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2011年4月9日(土)

Michael013_2西寺郷太マイケル・ジャクソン』(講談社現代文庫、2010)を読み終わった。ノーナ・リーヴスのシンガーであり、自他共に認めるMJマニアである西寺郷太氏によるマイケル・ジャクソン概説書。ジャクソン5時代から、『スリラー』で一躍スーパースターの座に登りつめ、少年に対する性的虐待疑惑をへて、13年ぶりのライブ直前に悲劇的な死を遂げるまで、マイケルの音楽と人柄を愛するファンの視点から、そつなくまとめられている。

正直言うと、ぼくはマイケルが得意でなかった。エンターテイメントの世界に生きるその姿が、いかにもつくりごとっぽくて好きになれなかったのだ。著者のいうグランジ世代ではないけれど、マイケルに対する視点はロックの生々しさに価値を見出した世代と共有していた。今ではマイケルのレコーディングやステージにかけるプロフェッショナリズムに敬意を持っている。

とはいえ、マイケルの音楽が「つくりごと」の世界であるという気持ちは変わらない。むしろ、つくりごとだからこそ素晴らしい、というか。この本を読みながら、ソロ作を順番に聞いてみたのだが(とくに『オフ・ザ・ウォール』以降)、マイケルの音楽は年を経るごとに匿名性を増しているように感じた。歌詞にメッセージ性はある。だが、特定のビートの中心にあるのがマイケルの声でなければならないという固有性はあまり感じられない。だから悪いといっているのではない。ダンス・ミュージックの行きつくところ、あるいは大仕掛けのステージの行きつくところは、そうした匿名性にあるのかもしれないということだ。マイケル固有の何かが見えないことこそがマイケルの個性だったのではないか、などとパラドクシカルなことも言ってみたくなる。大掛かりなステージそのものがマイケルだったのであり、生身の人間としてのマイケルはそのなかに埋没する。その意味で、マイケルは自分の音楽に誠実だった。

ぼくが『THIS IS IT』に衝撃を受けたのは、ステージの「マイケル」とオフステージのマイケルのギャップが顕わになっていたからだ。ステージの一部と化したマイケルと、生身の人間としてのマイケルの対比がはっきりしたのは、リハーサルを収めたメイキング・フィルムだからこそであり、もし予定通りライブが行われていたら、ぼくのようなマイケル・ブラインドな人間の目を開かせていたかどうかはわからない(そのあたりは著者と意見が違うところだ)。

もうひとつ、重要なテーマとして、マイケルはなぜあんなにも叩かれたのか、という問題がある。スーパースターにバッシングはつきものなのかもしれないが、マイケルに対するそれはあまりにも執拗で、グロテスクだった。それはブルース・スプリングスティーンら80年代のスターが人気を失っていくのと軌を一にしているが、それだけでは説明しきれない。愛すべき子役スターだった青年が、人間離れした、気色の悪い化け物のように扱われるようになったのはなぜなのか。人びとが少年虐待というスキャンダルをあんなにも簡単に信じてしまったのはなぜか。そこには人種の壁を越えようとする人間に対する生理的な拒否反応(それは公民権運動的な賞賛と裏腹なのだが)があるのではないかというのがぼくの考えだ。それを明らかにするのは、著者ではなくてぼくの仕事だろうと思う。

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