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2011年5月30日(月)

明治学院非常勤第四回目。いつものように、アンケートの内容を踏まえた問いかけからはじめた。『ルーツ』に登場する奴隷船の船長は決して悪の組織に属しているような人物ではない。むしろ、経済的に成功し、世間の尊敬を集めていた。彼は奴隷制が人道に反する罪であることをわかっていたし、キリスト教徒として罪深い事業に関わったことを悔いてもいた。とはいえ、アンケートに書いてあったように、船長が「生活のため」に奴隷貿易に関わったのかというと、それもちょっと違う気がする。奴隷貿易に投資するだけの資金があれば、一般の事業だけで十分生活していけたはずだからである。

「生活のため」に奴隷貿易に関わったのは、むしろ、奴隷たちを残酷に扱うスレーターのような船員たちだ。船員たちは生きていくために、奴隷船に乗りこみ、奴隷に鞭打つことを選んだ。貧しく虐げられたものたちが、さらに下のものを虐げるというという構図は、歴史上何度もくり返されてきた。それでは、罪を悔いる船長と生きるために罪を厭わないスレーターたち、どちらが正しいのだろうか。『鏡の国のアリス』の大工とセイウチの話にあるように、涙を流してカキを食べるのが正しいのだろうか?それは偽善と呼ぶべきではないのか?

船長のような人たちを奴隷貿易から離れられなくしていたのは、利潤の大きいこの事業をやらないと競争に負けてしまうのではないかという恐怖だろう。奴隷制が悪いことであっても、それをやらなかったら、企業、あるいは国家、植民地の経営が立ち行かなくなるという恐怖。アンケートに「派遣を使わざるをえない企業があるのといっしょですね」と書いている人がいたけど、鋭い。本当に経営が行きづまるかどうかは別にして、奴隷なり派遣労働なりに依存している社会で、自分たちだけそこから脱却するのは大変なことだ。みんなが空調を使わなくなれば、夏はもう少し涼しくなるかもしれないが、一人で空調をとめれば熱中症で死ぬかもしれない。例えるなら、そういうことになる。

そんな話のあと、今日は奴隷制の歴史を年代を追って説明した。姿かたちや文化・習慣が違うものに対する偏見は人間が持つ普遍的な感情で、決してなくならないという人がいる。それはそうかもしれないが、そこから人種差別 ― ある集団が別の集団を一方的に蔑み、支配する ― に至るまでには、大きな隔たりがある。15世紀、エンリケ航海王子にアフリカ人が献上されたときには、ヨーロッパ人がアフリカ人を一方的に蔑み、ものとして扱うと言うような仕組みはまだ出来上がっていない。奴隷の数も後世と比べたら、圧倒的に少なかった。奴隷貿易が事業として確立するためには、圧倒的に儲かる仕組みが必要だった。そうした仕組みを用意したのが、新大陸アメリカの「発見」だ。

広大な土地を開墾するために、北米植民地は莫大な労働力を必要とした。ネイティヴ・アメリカンも使われたが、地元の人間である彼らは自分たちのコミュニティに身を隠すことができる。また、ヨーロッパから持ち込まれた伝染病によって先住民がほとんど全滅してしまったところもあった。次に考えられたのは、本国で食いつめたものたちを連れてきて、期限付きでこき使う「年期奉公」だった。しかし、年期奉公人は期限がくれば解放されて自由になってしまう。また、逃亡しても白人なので、一般の人と区別がつかない。アフリカ人の奴隷は死ぬまでこき使うことができるうえ、逃げる場所もなく、逃げても肌の色ですぐわかった。

アメリカにはじめてアフリカ人の奴隷が運ばれたのは1619年、メイフラワー号がアメリカに到達する1年前のことである。アフリカ系アメリカ人の歴史はアメリカの歴史と同時にはじまっているのだ。同じころジェームズタウンで第一回のヴァージニア植民地議会が開かれている。そして、1640年代~60年代にかけて、アメリカ各地の議会で奴隷制が合法化されていった。つまり、奴隷制と民主主義は同時進行だっただけではなく、民主主義によって奴隷制が確立されていったのだ。このころ、さまざまな公的文書で、「奴隷制がなければ植民地の経営はやっていけない」と確認されている。そして、1760年には北米の奴隷人口は、35万人にも達するのである。

Boston_massacre2_2

こんな時代にあっても、アフリカ系アメリカ人は決して歴史に翻弄される受動的な存在ではなかった。ボストン虐殺事件で反乱者の先頭に立ったのは、クリスパス・アタックスというアフリカ系アメリカ人だった(↑)。独立戦争でもアフリカ系アメリカ人は目覚しい活躍を見せた。『アンクル・トムの小屋』を書いたハリエット・ビーチャー・ストウは自分たちを奴隷にした国に対する黒人たちの献身を褒め称えたが、アンクル・トムという白人に忠実な黒人キャラクターを生み出した彼女らしい意見である。アフリカ系アメリカ人は自分たちがアメリカ人であり、平等の権利を与えられるべき存在であることを証明するために戦った。こうしたことはこのあと、アメリカが戦争をするたびにくり返されていく。こうした歴史を踏まえて、マルコムXは「あなたがたは白人のためには血を流すのに自分たちのためには流さないのか」と言ったのであり、マーチン・ルーサー・キングは命を賭してベトナム戦争反対を表明したのである。

のちの第3代大統領トーマス・ジェファーソン独立宣言に奴隷制を奨励したイギリス国王を非難する条文を入れようとしたが、大農園主たちの反対により果たせなかった。そのジェファーソンもまた大農場主であり、80人とも100人とも言われる奴隷を使っていたのだが。独立後、合衆国憲法の制定会議にジェファーソンらリベラル派は参加できなかったため、憲法によって奴隷制の存続が保証された。各州の人口に比例して議席が与えられる下院では、黒人奴隷は頭数の5分の3を人口として計算することになった。議会における北部と南部のバランスをとるためである。もちろん、5分の3人分の存在に選挙権・被選挙権などない。

とはいえ、多作による土地の荒廃などでタバコ栽培が下火になったこともあり、そのままいけば、奴隷制は必要なくなっていたかもしれない。奴隷制の存続を決定的なものにしたのは、イーライ・ホイットニーによる綿繰り機の発明である。これによって、綿の精製能力は格段にあがった。しかし、綿の収穫は相変わらず、大量の労働力による人海戦術に頼るしかなかった。つまり、綿繰り機を利用して綿を生産しようとすればするほど、より多くの奴隷労働が必要とされた。

一方で、イギリスでは奴隷貿易に反対する運動が支持を集めはじめる。アメリカでも独立前からトーマス・ペインベンジャミン・フランクリンといった人たちが奴隷貿易、奴隷制に対する反対を表明していた。1807年にはイギリスで、翌年にはアメリカで奴隷貿易が禁止される。しかし、廃止されたのはあくまでも奴隷貿易であり、奴隷制ではない。また、密貿易は引き続き行われていた。

最後に、アメリカに到着した奴隷たちがどのようにして売られていったか、競売台の様子をジュリアス・レスター奴隷とは』から引用して、説明した。離れ離れにされる家族。引き離されるくらいならと、子供を殺してしまった母親の話。そのまま、『ルーツ』の続きを見はじめる。競売にかけられるクンタ・キンテ。農場での生活がはじまったところでタイム・アウト。来週は『ルーツ』の続きから。涙なくしては見られない場面なので、ハンカチを用意してくるように。

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