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2007年12月15日(土)

多民族研究学会第9回大会@立教女学院短期大学。今回も盛りだくさんの内容だった。

国士舘大学/工学院大学・野村史織先生の発表は、1910~20年代のアメリカにおいて、『日米新聞』のような日系メディアに投稿された文学作品、エッセイ、投書のなかで、日系女性があるべき家庭の姿をどのように表象していたかを追うもの。移民に対する反感が強まるなか、日系人コミュニティは自分たちが「健全な」家庭を通じてアメリカ社会に同化できることを示す必要に迫られていた。こうした必要に答える形で女性たちも良き妻・良き母としての役割を受け入れるような言説を量産していく。そんななかにあって、対抗的な声をあげる市岡旭蘭のような女性もいたということが印象に残った。

早稲田大学・五島一美先生の発表は、19世紀チカーノ文学をテーマとしたもの。公民権運動以前のチカーノ文学は黒人や先住民と一線を画することによって、自分たちの「白人性」を証明しようとした。そのことを裏切りや逃走と考えるのはたやすいが、それもまたギリギリの状況下における彼らの抵抗だったのではないか・・・というお話だったと思う。だとすると、アイルランド移民やユダヤ移民が自分たちの白人性を証明するために黒人を戯画化してみせたミンストレルにも通じる話で、大変興味深かった。アイルランド系やユダヤ系の黒塗り芸人、あるいは自らミンストレルに身を投じた黒人たちと同じように、チカーノの人たちもこうした試行錯誤のなかで、本質主義的ではない、境界線上を行き来するアイデンティティを模索していったのだろう。

ゾラ・ニール・ハーストン『騾馬とひと』についての大阪大学・田中千晶先生の発表。曖昧で統一性のないハーストンのテキストは、その曖昧さ、不統一ゆえに一種のvernacularとして白人の支配的なテキスト(直線的な語り?)に対抗しうる力強さを獲得している。ぼくもハーストンについては同じ印象を抱いていた。こうした曖昧さ・・・というより、不統一性は、彼女のテキストがやり直しのきかない口承文化を色濃く反映していることに由来しているのではないだろうか。そうしたオーラルな「方言(vernacular)」が抑圧された人々に抵抗する力を与えている・・・というのは大事な視点だと思う。

四日市大学・山本伸先生の講演。霊的な存在や自然がないがしろにされたコミュニケーションには問題があると、ぼくも思う。カウンター席を嫌うような密なコミュニケーション(それはコミュニティと言い換えてもいいのではないか)のなかに、そうした問題を解決する糸口があるとも・・・ただ、そうした密なコミュニケーション、狭いコミュニティのつながりには、時に「抑圧」といってもいいくらいの息苦しさがあることも確か。だからこそ多くの人々がそこから逃走してきたのではないかとも思う。沖縄やカリブにぼくらが失ったコミュニケーションの濃密さを見いだしても、そうした葛藤はなくならないのではないか・・・というのがぼくの意見。何はともあれ、いろいろと考えさせられるところの多いお話だった。

そして、最後にエンターテイメント担当のひらげが、セネガル出身の映画監督ジャブリ・ディオップ・マンベティの短編映画『ル・フラン』を紹介・上映した。懇親会で親交をあたためたあと、何人かの先生方とカラオケへ・・・今日は飲みすぎなかったよ(笑)。※ここに書かれた発表の内容は、あくまでもひらげの聞いた印象です。文責はひらげにあります。

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