2008年9月12日(金)

今日こそは昨日のようなことがないよう、朝早く起きて荷物をまとめる。飛行機に乗り遅れたのはもちろんぼくが悪いのだが、ブラザーの旅を完璧にコーディネイトするという目標を最後の最後で挫かれて、レジも悔しかったに違いない。何が何でも安全に快適に日本に送り出すのだ、という決意が表情から見てとれた。今日もクダとクリスチャンが同じ車で迎えに来てくれた。風のように流れていく風景を前に、いつになく無口になる。乾いた白い大地。危ういバランスで積み重なった巨石。防風のために植えられたものか、背の高い木が行儀よく並んでいるのが見える。遠い昔、ここで暮らしていたという懐かしい感覚が胃液のようにせりあがる。ふと、このまま、この国で役に立たないフーテンとして生きていけたらどんなに素敵だろうと思った。でも、そんなことを言ったら、ブラザーを無事送り出そうとしているレジに怒られる。自分勝手な妄想や感傷は心のなかにしまっておくのがいちばんだ。

家を出るとき、ジュディはバスルームで沐浴しながら「ラーメン・ブギ」を歌っていた。アンジーがぼくが帰ることを告げると、上機嫌で「あとでね!(See you later)」と言った。アンジーに「来年ね(See you next year)でしょ」と訂正されていたけど、よくわかっていなかったに違いない。ぼくはしばらくジンバブウェの時間からいなくなる。忘れることはないけれど、この国の人びとの連続した時間からは切り離される。だから、ぼくにとっては「あとでね」でいいのだ。来年、ここに戻ってきたとき、日本の時間で分断された二つの時間が縫いあわされて、ジュディがすっかり大きくなっていることに驚く。きっと明るくなった人びとの表情にも。そう願いたい。

Regi

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2008年9月11日(木)

たいへんなことになってしまった。

Mai_musodzi_hall
すべり出しは快調だった。早朝4時すぎまで飲んでいたわりには体調も万全で、帰国へむけてすべては準備万端整っているように思えた。レジ、アンジー、アルヴィンの弟のクリスチャンとクダの車に乗りこむ。途中、マイ・ムソジ・ホールを見に行った。ハラレで最も古いタウンシップ=ムバレにあるマイ・ムソジ・ホールは、ジンバブウェ都市ポピュラー音楽の聖地といっていい場所だ。トーマス・マプーモオリヴァー・ムツクジはもちろん、60年代に一世を風靡したタウンシップ・ジャズのミュージシャンもみな、ここのステージにあがることで一流と認められた。名前の由来となったマイ・ムソジことムソジ・チバガはムバレを中心に活動した女性社会運動家。マイ・ムソジ・ホールはエンターテイメントだけではなく、ムソジ率いる女性クラブによるコミュニティ活動にも使われた。このことはジンバブウェの音楽がコミュニティとの結びつきのなかから生まれてきたこと、言いかえれば、エンターテイメントがコミュニティ活動の一部だったことを示している、とぼくは考えたい。帰る前にそのマイ・ムソジ・ホールをぜひ見ておきたかったのだ。大きさは小さな教会程度。手狭になったため、現在はエンターテイメントの会場としてはあまり使われていない。数人の男たちが所在なげにたむろしている。ジョイス・ジェンジェ・マクウェンダの本に載っている写真では白かった看板は真っ赤に塗り替えられていた。写真撮影には許可が必要ということだったが、車のなかからこっそりシャッターを押した。

そのまま空港へ。車を降りると、さっそくクダがビデオ・カメラを回している。なんだかなースターみたいだなー(笑)。「ほら、もう時間だぞ。カウンターに行ったほうがいい」とレジ。「うん、じゃあ、また来年」 南アフリカ航空のカウンターに向かおうとしたそのとき・・・「どこに行くんだ?」と空港スタッフ。「あ、いや、そこに・・・」「もう閉まってるぞ」 パニックになるひらげ。レジたちもわけがわからず、右往左往している。「搭乗時間はとっくに終わってるぞ」「ええっ!」・・・何とマヌケなことに、搭乗時間と離陸時間を間違えていたのだ。南アフリカ航空のスタッフに「何とかなりませんか」とかけあうが、どうにもなるはずがない。次の便でジョハネスバーグに飛んでも、香港行きの飛行機には間に合わない。結局、翌日の便を予約して引き返すことに・・・(もちろん、航空運賃をまるまる払わなければならない)。トホホ。チトゥングウィザに戻る車のなかで、自分の馬鹿さかげんに呆然とする。レジの家でスーツケースをおろす。クダとクリスチャンは口々に「お気の毒に」と言いながら去っていった。せっかく送ってくれたのに、ごめん・・・ありがとう。裏庭ではタレントが洗濯物を干していた。「戻ってきちゃった」と言うと、「あら」という顔で笑った。

「今日は少し休んだほうがいい」とレジが言うので、部屋で横になった。「あんまり気に病まないほうがいいぞ。血圧に悪いから」 こういうとき、レジはやたらと優しい。しばらく、ぼーっとしていたが、ま、やってしまったことはしかたがない。せっかくジンバブウェにもう一日いるのだからこの国の空気を吸おうと思い、ギターを持って外に出た。しばらくポロポロやっていると、「何してるの?」と声がする。ジュディの友だちでフローレンスの妹=ガムシライだ。おてんばで愛嬌のある女の子で、なんとなく気が合った。「どこにいるの?」「ここよ。木のところ」 塀のうえにせり出した木のなかからガムが顔を出した。「何してるの?」「ギター弾いてるの」「ふーん」 それだけだったけど、チトゥングウィザに戻ってきたのも悪くなかったな、と思えた。

もう一晩、レジとアンジーにお世話になった。ありがとう。

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2008年9月10日(水)

沐浴中、デジカメをトイレのタンクのなかに落とした。ショック。

Talent
部屋でギターを弾いていたら、タレントが通りかかって「面白い人!」と一言。昨夜、食事のときに、「何で食べるときフムフム言うの?」と笑われた。自分でも気がつかなかったが、ものを食べながら「ふまっ、おひっ」と、「うまい」とも「おいしい」ともつかぬ音を発する癖があるらしい。「いや、タレント、きみは若いからわからないかもしれないけど」「うん?」「40歳にもなるとね、エネルギーを無駄使いできなくなるんだ」「???」「若いころは『おいしー!!』とエネルギーを全部外に出しても良かった。でも、年を取るとそうもいかない」「・・・だから?」「だから、フムフムとつぶやくようにして、自分の出したエネルギーをもう一度取り込んでいるんだよ。いわば、エネルギーのリサイクルだな」 これが受けた。結果、彼女のなかでぼくはすっかり「面白いオッサン」として定着したらしい。

レジと同じⅠ型糖尿病患者のタレントは、日本から援助したインシュリンを受け取るかわりに家事を手伝っている。早くに両親を亡くしたため身寄りがなく、レジとアンジーが身元引受人になったような形だ。家事が一段落したところでタレントが部屋にきて、「明日、日本に帰るの?」と聞く。「うん」「どうして?」「仕事に戻らないと」 まあ、しばらくは大して忙しくないんだけどね・・・「どうして結婚しないの?」 「さあねぇ・・・女の子がぼくを嫌いなんじゃないかな」「どうして女の子はあなたを嫌いなの?」「さぁ・・・」 ってか、そりゃ、こっちが聞きたいワイ(笑)。タレントはうつむいて、「わたしも日本に行きたいなぁ・・・せめて何か記念になるものをちょうだい」と言う。ええっ、記念っていわれても、あげられるものはTシャツぐらいしか・・・ま、まさか、お気に入りのピョン吉Tシャツを!?そ、それだけは・・・

何とか説得して、別のTシャツで妥協してもらった。

家事に戻ったタレントは台所で何やら料理している。呼ばれて行ってみると、キツネ色に揚がったジャガイモがお皿のうえにごろごろと転がっていた。揚げたてを味見する。美味い。外に椅子を持ち出してギターをぽろぽろやっていると、フローレンスが家族とやってきた。「明日、帰るのね」「うん」「あたしも日本に行きたいから、スーツケースに入れていってよ」 おおっ、何か今日はモテモテじゃん!こういうの、『世界ウルルン滞在記』でイケメン若手俳優とかが経験するシチュエーションじゃないの!?「蚊に刺されてるわよ」というフローレンスに、「蚊はぼくのことが好きなのさ。きっと女の蚊に違いない」などと軽口をたたく(←調子にのりすぎ。ちなみに、人間の血を吸うのはメスの蚊だけである)。タレントもフローレンスもジンバブウェの閉塞した状況から逃げ出したい。その気持ちを遠い日本に投影しているんだろう。日本だっていいことばかりじゃない。でも、それを言っても、「ジンバブウェよりマシでしょ」という答えが返ってくるだけだろう。

レジとアンジーが友人を連れて帰ってきた。長距離バスの運転手をしているその友人が、南アフリカ産の安いビールを大量に持ってきてくれた。夕食後、レジと飲みはじめる。最後の晩だというのに、マゲッツィ(電気)が来ない。次第に暗くなっていく部屋のなか、ランプの心細い明かりを頼りにビールをすする。レジが語りはじめる。「南アフリカで働きたいんだ。貯めたお金で自分の家が建てたい」 レジが住んでいるのは借家。大家の一存で明日出て行けといわれるかもしれない。そんな不安定な生活にピリオドを打つため、レジは日本からの援助で経営関係の資格を取った。「この資格を使って、南アフリカで仕事を見つけようと思う」 でも、どうなるかわからない、とレジはつけ加えた。ジンバブウェほどではないにしろ、南アフリカもまた状況は厳しい。「でも、自立したいんだ。音楽活動も再開する。そして、今度は自分の力で日本に行く」 レジの口から「自立したい」という言葉を聞いたのはこれがはじめてだった。

手にしたムビラから流れでた音が、暗がりに溶けていく。3日前に聞いたときより、ずっとなめらかだ。そこにアンジーがぎこちない手つきで別パートを重ねる。「へえ、アンジーもムビラ弾くんだ」 おそらく、レジが教えたんだろう。しばらく、夫婦の合奏に耳を澄ます。時間がゆっくり流れていく。胃のなかに沈んでいくビールの流れすら、油のようにゆったりしている。「そう言えば、チャールズとズラ、遅いな」「きっとムカンヤ・バーで飲んだくれているのさ」 ムカンヤ・バーにはバッテリーがあって、店先だけは明かりがつくようになっている。店の前にとめた車に身体をまかせてビールを煽っている二人を思い浮かべて、ちょっと愉快になった。「何だ、あいつら、最後の晩だっていうのによう」 ビールとって来るわ、と席を立つ。ビールだけはたくさんある。それが電気の通っていない冷蔵庫のなかでだんだん温くなっていく。

10時半ごろ。突然、電気が戻ってきた。われに返ったように二人で乾杯する。レジが携帯でチャールズに電話する。考えてみれば、電気が戻る前に電話しても良かったはずなのだが、なぜか思い浮かばなかった。チャールズとズラはバーではなく、自宅にいた。真っ暗な部屋のなかでフテ寝をきめこんでいたのだ。二人とも5分とたたないうちに飛んできて、冷蔵庫のなかから缶ビールを取り出した。カンパーイ。そのあとは4人でビデオを見たり、CDを聞いたりしながら明け方まで飲み明かした。飲んだビールはあとで数えたら52缶もあった。
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写真は上からサザをつくるタレント、ビールビールビール・・・

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2008年9月9日(火)

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今年もグランマ・レコードの本社に行ってきた。グランマ・レコードはジンバブウェ最大のレコード会社。以前はティアル・レコードという名前で知られていた。ミュージシャン側の評判はあまり良くないのだが、ジンバブウェを代表するミュージシャンのプロモーションを一手に引き受けている。ハラレの町なかからミュージック・ショップがどんどん消えていくなか、レコード会社から直接買うのがいちばんてっとり早いし値段も安い。ただし、品揃えは思ったほど良くない。90年代に優秀なミュージシャンの多くが(おそらくエイズで)亡くなってしまい、その後の政治的・経済的混乱でトーマス・マプーモをはじめとする大物が海外に流出してしまったので、目を引く新作を出すことができず旧作のCD化かベスト盤でお茶を濁すしかないのがジンバブウェの音楽業界の現実なのだ。その上、生活苦にあえぐ人びとがCDやカセットにそれほど多くのお金を使えるとも思えない。トーマス・マプーモについて言えば、未発表バージョンを集めた『アンリミテッド・ヒッツ』というのが出ていて、今回はそのVol.3を買った。また2000年に米オレゴン州で録音された『アンプラグド』が素晴らしい。全編ムビラとマプーモの歌だけ。次第に楽器の数を減らし、トラディッショナルな音楽へと帰っていった90年代後半のマプーモが行き着いた先がこの録音であるといっていいだろう。カセットでしか持っていなかったのだが、今回CDを手に入れた。マプーモのライバル=オリヴァー・ムツクジはなかなか旧作のCD化がすすまない。アルバムの数がべらぼうに多いということもあるのだが、早いとこ80年代に発表された傑作の数々を気軽に聞けるようにして欲しい。今回は針飛びだらけのLPしか持っていなかった82年の『マウンギラ』のカセットを手に入れた。ソウルフルな味わいの大傑作である。アリック・マチェーソの最新作は音楽もデザインも一歩抜きんでている。さすが、ジンバブウェに残された最大のスターだけのことはある。

家に帰ってきてしばらくボーっとしていると、レジが「もうひとつ、別のマーケットに行かないか?」という。夕方にマーケット?これは何かあるなと思ったので、「いいよ」とビール片手に二つ返事でついていった・・・バスで10分ほどのところにそれはあった。マコニやチクワナよりもはるかに規模が大きく、大勢の人びとでごったがえしている。ひしめくように並ぶ屋台では、日用品や野菜はもちろんのこと電化製品の部品までありとあらゆるものが売られている。「ここの人たちは気が立ってるからな。写真はやめたほうがいい」 レジがこう言うときは本当にやめたほうがいい。ここでも小太りのアジア人は人びとの注目の的だ。近くに中国人が経営する工場ができて、多くの人がそこへ働きに行っているのだが、商売に忙しい中国人がこの地域に顔を出すことはほとんどない。

「パブリック・バーへ行こう」 ジンバブウェでパブリック・バーとかビヤホールというと、ムカンヤ・バーのような小さなお店とは少し趣の違う、独特の場所を意味する。日よけの屋根が差しかけられてはいるものの、ほとんど野外といっていい広い空間。コンクリートで固められた床に腰をかけて男たちがビールを飲んでいる。その先にはマッチ箱を横に倒したようなシンプルな建物が待ち構えており、なかには薄暗い空間が広がっている。ビール瓶らしきものを後生大事に抱えてうずくまる男たち。格子のむこうで不機嫌そうな男が酔っ払いの注文を待っている。たいていは建物を抜けた先にステージがあり、パフォーマンスを楽しみながらお酒が飲めるようになっている・・・中庭に足を踏み入れると、鼻の下をかぎタバコの粉で緑色にしたばあさんが「おお、息子よ」とすり寄ってきた。「少しでいいから、ビールをおくれ」 見るとムガベ大統領の顔がデザインされた布を腰に巻いている。ふと、このばあさんも独立戦争を戦ったのかもしれないと思った。PTSDなんて言葉もなかった時代の話だ。血なまぐさい戦闘の悪夢から逃れられなかった人もいただろう。アル中のばあさんとジンバブウェの独立戦争を描いた映画『フレイム』の女ゲリラの姿が重なる。「もう残り少しだし、あげちゃおうかな・・・」 そう思いかけたとき、レジがきっぱりといった。「だめだよ、アマイ(年上の女性に対する敬称)。ぜったい、だめだ」 そ、そうだよな・・・ぼくの同情は人をだめにする優しさだったと反省する。

中庭には定番どおり、ステージがあった。「ステージはあるけど、最近はほとんど何もやってない」とレジがさびしそうに言った。「ここだけじゃない。バーの側に出演料を払う余裕がないからだ」「じゃあ、ミュージシャンはたいへんだな」「そうだよ」 少し歩いていくと、そこには場外馬券売り場があった。今日は平日なのでほとんど人はいなかったが、土日ともなると多くの男たちが集まってきて、テレビの画面でレースの結果を見ながら一喜一憂するという。「なけなしの金を・・・」「使ってしまうわけさ」「ぼくのじいちゃんも若いころは競馬にはまってばあちゃんを困らせたらしいよ」「そうか・・・」

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バーを出てしばらく歩くと、マーケットから少し離れたところに緋色の壁の建物があった。「おれが働いている診療所だ」 レジが糖尿病患者の相談を受けるヴォランティアとして働いている場所だ。ヴォランティアなので給料は受け取っていないが、感謝した患者が持ってきてくれる食料などがレジの生活を支えている。そうか、これを見せたかったんだな・・・診療所は思った以上に立派だった。でも、ジンバブウェの医療は危機的な状況にある。すべての国民が医療と教育を受けることができる社会主義国家をめざしていたジンバブウェだが、現状はかつての理想からはほど遠い。もちろん、保険制度などというものはなく、重病にかかった貧しい人たちは死を待つしかないのが現実だ。さらに悪いことに、医療関係者への給料の未払いが続いている。看護婦たちは患者が糞尿を垂れ流して苦しんでいても、ガラスの向こうから眺めているだけだという。レジが糖尿病を患ったときにもやはり同じような状態で放置されたが、こうした悲惨な状況は今も変わっていないどころかますます悪化している。

帰りに二人の子供とすれ違った。レジが「今なんて言ってたと思う?『あの人中国人だよ』『違うよ、インド人だよ』って話してたんだよ」 可笑しくなったぼくは振り返り、「そうさーぼくはインド人だよー!」と叫んだ。ふたりは肘で互いをつつきあいながら、黄昏に消えていった。

写真は上から、オリヴァー・ムツクジ『マウンギラ』、セケ・サウス診療所

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2008年9月8日(月)

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三度、ヘラルド本社へ。レジ所有のバカでかい変電器を使わせてもらい、ようやく1978年から2003年にかけてヘラルド紙と日曜版サンデー・メイルに掲載されたトーマス・マプーモ関係の記事をすべて手中に収めることができた。スキャンしながら拾い読みしただけでも、興味深い記事が多い。あるときはブラックス・アンリミテッドのメンバーとお金のことでもめていて(84年5月25日付サンデー・メイル)、神秘的なイメージのマプーモも聖人ではないことがうかがわれる。また、あるときは魔術で父親を殺したとして、実の兄を訴えていたりして驚かされる(99年5月19日付ヘラルド)。「魔術禁止法」なる法律があったらしく、マプーモはその一ヶ月前にも叔父を魔術で殺したと従兄弟を訴えて、敗訴している(99年4月16日付ヘラルド)。80年代前半には、ルンバ・コンゴリースの影響で登場した「スングラ」と呼ばれるスタイルの若いミュージシャンに対し、「もっとジンバブウェ独自の音楽を」と訴えている(83年2月18日付ヘラルド)。面白いのは、「あなただってレゲエをやっているじゃないか」という記者に対し、「おれたちはヴァラエティを出すためにレゲエをやっている。でも、自分たちの音楽を忘れたことはない」と苦しい言い訳をしていることだ。ルンバ・コンゴリースや、ジャズ、南アのンバカンガなどの侵食に晒されてきたこの国では、「トラディッショナルな音楽か、外国の音楽か」といった議論がこのあともくり返され、後にはマプーモ自身も「もっとムビラ音楽を」という批判を受けることになる(99年9月2日付ヘラルド)。90年代には亡くなった大統領夫人へ哀悼の意を示すためムガベ大統領を直接訪問したり(92年2月23日付サンデー・メイル)、ジンバブウェ大学から授与された名誉修士号を大統領本人から受け取ったり(99年11月21日付サンデー・メール)していたマプーモだが、2000年に行われた白人農場主からの強制土地収用をきっかけに政府に対する批判を強めていく。にもかかわらず、政府系の新聞であるヘラルドからマプーモの名前が消えることはなかった。それだけマプーモの存在が大きかったと言うことでもある。また、ジンバブウェの報道規制は制度化された検閲よりも、暗黙の圧力を受けた自主規制を通して行われることが多い、ということもある。ヘラルドの場合、2000年ごろからマプーモを批判するような投書がいくつか寄せられたが(例えば、2001年1月21日付ヘラルド「マプーモはチムレンガの先駆者ではない」)、それに対する反論もきちんと掲載されている。もっとも、ぼくが調べたのは2003年までなので、その後の記事についてはわからない。ただし、シェパード氏の整理した記事のボックスには2003年以降のものもあったから、その後もマプーモの名前がヘラルド紙上から消えることはなかったはずだ。

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家に帰ったところで、コムレイド・チンクスから電話があった。今、ムカンヤ・バーに来ているとのこと。レジにチンクスを迎えにいってもらい、その間に慌てて質問を考えることに。ともあれ、聞きたいことは決まっていた。独立戦争時代のこと。どのようにしてゲリラ闘争に参加し、どのようにして兵士たちを鼓舞したのか。また、彼の音楽はどこから来て、どこへ行くのか。思いつくままに質問を書きなぐりながら、動物園の熊のようにぐるぐると歩き回っている落ち着かない自分がいた。ムカンヤ・バーまでは歩いてすぐのはずなのに、なかなか現れない。質問が考えられるように、レジが時間稼ぎをしてくれているのかもしれない。ようやく姿を見せたとき、ふたりは両腕いっぱいにビールを抱えていた。「は、はじめまして・・・」「おおっ、きみに会いたかったぞ!」 コムレイド・チンクスは若いころのピンと張ったよく通る声ではなく、迫力のあるだみ声でぼくに言った。一瞬でその場の雰囲気を支配してしまう、独特の力を持ったパーソナリティに圧倒される。

コムレイド・チンクスは本名チンガイラ・マコニ。1952年生まれの56歳。解放闘争のときにゲリラに加わり、兵士たちを鼓舞する「フリーダム・ソング」を歌ったことで知られている。現在でも与党ZANU=PFの熱烈な支持者であり、白人農園主からの土地強制収用をはじめとする政策を積極的に支持する立場にあるチンクスだが、80年代には政府のすすめる人種融和政策を受けて、白人のミュージシャンを積極的に起用し、融和をテーマにした歌を歌った人物でもある。まずは、彼の音楽がどこから来たのかについて聞いてみた。

 「解放闘争の前はプロの歌手として歌っていたんですか?」

 「解放闘争より前に?いいや。ただ・・・解放闘争よりまえにやっていたことと言えば、教会へ行ってクリスチャンとしてゴスペルを歌っていたよ。母も、姉妹も・・・姉が二人、妹が三人、それに兄弟が二人・・・ (みなさん教会に行っていたんですね?) そう、みんな教会に行っていた。で、賛美歌を歌っていた。(聖歌隊で?)そう!」

彼の歌うフリーダム・ソングはコール・アンド・レスポンス形式のコーラスで歌われることが多いのだが、そのルーツが教会の聖歌隊(クワイア)にあったとは・・・考えてみれば不思議でも何でもないのだが、ゲリラと敬虔なキリスト教徒のイメージがどうしても結びつかなかった。ここから、チンクスは問わず語りに語りはじめる。

 「解放闘争があって、フリーダム・ファイターとしてゲリラに参加したのはそのあとだ。15歳・・・いや、16歳のとき、おれは仕事を求めてやってきて・・・イギリスの奨学金を申し込んだりもしたな。だが、連中はおれがイギリスに渡ることを許さなかった。試験は受けて、奨学金はもらったんだがね。20歳のころのことだ。おやじは山羊を二頭、羊を二頭売って、奨学金のための金をつくってくれたんだがね」 

 「イギリスに渡って医者になりたかったんだよ。でも、許可がもらえなかった。なぜだかわからなかった。奨学金が来たとき、連中は試験さえ受ければだれでも合格できると言った。で、奨学金のカードはもらった。(でも、イギリスに渡ることは許可されなかった?) そう、おれたちがアフリカ人だからさ。で、仕事を探したよ。工業関係の会社に仕事を見つけて働きはじめた。鉱夫たちの使う金属板をつくる会社だった」

若いころの痛烈な被差別体験である。チンクスは「数学はよくできたんだ。医者になりたかったけど、許されなかった。でも、おれにどうすることができたろう?」と苦々しく語った。会社ではアフリカーナー(南アフリカのオランダ系入植者)の経営者にテロリスト呼ばわりされる毎日だったという。ここには書かなかったが、チンクスは奨学金や会社や経営者の名前を今でもはっきりと憶えている。そのときの悔しい思いとともに、それらの名前が胸に刻みつけられたのだろう。チンクスの祖父、同じ名前のチンガイラ・マコニムブーヤ・ネハンダらと1896年の「第一次チムレンガ」(植民地支配に対する闘争)を戦い、最後は首をはねられてその首がヴィクトリア女王に献上された人物である。こうした歴史を踏まえながらも、チンクスは人種融和を語る。

 「同志ムガベ・・・われわれは世界で最高の指導者を戴いていると思うが・・・彼はもう殺すなといった。おれはもう殺したくない。おれたちは殺した。でも、もういい。だから、同志ムガベはこう言うんだ。許せ、忘れろと」

 「あなたは今でも融和の歌をうたっているのですか?」

 「そうだ!こういうことを教えたいんだ・・・さあ、この道を行こう。おれたちはもう闘っているわけじゃない。お前の兄弟を殺してやる、なんて言ってはいけない」

現在のムガベしか知らない人は、何を言っているのかわからないかもしれない。独立後、ジンバブウェの大統領になったムガベは、人種対立を乗りこえた融和の道を示して世界の注目を集めた。この国が理想を追い求める実験として、光り輝いて見えた時期が確かにあったのだ。チンクスはいまだ、その夢を追い続けている。

ぼくにはもうひとつ、聞いておきたいことがあった。彼が実際にフリーダム・ソング「マルザ・イミ」を歌い、兵士たちを鼓舞する映像がある。そのなかで、兵士たちがみな笑っているのがぼくには印象的だった。過酷な戦闘の真っ只中で、どうして彼らは笑うことができたのか。また、彼らを鼓舞する立場にあるものとして、チンクス自身は彼らを笑わせようと考えていたのか。

 「おれはエンターテイナーだ。おれは士気(モラール)を与え、士気を高める。士気ってわかるか?ハッピーな気持ちの高ぶりだ。いいか、30パーセントの士気、70パーセント、80パーセント・・・いちばん低いところから高いところへ持っていく。いつだって、いちばん高い士気がおれは欲しいんだ。いちばん高い士気、いちばん高いハッピーネス。人びとの前に立って人びとが十分ハッピーでないとわかったら、楽しませたらいい。人びとに高い士気を与えたら、すべてのことをハッピーに受けとめる。おれが『敵は悪い』と言ったら、きみがいい気分なら聞いてハッピーになるだろう。でも、そうでないときに言ってもダメなんだ」

 「つまり、エンターテイナーはまず人びとをハッピーにしなくちゃいけないってことですね。人びとがハッピーな状態であれば、彼らを教育することができる、と」

 「そう。まずハッピーな基礎があるから、人びとはおれの言葉を受け取るんだ」 

これこそまさに、ぼくが聞いてみたかったことだった。戦争のときだけでなく、ジンバブウェの音楽には人々を教育するという役割がある。とは言っても、説教臭いものではなくて、笑わせて笑わせて何かに気づかせると言ったようなものだ。チンクスは戦争中にすらそれを意識してやっていたのだということがわかってたいへん感銘を受けた。ちなみに「マルザ・イミ」とは「敵は負けている」というような意味で、「マルザイミ~、マルザカ~♪」というコーラスをバックに、チンクスが次々にその日の戦果を歌いあげていったのだという。つまり歌詞のほとんどはその日に起こったことから、即興的に作られたものだったのだ。「あなたはジャーナリストでもあったんですね」「そうだ(Yes, I am)」「ん?そか、今もですね(you are)」「いや(笑)、以前はね(I was)。今は芸術家だと思っているよ」

チンクス・・・とにかく強烈な人物だった。ZANU=PFの支持者にはこういう抗いがたい人間的魅力を持った人物がいることも確かである。彼の被差別体験は強い印象を残したし、現在のムガベ政権が白人農場主に対してとっている過酷な政策を支持しているにもかかわらず、彼が人種融和の理想をいまだに信じていることも嘘ではないだろう。

レジ、フランクとチンクスを自宅まで送っていった。すっかり気に入られたようで、チンクスはぼくの肩に手をまわして、「ジンバブウェの車の70パーセントは日本製だぞ!」とか言っている。最後に「死ぬときはジンバブウェで死ねよ!」などと過激な愛情表現をしてきたので、「いや、母さんが泣くし。それにガールフレンドもね(←いないけど、見栄をはってみた)」と答えた。チンクスは大笑いして「つれてこい。世界を見せてやるといってな!」と言い放った。しばらくして思い直したように「やっぱり、ジンバブウェでは死ぬな」と言う。「お前がジンバブウェで死んだら、おれは墓を掘り起こして、『何で死んだんだ!』とお前の頭を粉々に砕いてやる!」「うわーやめてくださいよ。天国でも頭は必要だから!」 ・・・戦争で死んだたくさんの仲間たち。チンクス自身もたくさんの敵を殺した。独立後も仲間のミュージシャンは次々と死んでしまった。理由がなんだと考えるにせよ、理想を追い求めていた国がこんな状態になってしまったことにいちばん納得のいかないものを感じているのはチンクスなのかもしれないと思った。

写真は上から、ヘラルド社のライブラリーでボックスの整理をする(ふりをする)レジ、コムレイド・チンクスと

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2008年9月7日(日)

朝からチクワナ・マーケットで野菜や生きた鶏を買う。野菜はひと山100~300Zドルぐらい。日本円で150円から500円といったところだろうか。日本でもこの値段なら「安い」とは感じないだろう。何度も言うようだが、平均収入の低いジンバブウェでの話である。庶民向けの野外マーケットでこの値段だから、ジンバブウェで野菜を手にいれるのはたいへんだ(とりわけ、レジのような糖尿病患者には、野菜を取ることは健康維持のために欠かせないことなのだが)。ハラレ郊外のタウンシップには3日に行ったマコニやここのような野外マーケットがあちこちにある。とりわけ、チトゥングウィザはハラレから独立した大きなベッドタウンなので、こうしたマーケットが多い。ミーリーミール(トウモロコシ粉)売りの男が、「だんな、フラワー(粉)あるよ!やすいよ!」と囁きかけてくる。一瞬、「花?(フラワー)」と混乱しながらも、「こいつが買い手」とレジを指差す。男は「だんな~」とレジのほうにぴょんぴょん飛んでいった。

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家に帰ってしばらくすると、去年LPやシングルをたくさん売ってくれたレコード売りの好青年が部屋に入ってきた。おおっ、今年もレコードかき集めてきてくれたのかな? 「ひさしぶ・・・」と挨拶を終えるか終えないうちに、レジが「アンジーの弟のフランクだ」・・・ええっ、そうだったの??レジがいなくなってから、フランクに「お前、アンジーの弟だったの?」と聞いた。「知らなかったの?」「うん・・・」「みんなぼくらが姉弟かどうか聞かないよ。そっくりだから。ほら」と、前歯を見せた。アンジーと同じところに、不自然なくらいの隙間があった。長いまつげとぱっちりオメメもそっくりだ。

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昼食の仕度がはじまった。レジが外で牛肉を焼きはじめる。うわぁ、ピクニックみたいで楽しいねぇ・・・などとのん気なことを言ってはいけない。ようするに、今日も朝から停電なのである。肉の焼きかげんは肉汁したたるミディアムレアー・・・・なんて洒落たことを言っている余裕はない。最近、ジンバブウェではコレラ流行の兆しが見られ、チトゥングウィザだけで11人が亡くなったそうだ。電気同様水道も止まることが多く、衛生状態の悪化が伝染病の蔓延につながりはじめている。レジたちは客人のひ弱な胃袋がひっくり返らないように、市販の水を用意していてくれた。お金に余裕があれば普段からそうしたいところだろう。

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マーケットで買ってきた鶏はアンジーが自ら絞める。「日本でも鶏を自分で殺すことあるの?」「最近はないなぁ・・・」「ふふ、やってみたい?」 丁重にお断りした。アンジーは鶏の喉元にナイフを当てると、すっと静かに横にひいた。鶏は暴れることもなく、この世で最後の光景をぼんやり眺めながら、ぴくぴくと痙攣して息絶えた。動かなくなった鶏をお湯に沈めて、アンジーは鼻歌混じりに羽根を抜く。今夜のおかずはチキンだね。

レジの焼いた牛肉で昼食。なんだかんだで、外で焼いて食べる肉はおいしい。


お腹がいっぱいになったところで、日本から持参したギターを弾きはじめる。ズング(変なヤツという意味のあだ名)や隣家の好青年ティりを前にレパートリーを何曲か披露。調子にのって自作曲「ラーメン・ブギ」を歌うと、これが大受け(ジュディやタレントは最後の日まで「ラーメン・ブギ~♪」と口ずさんでいた)。すると、ミュージシャンの血が騒いだのか、レジもムビラをとり出した。音楽上のパートナーだったジュリアスの死と生活難から、めったにムビラを弾かなくなっていたレジ。まだ指が上手く動かないのか、とつとつと確かめながらではあるけれど、ムビラを弾いてる。ほとんど「クララが立った」に近い感動を覚えた。

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しばらく椅子に座ってぼんやりしていると、ジュディが友だちを連れてやってきた。わらべ歌のようなものを歌いながら三人で踊りはじめる。カメラを向けると、ちょっと斜に構えた、ファッション誌から飛び出したようなポーズをとる。面白がって何度もシャッターを押していると、レジがやって来て娘たちの様子をうしろから愛おしそうに見守っている。三人娘は後ろから近づいてきたレジに気づいて、急におどけたポーズをとった。なんだかくすぐったくなるような、幸せな昼下がり。

夜は家族にズングも加わって、昼間絞めたばかりの鶏と大量の野菜で夕食。日本から持参したオーティス・レディングの生涯を描いたDVDを見る。日本に来たときにオーティスやライトニン・ホプキンスを聞かせてからというもの、レジはソウルやブルースが大好きだ。そして、一般にジンバブウェ人にオーティスやO・V・ライトなどのディープ・ソウルを聞かせると、激越な反応をする。この日もそうだった。みんなが「いい歌手だ・・・」と口をそろえる。ヒップホップが好きな若いズングですら「すごい」と声を失っている。「ジェームズ・ブラウンみたいだ」 そして、最後にオーティスが飛行機事故で死ぬと、レジは「事故じゃなかったかもしれないな」と呟いた。「白人のオーソリティに殺されたのかもしれないぜ」「・・・そうだな、真相はわからないけど、白人のオーソリティはオーティスが嫌いだったろうな。オーティスは人種の壁を越えて人とつきあっていたから」 レジは大きくうなずいた。

写真とビデオは上から、フランクとアンジー、肉を焼くレジ、鶏さんごめんなさい、レジがムビラを弾いた、ポーズをとる三人娘(左がジュディ)、三人娘のわらべ歌

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2008年9月6日(土)

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昨日の続き)
「レジ、あのことはどうなった?」
「ああ、あのことか」
「ずっと聞こうと思っていたんだけど、うまくいったのか?」
「うまくいったよ」
「それじゃあ、レジは・・・」
「そう、晴れてハラレ市民だ。そして俺とアンジーは夫婦だ」
「そうか!おめでとう!おめでとう!」

???わけがわからない?

つまりこういうこと。レジは以前から市民権を取ろうと画策していた。モザンビークマラウィ出身の両親のもとに生まれたレジは、ジンバブウェの市民権を持っていなかった(4年前、日本に来たときも、日本の糖尿病患者と交流するということで特別な許可を得なければならなかった)。両親が外国人であることで、彼の地位は不安定なものだった。実際、政府は以前から周辺アフリカ諸国や農村部からジンバブウェの都市に押し寄せるスクワッターたちを追い返そうと躍起になっていた(8月20日の日記参照)。そんななか、レジはジェシカという女性と出会った。おそらく、ぼくとレジが知り合った次の年、レジがⅠ型糖尿病を発症したころのことだ(最初の年には別の彼女がいたから)。やがて二人の間には娘が生まれ、ジュディと名づけられた。それでも、レジはジェシカと正式に結婚しようとはしなかった。市民権を持たないレジがそのことを理由に国外に追放されることになったら、ジェシカやジュディもハラレにはいられないかもしれない。不安定な身分がレジに二の足を踏ませていた。それでも二人がいっしょに暮らすためには、兄妹と偽るより他なかったのだ。そこに、あのムランバツィナ作戦である。政府は実際に周辺アフリカ諸国や農村部の出身者をもと来た場所に追い返した。レジは糖尿病患者に対する支援が認められてハラレに留まることを認められたが、その後も市民権を獲得しようと動きまわっていた・・・もうおわかりでしょう。今までレジの妹として紹介してきたアンジー(アンジェラ)は彼の愛する妻ジェシカであり、ジュディはレジの姪(妹アンジェラの娘)ではなく、レジとジェシカの娘だったのだ。

昨年、いろいろ不審な点があったので問いつめたところ、今書いたようなことを告白された。「来年になったら、市民権が取れる。あと半年なんだ。それまでに何かあったら、大変なことになる」 日本の友だちにも絶対に言わないと約束して帰ってきた。だから、本当は今回ハラレ空港で再会してから、ずっと聞きたいと思っていたのだ。まあ、レジとアンジー(ジェシカ)がいつになくベタベタしていたので、そうじゃないかとは思っていたんだけどさ。ちなみに、妹のアンジーは別に存在します。でも、今さらアンジーをジェシカと呼び直すのもかえってややこしいので、呼び方はこのままアンジーで行きます。みんなもアンジーって呼んでるみたいだし。ちなみに、ジュディはレジのことを「レジ」と呼んだり、「ダディ」と呼んだり、まだちょっと混乱している(?)みたい。何はともあれ、おめでとう。おめでとう、レジ。おめでとう、アンジー、ジュディ。これで少しは安心して暮らせるね。

明け方まで飲んで、レジの家に帰って倒れるように寝た。二日酔いで一日動けなかった。

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2008年9月5日(金)

ヘラルド本社再訪。ところが、今度は変電器の調子が悪く、100枚余りスキャンしたところでまたしても充電切れ。月曜日に三度訪問することに。

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チトゥングウィザに戻り、レジ、アンジー、フローレンスと、チャールズの車でブックカフェへ。マウンギラ・エナリラの演奏を聞く。トイレに行く途中、見知らぬアフリカ人に声をかけられた。「おれのこと覚えてない?」「?」「ジャナグルのベースだよ」「ええっ!ほんと?」「お前、オープニング・アクトやっただろ。ほら、あの南アフリカ風の曲!」「そうそう!」 ジャナグルはクライヴ・マルンガさんが若いミュージシャンを集めてつくったグループ。マルンガさんの奥さんがジンバブウェで長年音楽をプロデュースしてきた日本人女性=高橋朋子さんということもあって、何度も来日している。一昨年、ぴがぴがナイトの企画で来日公演を行ったときには、われらチキリカがオープニング・アクトを務めたのだった。彼(名前はポール)はそのときのことを憶えていてくれたのだ。「ジャナグルはもう日本に来ないの?」「ジャナグルはあのツアーのためのユニットでね。今はジャズをやってる」と、ポールはブックカフェの向かいにあるジャズ系ライブ・ハウス=マネンズバーグを指差した。「これからライブなんだ。見に来ないか」「ごめーん、友だちとこっちに・・・」「なんだ、やっぱトラディッシヨナルかぁ」「いや、ジャズも好きだけど、今日は友だちと来てるしさ・・・」「そうか、じゃあ、メール・アドレス教えてくれよ」 アドレスを交換してブックカフェに戻ってみると、みんなでぼくを探しに行くところだった。ごめん、ごめん、心配かけちゃったね。

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マウンギラ・エナリラの演奏は相変わらず素晴らしかった。みんなで踊りまくる。踊らずにはいられない。昼間、フローレンスに「今日はどうだった?」と聞かれたので、「きみは?」と聞き返すと、「退屈だった。んもぉおお、すごく退屈だった」とはき捨てるような答えが返ってきた。そのフローレンスがめいっぱいお洒落をして、楽しそうに踊っている(最後は踊りつかれて車で休んでいたけど)。どっしり構えていたチャールズが、踊りだした白人を見て「イギリス人ってのはほんと、動きに柔軟性がないなぁ」と囁いた。「アジア人だって同じようなもんだよ」「いや、だいぶましさ」 そういうとチャールズは太鼓腹を揺らしながら、ゆさゆさと踊りだした。あまり柔軟な動きとは言いがたいが・・・チャールズも楽しかったのだろう。

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チトゥングウィザに戻ってから、男3人で飲みなおすことに。チャールズの車でバーに向かう途中、すごいものを見た。暗闇のなかに浮かぶ人影・・・チャールズはすばやく車を止め、レジは「ちょっと待ってろ」と言ってチャールズと車から飛び降りた。「おい、何してるんだ!?」「手に持っている煉瓦はなんだ!?」 暗闇に目が慣れていないぼくには見えなかったが、男は人家に煉瓦を投げつけようとしていたらしい。「お前、泥棒だな!」 男が甲高い抗議の声をあげると二人は殴りかかり、車に引きずり込んだ。助手席でレジに襟首をつかまれながら、男は泣き出しそうな声で許しを乞うている。レジとチャールズは有無を言わさず、大通りでたまたま通りかかった警官に男を引き渡した。「乱暴に見えるかもしれないけど」 レジが言った。「こうするしかないんだ。警官は自分からは何もしてくれないし・・・さあ、飲みなおしに行こう!」

もう、この時点で何時だかわからない。あとでアンジーに聞いたところによると、ライブが終るのがけっこう遅かったらしいから、2時ごろだったんじゃないかと思う。だいぶ飲んでから、気になっていたことをレジに聞いてみた。
「レジ、あのことはどうなった?」
「ああ、あのことか」
「ずっと聞こうと思っていたんだけど、うまくいったのか?」
レジの答えは・・・(続く)

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写真は上から、マウンギラ・エナリラ、踊りまくる人々、アンジー(左)とフローレンス、飲み明かした朝。

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2008年9月4日(木)

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乗り合いタクシー(ミニバン)でシティ・センターへ。チトゥングウィザからシティ・センターまでの運賃は、時間帯にもよるが大体300Zドル前後。日本円にすると450円ぐらい。車で30分の距離がこの値段だったら、日本でも高いと感じるだろう。ましてや圧倒的に平均収入の低い(教師の月収が1万円ぐらい)ジンバブウェでの話である。乗り合いタクシーやバスに乗って職場に行ったはいいが、給料よりも交通費のほうが高かった、なんてことになりかねない。それでなくても、警察をはじめとする官公庁では給料の未払いが続いている。そんなわけで、職場を放棄する人が増えているという。

シティ・センターに行く目的は、ヘラルド紙の本社に行って古い新聞記事をスキャンしてくることにあった。去年も音楽関係の記事をコピーしてもらったのだが、日付が抜けていたりして資料としては役に立たないものも多かった。そこで、今回はノートパソコンと薄型スキャナーを持ち込んで、自分で取り込んでしまおうというわけ。ともあれ、全部スキャンしていたら、時間やお金(記事をひとつコピーするごとにお金をとられる)がいくらあっても足りない。今回は対象をトーマス・マプーモにしぼることにした。ありがたいことに、一年間のあいだにヘラルド紙のライブラリー担当=シェパード氏がマプーモ関連の記事をボックスにまとめてくれていた・・・ところが、肝心のPCが充電不足。おそらく夜中に停電があったため、十分に充電できなかったのだと思う。その上、電源アダプターまで忘れてきてしまった。この日は数十枚スキャンしただけで、後日出直すことに。

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せっかくシティ・センターに出たので、CDを見ていくことにする。レジがそのまえにダラスに会っていこうという。ダラス?あのアルファ・ブロンディの?(昨日の日記参照)・・・言われるままについていくと、ジンバブウェ国立銀行の正面、大きなビルの1階にあるこぎれいなオフィスにヤツはいた。三つ揃えのスーツに身を包み、パリッと背筋を伸ばした姿は、昨夜ムカンヤ・バーで会ったヨレヨレの飲んだくれと同一人物とは思えない。頭がくらくらする。ダラスはここで、弁護士の秘書をしているという。

ダラスと別れて、ファースト・ストリートへ。ここはハラレの目ぬき通り。今も多くの人であふれていて大変にぎやかだが、9年前、最初に来たときと比べると街が全体的にへたっている。穴の開いた道、崩れかけた壁、ちらかりっぱなしのゴミ・・・そうした細かな雑音がオシャレな街をどんどん侵食している。「ほら、あそこ」 レジの指差すほうを見ると、無残にも崩れた店の残骸があった。「ミーガン(ニュージーランド出身のダンサー。ジンバブウェ在住)お気に入りのバーだよ」「ええっ!」「この間二階の床が抜けて3人亡くなったんだ」「俺たちもあそこでビール飲んだじゃないか。死んだのは俺たちだったかもしれないな・・・」「そうだよ」

Ok
ファースト・ストリートの半ばぐらいにあるOKストア。ジンバブウェを代表するスーパーマーケット(南ア資本?)だが、見事なまでに棚には何もない。2階のミュージック・ショップも閉鎖されていた。他の店に行っても、からっぽの棚が目立つ。こうした「物不足」を招いた価格半減令(インフレを食い止めるために売値を今までの半分にしろという政策。卸値を下回る値段で売ることを強いられた商人たちは、商品をブラック・マーケットに流した。結果、商店からは物が消え、ブラック・マーケットの横行で物価はますます高騰することになった)は廃止されたはずだ。あとになって、その謎がとけた。TMという別のスーパーに卸のトラックがついたときのこと。スーパーのレジに多くの人が並ぶ一方で、トラックに群がる連中がいる。彼らの多くは卸業者から商品を買い占めていく。それをブラック・マーケットに流すのだ。商品はあっという間になくなってしまうから、買い占められたものを言い値で買うしかなくなる。こうして、「物不足」は続き、物価はますます高騰していく。つまり、人びとがブラック・マーケットで物を売るウマミを覚えてしまったということだろう。皮肉にも、「価格を吊り上げる悪徳業者を一掃する」という名目で出された価格半減令が安定した経済を破壊し、買占め業者をはびこらせる結果となった。

高級デパートのメイクルズへ。さすがにメイクルズともなるとからっぽの棚を並べておくようなことはしないが、物があふれているわけではない。商品と商品の間隔を広くとってごまかしている感じ。ここのミュージック・ショップはまだやっていた。アンディ・ブラウンの『ハラレ』など、他では手に入りそうもないCDを買う。しかし、高い。計算すると一枚5000円ぐらいする。さすがに他のところはこんなに高くはなかったが、CDの値段は今や日本と同じかそれよりも高いぐらいと考えたほうがいいだろう。

500million
銀行のATMには人びとが列をなしている。先月、大胆なデノミが行われてからというもの、通貨の量は極端に抑えられている。インフレ対策かと思ったら、そうではない。紙が不足しているのだ。ただでさえ、何度もデノミを行っては新札をすり続けてきたわけだが、ジンバブウェに紙を輸出してきたドイツが禁輸措置をとったため、お札を刷りたくても刷る紙がないのだ。銀行からの引き出しも一日500ドルまでと決められており、給料が銀行振り込みで支払われる会社員や公務員が、毎朝銀行の前に行列を作ることになる。こうした事態を打開するために大統領が打ち出した起死回生の政策。それは・・・

昔のコインを使おう!(額面どおり、デノミ後の価値で!)

無茶苦茶である。こうしてゴミ同然だったコインは突然価値が上がり、コインをとっておいた人びとはたいへん得をしたそうだ。ただ、それもほんの半月で価値が下がり、いまではどんぶりいっぱいの硬貨を用意しないと何も買えない。

写真は上から、シティ・センター①(セカンド・ストリート)、シティ・センター②(サモラ・マシェル・アヴェニュー)、OKストアのからっぽの棚、デノミする前の5億Zドル札。

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2008年9月3日(水)

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チトゥングウィザの朝。昨夜はめずらしく停電がなかったが、朝、必要なときにマゲッツィ(ショナ語で「電気」)が来ない。女性たちは早起きして、火を起こし朝ごはんをつくる。薪を焚いてつくったサザ(トウモロコシの粉を練ってつくるジンバブウェの主食)はおいしいが、家事をこなす女性たちは大変。ジンバブウェの女性はきれい好きだ。毎朝、床をピカピカに磨きあげる。レジの家にはアンジーのほかに、タレントという若い女の子がいる。彼女もレジと同じⅠ型糖尿病で、日本から援助されたインシュリンを受け取るかわりに、家事を手伝っている。食事もレジやアンジーといっしょに取る。アンジーとタレントがかいがいしく働くなか、怠惰な客人はのんびり起きてきて、彼女たちの沸かしたお湯で沐浴する。せめて何か仕事を手伝わなくては・・・と思うのだが、ぼくにできることはなにもなさそうだ。呆然とするなか、すべてがテキパキと片づけられていく・・・

そんななか、レジの携帯に電話があった。しばらく相手と話したレジはニヤリと笑って、「誰だと思う?」「?」「チンクスだよ」「ええっ!」 チンクスとは、ジンバブウェのミュージシャン=コムレイド(同志)・チンクス(本名=チンガイラ・マコニ)のこと。解放闘争のときにゲリラに加わり、兵士たちを鼓舞する「フリーダム・ソング」を歌った。独立後はシンガーとして、のちにジンバブウェを代表するグループに成長するイランガと活動を共にした。そうした経歴からも想像がつくように、現在もZANU=PFムガベ大統領の強力な支持者である。ともあれ、ジンバブウェ音楽の歴史に残る人物であり、前日レジに「チンクスに会わせてやるよ」と言われたときにはたいへん驚いた。元ゲリラのミュージシャンはレジの家から10分と離れていないところに住んでいる。「もしもし、はじめまして!」「おお!きみが来るのを楽しみに待っていたよ!」「光栄です!さっきもあなたの歌を歌っていたところですよ、マールザイミーマールザーカー♪って」「そうかそうか、ワッハハハ」 日本人が有名なフリーダム・ソングの一節を歌うのを聞いて、チンクスは上機嫌だ。滞在中に会って話を聞く約束を取りつける。

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レジ、アンジー、それと隣に住んでいるフローレンスという女の子とマコニ・ショッピング・センターに行く。フローレンスはいかにもアフリカン・ビューティといった感じ。シャイでありながらハキハキとした身体の動きに生気がみなぎっている。レジは「けっこうカワイイだろ。アタックしちゃえよ、ヒラゲサン」とか言ってヒヒヒと笑っている。市場は活気にあふれている。女性たちが日用品を買っている間、男二人でサンダルを買いに行く。ひらげはちょうどいい大きさのものがあったので、青い柄のサンダルを買った。足の大きいレジはサイズの合うものを探すのにのに苦労していたが、先のとんがったカッチョイイのを見つけてサイズが少し小さかったのに思わず買っていた。女性陣と合流して、今晩のおかずの鶏肉などを買う。あちこちで、「マカディ(こんにちわ)」を連発して受けを取る。「わーあんた、ショナ語しゃべれるの!」「ちょ、ちょっとだけ・・・」「みんな、このチャイニーズはショナ語しゃべるんだってさ、ワハハハ」 帰りにミスター・ミートというレストランで食事。久々に「ゾンド」(牛のかかとを煮込んだ料理)を食べる。美味い。

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レジの家の近くで女性たちと別れ、近所のムカンヤ・バーにビールを飲みに行く。レジは退屈な日常を紛らわすため、悪友たちと携帯メールでやりとりしている馬鹿話をたくさん披露してくれた。例えば、「この間、教会に行ったら隣の女性が煙草を吸っているんですよ。わたしはびっくりしてビールを落としそうになりましたよ」とか。あるいは、「俺がダチのち○こしゃぶったら、ビールおごってくれるか」と賭けを持ちかけ、友人の股間から差し出されたソーセージにむしゃぶりついて、まんまとビールをせしめた男の話。最後は友人が知らない間にソーセージを食べてしまう。そうとは知らずにいつものように「俺がダチのち○ぽを・・・」とはじめた男は・・・。「そういうの、日本ではクダラナーイっていうんだよ」 大笑いしながら、ぼくも「ウンコ味のカレーとカレー味のウンコ、どっちがいい?」とか日本版「クダラナーイ」話で応戦した。これが30代後半と40の男たちのすることか(笑)。

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レジに新しい友人を紹介される。チトゥングウィザで生まれ育った粋なヤツ、ダラスだ。コート・ディヴォアールのレゲエ・ミュージシャン=アルファ・ブロンディを敬愛しており、「アルファ」と呼ばれると上機嫌で返事をする。店の外に出ると、友人たちが三々五々集まってくる。気のいいスケベおやじのズラ(名前はズラなのにスキンヘッド)、太鼓腹のチャールズ、クリケット選手のアルヴィン。みんなでビールを酌み交わす。

旧交を温めたところで、とりあえず今日は帰ることにする。家にはアンジー、タレント、ジュディの他にフローレンスもいて、女性陣勢ぞろい。ビールを飲み続けながら、持参したチキリカのニューアルバム『Boo Booo...』(近日発売!)を聞く。みんな気に入ってくれた。なかでも、幼いジュディがノリノリで「ニワトリのダンス」を披露してくれたのが嬉しかった(こんどライブでパクらせてもらうよ、ジュディ!)。この日もめずらしく、夜の停電はなかった。

↑ジュディのニワトリ・ダンス。

写真は上から、ムカンヤ・バー外観、マコニ・マーケット、ムカンヤ・バー、(左から)チャールズ+アルヴィン+ズラ+レジ

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2008年9月2日(火)

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ようやく、ジョハネスバーグまできました。ハラレまでもう一息。

毎度のことではありますが、香港からジョハネスバーグは14時間という長旅のうえ、太陽から逃げるように西へ西へと飛んでいくので、いつまでたっても夜が明けません。よく寝たと思って目を覚ますと、まだ旅程の半分もこなしていなかったり。もちろん、機内は夜モード。そのうえ、目的地の気候に合わせるためか、異常に冷えている。乗客に慣れてもらうためなのでしょうが、だれも野宿するわけじゃないんだから、寝るときぐらい普通の気温にしておいてくれてもいいんじゃないかと思うのはぼくだけでしょうか。

というわけで、一年ぶりのアフリカです。これから日本時間で17時40分の便でハラレに飛びます(以上、ジョハネスバーグの空港からリアルタイム入力)。

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ハラレ到着。ジンバブウェは南アフリカと同じく南半球なので、8月の初頭あたりはかなり冷え込むのだが、9月になるともう暑い。夏真っ盛りという感じ(←いまだにこの国の自然のサイクルがわかっていない)。日本と違って乾燥しているので、じっとりとしたいやらしい暑さではないが・・・それにしても乾きすぎている。今年はいつになく乾燥している。レジとアンジーがジュディをつれて、クダの運転で迎えに来てくれた(写真はグレイト・ジンバブウェ遺跡を模したハラレ国際空港の管制塔)。

去年に引き続きチトゥングウィザにあるレジの自宅にお世話になる。レジが経営しているビデオ・クラブ(貸ビデオ屋)のディスプレイに使っている部屋にベッドがしつらえてあった。以前定宿にしていたセローズ・ホテルなんかよりずっと居心地がいい。後で述べるようなジンバブウェの経済状況では、ビデオ・クラブの収入はばかにならない。そのスペースを使わせてくれるのだから、ありがたくていたたまれない。

チャールズの車でシティ・センターに戻り、ブックカフェでホープ・マシケ&カクウェというグループの演奏を聞く。ヴォーカルのホープ嬢はどこをどう聞いてもチウォニソ。レパートリーもチウォニソのカヴァーが多い。こんなに早くチウォニソのフォロワーが出てくるとは思わなかった。ブックカフェを根城にしていたチウォニソはアメリカに行ってしまったらしく、その後釜に収まったのがこの若いグループということらしい。はっきり言って、以前のジンバブウェ音楽のレベルからすると、ブックカフェでメインアクトを張るようなグループではない。でも、サイド・ヴォーカルの女の子がときどきリコーダーを吹いたりするのがいいなぁ(ちょっとかわいいし)。チウォニソの影響下から脱してオリジナル中心にやっていくと、すごく面白くなりそうな気がする。大物が国外に逃げてしまった分、若い人たちが失敗スレスレの型破りな音楽をやるスペースができるのなら、それはそれでワクワクする。


ホープ・マシケ&カクウェの演奏(別演奏はこちら

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2008年9月1日(月)

2008年9月1<br />
 日(月)
成田にて。今からジンバブウェに行きます。12日に帰ってきます。

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