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2008年8月9日(土)

Img512ウェルズ恵子『黒人霊歌は生きている 歌詞で読むアメリカ』(岩波書店、2008)を読み終わった。黒人霊歌について書かれた本は数多くあるが、この本の特徴は霊歌の収集・研究、受容の歴史をたどり、あとから付け加えられ修正された部分を排して、本来の霊歌が持っていたニュアンスに実証的に迫ろうとしている点にある。

「黒人霊歌のパフォーマンスが主張するものはなぜこんなにも多様なのか。本当の黒人霊歌はどれなのだろうか。甘美さも清らかさも泥臭い声も乾いた感じの歌詞も、どれも本当かもしれないが、本当の『本当』があるようにわたしには感じられた。奴隷制時代の歌が知りたい。もともと口承だったとはいえ、いまでは楽譜で流布している黒人霊歌。いったいその歌はいつどこで紙上に固定されたのか」(vii-viii)

もちろん、著者は、奴隷解放運動ハーレム・ルネッサンス、あるいは公民権運動において霊歌が果たした役割を理解している。しかし、一方で、そうした運動に転用される過程でこぼれ落ちてしまったものを拾い集め、のちに読みこまれた意味を引きはがして、霊歌本来の姿を明らかにすることに意義を見い出している。

こうした作業を実証的にやろうとすると、思いのほか難しい。なぜなら、霊歌のシンプルな歌詞から確実に読みとれる意味だけを拾いあげようとすると、言葉がどのように受けとめられていたのかという大事な点について、あまり大胆なことは書けなくなってしまうからだ。著者は霊歌が苦難に満ちたアフリカ系アメリカ人の体験に根ざしていることを認めながらも、歌詞の分析についてはストイックなまでに宗教的解釈にこだわっているように思える。例えば、ヨルダン川をテーマにした霊歌についての一節(76-80、88-90)。これらの歌について、霊歌を歌っていた人々は死による解放と現世における解放という二つの希望の間を行き来していたのであり、ヨルダン川を越えてたどり着く場所は天国であると同時に北部でもあったと考えることもできる。しかし、北部への逃亡という「現世における解放」が宗教的な歌詞に託されていたかどうかを実証することは困難だ(公民権運動のなかで「創作」された可能性もある)。だから、著者はあえてそうした解釈には触れないようにしているのではないか。本の後半、伝記的事実がある程度明らかな辻説法師=ブラインド・ウィリー・ジョンソンやブルースマン=ロバート・ジョンソンについての章が、現実の出来事と彼らが心のなかに抱いている神や悪魔の世界が交錯するように書かれているのとは対照的だ。ともあれ、宗教的なことに疎いぼくには、興味深いことが多かったのだが。

霊歌の研究・収集の歴史も丁寧にたどられている。霊歌をそのままの姿で保存しようとしたのは白人の研究者がほとんどで、アフリカ系識者はそれを洗練されたスタイルに編曲して使おうとした。その意味で、編曲からこぼれ落ちたものを拾いあげながら新しい作品に生かそうとした黒人女性=ゾラ・ニール・ハーストンはやはり特異な人だったと思う。そして、ブラック・ミュージックの行方としては、スタイルとしての霊歌は残らなくてもいいのだと思う。「あとがき」で著者が語っているように、ときには亡霊になった霊歌の歌い手たちと戯れるのも楽しいだろうが・・・

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