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2009年7月25日(土)

多民族研究学会第12回大会@国士舘大学

最初の発表者は都立大院生時代の後輩でもある一橋大学院生の中川智視くん。日本では日本文化の紹介者として語られることの多いラフカディオ・ハーン小泉八雲)のニューオリンズ時代について語った。ガンボ、ジャズ、言語の不統一・・・ニューオリンズは「さまざまな都市の色合を集めた町」であり、そうした文化的混交のなかでハーンが人生の最も長い期間をすごしたということは、もっと注目されてもいい。彼はニューオリンズを舞台に、英語、ピジン、フランス語、スペイン語などが入り混じった短編も書いており、そうした傾向は英語のなかに日本語の単語が残された『怪談』にも通じる。一方で、ハーンは文化に抑制された一貫性を求める保守派の論客でもあり、来日後ますますその傾向を強めていった・・・非常に興味深い内容だったが、ニューオリンズの文化混交と、『怪談』の多言語性は一本の糸ではつながらないのではないかという気がした。文化的混交にどっぷりつかっていたニューオリンズ時代とは対照的に、来日後のハーンは日本文化をその一貫性を保ったまま英語に翻訳しようとしたのであり、だからこそ英語に翻訳しきれない部分が日本語の単語となって残ったのではないか。つまり、複数の文化がせめぎ合う文化混交と、ある文化の筋道を他の文化のなかに移し変えようとする文化翻訳とは全く違った現象だということである。文化混交→文化翻訳へという流れのなかに、ハーンの保守化を見ることができるかもしれない。

コロラド大学客員教授の鈴木繁先生はSF(サイエンス・フィクションスペキュレイティヴ・フィクション)におけるポストヒューマン的な傾向を総括しつつ、異星生物との細胞交換から生れる新しい生命を描いたゼノジェシス三部作を中心に、アフリカ系アメリカ人の女性SF作家オクテイヴィア・バトラーについて語った。近年のSFに特徴的なのは、リプリカントサイボーグ、エイリアンとの混血、遺伝子工学・・・といった人工的な操作によって生れる混成的な存在を通して、リベラル・ヒューマニズムによって構築された近代の人間主体を問い直そうとするポストヒューマン的な傾向である。エイリアンと遺伝情報をやりとりするオクテイヴィア・バトラーのゼジェノシス三部作はその一例であるといえるだろう。異星生物オアンカリの繁殖のために身体を利用されるというストーリーは、作者がアフリカ系アメリカ人女性であることもあって、奴隷制における女性の体験と結び付けて語られることもあった。しかし、バトラー自身はむしろ違った性質のものが必要なものを提供しあうことによってネットワークを形作る「共生」のヴィジョンとしてこの関係を捉えている。また、オアンカリのいう「人間は知的だが、階級的である」という言葉をとらえて、バトラーの人間観を生物本質主義的なものとする見方もあるが、むしろ彼女はアイデンティティを他者との関係(共生)のなかで構築されるものとして捉えており、本質主義的な図式にははまっていない。自らの身体のなかでエイリアンが繁殖していく違和感が生々しく描かれることからもわかるように、「共生」は誰もが気持ちよく受け入れるものというよりも、それぞれが納得できないものを感じながらも受け入れざるをえないものとして描かれている。それは昨日の日記で紹介したバトラーの問題作『キンドレッド』におけるエドナとルーファスの関係にも通じるものがある。

成城大学・中村理香先生の発表は、アジア系アメリカ人とアジアの連続性を無批判に受け入れることが孕む問題を、理論と作品の両面から明らかにするもの。同化の時代を経て、アジア系アメリカ人にとってアジアは「回復されるべき場所」であると認識されるようになった。しかし、アジアであると同時に帝国(アメリカ)でもある「アジア系」とアジアそのものの間にはすでに無視できない差異が生まれている。にもかかわらず、アジア系の娘がアジア出身の母親たちの物語を語るとき、しばしば母親の体験を審美化(romanticization)し、アジア系とアジアの文化的横断がたやすいものであるかのように描き出してしまう。あるいは、アジア系娼婦の物語を感傷小説という枠組で語ることはアジア系女性の連帯からすら排除されてきた人びとの体験をすくいあげるために有効だが、同時に西洋文学のジャンルを援用することによって本来は理解不能な体験から他者性を取り除き、あたかもアメリカ主流社会へ統合可能なものであるかのように無害化する。元従軍「慰安婦」の母「アキコ」(慰安所で与えられた名前)とアメリカ生れの娘の関係を描いたノラ・オッジャ・ケラーComfort Womanでは、ピジン英語では表現しえないアキコの内面が標準英語に託され、彼女自身の言葉ですら表現できない体験が描かれる。この手法は娘を含めたアメリカの人びとが見る「アキコ」と彼女の内面に大きなズレがあることを示すために有効だが、同時に「韓国系女性作家」の言葉によってアキコの体験を翻訳してしまうという危険を犯している。そんな作品にあって、母が娘にあてた手紙で唯一「慰安婦」を表す言葉だけが韓国語で書かれていること、娘にそれをBattalion slaveという英語に直させることによってアキコの体験の翻訳不可能性が示されていることは注目に値する。翻訳されえない体験はそれでも語られなければならないが、常に語りえない部分があるということを意識しながらでなくてはならない・・・というのがアジア系文学にも理論にも弱いぼくが、ぼくなりに解釈した発表の概要です。すごく刺激になりました。

最後に、長い間多民族研究学会の初代会長を務められた岸本寿雄先生の記念講演。小豆島に生まれ、身近な体験から部落や朝鮮人に対する差別を知り、大阪のもっとも貧しい地域で育ちながら、黒人文学に対する興味を深めていった生い立ち、ニューヨークのショーンバーグ図書館に通いつめた研究生活、さらには大学院を卒業された息子さんと出かけてから関心を深めたインドのお話など、非常に興味深い内容だった。現在は小豆島にお住まいの岸本先生だが、インドに何度も足を運ぶヴァイタリティは健在。150まで生きるつもりのぼくも、ぜひ見習いたい。

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