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2009年11月19日(木)

2009_11_19gyokusentei今日のラーメン:「ネギワンタンメン(850円)」@横浜『玉泉亭』横浜ポルタ店
細切りにしたねぎとチャーシューを辛いたれで絡め、醤油ラーメンにのせたものを、横浜近辺では「ねぎそば」という。今日頼んだのはその「ねぎそば」スタイルのラーメンにワンタンを加えたもの。ベースはごくごく普通の醤油ラーメンだが、味はしっかりしている。ねぎとチャーシューをまとめるタレが美味い。縮れた細麺はやや柔らかめだが、この手のラーメンにはあっている感じがするから不思議・・・★★★+

Img478三井徹『マイケル・ジャクソン現象』(新潮文庫、1985)を読み終わった。全盛期のマイケル・ジャクソンブラックフェイス・ミンストレルをはじめとする黒人ステレオタイプの流れに位置づけ、巨大化する音楽産業との関連で論じた力作だが、マイケルを白人に安心感を与える優等生的黒人として描いたその内容は、今となってみると危うい点が多い。マイケルの音楽がナット・キング・コールに通じる「営利的に口当たりのいい、快く耳に入ってくる」(53)面を持っていたのは確かである。だからこそ、彼の音楽は人種を超えた幅広いリスナーをひきつける事ができたのだろう。また、性的なイメージの薄いマイケルには危険な臭いが少ないということもしばしば指摘されるところである。第8章で扱われている巨大化する音楽産業(その中枢を握るのは白人企業家である)のなかで、より多くの利益をあげようとすれば、多数派である白人の好みに合わせなければならないこともある程度までは真実だろう。しかし、逆説的に聞こえるかもしれないが、白人社会の基準を満たす所作を身につけているということこそが、マイケルをして人種差別的な黒人観を揺るがしかねない危険な存在にしていたのだ。

アフリカ系アメリカ人のアイデンティティの問題を、「白人におもねるのか、黒人らしく生きるのか」といった二項対立で考えるのは誤りである。アフリカ系アメリカ人は「(白人と同じように)行儀良く振舞え」「(黒人らしく)粗野に振舞え」という相反する要求によって二重に拘束されてきたからである。黒人は白人社会の基準に見合う「優等生」として振舞うことを求められるだけではない。白人の考える黒人の「悪い特質」こそが、彼らの「劣等性」を示すために求められる場合もあるのだ。著者はマイケルやナット・キング・コール、ハリー・ベラフォンテジョニー・マチスといった優等生的(と著者が考えている)黒人をブラックフェイス・ミンストレルにおけるジップ・クーン(しゃれ者)の系統として捉えるのだが(94)、ジム・クロウ(まぬけ者)、ジップ・クーンといったミンストレル的類型は白人社会の基準にかなう「優等生」ではなかった。それらはむしろ黒人の「劣等性」を示すイコンだったからこそ、白人に愛されたのである。

マイケルには性的に貪欲であるとか、粗野で下品であるとかいった、人種差別的な白人が求める「劣等性」を示す要素が欠けている。したがって、そうした人びとの目にマイケルは白人だけに許された領域への越境者と映るだろう。優等生的な黒人パフォーマーは人種差別的白人が求める黒人の「劣等性」を差し出すことができない。したがって、彼らは「中流白人青少年の反逆心を演じる白人ロックスターを何よりも良しとするロック評論家とロック・ファンの軽蔑」や、「白人にかなり妥協的な黒人音楽すべてを蔑む黒人たちと黒人評論家の非難」(70)だけではなく、黒人には身の程をわきまえさせなければならないと考える人種差別主義者からの憎悪にも耐えなければならない。マイケルが人種、性、大人と子供の境界を越える「変質者」のように扱われたのはそのためだ。

以上のようなことは、デュボイス『黒人の魂』から二重意識についての一節を引用しながら、ブルースを「アメリカ黒人の、アメリカに入りこめるという希望と、その望みがかなわない幻滅、それに伴う絶望との間の揺れ動き、苦悩を表現したもの」(148)と定義する著者であればわかるはずだと思うのだが・・・どういうわけか、著者は「白人らしさ=近代」「黒人らしさ=前近代」という旧態依然とした図式にはまり込んでしまう(149)。

「また、延いては、その音楽上の白人的要素と黒人的要素というのは、結局、合理主義、理性偏重など近代西洋的なものすべてと、感性と理性が分離していなかった前近代的なもの、それ非近代西洋的なものすべてとを代表するものである。つまり、ブルーズは、1940年代までは聴き手も、全員とは言わないまでも、ほとんどが黒人であったのだけれども、実は人ごとではなく、白人にも、そしてぼくらにも少なからずかかわりのある現象なのだ」(149-50)

奴隷解放後の黒人もまた合理主義や理性を重んじる近代的「感性」を持った人間である。彼らは「白人的なものをとり入れ」た結果としてではなく、近代社会における自らの経験ゆえにそうした「感性」を身につけたのだ。こうしたことを度外視して「黒人=前近代」と捉えてしまうと、黒人に「未開・野蛮」といったイメージを割り当てるミンストレル的なステレオタイプから一歩も脱していないことになる。例えばそれは、「黒人は生まれながらにして音楽の才に恵まれていると思いこんでいて」、「黒人のミンストレル・ショウを、あれはショウではない、自然のままをやってるだけだ」(116)と評する白人の見解とどこが違うのか。

20年以上も前に書かれた本のことを言われても困ると著者は言うかもしれない。当時はまだミンストレル的黒人像に対する白人の愛憎を描いたEric LottのLove & Theftも出ていなかったし、マイケルが幼児虐待で訴えられるなどということも予見できなかった。ヒップホップだってまだ野のものとも山のものともつかなかったころだ。その時代にミンストレルとマイケル・ジャクソンのつながりに注目し、巨大化する音楽産業の問題点を暴き出そうとしたのはすごい試みである。この本を批判的に読むことによって、黒人研究の会12月例会のシンポジウム(テーマ:マイケル・ジャクソン)で何を話すべきか見えてきた気がする。

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