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2019年7月20日(土)

神奈川大補講。

こんなのもつくってみた。「ガムラン正月」

2019年7月19日(金)

神奈川大、前期第十四回目。

急に思いたってつくった「ファンファーレ」。

2019年7月16日(火)

ビリー・ホリデイで有名な「奇妙な果実」を日本語でカヴァーしてみました。これをコワいもの知らずと呼ばずして、何をそう呼ぼう。いつものように、音は「何となくこんな感じ」でつくっています。歌詞の前半は原作に忠実ですが、後半は小芝居を入れながら脱線していきます。とはいえ、これも、黒人をリンチにかけた白人たちが、犠牲者の死体を切り刻んで売っていたという史実を反映したものです。

「奇妙な果実」

見たこともない果物が
血まみれの木の下にぶら下がっている
黒いからだが揺れている
あのポプラの木の下に

熟しはじめた果物の
目は腫れあがり 口元は歪んでいる
マグノリアの甘い香りに
突然、肉が焼ける嫌な臭いが混ざる

果物はいらんかね
カラスも喜んでついばむ
あんただけに特別に譲ってやろう
早くしないと腐ってしまうよ

世にも珍しい 奇妙な果実

2019年7月15日(月)

明治学院、前期第十四回目(最終回)。前半は前回に引き続き、20世紀初頭以前のアフリカ系アメリカ人と彼らをめぐる芸能について。ミンストレル・ショーにはじまる、顔を黒く塗って黒人をバカにする「ブラックフェイス」は長い間、アメリカのショービズの中心だった。南北戦争後、「ホンモノの黒人を見たい」という北部大衆の要求が高まり、多くの黒人芸人がこの差別的な芸能に参入した。彼らのなかには白人観衆が期待するほど肌の色が濃くないものがおり、「ホンモノの黒人」であることを示すために、黒人でありながら、顔を黒く塗ってステージにあがるものもいた。このことは、ステージ上の黒人像が演技によってつくりだされた虚構であることを示しており、黒人芸人たちの能力の高さと同時に、現実の黒人そうしたステレオタイプとは違う(違うから、メーキャップが必要になる)ことを示していた。例えば、肌の色が比較的薄かったバート・ウィリアムズは、黒塗りをしてステージにあがった。また、カリブ海出身のウィリアムズがステージ上で披露するアメリカ南部の「黒人英語」は、ステージ上で磨き上げられた演技だった。もちろん、白人観衆のほとんどは、黒人芸人による黒人像の虚構性に気づかなかったはずだ。ウィリアムズ主演のコメディ映画『ナチュラル・ボーン・ギャンブラー』(1916)で披露されたトランプのパントマイムに、彼の磨きあげられた演技力を見る。

続いて、世紀転換期にアフリカ系アメリカ人のなかから生まれた新しい音楽 ― ブルースとジャズについて。音楽形式としてのブルースは、ブルーノート音階であるとか、セブンス・コードの多用とか、AA'Bの形式といった特徴によって、比較的定式化しやすいのだが、現実のブルースは定式化しにくい細かに震える響きのなかにぼんやりと姿を現すもので、とてつもなく捉えがたい深さと広がりを持っている。また、ブルース(憂鬱)によってブルース(憂鬱)を乗りこえる、その効用ということになると、象をまさぐる盲人のように、歌い手一人ひとりの体験を反芻することを重ねながら、コミュニティ全体のブルース体験を想像するしかない。その先に、コミュニティの外にいるぼくのようなものの、疎外体験と結びつく普遍性が見えてくるのか、こないのか・・・授業では、こんな七面倒くさい話はしなかったが、ロバート・ジョンソンライトニン・ホプキンスを聞いて、ブルースのどぶどぶ沼にはまる学生が出てくると面白い。ジョンソンの「俺と悪魔のブルース」を題材にしたアニメーションに、ブルースのパラドクシカルな深さを見る。

一方、混血音楽であるジャズは、何がジャズかといわれると言葉に詰まる、定義しがたい音楽である。リアクション・ペーパーに「即興演奏があるのがジャズ」と書いてきた学生がいたが、それは必要条件であって、十分条件ではない。例えば、インドのシタール奏者ラヴィ・シャンカールの長い即興演奏は、ジャズではない。ジャズを定義する鍵は、ヨーロッパの音楽と西アフリカ音楽が混ざり合い、ブルースやラグタイムを産み落としながら、一つの動きになっていくプロセスになかにある。どのような要素がどのように混ざり合ったか、そのアメリカ(初期には特にニューオリンズ)における特殊な組み合わせが、ジャズを定義づけている。こうしたジャズにおける混淆は今でも続いており(だいぶスピードは落ちたようだが)、ジャズを定義することは、やっぱり難しい。昨日ジャズでなかったものが、明日ジャズになる。若き日のルイ・アームストロングの演奏のなかに、すべてを飲みこんでいく初期ジャズの性急なエネルギーを見たい。

後半は、19世紀までのアフリカ系アメリカ人の文学。フィリス・ホィートリ―の詩、奴隷体験記、黒人最初の小説と言われるウィリアム・ウェルズ・ブラウンの『クローテル もしくは大統領の娘』(1853)。


「おとなのおとこ」というタイトルで、マディ・ウォーターズマニッシュ・ボーイ」をカヴァーしてみた。といっても、歌詞はほとんどオリジナル。

「おとなのおとこ」

オレが子供のころに憧れた
クールで仕事熱心な
大人の男たち

おとこ おとなのおとこ
おとこ おとなのおとこ

ちょっとやそっとじゃ
すぐには怒らねえ
黙って話を聞いて
ときどきビシッと言う

おとこ おとなのおとこ
おとこ おとなのおとこ

だけど怒り出したら
手がつけられねえ
だけど怒り出したら
誰にもとめられねえ

おとこ おとなのおとこ
おとこ おとなのおとこ Yeah

酒は黙って飲む
ぐちぐちしゃべらない
いやなことはかみ砕いて
ぐっと飲みこむ

おとこ おとなのおとこ
おとこ おとなのおとこ

2019年6月23日(日)

サン・ハウスバディ・ガイがいっしょに演奏している!この映像は初めて見た。1956年から1979年にかけて米CBSで放送された芸術関係のドキュメンタリー・シリーズ『カメラ・スリー』の、1968年10月13日放送"Really the Country Blues"(Season14, Episode 6)からのものと思われる。

2019年6月22日(土)

夢のなかでテレビをつけたら、清志郎のライブを生中継していた。清志郎は晩年のちょっと疲れたやさしい表情ではなく、若いころみたいにとんがって、溌剌として、ちょっとコミカルだった。なぜかバンド・メンバーに大野くんがいた。こんど、ぼくも見に行こうとチケットを手に入れた。久しぶりの清志郎のライブで胸がわくわくしたので、近所のガキの自転車を盗んで、坂道をブレーキも踏まずに走り下りた。ふと、自転車を盗まれた悲しかろうと思い、元の場所に戻そうと思ったが、どこの四辻だったか思い出せない。このままでは自転車が返せない、と罪の意識に打ち震えているうちに、目が覚めた。夜の12時前だった。睡眠が不規則。

«2019年6月21日(金)

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