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チキリカ、次回のライブは10月11日(日)高円寺Showboat に決まりました。対バンは都立大時代のお仲間=イオチキングくるくるファンタジーゆっくりりです。

ジンバブウェの歌姫チウォニソが来日します!!●富山で92年からやっているスキヤキ・ミーツ・ザ・ワールドというイベントに参加して、サカキマンゴーさんとも共演するらしい●チウォニソの出演は8月23日(日)富山県円形劇場ヘリオス、13:30会場/14:30開演、前売3500円/当日4000円/小中高生無料●他にも魅力的な出演者多数●ひらげもシンポジウムのパネラーなどの形で参加することになると思います●問い合わせ先はinfo@sukiyaki.cc、もしくはTEL:0763-22-1125(FAX:0763-22-1127)●チウォニソ@My Space●チウォニソ@ひらげ日記●ライブ動画20082007

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2009年7月11日(土)

Img326映画『ソウルビート・ストリート』(Good To Go、ブレイン・ノバック監督、1986)を見た。今さら?と言われるかもしれないが、ゴーゴーを聞きなおしている。地元コミュニティと結びついた「いなたい」音楽を求めるうちに、チャック・ブラウントラブル・ファンクを思い出した。どたんどたんと垢抜けないビートをくり返すゴーゴーは、どこか村祭りを思わせるローカル色強い音楽で、地元ワシントンDC以外ではほとんど大きな成功を収めなかったというのもうなずける。それだけに、それ自体地元密着のメタファーになりそうな、跳ねているのに重心の低いビートが気になってしかたがない・・・そんななか、石田昌隆さんの新刊書『オルタナティヴ・ミュージック』に、「ゴーゴーは今でもヴィヴィッドな音楽だと感じてしまう」(145)という文章を見つけて嬉しくなってしまった。そこでも紹介されているゴーゴーのライブてんこもりの映画がこれだ。

まあ、ゴーゴーの一時的流行にのって作られた(おそらく低予算の)映画なので、ストーリー映画としての深みは求めるべくもない。すっかり禿げあがったアート・ガーファンクル扮する新聞記者ブリスが、警察からの情報を鵜呑みにして書いたニセ記事の真相を求めて悪徳刑事ハリガンと対決する。レイプ殺人に関わったとして追われる身となった兄の無実を信じるリトル・ビートは、ブリスの真摯な態度に接して次第に心を開いていく。よくある「ヒューマン・ドラマ」だが、登場人物それぞれの背景がほとんど描かれていないので、行動に必然性が感じられない。リトル・ビートはなぜブリスが信頼できる人間だと認めたのか。ブリスは何がきっかけで自分のなかの人種差別に気づいたのか・・・全く見えてこない。「環境の犠牲者」なんて言葉は、それがどんな「環境」なのか一人ひとりの人生に即して描き出さなければ説得力を持つはずがない(それにしても、陳腐なセリフだけど)。まあ、この映画にそんなことを期待するのは、ないものねだりというものかもしれないけど・・・

結局、この映画の魅力は、音楽のカッチョよさ、ゴーゴーの背景となるワシントンDCの黒人街の雰囲気が捉えられているということにつきる。それは・・・素晴らしい。映像というのは恐ろしいもので、言葉が上すべりしているときでも泥臭い現実を伝えてしまうことがある。犯罪と隣りあわせで生きる人びとの生活と、そのなかに占める音楽の位置がイメージとして伝わってくる。陳腐なストーリーはそこに犯罪、人種差別、腐敗といった「名詞」の枠をはめてしまう。そこから一回きりの「動詞」としてはみ出す部分を、生々しい映像から垣間見ることができる。

↓ この人・・・

チキリカのメンバーに欲しい・・・

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2009年7月10日(金)

Wizダイアナ・ロス主演のミュージカル映画『ウィズ』(The Wizシドニー・ルメット監督、1978)を見た。『オズの魔法使い』をオール黒人キャストでミュージカル化し、トニー賞7部門を受賞した舞台(1975)の映画版である。

夢と現実のはざまで明けていくオズの国の朝。背景美術の素晴らしさに引き込まれる。くすんでいながら鮮やかな色彩には、グラフィティなんかにも通じるキッチュな感覚がある。スラムの廃墟、地下鉄、摩天楼・・・といったニューヨークのイメージが、もともとインダストリアルな国のチープなファンタジーである原作に不思議な生々しさを与えている。ドロシー(映画では24歳の設定になっている)を当時34歳のダイアナ・ロスが演じることに違和感はあるものの、それも予想していたほどではない(舞台では二十歳そこそこのステファニー・ミルズが演じていたのだから、無理があることは否定できないが・・・まあ、ダイアナ・ロスはそもそもカマトトだからね)。

それよりも素晴らしいのは、「かかし」役のマイケル・ジャクソン。うまく歩けない詰め物のかかしを演じながら、なおかつ華麗なステップを踏むという離れ業ができるのは、この人を置いて他にいないだろう。晩年の彼からは想像できない、豊かな表情に魅了される。母親キャサリンによれば、思春期を迎えるころから持ち前の天真爛漫さが影をひそめ、次第に引きこもりがちになっていったというマイケルだが、少なくともこの時点ではそうしたナイーヴさが演技や歌に良い影響を与えている。そして、このころのマイケルは「キング・オヴ・ポップ」ではない。黒人コミュニティーの息子だ。のちに人種を超えたスターになっていったことが良いことだったのか、悪いことだったのか、ぼくにはわからない。ただ、そのなかでこの映画に見られる何かが始まるようなウキウキとした感じを、豊かな表情とともに失ってしまったのはとても残念だ。

音楽や踊りに加えて、敵から逃げまわるドロシー一行のドタバタぶりもコミカルで楽しい。ひらげは根が子供なのでこういうのを見ると、キャッキャと手を叩いて喜んでしまう。それでいて、西の魔女イブリーンの工場でこき使われていた人びとがみすぼらしい服を焼き捨て踊りだすシーンなんかは、どこか奴隷の解放を思わせる。出演者には他にもレナ・ホーンリチャード・プライヤーらが名を連ねていて、アフリカ系スター総出演の感がある。監督が『十二人の怒れる男』のシドニー・ルメットだというのも驚き。

追記:ダイアナ・ロス扮するドロシーとマイケルかかしが黄色いブリック・ロードを踊りながら歩いていくシーンを見て何か思い出すものがあると思ったら、チャップリンの『モダンタイムス』のラスト、チャップリンと当時の奥さんだったポーレット・ゴダードが手に手を取って旅立っていくシーンだった。あの、何かがはじまる、不安だけどウキウキした感じ、それも似ているんだ。

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2009年7月9日(木)

2009_07_09zeroone今日のラーメン:「ガッツリラーメン(680円)」@@橋本橋本『麺屋 ZERO1』ミウィ橋本店
どこからどう見ても、『二郎』。魚介豚骨の「武士」と、『二郎』インスパイアの「ガッツリ」の二本立てということらしい。『二郎』自体得意ではないが、美味しいところは酸味と旨みが一体になったような味わいがある。ここには・・・ない。油が多すぎないのはいい。あと、チャーシューは美味しかった・・・★★★

評論家の平岡正明さんがお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします。

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2009年7月8日(水)

2009_07_08zeroone今日のラーメン:「武士系豚骨つけ麺(750円)」@橋本橋本『麺屋 ZERO1』ミウィ橋本店
今日はつけ麺を試してみた。ラーメンほど甘さは感じなかったが、魚粉が多すぎて喉ごしがすこぶる悪い。それでいて魚系の美味しさはそれほど出ていない。『田ぶし』と似たところもあるが、あんなに洗練されていない。大量の麺がなかなかなくならない。これが「21世紀のラーメン」なのか?・・・★★★

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2009年7月7日(火)

2009_07_07com_pho今日のラーメン(?):「スパイシーフォー(780円)」@渋谷『コム・フォー』渋谷店
ベトナムやタイのお米の麺はやはりラーメンとは別物だと思う。とはいえ、辛いものもパクチーも大好きなひらげは、ときどき無性にエスニック系の麺が食べたくなる。今日はたまたま渋谷でベトナム料理のお店を見つけたので入ってみた。「スパイシー」とはいえ、タイ料理とはかなり違った味わい。これはこれでけっこういける・・・★★★+

Kikyo0707
桔梗渋谷屋根裏。4月に活動を再開したばかりの桔梗だが、このライブを最後にしばらく活動を休止するとのこと。残念。そのせいか、いつもにも増して気迫の感じられる演奏だった。レスポールの機嫌も直ったみたいだし。会場に中学生の息子がいたことも、なげやりくんの緊張感を高めていたのかもしれない(MCもいつになくキリリとしていたけど、あれも父親モード?)。終演後、少年は父親の演奏を真似して、エアギターをかき鳴らしていた。演奏をはじめる日も近いな。今後については、「桔梗」(スリーピースのロックバンド)という形をとるかどうかはさておき、この音楽はいずれ何らかの形で結実するだろうから心配していません。その日を楽しみにしています。

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2009年7月6日(月)

2009_07_06setagaya今日のラーメン:「魚郎らーめん(900円)」@品川麺屋七人衆品達『せたが屋』品川店
名店『せたが屋』による二郎インスパイア系ラーメン・・・筒井康隆による小松左京パロディ「日本以外全部沈没」のようなものか(?)。『せたが屋』らしく魚系の素材を使いながらも、全体から受ける印象はまさに『二郎』そのもの。酸味のあるスープはそれなりに魅力的だが、この油の多さだけはやはり受け入れがたい・・・★★★

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2009年7月5日(日)

2009_07_05hirugao今日のラーメン:「塩ラーメン(700円)」@東京『ひるがお』(東京ラーメンストリート)
『せたが屋』の昼の顔である本店はもちろん、新宿御苑店さえ未体験だったのだが、「東京ラーメンストリート」出店でついに行ってきた。でも、期待が強すぎたのか、「こんなもんかなぁ」という印象。無化調のスープは塩味も控えめで、旨味甘みが前面に出ている。パリッとした麺も美味しい。でも、強い「インパクトには欠けるような・・・★★★+

久しぶりに御茶ノ水→神保町→水道橋を散策。明大通りを下り、人気お笑いコンビ、オードリー命名の由来となった(異説もあるようだが)スープカレー屋を横目に、靖国通りを左へ。大型音楽レンタル店『JANIS』でCDを借りる。エイプリル・フール、ファー・イースト・ファミリー・バンド、井上陽水、マイケル・ジャクソン×2、ミュート・ビート、小玉和文、不破大輔、プリンス×2、カシミア・ステージ・バンド、計11枚。

靖国通りを神保町方面に引き返し、古書店に群がる古参のオタクたちを観察しながら(←お前もじゃ!!)、古書センター9階の『富士レコード社』へ。SP盤が並んでいるここなら、石田一松をはじめとする書生節のレコードが置いてあるかもしれない。ところが、実際に行ってみると、あんまりたくさんありすぎて、どこを探せばいいのかサッパリわからない。流行歌?だろうか・・・でも、一松の「のんき節」は寄席芸でもあるわけだし・・・それに流行歌はポリドール、テイチクなど会社ごとに分類してある。一松のレコードがどこから何枚出ていたのか、SP時代のことは資料もなく、はっきりしたことはわからないのだ。降参して店員さんに相談する。「書生節のレコードを探してるんですけど・・・」というひらげの訴えを受けて、店員さんはSP盤の山に埋もれるようにしてしゃがんでいるおばあちゃんに声をかけた。この方こそ誰あろう、富士レコード社の名物社長(大正12年生まれ)であるということは、あとでわかった。「書生節?鳥取春陽やなにかかしら?」「春陽もいいですが、ぼくは石田一松さんが好きで・・・」「あら、じゃあ『のんき節』はお持ち?」「いえ、それが持っていないんです」 おばあちゃん・・・いや社長は若い店員にも指示しながら、SP盤の山を探しはじめる。「書生節はね・・・」「(期待に目を輝かせながら)はいっ」「なかなか出ないんですよ・・・」「そうですか・・・」 しばらくすると店員さんが「時事小唄 のんきだネ」のSPを取り出してきた。「名人会寄席の夕」と題した浪曲物真似・前田勝之助とのカップリング盤である。「むこうでお聞かせして」社長の指示でSPがプレーヤーに運ばれる。

出囃子とともに一松登場。「しばらくご辛抱を願います。名人会のなかへ入りまして、ばかばかしい歌を一つ二つ歌わしていただきます・・・」 おおおっ!一松の録音はいくつか持っているが、漫談まで入っているのは初めてだ。軽妙なトークをはさみながら、披露したのんき節は

Nonkidaneポスターを貼るのも結構ですけど
貼っていけない場所がある
氷屋さんの店先に
買いだめするなと書いてある
ハハ のんきだね

スパイを気をつけ
そもそもスパイは
どちらがスパイか人間か
ちょっと区別がつきかねる
スパイは諸君のなかにいる
ハハ のんきだね

昔やなんでも晦日払いで
しかも売る方が礼言うた
今では何でも現金で
しかも買う方が礼を言う
ハハ のんきだね

発売年は不明だが、どれも戦時色強まる時勢を反映した内容で、反骨の演歌師・石田一松の面目躍如である。寄席のスタイルで録音したせいか、今までに聞いたどの録音より歌もヴァイオリンも生きいきとしている。スパイの一節は国の方針に従っているように見せながら、漫談で「スパイと人間は同じ動物ですから、どれがスパイで人間だか区別がつきません」とまぜっかえす。結局、美人に限って外国人と付き合いたがる、おかげでこちらは「廻りが悪くなってくる」という卑近な愚痴で落としている。「スパイは人間じゃないらしいね?でも、外国人にぶら下がる女でも美人なら人間の方に入れておきたいだろう?」と言っているようにも聞こえる。現金払いについての一節は、『のんき哲学』のなかで戦後の社会について同じようなことを書いていた。

それにしても、一松はこうしたレコードをどれくらい出しているのだろう。「SP時代はどんなものが何枚出たといったリストはないんでしょうかね」「ないのね。とてもたよりない世界なんですよ」「やはり一枚一枚集めていくしか・・・」「あとは昔の広告を見るか」「ああ、何が出ていたはずだって言うのはわかるわけですね」「そう。とてもたよりない世界なの」 社長は最後にすぐ近くにある系列店の場所と、古書センター内にある落語カフェに寄席芸関係の資料があることを教えてくれた。「でも、面白いところに着眼なさっているわ」 中古レコード業界の生き字引にお褒めの言葉をいただいて、意気揚々と神保町の町にくり出した。

Img321

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2009年7月4日(土)

2009_07_04daifukuya今日のラーメン:「重厚中華そば(730円)」@赤羽『大ふく屋』
『天下一品』かと見まごうどろりとしたスープは濃厚。豚骨をベースとしながらも、煮干の香りが全体を強く支配する。野菜もかなり使っているらしい。今までにないバランスのスープだ。硬めに茹であがった麺、太いが柔らかいメンマ、しっかりしたチャーシューなど、すべてに抜かりがない。ラーメンの神様、ステキな出会いをありがとう・・・★★★★+

Oka_daisuke
浅草木馬亭に岡大介さんと小林寛明さんのカンカラ演歌を聞きに行った。岡さん(カンカラ三線/ギター/歌)と小林さん(ラッパ二胡/二胡)の『かんからそんぐ 添田亜蝉坊・知道をうたう』は演歌/書生節が本来持っていた若々しさ、清新さ、反骨とセンチメンタリズムを現代によみがえらせた傑作だ。今回の出演者は『かんからそんぐ』をレコーディングしたメンバー・・・いやがおうにも期待は高まる。会場は単館上映専門の映画館ほどの広さ。場所柄、観客の年齢層は高めである。年配の方7割、比較的若い人が3割(ピチピチギャルやチャラ男はいないが)といったところか。開場前、後ろに並んでいたおばあちゃんが「でも、亜蝉坊なんて、年寄りしか知らないだろう?」と言っていた。それが知ってるんですよ~、へへ。固い椅子に座って待つこと30分、「東京節」の演奏にのせて幕が開いた。おおおっ!ここでワタクシ、ひとつ勘違いしていたことに気づきました。小林さんの担当する楽器は「ラッパ二胡」だったのですね。「ラッパと二胡」だと思ってました(「ラッパ二胡」は中国の弦楽器・二胡のボディを金管にした楽器。驚くべきことに、手作りではなく既製品だという)。素晴らしい演奏にのせて、岡さんは添田親子の名曲をはじめとする演歌/書生節を次々と歌っていった。さらに、岡さんのルーツであるフォークソングや、ドリフの「いい湯だな」、春日八郎「お富さん」、岡晴夫(←岡さんのおじいちゃんだというのは・・・嘘です!)「あこがれのハワイ航路」も披露。どの歌も岡さんらしいひたむきさがあふれている。小林さんとの軽快なトークも快調。自然と笑みがもれ、音楽に参加したくなる。前の席のおばあちゃんが懐かしい歌を口ずさみはじめる。身体を揺らす人、手拍子を叩く人、声援を送る人。これだよな・・・音楽って。いいタイミングで子供の笑い声が響いたのも偶然ではなくて、音楽が楽しかったんだよ。感動とともに、自分の音楽についても考えさせられました。素晴らしい時間をありがとう。

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2009年7月3日(金)

チデジカに負けるな!アナログマTシャツゲット!
Analoguma
アナロ熊の歌」 ←かなり切ない。

Img317キャサリン・ジャクソンマザー:ザ・ジャクソン・ファミリー・ストーリー』(Mother: The Jackson Family Story、小林禮子訳、1990)を読みおわった。ジャクソン・ファミリーのお母さんが家族の歴史を語った本。母の話にマイケルとラトーヤ以外の兄弟姉妹が補足的な説明をさしはさむという構成になっている。

マイケル・ジャクソンが気になる。あれだけ嫌いだった『スリラー』すら買ってきてしまった。マイケルが突然の死を迎える前にそう言っていたら、予言者的な嗅覚を認められていたかもしれない。今となっては後づけの感は免れないが、マイケルの死には単なるゴシップ以上の意味があるような気がしてならない。全米を代表するスーパースターとして、すべての夢をかなえたかのように見えた男が、なぜあんな不幸な死を迎えなければならなかったのか。そんなのはプレスリーやマリリン・モンローのころから変らない、ショウビズの裏話じゃないか、と言われればその通りかもしれない。でもやっぱり、気になるのだ。晩年のマイケルの表情をなくしたような顔と数々の奇行。奇行も過剰なサービス精神の表れにすぎないなら、酔ったときのひらげと同じで罪はない(?)のだが、マイケルのそれは強烈な「拒絶」の臭いがした。すっかり白くなった顔を見て、「マイケルは白人になりたかったんだよ」という人もいるが、ぼくにはそうは思えない。だったら、何でせっかく手に入れた白い顔を黒いマスクで隠してしまうのだ。表情を失くした白い顔は白人社会であれ何であれ、何かに受け入れてもらいたいというサインではなく、拒絶のメッセージ、空白の象徴であるようにぼくには思えた。彼は何ものにもなりたくなかった。白人、黒人・・・それどころか、「自分」でいることすら拒否したのだ。

そんななか、この本を読んだ。マスコミが書きたてたマイケルのスキャンダルのひとつに家族との不仲がある。この本が書かれた背景には、そうした噂を一掃するという意図があったのだろう。このころ、ジャクソン家の娘のひとり、ラトーヤがジャクソン家に関する暴露本を書いたばかりだった。キャサリンはラトーヤの裏切りはもちろん、夫ジョーの浮気が原因で離婚寸前まで行ったこと、モータウンから独立する際にジャーメインと他の兄弟に確執があったことなどを認めている。ただ、そうしたトラブルはどこの家庭にも起こりうることだ。この本に書いてあることをすべて信じるわけではないが、貧しい子沢山の一家が音楽で夢をかなえるサクセス・ストーリーに不自然さはない。厳しく躾けられた反発から子供たちが父ジョーから距離を置いているなどといわれることもあるが、がんこなジョーの姿は大勢の子供を食べさせていかなければならない父親としてはごく普通のものだろう。そして、特に男の子の場合、大人になってから父親との距離をうまくとることは、どこの家庭でも難しいものだ。ささいな諍いはあったとしても家族は家族であり、それがマイケルの「拒絶」の原因になったとは考えにくい(マイケルの遺言書が見つかって、マスコミはまた父親に遺産を残さなかったことを書きたてている。ぼくがマイケルでも同じことをしただろう。誰が浮気癖のある父親に一生かけて稼いだ金を任せるものか。どのみち母親に残した金は父親のためにも使われることになるのだ)。

問題はマイケル自身や家族よりも、マスコミやオーディエンスにあったと考えるべきだろう。この本にもマイケルが根拠のない報道に悩まされていたことがくり返し書かれている。あることないこと書きたてるマスコミというのは今にはじまったことじゃない。ただ、ぼくが気になるのはなぜ、アメリカのマスコミはマイケル・ジャクソンをあれほど執拗に攻撃したのか、ということである。晩年、奇行をくり返すようになる前から、マスコミはマイケルを「異常者」であるかのように描いてきた。ぼくにはどうしても、そこに人種的なバイアスがかかっているように思えてならない。マイケルは黒人、白人を超えた幅広いオーディエンスに受け入れられた最初の黒人ミュージシャンだった。ジャクソン5として活躍していた70年代はもちろん、80年代ですらアメリカのショービズの世界にマイケル・ジャクソンのような存在はいなかった。しかも、マイケルはディズニーランドやクラッシックな内装といった白人メインストリームの文化が大好きで、私生活をそうした「黒人らしからぬ」装飾で派手に演出した。オーディエンスの多くはそんなマイケルを眩しく思いながらも、どこか強烈な違和感を抱いていたのではないだろうか。乗っていたロールスロイスを盗難車と決めつけられて逮捕された話はその意味で象徴的だ(306)。当時はまだ黒人の若者がロールスロイスに乗るのは「異常」なことだったのだ(今だってわからないが)。だから、そうした行動がマイケルの精神的異常さの表れであるというマスコミのストーリーが説得力を持ってしまったのではないだろうか。そんなマスコミやオーディエンスに対し、パブリック・イメージを保つことに疲れてしまったのだろう。ある時期からマイケルは周到につくられた自分らしい仮面をかぶることを拒絶した。どんな仮面をつけようが、どうせ異常者の気の迷いとされてしまうのだ。

ロンドン公演でマイケルはもう一度自分らしい仮面、ステージの上の「マイケル・ジャクソン」を取り戻そうとしていたのかもしれない。でも、50歳のマイケルにその時間は残されていなかった。『スリラー』を聞いている。80年代の軽い音ではあるけれど、マッコサのリズムを使っていたりして意外と悪くない。改めて、ご冥福をお祈りします。

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