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2006年8月30日(水)

Africajin_toshikeiken先日亡くなられた吉國恒雄先生の『アフリカ人都市経験の史的考察 初期植民地期ジンバブウェ・ハラレの社会史』(インパクト出版会、2005)を読み終わった。ジンバブウェの首都ハラレ(旧ソールズベリー)は、一攫千金を求めるイギリス人によって人工的につくられたフロンティア植民地であった。当初、そこに集まったのは白人入植者のほか、ニャサランド(現マラウィ)や北ローデシア(現ザンビア)、南アフリカといった近隣の国々から仕事を求めてやってきたアフリカ人出稼ぎ労働者だった。もともと、この地域(ジンバブウェ北部=マショナランド)で暮らしていたショナ人は、土地が豊かだったこともあって農業で生活の糧を得ることができた。そのため、仕事を求めて都市に移住する必要がなかったのだ。ソールズベリーにおけるローデシア国籍アフリカ人(≒ショナ人)の比率が50パーセントを超えるのは1950年代になってからのことである(ンデベレ人がヨーロッパ人に文字通り土地を奪われたジンバブウェ南部の都市ブラワヨでは状況は違っていた)。

流れ者の町としてはじまったハラレだったが、土地を買い定住するものが増えるにつれ、白人住民のなかにアフリカ人を町から排除しようとする動きが見られるようになる。彼らにとってアフリカ人が自分の名義で部屋を借りることは、町に売春宿が増えるのと同じくらい忌まわしいことだった。1907年、ソールズベリーの町議会は「原住民ロケーション」を開設し、翌年雇用者の敷地内に寝泊りする者以外のアフリカ人はすべてロケーションに住まなければならないと布告する。南アフリカのアパルトヘイトにも似たこの隔離政策は、必ずしもうまくいかなかった。白人の雇用者たちはアフリカ人労働者にロケーションに住居を構えるに足る賃金を払うよりも、彼らを自分の敷地に住まわせるほうが安上がりであることを知っていたからである。南ローデシア(現ジンバブウェ)の隔離政策は、アフリカ人を労働力としては必要とするが住民としては排除したいという矛盾した要求に答えなければならなかったのだ。

こうした人種差別的な政府の政策を、アフリカ人もただ受動的に受け入れていたわけではない。第一次世界大戦後、都市や鉱山で働くアフリカ人労働者たちは、労働争議を通して階級意識を高めていく。その中心となったのは、鉄道駅を中心に発展した南部の都市=ブラワヨだった。一方で、ソールズベリーなど都市周辺のロケーションでは、住民による相互扶助組織が生まれた。1917-8年のインフルエンザ大流行で多くのアフリカ人が命を落とすなか、いくつかの組織が「葬式協会」として活動を開始する。しかし、その活動は葬式代の肩代わりにとどまらず、医療や軽犯罪罰金の支払いから、ティー・ミーティング(文字通りの「茶会」ではなく、ビアホールなどで開かれる騒がしいダンス・パーティのこと)などの娯楽、ベニ(擬似軍楽バンド)や故郷の民俗芸能といった文化活動にまで及んだ。こうした活動がロケーションを「私的な使用人小屋やコンパウンドの溝からあふれ出たアフリカ人労働力を収容し、管理する公的な器というだけのもの」から、「住民がコミュニティとしてしばしば団結する、ひとつの『近隣』」へと変えていった(84)。また、コミュニティにおいてしばしば重要な役割を果たしたのが女性だった。ショナ人女性には他のアフリカ諸国からの出稼ぎ労働者と結婚し、ハラレに定住するものが少なくなかった。伝統的な社会の束縛から逃れながら、都会に生きる道を求めたこうした女性たちのなかから、ムバレのタウンホールにその名前が掲げられているマイ・ムソジのような指導者が現れた。

・・・と、この本から勉強したハラレの歴史を、ちょっと乱暴にまとめてみた(もちろん、文責はひらげにあります)。白人入植者、出稼ぎ労働者、ショナ人という重層的な構造を持つこの町の抱えるさまざまな問題の背景が少しだけ理解できたような気がした。例えば、なぜタファラのようなロケーションに住む人々が、互助活動に積極的なのか。レジナルドが糖尿病患者を支援する団体をはじめたとき、あっという間にボランティアの若者や看護師志望者が集まった。そこには、コミュニティ活動の長い歴史があったのだ。あるいは、そうしたロケーションの人々、とりわけ外国や農村から出てきた出稼ぎ労働者を一掃しようとする「ムランバツィナ(ゴミ一掃)作戦」を、出稼ぎ労働者の流れを調整することで経済をコントロールしようとしてきたこの町の歴史に位置づけることができるかもしれない。つまり、疲弊した経済を立て直そうとしたとき、現在のムガベ政権も労働者が「『まず都市部に足を踏み入れ、登録事務所を訪れ、雇用主に会い、ロケーションに入る(中略)ところから、雇用主を変え、雇用期間が完了して町を出るまで』の動きをつくり出そうとした」(23)白人ローデシア政権と同じことをくり返してしまったのではないか。しかし、ローデシア時代にそうであったように、そうした政策はおそらく功を奏さないのではないかと思う。

専修大学のウェブニュースに吉國先生がジンバブウェについて書いた文章がのっています。

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