今日のラーメン:「白丸元味(750円)」@横浜『一風堂コレクション』横浜西口店
博多ラーメンの『一風堂』が、「これまで手掛けてきた一風堂のいろいろな魅力を集めたお店」というコンセプトで出した新店舗。とはいえ、「白丸」はこれまでと変わりない。ソフトタッチの博多ラーメン。もやし、高菜、紅生姜、ニンニクが入れ放題というのはいい。「本店かさね味」は博多にしかないメニューだとか。今度はそちらを頼もう・・・★★★+
石田一松『粋談 はだか読本』(妙義出版社、1955)を読んだ。演歌師にしてタレント議員第一号の石田一松。最後の選挙に敗れた一松は、昭和30年、胃癌で亡くなる直前に「エロ」をテーマにした本を出した。それが本書である。トリックスターぶりが全開の名著『のんき哲学』のなかですら、みだりに関係を持つ若者を諌めていた一松が、エロ!しかし、一松は大真面目で(?)「人間最高の本能」である性欲を論じることの正当性を語る。
「もし諸君が誰かと、偶々性欲の問題について、真面目に語り合っている際に、その場に来合わせた他の誰かが、性の話なんか聞くも穢らわしい、てな露骨な表情をしたら、それが男性でも女性でも、こんな人間はその表情ほど尊敬に値しない人間で、少くとも諸君以下だと思えば、大した間違いはあるまい」(151)
一松らしい見得の切り方である。それでいて、「好奇心のみが異常に発達」した未熟な若者たちには、何をそんなに急いで、年若い諸君はカスをつかみたがるんだね」(156)と優しく釘を刺すことを忘れない。
ところが、本書の3分の2以上を占める当時の著名人との対談では、そんな学者然とした仮面を脱いだ一松先生のエロおやじぶりが全開になる。例えば、日劇ミュージックホールのストリップ・ダンサーだった伊吹まりにはバタフライの構造について根掘り葉掘り聞いたあげく、胸を大きくするマッサージ用のクリームを自分に塗らせてくれないかなぁ、などと言っている。伊吹が「希望者が多くて、困っちゃうのよ」とかわすと、「何かまわん、順番を待ちます」と食い下がる(23)。戦前はヌードモデルもやっていた歌手の淡谷のり子からは若き日の同性愛体験を聞きだしたうえ、淡谷が「わたしだってたまには変な夢を見ることぐらいはあります」と口をすべらせると、「どんな夢ですか」と畳みかける(64)。
こうした他愛もないエロ話はともかく、某病院の院長や元警視総監の話には、看過できない性差別や人種差別、無神経な発言があふれている。例えば、元警視総監の某氏は米軍が上陸してきたとき、一般の婦女子に被害が及ばぬようアメリカ兵を「慰安」するべく、全国各地から「慰安婦」をかき集めたことを自慢げに語っている。さらに、「そんな慰安所を見て、さびしい感じがしましたな」という一松に対し、「人間の本能だからそれをいたずらにかれこれいうより、そういうことを見て見ぬふりができる大人にならなければ、芯の入った本当の道徳はできてこんのじゃないですか」と言い放つ(88)。こうした無神経な発言に一松は反論するわけでもなく、ときには相手の話に下卑た冗談でのっかってしまう。そもそも、警視総監なんて、何度も官憲のお世話になった一松にとっては天敵のような存在だし、英語の「のんき節」にのせてアメリカ兵になびく女性(というよりなびかざるを得ない状況)を皮肉ってGHQに引っぱられた一松が、「慰安婦」の話を納得して聞いていたとは思えない。反骨の人・一松はどこへいったのか・・・
しかし、一松はすっかり骨抜きのエロおやじになってしまった・・・と結論するのは早計である。対談を読んでいるとわかるが、一松は話を聞くのが上手い。その極意は相手の話し方に合わせることにある。ストリップ・ダンサーを相手にしていれば話し方もあけっぴろげなものになる。芸者出身の歌手・小唄勝太郎の場合には、艶っぽさを残しながらももう少し奥ゆかしく。6代目春風亭柳橋とは江戸弁のテンポにのって軽快なやりとりをくりひろげる。日本初の女性議員で関西弁が強烈な大石ヨシエには、時折関西弁を交えながら、大石の口癖「しからばやな」すら使って相づちを打つ。こんなぐあいだから、無神経なエロ親父には同じ無神経な笑いで返すのが一松流だったとも言えるのだ。一松の術中にはまった相手は、つい気を許し本音を漏らす。元警視総監も大病院の院長も、何もここまでというほど下劣な本性をあらわにしている。ちょっとつつけば自ら猥褻さをあらわにしてしまう「お偉いさん」に対し、「粋」の世界に住んでいる勝太郎や柳橋といった人たちは決して自分のエロスを明らかにしない。一松の追及をハラリとかわして、軽妙な会話のなかに身を隠す。性は秘め事であり、むやみに口に出したりしないことこそが「粋」なのだ。一松の戦略は、お偉い人たちの化けの皮をはぎ、柳橋や勝太郎の「粋」と対照してみせることだった・・・と言ったら穿ちすぎだろうか。
もうひとつ、この時期、売春防止法が論議の的になっていたことも、一松がこの本を出すきっかけになったのではないかと思う。主に搾取される娼婦たちの労働問題として赤線廃止を訴える大石ヨシエに対し、一松は売春防止法の本義には賛成しながらも、経済的・社会的裏づけがないままでは結局、路頭に迷った元娼婦たちは非合法な私娼になっていくだけではないのか、という問題を指摘する。明治の書生節にあるように「自由廃業で廓はでたが、それからなんとしょ」(「ストライキ節」)というわけある。一松のこうした主張の裏には、政府が人々の性生活に介入してくることに対する強い反発がある。一松は『のんき哲学』でも産児制限に反対していた。産めよ育てよと言っておいて、都合が悪くなったとたんに「産児制限」とはどういうことだ、というのだ(一松が、「少子化問題」が子どもを産まない側の責任であるかのように言われる今の日本を見たら何と言うだろう)。「しまいには法律々々で、新婚夫婦は一ヶ月に何回、何年以上の夫婦は何回」と定められてしまうのではないか(93)という極端な冗談も、こうしたところから出てくるのだろう。それは、お上が何と言おうと女たちは生きていくために春を売るだろうということでもある。だから、「じっとして金をもらっている娼妓よりも、山谷の私娼のほうが自助努力している」という大石の意見(これもまた、極端だが)に賛成してしまう。権力の介入を嫌うという意味では、反骨の人・石田一松らしいとも言える。
一松は本書の「序にかえて」にこんなことを書いている。
「さて、今をときめく大臣さまでさえ、あれほど無責任な放言をなすっていらっしゃるんだから、そして、それで世間が通れるものなら、のんき節が、少々の砲弾をぶっ放したからとて、何も不思議はあるめえと、今まで雑誌や新聞に載せた、放談、対談の一部をここに収録して、読者諸君を悩ませようと悪心を起した次第である。
修身科の教材にはなりそうもないけれど、これを読んだからとて、国民の生命にかかるほどのこともないと思う。少くとも、大臣の放言よりも罪は軽いつもりである」(6)
反骨のトリックスターここにあり、である。
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