
三度、ヘラルド本社へ。レジ所有のバカでかい変電器を使わせてもらい、ようやく1978年から2003年にかけてヘラルド紙と日曜版サンデー・メイルに掲載されたトーマス・マプーモ関係の記事をすべて手中に収めることができた。スキャンしながら拾い読みしただけでも、興味深い記事が多い。あるときはブラックス・アンリミテッドのメンバーとお金のことでもめていて(84年5月25日付サンデー・メイル)、神秘的なイメージのマプーモも聖人ではないことがうかがわれる。また、あるときは魔術で父親を殺したとして、実の兄を訴えていたりして驚かされる(99年5月19日付ヘラルド)。「魔術禁止法」なる法律があったらしく、マプーモはその一ヶ月前にも叔父を魔術で殺したと従兄弟を訴えて、敗訴している(99年4月16日付ヘラルド)。80年代前半には、ルンバ・コンゴリースの影響で登場した「スングラ」と呼ばれるスタイルの若いミュージシャンに対し、「もっとジンバブウェ独自の音楽を」と訴えている(83年2月18日付ヘラルド)。面白いのは、「あなただってレゲエをやっているじゃないか」という記者に対し、「おれたちはヴァラエティを出すためにレゲエをやっている。でも、自分たちの音楽を忘れたことはない」と苦しい言い訳をしていることだ。ルンバ・コンゴリースや、ジャズ、南アのンバカンガなどの侵食に晒されてきたこの国では、「トラディッショナルな音楽か、外国の音楽か」といった議論がこのあともくり返され、後にはマプーモ自身も「もっとムビラ音楽を」という批判を受けることになる(99年9月2日付ヘラルド)。90年代には亡くなった大統領夫人へ哀悼の意を示すためムガベ大統領を直接訪問したり(92年2月23日付サンデー・メイル)、ジンバブウェ大学から授与された名誉修士号を大統領本人から受け取ったり(99年11月21日付サンデー・メール)していたマプーモだが、2000年に行われた白人農場主からの強制土地収用をきっかけに政府に対する批判を強めていく。にもかかわらず、政府系の新聞であるヘラルドからマプーモの名前が消えることはなかった。それだけマプーモの存在が大きかったと言うことでもある。また、ジンバブウェの報道規制は制度化された検閲よりも、暗黙の圧力を受けた自主規制を通して行われることが多い、ということもある。ヘラルドの場合、2000年ごろからマプーモを批判するような投書がいくつか寄せられたが(例えば、2001年1月21日付ヘラルド「マプーモはチムレンガの先駆者ではない」)、それに対する反論もきちんと掲載されている。もっとも、ぼくが調べたのは2003年までなので、その後の記事についてはわからない。ただし、シェパード氏の整理した記事のボックスには2003年以降のものもあったから、その後もマプーモの名前がヘラルド紙上から消えることはなかったはずだ。

家に帰ったところで、コムレイド・チンクスから電話があった。今、ムカンヤ・バーに来ているとのこと。レジにチンクスを迎えにいってもらい、その間に慌てて質問を考えることに。ともあれ、聞きたいことは決まっていた。独立戦争時代のこと。どのようにしてゲリラ闘争に参加し、どのようにして兵士たちを鼓舞したのか。また、彼の音楽はどこから来て、どこへ行くのか。思いつくままに質問を書きなぐりながら、動物園の熊のようにぐるぐると歩き回っている落ち着かない自分がいた。ムカンヤ・バーまでは歩いてすぐのはずなのに、なかなか現れない。質問が考えられるように、レジが時間稼ぎをしてくれているのかもしれない。ようやく姿を見せたとき、ふたりは両腕いっぱいにビールを抱えていた。「は、はじめまして・・・」「おおっ、きみに会いたかったぞ!」 コムレイド・チンクスは若いころのピンと張ったよく通る声ではなく、迫力のあるだみ声でぼくに言った。一瞬でその場の雰囲気を支配してしまう、独特の力を持ったパーソナリティに圧倒される。
コムレイド・チンクスは本名チンガイラ・マコニ。1952年生まれの56歳。解放闘争のときにゲリラに加わり、兵士たちを鼓舞する「フリーダム・ソング」を歌ったことで知られている。現在でも与党ZANU=PFの熱烈な支持者であり、白人農園主からの土地強制収用をはじめとする政策を積極的に支持する立場にあるチンクスだが、80年代には政府のすすめる人種融和政策を受けて、白人のミュージシャンを積極的に起用し、融和をテーマにした歌を歌った人物でもある。まずは、彼の音楽がどこから来たのかについて聞いてみた。
「解放闘争の前はプロの歌手として歌っていたんですか?」
「解放闘争より前に?いいや。ただ・・・解放闘争よりまえにやっていたことと言えば、教会へ行ってクリスチャンとしてゴスペルを歌っていたよ。母も、姉妹も・・・姉が二人、妹が三人、それに兄弟が二人・・・ (みなさん教会に行っていたんですね?) そう、みんな教会に行っていた。で、賛美歌を歌っていた。(聖歌隊で?)そう!」
彼の歌うフリーダム・ソングはコール・アンド・レスポンス形式のコーラスで歌われることが多いのだが、そのルーツが教会の聖歌隊(クワイア)にあったとは・・・考えてみれば不思議でも何でもないのだが、ゲリラと敬虔なキリスト教徒のイメージがどうしても結びつかなかった。ここから、チンクスは問わず語りに語りはじめる。
「解放闘争があって、フリーダム・ファイターとしてゲリラに参加したのはそのあとだ。15歳・・・いや、16歳のとき、おれは仕事を求めてやってきて・・・イギリスの奨学金を申し込んだりもしたな。だが、連中はおれがイギリスに渡ることを許さなかった。試験は受けて、奨学金はもらったんだがね。20歳のころのことだ。おやじは山羊を二頭、羊を二頭売って、奨学金のための金をつくってくれたんだがね」
「イギリスに渡って医者になりたかったんだよ。でも、許可がもらえなかった。なぜだかわからなかった。奨学金が来たとき、連中は試験さえ受ければだれでも合格できると言った。で、奨学金のカードはもらった。(でも、イギリスに渡ることは許可されなかった?) そう、おれたちがアフリカ人だからさ。で、仕事を探したよ。工業関係の会社に仕事を見つけて働きはじめた。鉱夫たちの使う金属板をつくる会社だった」
若いころの痛烈な被差別体験である。チンクスは「数学はよくできたんだ。医者になりたかったけど、許されなかった。でも、おれにどうすることができたろう?」と苦々しく語った。会社ではアフリカーナー(南アフリカのオランダ系入植者)の経営者にテロリスト呼ばわりされる毎日だったという。ここには書かなかったが、チンクスは奨学金や会社や経営者の名前を今でもはっきりと憶えている。そのときの悔しい思いとともに、それらの名前が胸に刻みつけられたのだろう。チンクスの祖父、同じ名前のチンガイラ・マコニはムブーヤ・ネハンダらと1896年の「第一次チムレンガ」(植民地支配に対する闘争)を戦い、最後は首をはねられてその首がヴィクトリア女王に献上された人物である。こうした歴史を踏まえながらも、チンクスは人種融和を語る。
「同志ムガベ・・・われわれは世界で最高の指導者を戴いていると思うが・・・彼はもう殺すなといった。おれはもう殺したくない。おれたちは殺した。でも、もういい。だから、同志ムガベはこう言うんだ。許せ、忘れろと」
「あなたは今でも融和の歌をうたっているのですか?」
「そうだ!こういうことを教えたいんだ・・・さあ、この道を行こう。おれたちはもう闘っているわけじゃない。お前の兄弟を殺してやる、なんて言ってはいけない」
現在のムガベしか知らない人は、何を言っているのかわからないかもしれない。独立後、ジンバブウェの大統領になったムガベは、人種対立を乗りこえた融和の道を示して世界の注目を集めた。この国が理想を追い求める実験として、光り輝いて見えた時期が確かにあったのだ。チンクスはいまだ、その夢を追い続けている。
ぼくにはもうひとつ、聞いておきたいことがあった。彼が実際にフリーダム・ソング「マルザ・イミ」を歌い、兵士たちを鼓舞する映像がある。そのなかで、兵士たちがみな笑っているのがぼくには印象的だった。過酷な戦闘の真っ只中で、どうして彼らは笑うことができたのか。また、彼らを鼓舞する立場にあるものとして、チンクス自身は彼らを笑わせようと考えていたのか。
「おれはエンターテイナーだ。おれは士気(モラール)を与え、士気を高める。士気ってわかるか?ハッピーな気持ちの高ぶりだ。いいか、30パーセントの士気、70パーセント、80パーセント・・・いちばん低いところから高いところへ持っていく。いつだって、いちばん高い士気がおれは欲しいんだ。いちばん高い士気、いちばん高いハッピーネス。人びとの前に立って人びとが十分ハッピーでないとわかったら、楽しませたらいい。人びとに高い士気を与えたら、すべてのことをハッピーに受けとめる。おれが『敵は悪い』と言ったら、きみがいい気分なら聞いてハッピーになるだろう。でも、そうでないときに言ってもダメなんだ」
「つまり、エンターテイナーはまず人びとをハッピーにしなくちゃいけないってことですね。人びとがハッピーな状態であれば、彼らを教育することができる、と」
「そう。まずハッピーな基礎があるから、人びとはおれの言葉を受け取るんだ」
これこそまさに、ぼくが聞いてみたかったことだった。戦争のときだけでなく、ジンバブウェの音楽には人々を教育するという役割がある。とは言っても、説教臭いものではなくて、笑わせて笑わせて何かに気づかせると言ったようなものだ。チンクスは戦争中にすらそれを意識してやっていたのだということがわかってたいへん感銘を受けた。ちなみに「マルザ・イミ」とは「敵は負けている」というような意味で、「マルザイミ~、マルザカ~♪」というコーラスをバックに、チンクスが次々にその日の戦果を歌いあげていったのだという。つまり歌詞のほとんどはその日に起こったことから、即興的に作られたものだったのだ。「あなたはジャーナリストでもあったんですね」「そうだ(Yes, I am)」「ん?そか、今もですね(you are)」「いや(笑)、以前はね(I was)。今は芸術家だと思っているよ」
チンクス・・・とにかく強烈な人物だった。ZANU=PFの支持者にはこういう抗いがたい人間的魅力を持った人物がいることも確かである。彼の被差別体験は強い印象を残したし、現在のムガベ政権が白人農場主に対してとっている過酷な政策を支持しているにもかかわらず、彼が人種融和の理想をいまだに信じていることも嘘ではないだろう。
レジ、フランクとチンクスを自宅まで送っていった。すっかり気に入られたようで、チンクスはぼくの肩に手をまわして、「ジンバブウェの車の70パーセントは日本製だぞ!」とか言っている。最後に「死ぬときはジンバブウェで死ねよ!」などと過激な愛情表現をしてきたので、「いや、母さんが泣くし。それにガールフレンドもね(←いないけど、見栄をはってみた)」と答えた。チンクスは大笑いして「つれてこい。世界を見せてやるといってな!」と言い放った。しばらくして思い直したように「やっぱり、ジンバブウェでは死ぬな」と言う。「お前がジンバブウェで死んだら、おれは墓を掘り起こして、『何で死んだんだ!』とお前の頭を粉々に砕いてやる!」「うわーやめてくださいよ。天国でも頭は必要だから!」 ・・・戦争で死んだたくさんの仲間たち。チンクス自身もたくさんの敵を殺した。独立後も仲間のミュージシャンは次々と死んでしまった。理由がなんだと考えるにせよ、理想を追い求めていた国がこんな状態になってしまったことにいちばん納得のいかないものを感じているのはチンクスなのかもしれないと思った。
写真は上から、ヘラルド社のライブラリーでボックスの整理をする(ふりをする)レジ、コムレイド・チンクスと
最近のコメント