすんだぞ」
「ええっ、そ、それはあんまりきびし・・・」
「俺の土地だからな、あたりまえだろう」
「そりゃあ、そうですが・・・」
「そうだ、おまえ、種も鋤鍬もないだろう。貸してやろう」
「あ、ありがとうございます、だんな」
「そのかわり、秋には作物で返してもらうぞ」
「そんな・・・」
こうして、多くの解放民は奴隷時代と同じように元主人の土地に縛りつけられたままだった。わずかに得た現金収入も元主人が経営する商店(多くの場合、法外な代金を要求した)での買い物に消えていった。
それに加えて、再建期の南部は没落した南部白人の鬱屈した感情が渦巻いていた。こうしたなかから、クー・クラックス・クラン(KKK)のような白人至上主義団体が登場する。KKKについては、アンケートで「今でもあるんですか?」って質問があったので、詳しく説明しよう。1866年に結成されたKKKは最初、退役した南軍兵士が暇つぶしのために新入りをいじめて遊ぶ気晴らしに過ぎなかったとも言われているが、やがて「生意気な」黒人やユダヤ人を脅すことを主眼とするようになった。さらに、選挙で北部出身者やアフリカ系アメリカ人の排除に利用されるようになるに従って、人種差別的な政治団体の様式を整えていく。この時期のKKKを美化して描いたのが、D・W・グリフィス監督による映画史に残る名作『國民の創生』(1915)である。
初期のKKKは暴力事件の頻発にたまりかねた連邦政府によって解散に追い込まれるが、1915年、『國民の創生』に影響を受けたウィリアム・ジョセフ・シモンズがKKKを再建する。この第2期KKKは、20年代半ばには会員数400万人を数えるまでになったが、20年代後半には指導者のひとりデヴィッド・カーチス・スティーヴンソンによる拉致・強姦・殺人事件などによって会員数を4万人まで減らしている。当時はハーレム・ルネサンス前夜、アフリカ系アメリカ人が自らの存在を主張しはじめた時期だった(同時にレオ・フランク事件によって、反ユダヤ人感情が広まった時期でもあった)。南部再建期にしても、1920年代にしても、アフリカ系アメリカ人が権利を求めて動きだすと、KKKが復活する。公民権運動が盛んだった50~60年代にも、運動家の殺害や黒人教会の爆破などKKKによるテロ事件が頻発している。KKKを名乗る組織は現在も複数存在しており、例えば「クー・クラックス・クランの騎士」を率いるデヴィッド・デュークは、女性やカトリックを受け入れることでソフトなイメージを打ち出しながら、人種差別的な主張を繰り返している。
さて、話を戻すと、こんな南部から逃げ出そうとするアフリカ系アメリカ人もいた・・・まずは南部の都市、それから北部へ・・・あっ!(時計を見る)時間だ!
今日はここでタイムアウト。
エアコンつけなくても全然平気。ぼくにとって温暖化とは、単に「太った」ということだったのかもしれない。
下北沢threeでゆっくりりアコーステイック・オーケストラのライブを見た。よいですなぁ。照明なしのサブステージというのも、アコーステイックな音にあっていて悪くなかった。それにしても、下北沢は若者の町ですなぁ。
ゴーヤのカーテンはじめてみた。ちゃんと育つか、気が気じゃない。
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