2009年11月8日(日)
白戸圭一『ルポ 資源大陸アフリカ 暴力が結ぶ貧困と繁栄』(東洋経済新報社、2009)を読み終わった。2004から2008年まで毎日新聞のヨハネスブルグ特派員をつとめた著者が、犯罪や内戦で混乱するアフリカ諸国の現実を犯罪組織や武装勢力への潜入取材を交え明らかにする。アパルトヘイト廃止後、人種差別のない「虹の国」として出発しながら、世界最悪の犯罪大国になってしまった南アフリカ。石油に群がる外国企業と政府による少数民族の抑圧から犯罪の巣窟と化したナイジェリア。やはり、資源をめぐる思惑から出口のない紛争を続けているコンゴやスーダン。対テロ戦争のなか、世界の「脅威」となった無政府国家ソマリア。こうした国々の現状から見えてくるのは、貧困と繁栄―圧倒的な格差であり、富めるものと貧しいものの接点が暴力に集約してしまう厳しい現実である。暴力が吹き荒れているのは、必ずしも貧しさに喘いでいる最貧国ではない。むしろ、豊富な資源などをめぐって争いが起こり、貧富の差が広がっている国なのだ。いわいる「先進諸国」に暮らす我々も、石油や希少金属などを通じて、こうしたアフリカの暴力に資金を提供している。そして、アフリカに渦巻く暴力は、ときにソマリアの海賊などの形で、日本や欧米に逆流する。
一方で、作者の言葉にもあるように(317)、こうした「暗部」を描きだすことは、アフリカのステレオタイプを助長するものとして否定的に捉えられることも多い。かくいうぼくも、アフリカ文化の肯定的な面を紹介したいという立場なのだが、ここで描かれているような状況が現実に存在する以上、無視することもできない。どちらにしても、ほとんどの日本人がアフリカとそこで暮らす人びとをイメージできない、あるいはイメージしようと思ったことすらないというのが現実だろう(当たり前だ、そんな地球の反対側のことを考えていられるか・・・というのも、もっともではある)。その結果、貧困や暴力について知ってはいても、遠く離れた「遅れた」地域の特殊な状況として、括弧にくくってしまう(その際に、便利な言葉として持ち出されるのが「部族紛争」である)。実際は本書が明らかにしているように、日本に暮らすわれわれもアフリカの状況と無関係ではない。とはいえ、通り一遍の報道では逆に、「遅れた」地域という偏見を煽ることになりかねない。著者は潜入取材などを通して、現実に何が起きているのか見極めながら、アフリカに生きる人びとを「我々と同じく喜び、悲しみ、悩み、怒りながら生きている」存在として描きだす。歴史的背景についても丁寧に説明されていることもあって、読者はアフリカの人びとも日本や欧米と変わらない―苦しいものは苦しいし、悲しいものは悲しい、うれしいものはうれしいといった同じ感情を持った人間であると理解する。こうした「人間」のイメージがあってはじめて、読者は厳しい状況を自分のものとして受けとめることができる。
アフリカには「人間」を受けとめる素晴らしい文化がある。にもかかわらず、人間性を否定する圧倒的な現実があることもまた事実である。ぼくが毎年行っているジンバブウェは、紛争がないだけマシだとも言えるが、やはり非人間的な出来事が日常的に起こっている。例えば、国民皆保険制度がないアフリカ諸国の公立病院でしばしば見られる次のような応対は、ジンバブウェの友人レジナルドくんがⅠ型糖尿病にかかったときの体験に酷似している。
「違ったのは、昨日は無人だった隣のベッドに、見るからに貧しそうな初老の白人女性が手足を紐で縛られ、ベッドに固定された状態で仰向けに寝かされていることだった。糞尿はベッドの上に垂れ流しでシーツを茶色く染め、病室には異臭が漂っているが、誰かが片付けに来そうな様子もない。女性の視点は定まらず、声にならない呻き声を発しながら天井を見ている。遺体の隣でベッドに縛り付けられた患者と、糞尿を垂れ流す患者の横に半日以上放置されている異体。そこに人間の尊厳があるようには思えなかった」(312)
人間の尊厳が無視される現実を自分たちには関係のないものとして受け流すのか、当事者として、同じ人間として受けとめるのか、本書で投げかけられているのはそうした問いである。ぼく自身、重く受けとめなければならない。
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