エドガー・アラン・ポーの小説『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket、1837、『ポオ小説全集2』、大西尹明訳、創元推理文庫、1974)を読む。多くの研究者の指摘しているように、船を乗っ取る黒人水夫の残虐さ、白いものを異常に恐れる「原住民」に全滅させられる白人の船、謎めいた結末には、ナット・ターナーの反乱(1831)で掻き立てられたアメリカの行く末に対する不安が現れている。アメリカの、人間の暗部を見つめたポーは、奴隷制を擁護する人種差別主義者でありながら、危うい社会がカタストロフィを迎えることをどこかで望んでいたのかもしれない。仲間を殺して食べちゃったり、えげつない話だけど、ハラハラドキドキ、読者を飽きさせないエンターテイメントとしても面白い。
『二〇世紀<アフリカ>の個体形成 南北アメリカ・カリブ・アフリカからの問い』(真島一郎編、平凡社、2011)を読み終わった。
東京外国語大学アジア・アフリカ文化研究所の共同研究プロジェクト『間大西洋アフリカ系諸社会における二〇世紀「個体形成」の比較研究』の研究成果として、3年にわたって行われた研究会の発表をもとにまとめられた本書は、世界各地のアフリカ系文化を<個体形成>という目新しいタームで切り結ぼうとする試みである。言い換えればそれは、ポール・ギルロイの「ブラック・アトランティック」というヴィジョンを、置きかえ不可能な個人の自己形成という観点から再構築する試みに他ならない。
間大西洋のアフリカ系文化を俯瞰的な視点で見わたすとき、そこから浮びあがる<アフリカ>は現在のディアスポラ的状況を過去の一体性によって清算するべく使用される記号として働く。それは現実のアフリカを置き去りにしたまま、あるいは現実のアフリカを抹消しながら、一人歩きする危険性を孕んでいる。そうした危うさを回避するためには、特定の個人がどのようにして彼/彼女自身のアフリカを発見し、強要された、あるいはすでに内面化したヨーロッパ文化と折り合いをつけながら、<個体形成>を成しとげたかを明らかにすることが有効である。それぞれの<個体形成>のなかで内面化され、ある種記号化された<アフリカ>はいずれ、現実のアフリカと出会い、そこに還流していくだろう。「ブラック・アトランティック」というヴィジョンは、こうした相互交渉のなかに浮びあがるものとして捉え直される。
<個体形成>に焦点を当てることによって、「ブラック・アトランティック」の俯瞰的な視点からは見えない差異やずれを明らかにする ― こうした設定自体、編者もあとがきで述べているように、社会学や歴史学の研究者である執筆者にとって前例のないものであったようである。集団の歴史と個人の形成史を行き来して、落としどころを探し続けている論考も少なくない。しかし、論集の目的が、対象となった個人だけではなく、そうした対象に向かう研究者の<個体形成>を問題にすることにあるのならば、そうした執筆者のとまどいもまた、歓迎されるべきものなのだろう。キューバのアフリカ系文化に魅入られたリディア・カブレーラ(工藤多香子「リディア・カブレーラ ― ネグロに理想を追い求めて」)に見られるように、アフリカ、あるいはアフリカ系の文化を研究するものもまた、現実のアフリカに接しながら、記号としての<アフリカ>を生みだし、それをアフリカに還流していく当事者に他ならないのだから。
アフリカ系ディアスポラにとっての<アフリカ>、あるいはアフリカ人自身にとっての<アフリカ>、さらには研究者にとっての<アフリカ>、こうしたさまざまに記号化された<アフリカ>が乱反射する本書にさらに望むことがあるとすれば、それは記号化された<アフリカ>が現実のアフリカに還流されるプロセスをもっと描いて欲しかったということだろうか。その意味では、合衆国で再構築されたヨルバ文化で培われた<アフリカ>が、ヨルバランドに里帰りすることによって、現実のアフリカと自らをすりあわせ、そのことによってヨルバの司祭が合衆国の<アフリカ>のなかに活動場所を求めるという相互交渉が描かれた小池郁子氏の論考(「合衆国のアフリカ王、オセイジェアマン・アデフンミ ― 大西洋を渡る「ヨルバ人がおりなす社会運動の変容」)は非常に興味深い。ギルロイのブラック・ブリティッシュ偏重を指摘するのであれば、ディアスポラの回路を通った<アフリカ>がアフリカの人びとに与えた影響を明らかにするこうした論考に、もう少し紙幅が割かれてもよかったように思う。例えば、西アフリカやコンゴの音楽におけるキューバ音楽の影響とか、アフリカにおけるブラック・パンサーといったテーマで・・・もっとも、それではただでさえ分厚い力作に、さらに増補を加えなくてはならなくなるが。
ともあれ、これだけ広範囲にわたって、アフリカ、アフリカ系の人々の体験を、たんなる伝記的事実の列挙ではなく取りあげた本書が、画期的な試みであることは疑いようがない。<個体形成>のプロセスはさまざまであり、「民族」の捉え方、<アフリカ>の意味するところも一つではない。時代やそれぞれの資質による限界もある。ウィリアム・モンロー・トロッターのように、<アフリカ>に意味を見いだせなかった人物もいる(大森一輝「駆けずり回ることを運命づけられて ― ウィリアム・モンロー・トロッターという悲劇」)。コンゴの独裁者モブツにとって、<アフリカ>は権力装置に他ならなかっただろうし(武内進一「個人支配の形成と瓦解 ― モブツ・セセ・セコが安全な悪役になるまで」)、ケニア第二代大統領モイにとっては民族のパワーバランスそのものだったかもしれない(津田みわ「あるカレンジン人の男、モイ ― ケニア共和国第二代大統領」)。しかし、そうした差異や欠損、濫用も飲みこんだなかから浮びあがる<アフリカ>に、圧倒されることもしばしばである。それは同時に、研究者としての執筆者諸氏が抱く<アフリカ>の力でもあるのだと思う。

rokucafeでケーキを頼んだら、こんなの作ってくれました。メガネの人はひらげらしいです。ウフ。
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